第9話 全能図書館

「オペラもあるんですね」

と、私が口にするとハインリヒのヒゲがぴくっと動いた。

「おや、本当だ。ワグナーだね」

 並べられた音楽円盤の一枚には『ワグナー:最後の護民官リエンツィ』と書かれていた。この記者さん、ハインリヒの過去の文学批評を残らず読んで好みそうなものを厳選してきたのかも。ヴィデオ通信と同じようなこれらの円盤には音声のみが記録されるタイプもあって、もっぱら音楽愛好家向けに生産されている。大図書館の音楽図書室にもかなり膨大な音楽円盤のコレクションがある。

「ええ、リットン卿の小説『ローマ最後の護民官リエンツィ』の翻訳をドレスデンで読んだワグナーが作曲したオペラです。大変長いですから、序曲と5幕のアリアだけ聴いてみましょうか」

 ハイホーさんはリエンツィの音楽円盤を手に取ると、部屋の隅に設置されている蓄音機に円盤を置いた。序曲の始まりを告げるトランペットの音色に導かれ、壮大な調べが部屋の中に響き渡る。ヴィデオ通信に比べれば設備が比較的安価とはいえ、これから創刊という雑誌でかなりの資料を揃えているようだ。潤沢な資金を提供するパトロンのバックアップでもあるのかしら。

「素晴らしいねえ。全てから見放されたリエンツィが神に祈る力強い歌声だ……」

5幕のアリア『リエンツィの祈り』を聴きながら、ハインリヒが満足そうに喉を鳴らして言った。

 その後、私たちはリストのファウスト交響曲やダンテ交響曲、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲の一部を聴いた。リストが若い頃から愛読したっていうダンテの神曲も、ファウストも、記事を書いて欲しいと頼みに来た出版社が尻込みするくらいハインリヒの議論がいつも白熱する文学作品だ。ハイホーさんてば、なんといい線ついていることか。

 それらを聴き終えた後、ハイホーさんは持ってきた荷物の中からもう一枚の音楽円盤を取り出してテーブルに置き、そしてその横に一冊の本を添えた。カール・ラスヴィッツ著、『全能図書館』。

「この本は新進気鋭の作家の小説でしてね。今年出版されてから国内で爆発的人気になり、この英訳版がもうすぐうちから出版されるのです。広大な大図書館で人工知能が過去から未来にいたるまでありとあらゆる事象に関する書物を次々と生み出すという空想科学小説なのですが、人気になってからすぐに本国で作曲された交響曲がこちらになります」

 音楽円盤にも同じく『全能図書館』のタイトルが付いていた。

 人間が眉を吊り上げるように、ハインリヒは片目尻をくいっと上げて本を手に取った。

「英訳、とおっしゃいましたね。このラスヴィッツという作家はどこの国の出身です? 」

ハインリヒがたずねた。

「ドイツに近い新興国のノイラントですよ。我らが出版社で新雑誌の創刊に向けてプロジェクトを立ち上げたとき、このノイラントのメーカーから新型の蓄音機を購入したのですが、その時に私たちの新雑誌と彼らの音楽産業の開発プロジェクトが良い共同作業を行えなえるのではないかと提案を頂いたんです」

ハイホーさんはまた頬が紅潮し、まだ聞いてないことまでペラペラしゃべり始めた。話すと止まらなくなるタイプらしい。

「つまり、そのノイラントにある音楽産業の会社が新雑誌のパトロンというわけなんですの? 」

しまった、ハイホーさんが勢いよく事情を喋るもんだから私もついつい単刀直入に聞いてしまった。ハインリヒが横目でこちらを見ている。ハーイ、分かってまーす……。

「ええ、そうなんです。だからこうして音楽円盤も揃えて、創刊号のために豪華な特集を企画することも可能になったもので…」

 さすがに内輪話が過ぎたと思ったのか、最後はもごもごと濁しながらハイホーさんは頭をかいた。


「それはそうとして、面白そうだからその全能図書館の円盤聴いてみようぜ」

 今までひたすら黙って話を聞いていたエドワードが唐突に身を乗り出して言った。作曲の構想を練り始めたエドワードは、新しい交響曲に興味津々で仕方ないらしかった。

「もちろんです。パトロンに勧められた楽曲だからというわけではありませんが、小説の方も我が社もイチオシの作品です。今回インタビューで使わなかったとしても、出版に合わせて英訳版のレビューをして頂けると嬉しいですね」

 リンゴみたいな頬のままそう言うと、ハイホーさんは音楽円盤を蓄音機にセットした。

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