第4話 エドワードの憂鬱
「叔父上はいつやって来るとは言ってなかったのかい」
「それが『近々』としか…。ほら、スティーブンソン氏の発明した世界最速のロケット号に乗っていらっしゃるって。」
今世紀の初めに発明された列車ロケット号は、その後も改良を重ねて大型旅客列車となり、世界最速記録を自ら塗り替え続けているという話だ。大学では博物学を専攻して工学には進まなかった私でも、やっぱり世界最速の列車という話には心ときめく。
「なるほど、あれなら時刻表がかなり正確だ。彼の来る時間を計算して逃げておくか。そうだ、君の叔父上が降車したロケット号にこっそり乗り込んで逆に僕がロンドンに行ってだな…休暇届けを出してくる」
「はいはい、ハインリヒ、もうその話はここらへんで終了ね。実験なんてしないから」
ハインリヒはまだ落ち着かない様子でせわしなくカラバットを撫でつけている。美しいペイズリー模様のシルクのカラバットとウエストコート。脇についた金のチェーンには拡大鏡と懐中時計が付いている。すべて、ハインリヒの主任ライブラリアン就任を喜んだヴィクトリア女王が贈られたものだ。そんなハインリヒに生体実験の危機がふりかかるなんて誰も考え付くわけないのに……。こんなに自信家のくせに、ハインリヒは自分がどれほど周りから認められ、能力を求められる存在か分かってないような気が、時々するのだ。
「ゴホン、まあ冗談はさておき。そろそろエドワードが音楽図書室にやって来てるはずだよ。こちらにも後で顔を出すと言ってた」
「久しぶりね、エドワードが音楽図書室に来るの。最近は事務員の仕事が給料は少ないのに時間だけはとられて、作曲する暇もないって嘆いてたでしょう」
エドワードは音楽院にこそ行っていないけれど、子どもの頃から作曲もしている音楽家だ。本人にしてみれば、今はまだアマチュアに毛の生えた程度でプロを名乗れない、音楽留学が必要だってことらしい。
私だって、自分にはそれが出来るって信じて学びたいことのために大学へ飛び出して行った身だから、外へ学びに行きたいエドワードの気持ちは分かる。でもエドワードの場合、外国へ行く必要はあるのかなあ。音楽のことは分からないけど、彼なら「はい、今からスタート」って言われて仕事渡されたって、そのまま0.5秒後から作曲を始められそうな気がする。彼には本当に、まだ自分を導く師が要るのかしら…
「やあ一人と一匹、元気でやってる?」
エドワード・エルガーは足取り軽く、いやむしろ浮足だって今にもフワフワ風船みたいに飛んでって天井に頭をぶつけに行くんじゃないかと思うくらい、うきうきした様子で私たちのいる自然科学分野の書架まで歩み寄ってきた。最近の、ため息と眉間のしわがお友達みたいなエドワードはまるで空の彼方に捨てて来たみたい。実に晴れ晴れとした顔。
「ずいぶんご機嫌じゃない、エドワード。つい先週は浮かない顔してたからちょっと心配してたのに」
元気で結構ではあるけど、ちょっと拍子抜けするじゃないの。
「そりゃあ毎日向いてない事務員の仕事をしてわずかばかりの給料しか入らないんじゃ表情だって沈むさ」
そう言うエドワードの顔にちらりとよぎった何かを、ハインリヒがしっかりとらえる瞬間が私には分かった。
「久しぶりに音楽図書館にやってきたってことは、その状況に何か変化をもたらすことがあったんだね?」
ハインリヒがたずねた。
「まさにその通り。だからこうして君らに話にやってきたんだ。作曲の依頼だよ」
エドワードはそう言って、顔も割れんばかりの笑顔を見せた。
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