第10話 めまい
「ふむ、今日はちょっと疲れているようだ……」
オペラ『全能図書館』の序曲が終わる頃、ハインリヒが肉球を小さなひたいにあててつぶやいた。毛が深くてよく見えないけど、眉間にマリアナ海溝よりも深いしわを寄せているような様子で。ハインリヒの美しい目から、さっきまでの明るさが消えていた。
「嫌だわハインリヒ、過労気味じゃない? ここ2週間くらい大図書館の業務が相当忙しかったでしょう。ナイチンゲール女史からきた統計学会がらみの問い合わせの対応も続いてるし……」
私はそう言うと、ピッチャーにたっぷりあった水を深めの小皿に注いでハインリヒの目の前に差し出した。
「オイ、僕は君んちの飼い猫じゃないんだから水はグラスについでくれればよろしい」
お、もう冷静なツッコミ。めまいが相当きついのかと思ったら、意外と大丈夫だったらしい。ジョークへの反応速度で試してみるつもりだったんだけど、ハインリヒは思いのほか素早く答えた。私の方を見たとき、手の陰からちらりと見えた碧の方の目にはもう通常の光が戻っていた。
ハインリヒの向かいに座っていたエドワードもそれを確認してホッとした顔を一瞬見せ、ハイホーさんに向き直った。
「面白い曲だけど、今日はもう遅いしここでお開きにしませんか。序曲はほぼ聴き終えたし、インタビューに全能図書館を使うとしてもそれで十分。でしょ?」
エドワードがちょっと強引にうながすと、ハイホーさんはぶんぶん頭を縦に振って全能図書館の音楽円盤をケースにしまった。
「その企画自体はまあ、僕は受けても構いませんよ。大図書館あてにまた詳細をご連絡ください」
英国髄一の文学批評家とも言われる大図書館の主任ライブラリアンに対して、体調の悪い時に押しかけて企画を持ち込んできてしまった……と、いかにも反省しきりな様子で青ざめているハイホーさんを、ハインリヒもちょっと気の毒に思ったのだろう。慰めるようなトーンが声に含まれていた。
ハイホーさんはそっと気遣うようにハインリヒを見つめながら立ち上がると、これ以上お邪魔にならないように失礼いたしますと小さな声でもごもご言って退室した。
「あ、ハイホーさん、全能図書館の本忘れて行っちゃった」
テーブルの上に残された本に気付いて私が言った。
「ハイホー氏も本音を言えば全能図書館で記事を書きたくて本を手土産に持ってきたんだろう。英訳版が出版社から出るのだからこれから宣伝したいだろうし、とりあえず僕が読んでみるさ。そのあと君にも貸すよ、アニー」
ハインリヒは全能図書館の本を手に取って、鞄のなかに入れた。
「俺はあの交響曲の全能図書館の方が気になるなあ。序曲の最後にオートハープが入ってたろ」
エドワードは本の方にはあまり興味がなかったのか、さっきまで音楽円盤が載せられていた蓄音機を見やりながら言った。そうだったっけ……エドワードほど音楽に明るくないとはいえ、オートハープなんて使われてたら分かりそうなものなのに、私は全く覚えが無かった。
「気が付かなくてもしかたないかもしれないぜ。どうも今までのオートハープとはだいぶ音色が違って聞こえた。ハイホーさんの話じゃこの交響曲にノイラントの楽器メーカーが関わってそうだったし、オートハープも従来のとだいぶ異なる新バージョンを開発したのかもな」
ふん…。エドワードの話に相槌をうちつつも、ハインリヒは聞いているようないないような。そして、考え事をしつつ低く息を吐き出した。
「今日はオートキャブに乗って帰りましょう。ドリスに頼むわ」
私はそう言って呼び出しベルを引いた。
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