エピローグ
それから数週間、彼は人の悲しみがどれだけの涙を流しても尽き果てないものなのだということを学んだ。
姉を看取った朝、看護婦が泣き疲れて昏睡した姿の彼を発見した。駆けつけた父と母は当然姉の死に泣き崩れて、父親はそれからしばらく口もまともに利けなくなった。
母と彼で各種の手続きは済ませたものの、通夜や葬式で彼女の死に顔を目にする度に彼は涙した。時折、不意に彼女の今際の言葉を思い出して、しばらく立ち上がれなくなることもあった。
それでも時間は無情に流れて、受験は着実に迫ってくる。何もしないと姉の顔が浮かんだ彼は、手持ち無沙汰な時間の全てを勉強に費やした。すぐに結果に表れるはずもなかったが、本番の直前になって急激な成績の上昇に繋がった。そうした日々の終着点として志望校には受かったものの、とても素直に喜ぶ気分にはなれなかった。
あの五日間の中で生まれた、唯一形のある瞳との関係は徐々に深まった。姉を喪った者同士、二人の間でしか理解し合えない苦しみがあって、受験中には何度も励ましの言葉を貰った。一年が経過して瞳が受験を迎える今年は、彼の側から助言のメールを送っている。
そんな瞳との遣り取りの中で彼は、あのアパートが取り壊されるという話も聞いた。
時が少しずつ世界を押し流し、幾多もの人を呑み込んだ感傷ですら過去の彼方へ追いやられていく。
やがて訪れた一周忌。
心の洗われる高らかな青空の下、始まったばかりの夏は蝉の鳴き声がうるさかった。
まだ真新しい墓石の元まで歩いてきた彼は、背負っていた荷物をおろす。黒いリュックサックは熱を帯びて、触れた皮膚が灼けるような錯覚を引き起こす。ファスナーを開いて、小さめのアイスボックスを引っ張り出した。そこからドライアイスの詰まったビニール袋をつまみ上げる。
「……うわ、冷たっ!」
ドライアイスに触れないよう、四苦八苦しながら袋の中身を墓石の脇の玉砂利にぶちまける。いずれ昇華するドライアイスは放置し、そこ紛れているアイスのカップを拾い上げた。
数は二つ。中身はもちろん、
「かき氷だよ、姉ちゃん」
ちなみに味は宇治抹茶である。小豆金時は見つからなかった。
二つ取り出した使い捨てのスプーンの片方を、紙の袋から引き抜いて、
「はい、これ」
蓋を開けたカップと共に墓前に据える。それから自分も墓石の前に座り込み、カップとスプーンを開封した。
深緑のかき氷をスプーンでつついて、固さを確かめる。凍っていて、安っぽい木のスプーンでは太刀打ちできない。溶けるまで待つしかないようだった。
けれどそれもまた都合がよいと彼は思って、空を見上げる。
「姉ちゃん。受験はきつかったけど、大学も楽じゃないよ」
受験が終わり油断していた彼を襲った、散々な成績を思い出しながら呟く。
「大学に入ったら、もっと遊びほうけられるんだって思ってたのに」
下らない愚痴だったけれども、姉に語りかけられるのならば話題は何でも良かった。
「その割には、暇な時間も多いんだよなぁ……」
けれど今は暇な時間になると姉のことを思い出して、鬱ぎ込む回数も減った。単純に自堕落な時間が増えた、とも言い換えられる。
気兼ねなく喜んで良いことなのか、この頃の悩み事だった。
「それから、瞳……幸さんの妹さんは数学が苦手なんだって。僕と同じことを言ってるよ」
僕が駄目なのは数学だけじゃなかったけど、だなんて冗談めかして言えるのも、受験が終わってしまったからである。去年の今頃はその一つ一つに悩み、苦しんでいた。
「あの子は立派だよ。特別な理由がなくても勉強できるんだから」
姉の記憶から逃げ出したくて勉強に苦心していた日々を思い出す。楽しければ楽しい思い出ほど、頭の中に蘇れば辛い思いをした。
「あぁ、でも普段は真面目そうなのに、突然冗談を言ったりするんだけどね」
彼と瞳は互いの時間の都合を合わせて、月に一回か二回、顔を合わせていた。そうして二人で食事をしていたりすると飛び出す瞳の冗談は彼が想定する範囲の斜め上を突き抜けて、微妙に会話が滞る。
「たぶん、普段からストレスが溜まってるんだろうね。姉ちゃんはそっちで、幸さんと仲良くやってるのかな?」
訊ねかけながら、墓石の方を見やる。
光沢のある大理石、その麓に置かれたカップが目についたのだが、
「あれ?」
自分の目が信じられなくなった。
彼は慌てて身を乗り出し、カップの中を覗き込もうとして膝に冷たい感触が広がる。見ると傾いた自分のカップから、液体がこぼれていた。
「溶けてる! というか、冷たい!」
やむを得ずに姿勢を戻して、自分のカップの中身をすすり上げる。風味のある砂糖水に成り下がったかき氷は、生ぬるくて粘つくようにさえ感じてしまう。
「……あぁ、もう」
意を決して、スプーンで残りを掻き込んだ。それから改めて、供えたカップの中を覗く。
「……やっぱり、ない」
先の濡れたスプーンが入っているのみである。周りには盗み食いをしたと思しき人影もない。
「で、出たぁ! ……のかな?」
今更、この程度のことが起きたくらいでは彼も失笑するしかない。
「姉ちゃん、食べるの早いよ……」
こみ上げてくる笑みを堪えたりはしないで、墓石に刻まれた姉の名前を見つめる。
遙か遠くを意味する漢字二文字。
「すぐそこにいるじゃないか」
それから一息ついて、立ち上がった彼は尻を払った。急に動いたためなのか、じわりと全身に汗が滲む。かき氷のカップやスプーンをビニール袋に回収して、アイスボックス諸共リュックサックに詰め込んだ。
最後に荷物を背負って墓石に背を向けた。
「それじゃあ、また今度来るよ。それまでまたしばらく、おやすみ、姉ちゃん」
振り返ることはしない。けれど慌てず、のんびりとした歩調で彼は立ち去っていく。
そこにいた少女はもう、誰の目にも映らない。だけど彼女は精一杯の笑顔で彼を見送った。
(終)
彼は誰時に 妄想神 @ito_ko
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