四日目

 自室、というものが少年に与えられたのはその時が初めてだった。

 親は帰っていないようで、「ただいま」の声に返事はない。靴を脱いで玄関から上がり、自室へ向かった。

 少年の部屋は狭くて急な階段の先にあった。薄暗くて足下が見えないので手摺りに捕まりながら登り、短い廊下に出る。その左手に二つ並ぶ扉の内、手前にある彼の部屋へと通じていた。

 少年は歩いていって立ち止まるのだが、ドアノブに触れることに躊躇いを覚える。

 彼がこの家へ引っ越してきたのは、小学校の卒業が夢の世界で起きることのように遠く、しかし静かに迫りつつあった頃だった。住んでいる地域は変わらず、ただ安く広い物件が見つかったから、という理由だけで賃貸のアパートから越してきたのだ。

 この家を訪れた当初、少年はアパートにはありえない広さや古びた焦げ茶色の木材独特の趣、日当たりの良い縁側の全てに見ほれた。胸をときめかせた、と言い換えても良い。和室が多くて計三室もあり、雑草が生い茂ってはいたが走り回れるだけの庭もあった。

 その一々に感動しながら、最後に案内されたのが彼の自室だった。二階にはある二つの部屋はそれぞれ少年と姉の部屋だった。初めて入ったときにはその喜びに満たされていて、仄かに抱いた違和感など気にもならなかった。

 あのときにもっと、自分の頼りない直感を信じているべきだったのだ。

 それから迷いつつも結局、少年は自室に帰ってきた。勉強机に納められた椅子を引き出し、背もたれを回転させてそこに腰を下ろす。

 机の上に、閉じかけたカーテンの隙間から陽光が気怠く差し込んでくる。その移ろいを目で追いかけながら彼は押し黙る。聞こえてくるかもしれない、音に耳を澄まして。

 その耳が些末な異常を聞き取ったとき、少年は鼓膜が引っかかれたような不快な錯覚に見舞われた。

 おかしいと感じてすぐさまに顔を上げ、音の発生源を探す。その間にも鼓膜が何者かに爪弾かれる。微かに引っ掻く音が繰り返される。

 どうすればこんな音が出せるのだろうと疑問に思った。今度が初めてのことではない。前々から何度か繰り返されて、それでも手に負えずに無視し続けていた異変だった。

 今回もそうしておけば災難は避けられるのかもしれない。

 だけどもはや少年は耐えきれず、躍起になってその元凶に探し出した。それはさながら眼前で餌をちらつかされた子魚のように、誘われた先で身の丈を遙かに越えた大口が牙を覗かせているとも知らず。

 だが焦りと恐怖がさらに彼を急かして喚く。

 見つけろ、探し出せ、と。

 そうしている間にも恐怖が水位を上げて彼の膝までが沈んでいく。

 ほとんどが空の洋服箪笥。違う。放り出されたランドセル。違う。天井の照明。違う。玩具類が詰め込まれたカラーボックス。違う。布団が押し込まれた押入。そこでもない。

 彼はほぼ部屋を百八十度見回し、それでも見当たらずに振り返った。

 窓。

 音はずっと耳元近くから発されていたのだ。

 彼は息を呑んで、そこを凝視する。

 目の前にある、開きかけたカーテンの向こう。その奥で誰か、何かが窓を引っ掻いている。鍵もかけ、締め切られた窓に何度も尖った爪の先を擦り付けている。

 自然と手が伸びていた。

「やめろ」

 響く声は誰のものとも知れない。だが少年の手は少しずつ、着実にカーテンへと延びていく。

「や、やめっ……!」

 言葉とは裏腹に指はカーテンの端を摘み、一気に開いて――

「……っ、っ!」

 画面を見ていられなくなった少年が、テレビに背を向けて耳を塞いだ。

 学校は終業式を終え、夏休みに入ったばかりの頃。昼食もすまし、することのなくなった少年は少女と、日当たりの良い和室でテレビに見入っていた。毎年のこと、飽きたらず放送される怪談だが、幼い彼らの胸を高鳴らせるにはこの上ない。

 昼下がりの優しい日の明かりに照らされながら足下の畳を穴があくほどに見つめる少年を、その隣に座る少女が口元を押さえながら覗いている。堪えようとはしているのだが漏れ出す笑い声は隠しようがなかった。

「ふふ、ふっ……びびり過ぎなのよ、あれくらいで。あんなの単なる作り話なのに」

 テレビに映る、窓に張り付いた幽霊役の女性の顔を少女が目で示す。今にも剥がれ落ちそうなくらいに白い化粧が厚く塗られていて、どちらかというと笑いを狙う芸人にさえ見えかねない。

 そのことがわかっていた少年は恨めしそうに彼女に視線を寄越し、しかし抗議らしい抗議もできないままに俯いてしまう。

「いいよ、どうせ僕は、恐がりだよ……」

 沈んでいく少年の声に目を丸くした少女は頬を苦々しい笑みに強ばらせずにはいられなかった。少しだけ肩を寄せ、肩から背中へ流れる髪を日溜まりの色に溶かせつつ微笑みかける。

「ごめんごめん、からかうつもりじゃなかったから。だから、そんなこと言わないでってば」

 薄く閉じられた少女の瞳に、そこに宿る日光の残滓に彼は魅入られかける。我に返るとすぐさま目を逸らした。

 ずっと見ていたら、説得されてしまう。

「慰めなくて良いから。わかってるって、僕が格好悪いことくらい」

 どんよりとした目つきから放たれる度重なる自虐に、だけど少女はめげない。少年が不思議に思うほどの力強さで、立ち上がるまでその背を押してくれる。

「わたしと同じものなんて、求めなくて良いの。わたしにはない強さが君にはあるんだから」

 気取った物言いがおどけているのは少年の心を解すためで、何から何まで情けなくなるほどに少女は優しい。

 そのことを、

「なんでそんなふうにしていられるの?」

 と少年が訊ねると、少女は悪戯っぽく笑った。

「お手本が目の前にいるからだよぉ」



 カーテンに仕切られたベッドの周り一杯に満ちる、薄く淡く青白い霧のような光。徐々に退いていく夜の気配の中で、窓の方を向き胸ほどまで布団に入って、彼は横たわっていた。

 目覚めかけの意識は、とうに夢の世界から抜け出している。後はもう眠気を振り払い、体を起こすだけ。それなのに彼は起きることも、もう一度眠ることもしないで、ただただ横になっていた。

 気分は悪くない。むしろ、ここ数年間ではかつてなかったほどに体は軽い。今、外を走ればさぞ爽快に風の流れを感じられるだろう。

 眠たいのかと訊かれたらそれも違う。昨日、帰ってきてからすぐに彼は布団に入った。そのままぐっすりと寝て、今に至る。もう二度寝だってできそうにない。

 だから彼は、つまりはひたすらに寝たふりをしていたいだけだったのだ。堅く閉じた瞼の隙間から、それでも差し込んでくる朝焼けの欠片に必死になって目を瞑り。

「どうしてそんな顔してるの? 刻限が迫って、いよいよどうかしちゃった?」

 響いた声は澄んだ明け方の空気に違和感なく溶け込む。冷ややかに揶揄され、しかしなおも彼は目を開こうとはしなかった。

「ま、そうしたいならそうしても良いけど。どの感覚をなくすのかだけはちゃんと教えてね」

 じゃないと勝手に奪っちゃうぞ、とお茶目に言ってもまるで怖気しか走らない呟きを付け足してくる。真意の読み難い彼女に辟易しながらも、彼は乾いた唇を開いた。

「昨日はさ、色々見て回ったんだ」

「……そう」

 冷淡に聞こえる短い返事。だけどその言葉の端々に僅かな興味を覗かせていた。聞く気がないわけでもないらしい視聴者を前にして、しかしながら彼は自分でも伝えたいことがわからない。だから形にならない思考を見境なくかき集めた言葉で継ぎ接ぎしていく。

「本当に自殺した人の、家族にもあった」

 語っているとじわじわ、真面目で不器用で心優しい少女の姿が思い出される。泣き出しそうな表情もあれば、微笑んだ顔もあった。

「その人たちも結局、家族が死んだ理由はわからないみたいで」

 どうしてこんな話をしているのだろうと、疑問を囁く声が彼の中に生まれる。それに答えられるなら彼は、最初からこんな話はしていない。

「本当に自殺するのって、そんな人らなんだろうなって。僕みたいな人間はなんだかんだで自分から死にになんて行けないだろうから」

 うまく纏められないで、歪とまでは言わずとも半端な形のまま途切れて、彼の言葉は中空に置き去りにされる。漂ったそれは、ベッドの脇でパイプ椅子に座っていた彼女に当たり、砕け散った。

「うぅん、一つだけ訊きたいことがあるわ」

 白無垢の死に装束から衣擦れの音を立てて、彼女は彼の顔と正面に向き直る。揃えた膝に両手を置き、明け行く夜闇よりずっと深い色の黒髪を揺らして、首を傾げる。

「どうしてそうまでして、生きたがるの? わたしがわざわざ、楽に死ねる機会まで用意して上げてるのに」

 生きようとするのが当たり前だからだと答えるのは簡単だった。そして社会からは、そこで思考停止することが求められる質問でもあった。自殺を肯定する社会は存続しない。

 だからこそ、彼はいつの間にか開いていた瞼をさらに大きく広げて、硬直する。何一つ、彼女の疑念に立ち向かえるだけのものを見つけられずに眼球が右往左往する。

「考えたこともないって顔、してるわね」

 そうするように仕向けられてきたのだから、仕方がなかった。布団の中で自分の膝を抱き、寒さに堪える。まるで風邪でもひいているようだった。

「君は人が死んでも、良いって、本当にそう思ってるの?」

 訊ねると彼女は破顔して膝を叩いた。

「ふふっ、あはは! わたしはもう死んでるんだから、関係ないわよ、そんなこと」

「そうじゃなくて。だからもっと広い意味で、人間全体が自分から勝手に死んで良いだとか……!」

 普段ならば胸中に秘めたままでいるはずの言葉が、口をついで出てしまう。きっと夜明け前の薄闇のせいだった。

「そんなことしたら、社会が成り立たなくなるよ。それで良いの?」

 疑問の体裁を取っているだけで、彼の発言は明確に彼女を否定している。歯車として磨耗し、すりつぶされていく。自然に折れて、砕け散らない限りはそこから外れてはならないという歪み切った、だけどさほど特別でもない義務感が彼を縛り付けていた。

 なのにそれさえも彼女は、悪戯っぽい笑みで嘲る。

「そんなの、わたしが知ったことじゃないわ。個々人が自分で決めるだけ。死にたい奴がいたのなら、死ねば良いのよ」

 だって生きる権利はいつでも死んで良いっていう権利でもあるはずでしょ?

 白い死に装束に膝ほどまでを隠されて、それよりもずっと色の白い素足をばたばたさせながら彼女はそんなことを言う。彼は眉根に皺を寄せないではいられなかった。

「なんでそんな考え方ができるの?」

 彼女の世界には彼女自身しかいないと言い出さんばかりの個人主義的な態度だった。彼とは根本のところで、ずれている。

 そして何より、彼には最後の、死にたい人間、という呼び方が引っかかってしまう。

「そんなの、本当は誰だって……誰だって、幸せに生きることが理想なんじゃないの」

 皆、そうなることを夢見て、そうなる日が来ると信じているからこそ辛苦に満ちた日々も歩んでいける。ただ時折人は、強烈な憂鬱や衝動が絡み合って、踏みとどまるべき一線が見えなくなってしまうだけなのだと。

 それは彼が遭遇した、あの一家の悲劇のように。

「さっき話したでしょ、自殺した人のこと。その人は家族の誰にも相談してなかった。けれど、そうじゃなかったら結果は違ったかもしれない。ちゃんと瞳に相談していれば、幸さんは――」

 無理のある仮定、幻想だと知りながら意味のない理想を垂れ流す己の口を彼は止められそうになかった。その姿がどれだけ無様であろうと崩れかけの価値観にすがりつかないではいられなかった。

 そうして幸せだった世界を希う理由も動機も、いるかもわからない神に縋る信徒と大差なくて。

 すなわち、幸福はあるはずだ、と。手を伸ばせばいつかは手に入るはずなのだと。

 だけど彼の尽き果てることがないようにも思われた言葉が、あるときつっかえる。

「――今、なんて」

 唐突な少女の声が思考を遮って、自分の内から湧き出すものに翻弄されていた彼は現実へと引き上げられた。にわかに冷めていく熱を感じながら、枕の上で頭を動かして彼女の方を向く。

 そこで、目が合った。

 黒目がちで、それまでは笑みのために細められてばかりいた瞳と目が合った。だけど一瞬、彼はそれが彼女のそれだと気づけない。

 その弱々しさが、彼を直視できないでいる瞳孔の震えが、あまりにもこれまでの印象とはかけ離れていて。

「今、なんて」

 再び呟かれた声は掠れ気味で、夜明け前の静寂にすら飲み込まれてしまいそうになる。一回りも二回りも小さく、そして頼りなく彼女の肩が目に映る。

 どう見ても普通ではない、のに、

「どうした、の?」

 戸惑いが強すぎて、彼はそんな中身のない問いかけしかできない。

 彼女はその質問にさえ答えないで、膝の上に置いた手に死に装束を握りしめていた。俯いたその目元の、朝焼けを宿して煌めく玉の粒は錯覚などではない。夜を追い出され、しかし昼の明かりにも消し去られようとしている月のように、今の彼女は不確かで朧気だった。

「……ねぇ、大丈夫なの? 本当に」

 このままこうしていると彼女が消えてしまう気がして、彼は必死に沈黙を紛らわせる。しかしそんな努力も虚しく、彼女は薄らいでいってしまう。

「待って! どうしたの、少しで良いから、話を……!」

 布団をはね飛ばして彼は体を起こした。ベッドから身を乗り出し、触れられるかもわからないのに彼女に手を伸ばす。

 その腕を掴んで、引き留めようと考えて。

 咄嗟の行動でも、彼の動きは決して遅くなどなかった。だがその指が触れる前に徐々に周囲の明度が増していく。それにかき消されるようにして彼女の輪郭は崩れて――

「――あ」

 指が届いた頃には、光の残滓が僅かに散っていくのみだった。



 日差しが仄白く輝きを増して、焼けたアスファルトの匂いが漂いだした頃に彼は目を覚ました。

 仰向けに寝ころんで、頭の下には枕があり、足先から胸までに薄い掛け布団が掛かっている。意識が途絶える寸前にまでベッドから乗り出し、彼女に手を伸ばした、あの瞬間の全てが霧散してしまったかのように。

 それに加えてもう一つ、暁の空の下で彼女と交わした遣り取りが信じられなくなる要因があった。

 彼は起きあがって、自分の両の手の平を矯めつ眇めつする。見えていた。シーツに寄った皺をなぞる。縒り合わさった繊維の感触が擦れて心地よい、そんな当たり前の感覚に今はうそ寒いものしか感じられない。周囲の談話や廊下から聞こえる、駆けずり回る看護師たちの足音もうるさいくらいだった。

「まだ、どの感覚も奪われてない……」

 味覚と嗅覚を除いた残りの五感。夜明け前に彼女が現れたのなら、どれか一つを失っていなければおかしい。

「……夢、だったのかな」

 発した台詞に、だけど心のどこかが反駁していて、彼はかぶりを振る。

 そうじゃないだろう?

 胸の中で生まれた自分への問いかけに彼は頷き返す。

 明けきれない夜の頼りない薄明かりに照らされて、彼女へ抱いた感情も、彼女が見せた表情も、抉るようにして彼に刻み込まれている。その痛みだけは誤魔化しようがなく、本物だった。

「見つけ出さないと」

 決意した彼は掛け布団を脇に除けて、取り出した替えの服に着替える。彼女とはまだ、別れるわけにはいかないのだ。

 そうは言っても、どこから当たれば良いのだろう? 

 靴ひもを結びながら、彼はその自問に記憶が手がかりを引きずり出す。

 彼女が豹変した引き金は、瞳の姉の名前だった。

 彼としては、あの家族にまた姉の話をしに行くのは心苦しかったがやむを得ない。

 二度目とあっていい加減に慣れてきた手続きを済ましてから彼は病院を出た。降り注いできた日光の眩しさに目を細める。まだ空の頂点に達していなくとも、太陽の下には白んだ光が氾濫していた。

 手で庇を作りながら、彼は駅に続く道へと歩き出す。整備された町並みに朗らかな空模様と目映い陽光は絵になる構図だったが、今の彼には煩わしいばかりだ。早足で急ぎつつ、庇にしていない手で携帯電話をポケットから引っ張り出す。昨日の別れ際に、彼は瞳とメールアドレスと電話番号を交換していた。別段に下心はなかったが、どちらともなくその縁を惜しんだためだった。

 彼は電話をかけようかと考えてから、その日の曜日を思い返す。

「…………」

 学生が暇を持て余しているような日でも時間帯でもなかった。諦め、メールの編集画面を開く。だけど本文に、お姉さんと親しかった人に、とまで打って彼は躊躇してしまった。

 如何様な言葉遣いだろうが姉のことに触れるには瞳の傷を開いて、刺々しい外気に晒してしまうことは変わりない。

 それでも諦めるわけにもいかず、三十分をかけて文面を捻り出した。そんなことをしている内に駅前についていて、彼は人の視線に晒されながら悶々することさらに十分、送信ボタンに親指を重ねる。

 目を瞑って唾を飲み込み、指が白くなるほどに力を込めると何の飾り気もない送信画面が現れた。羽の生えた封筒のアイコンが飛んでいってしまう。

「……はぁ」

 無駄だとわかっていても割り切れないことだってある。

 完了しました、とのメッセージが表示されると、彼は券売機に向かった。改札を抜けてホームまで駆け、一人二人しか並ばない列に拍子抜けしている間にも、デフォルトのままの音声が着信を告げる。

『それでは、母を訊ねては?』

 瞳らしい簡潔で明快な文章に、彼はその日初めての笑い声を漏らした。



 昨日から引き続き訪れた瞳宅は、当然ながら外見に何ら変わったところなどなく、坂道からせり出した全貌に日の光を浴びせかけられていた。

 彼は坂道を、木陰の中を好んで選びながら歩いた。瞳の母との面識は、ないとまでは言わずとも限りなく薄く、なので瞳に約束を取り付けてもらっている。初対面の人間というだけで心臓が血の一滴も残さず絞られそうなほどに緊張する彼なので、立ちはだかる壁の高さが数段低く感じられた。瞳がそこまで想定していたとは考え難かったが、あいがたいことこの上ない。

「……情けないってことはわかってるんだけど」

 思わずこぼれた自分をなじる言葉は、だけど、今日はそれで最後にしようと彼は決める。無心に足を動かして、昨日も訪れた門の前で立ち止まった。慣れたとまでは言わずとも昨日と比べたらずっと軽い心持ちで門扉を通り抜けていける。

 玄関の前まで来ると、少しだけ躊躇してからチャイムのボタンに触れた。そこでさらに逡巡した後、人差し指の腹で押すのだが、

「え? あれ?」 

 反応がない。壊れたのだろうかと心配しながら一度手を離し、再び指の先が真っ赤に染まるまで押し込んでみるとようやく、ドア越しに鳴るくぐもったチャイムが聞こえた。

 程なくして、床を叩く足音が響いてくる。

「はいはーい」

 開いたドアから瞳の母が朗らかな表情を覗かせた。たった一日ぶりなのに別人同然に若々しくて、少々痩けた頬は気になるけれども娘の面影が重なる。

「えぇと、先ほど、瞳さんから……」

「わかってるわよ、いーの、そんなに緊張しないで」

 本当に、別人かと見紛うほど口振りも笑顔も明るくて彼の緊張もいくらかは解れた。そうして彼女が隠そうとしているものには触れず、彼は用件だけを切り出す。

「あぁっと……瞳さんのお姉さんの、友人の話を伺いたいんですが」

 やむを得ないとは言え間違っても幸の名前など口には出せず、彼は不器用なまでに遠回しな言い方をしてしまう。それでも自己嫌悪を捻りつぶして自分を奮い立たせる姿は十分に、見てる側にも伝わるものがあることを、本人は気づけない。

「ありがと」

 と謝意を言葉にして、瞳の母は不格好に微笑む。その無理にでも笑っていようとする様に彼は、なるほど、この女性が瞳の母であるということを印象強く思い知らされる。

「でもそんなに気を遣ってくれなくても大丈夫よ?」

 悪戯っぽく舌を出す彼女は親子ではなく姉妹だと言っても通じそうである。

「ありがとうございます。だったら改めて、幸さんの友人について、何か知っていませんか?」

「ふむ、そうね……」

 腕を組んで考え出したので、彼はしばらく待つことにした。

 そこで思い至る。

 こんなことをしている理由を訊ねられたら、彼には返せる答えがないことに。特別な事情がなければ、まだうら若き女性の名前を探る動機なんて下心抜きには語れそうにない。探していた女性が幸ではなかったと伝えるのも気が重たかった。

「あぁ……」

 うなだれて肩を落とす彼を、瞳の母は目を丸くしてみていた。

「どうしたの? 何か気がかりなことでもある?」

「そりゃあもう――」

 会話の流れとして全てを吐き出しそうになった彼は、すんでのところで踏みとどまる。怪しまれている様子がないかと気になって、瞳の母の顔色を伺った。

 不思議そうにしていたが、まだ煙に巻くこともできないわけではなさそうだ。

「ほ、ほら、この数日で急に熱くなりましたよねだからもうこれは溜まらないと……」

 似つかわしくない口八丁を使い、加速度的に早口になっていく彼を見て、瞳の母は失笑する。

「何か飲んでく?」

「え、いや、平気ですけども」

 夏の熱気以外のために彼の顔は赤く火照っていた。

「まぁ、いいわ」

 打って変わって若干ばかりに瞳の母は話題を切り替える。

「それで幸のお友達のことよね? わたしもあんまり、あの子の交友関係には詳しくなかったんだけど……一人、気になる子がいたわ」

 思わせぶりな言い草である。彼は確かな手触りも得られないまま、その話に飛びついた。というよりも気がついたときには前のめりになって口が勝手に動いていた。

「どんな人なんですか!? 今、どこに……!?」

 平常の大人しさからは想像できない熱意に瞳の母もただならぬものを察知する。昨夜に娘から聞き及んでいた話と目の前の人物像が重ならなくて、純粋な好奇心から勘ぐっていた。

「もしかして恋人でも探してるの?」

 的の中心を裏側から射抜いたような発言である。前のめりぎみに話を聞き出そうとしていた彼は冷や水でも浴びせかけられたがごとく顔の熱が引いていくのを感じた。

「いや、違いますよ。違いますからね。もうちょっと大切な目的のために動いてるのでっ!」

 瞳の母は片目だけ大きく見開いたが、すぐに驚きを打ち消して微笑んだ。

「そう。なら早く話しちゃわないとね」

 いまいち、発言の真意が読みとれなかった彼だが、最初からそうしてくれたら良いのに、という愚痴は心の中にしまっておく。彼が目で頷きかけると、瞳の母は首肯を返して話を始めた。

「その子は、高校に入ってからの友達だって言ってたわ。ほら、そのくらいの年頃になるとあんまり親には話してくれなくなるんだけど、随分と仲は良かったみたい」

「それは、どうして?」

 そうだと言い切れるんですか?

 問いかけられた瞳の母はぎこちなく目を背けて、頷く。

「その子はね、幸が自殺する前日まで、何度も幸に会おうとしてたの。幸が会いたがらなかったから、追い返していたんだけど」

 どんな記憶から導き出される心象を見つめているのか、瞳の母親は唇を噛んで何かを堪えていた。

「……今思えば、あの子が一番、幸のことわかっていたのかもしれない」

 その声に混じった自嘲はそれを聞いた誰しもから言葉を奪っていく。子を亡くした母が、それでも必死になって隠そうとしていたもの寂しさが噴出し、辺りに重く立ちこめる。

 息が詰まりながら彼は、相手にどうやって声を掛ければ良いのか、考えた。例えば、相手を慰撫させることはできないだろうかと。

 しかし彼はそこに違和感を覚える。

 本当に相手はそんな言葉を欲しているのだろうか?

 全くの部外者でしかない彼が何を言っても、上辺を取り繕うのが精一杯だ。ここは黙って、相手が落ち着くのを待った方が良い。

 そんなふうにして何かと理由をつけて、相手の側から沈黙が破られるのを待っているのが彼の常だった。

 だけど、偶には彼にだって退くに退けないときもある。

「その人の名前と、それからできるなら住所を教えてくださいませんか?」

「うん?」

 瞳の母は何とも意外そうな顔をして、彼に視線をくれた。彼がそれを、変わらぬ面立ちで見返すと彼女は「困ったわね」と表情を曇らせてしまう。

「名前も住所もわからないのよ……でも、あの子が通っていた学校ならわかるわ」

「本当ですか!?」

 それさえ知ることができたなら、手がかりとしては十分だった。彼は勢いづいて、瞳の母に頼み込む。

「教えてください、その人はどこの学校に――」



『はぁ……。わかりました。聞けるかどうかはわかりませんが、上級生の方々に話を伺ってきます』

「ん……迷惑かけてごめん、お願いするよ」

『いえいえ。あたしの方がお世話になったのは先ですから』

 では、という瞳の一言を最後に、つーつーと無機質な電子音を繰り返すのみとなった携帯電話を閉じる。いったん、立ち止まってポケットにしまい、もう一度歩き出した彼は木陰を抜けた。眩しい日差しが眼球に突き刺さるようで、目の中で白光が明滅する。

「……っぅ。どうしようか、瞳の連絡が来るまで」

 偶然なようでいて、彼にはありがちな話にも思えたが、幸の母校は現在瞳が通っている高校だった。曰く、姉に憧れて入ったらしい。その感情自体は彼にも理解できるもので、だから今回のことがさしたる幸運には感じられない。

 それよりも彼はこれからの時間の使い方に悩んでいた。

「あぁ、本当に、どうしようか」

 今のところ唯一の手がかりが幸だった。名前を聞いただけでも青ざめて逃げ出すのだから、霊との間に並々ならぬ絆があったのは明らかである。しかし現状だとその有効な道しるべは瞳に委ねるしかない。

 となれば彼はできるのは、当て所もなく町の中をほっつき歩く程度だった。

「一応、鼻は使えるし」

 無駄ではないだろうと考え、彼は比較的ではあるが土地勘の働く商店街に足を向ける。

 たどり着いたそこは、何度見ても古くさく、雑多だった。

 住宅地をそれなりの交通量の車道が分断し、そこに沿っていくつかの商店が立ち並んでいる。しかも店とは言っても埃を被った商品でさえ売りに出されている有様で、この商店街に賑わいという言葉はあまりにも縁遠い。ましてや平日の昼間となれば、その閑散ぶりは推して知るべしである。

「このあいだは……」

 香水店を訪れた際に通った道を彼は歩きながら探す。薄ぼんやりとした記憶を頼りにどうにか見つけ出したその入り口は、相変わらず苔むしていて、それが途切れても日当たりの悪い路地が続いている。両脇の建物の壁が途切れた先に続く木の柵は果てしなく途絶えない。

 歩いているとあの香水の店の前を通りがかった。立ち寄ろうかと迷いもしたが、彼女がそこを訪れることはもうないように思えた。きっともう彼女に、香水を買い足す必要はない。

 それに溢れる匂いの中から嗅覚だけを使って人を見つけ出せる自信もなかった。

 だから彼は先を行く。道中何度か、道に迷ったのではないかと自分の方向感覚を疑うこともあったが、直感を信じた。柵と塀が代わり映えすることなく続く道をひたすらに歩いて、彼はたどり着く。

 剥き出しになった壁と不釣り合いに重厚な扉が彼を待っていた。あまりにも小さなそこは密集した建物の中になければちょっとした台風にでも吹き飛ばされてしまいそうで、周囲に頼り切りの建物。

 どことなく自分と似通ったものを感じて、彼は少し落ち込んだ。一人で生きていくこともままならないほどに、自分は弱い。

 つまらない自虐に捕らわれながら、彼は扉を引いた。両手で握りしめた取っ手から質量が伝わり、一拍遅れてから開き出す分厚い扉。室内の仄かな闇に漂う冷気は空調もしていないのに心地よい温度を保っていた。

「おや、いらっしゃい」

 二日前と同じ老婆が二日前とは違った態度で顔を上げる。丸く小さな銀縁眼鏡の奥の目は穏やかに凪いでいて、寛容にそうにも人懐っこそうにも見えた。

 彼は後ろ手に扉を閉めながら、店に入る。挨拶代わりに頭を下げて、再び上げるとまだ老婆はにこにこと彼を見ていた。

「前にどこかで見かけた?」

 訊ねてくる老婆に、彼は二日前にも訪れたことを知らせる。

「覚えてませんか、僕、一昨日にここで小豆金時を頼んだんですけれど……?」

 忘れた、なんて返事を聞くのも怖くて、彼の言い草は恐々としたものになっていた。老婆は「んー?」と唸って考え込み出す。

「そう……だったかな、昔にも似たような子を見た気がするんだけど、なにせもう、歳だからね」

 否定も肯定も難しい内容だったので彼は返事に困り、ひきつった曖昧な笑みを浮かべてやり過ごした。それでも相槌を打つ形にはなったので老婆は満足そうに笑み、ようやく通常の営業に戻る。

「何の味のかき氷を食べる?」

 最初から選択肢がかき氷しかないのに失笑しつつ、彼はいつもの味を頼んだ。

「小豆金時で」

 聞き届けた老婆はまた少し唸っていたが、程なくして「待ってな」と言い残し、カウンターの後ろから通じる廊下へと消えていく。調理場がその奥にあるためだ。

 店の奥から響いてくる、涼しげな氷の砕ける音に身を委ねながら、彼はランタンが散らす夕映え色の光を見上げた。誘蛾灯にするならちょうど良さそうな、やや淡く頼りない色合いである。

 目が知らず、惹きつけられる。

 二日前はここで、かき氷の甘さを味わえた。喪失した感覚が反応したということは、ここに彼女と結びつく何かがあると見て、まず間違いない。

 だからここならば、と期待を胸に訪ねてみたのだが、手応えがない。少なくとも彼の嗅覚では、古臭くも懐かしくもある、心の安らぐ匂いとそこに混じる微かな砂糖の甘さしか感じられない。

 単に甘いのとも違う水芭蕉の香りとは似ても似つかなかった。

「……一体、どこに……」

 漏らした声が思いがけずうら寂しげに響いて、彼自身が驚嘆する。あんな霊なんて、煩わしいだけだというのに。

 これ以上、こんな、人を感傷的にする空間で沈黙していてはどうにかなってしまいそうだった。突っ立っているのをやめて意味もなく歩き回ろうかと足を揺さぶっていると、なんとも都合の良い頃合いに老婆の足音と軋む床板の悲鳴が聞こえてくる。

 かき氷の盛られた器を片手で運ぶ老婆の手つきは心なしか、危なげだった。

「はい、どうぞ」

 その声は間延びしていて、緩慢なのに聞き取りづらい。彼は声が途切れるのを見計らって頷くとかき氷を受け取り、握るもののなくなった老婆の手に料金を渡す。

 それから席の一つ、木製の机と長椅子の一組を借りて、腰を下ろした。

「ふぅ」

 随分な距離を歩き詰めてきたので、座った瞬間の心地よさはひとしおである。甘い痺れにも似た脱力感が駆け抜けていって、思わず息がこぼれた。

 一息つき、彼は氷に刺さったスプーン型のストローを手に抜き取る。ピンク色の線が走った透明な筒の先端には餡と氷が少しずつ詰まっていた。

 その僅かな量を吸い出し、山の頂点からかき氷を掬って舌の上に載せる。しっとりとした餡と細かく粉雪のように砕かれた氷が溶けていくのを感じていると、彼の背後から声がかかった。

「やっぱりあんた、この店に来てたんじゃないのかい?」

 その問いかけに、彼は咄嗟に否定を返せない。

「……それ、は」

 黙して彼は、説得の仕方を考える。ストローの先で氷を小さくかき回しながら熟考して、だけど、これと言ったやり口も思いつけない。彼は顔をしかめながらも押し黙っているしかなかった。

「ほら、答えれないってことは」

 どうにも言い取り繕わねばならないらしいと彼は悟る。

「……違うんですよ。ただ、他のことで頭が一杯で、良い説明が思いつかなくて」

 それからもう一度彼は器の中身を掬い、餡も氷もなくなるまでスプーンをくわえた。その沈黙を埋めるように老婆が趣旨を変えた質問を重ねる。

「ならその他のことってのは、うまく行きそうなのかい?」

 今度こそ決定的に彼は黙り込もうとした。だけどそんな決意は口の中の氷ほども保てずに崩れ去る。

 優しげな老婆の目は、彼の心情なんて自身でも気づけないほどまでに深く、見透かしているような気がした。

「あんまり、芳しくはありません」

「おや、それはどうして?」

 放って置いてくれれば良いのにと願いながらも、答えようとする口が止まらない。

「……いろいろと、嫌になってきたんですよ。得になんてならないことだとか、それなのに諦めきれない自分だとか」

 打ち明けても相手を困らせることしかできない話だとは彼もわかっていた。だけど、吐き出さなければいつまでも腹の底にあるものがくすぶり続けるように思えて、抱え込んでいられなくなる。

 果たして老婆は彼の告白をどんな意味に受け取ったのか、軽薄でも重苦しくもない口調で語り出した。

「昔、あんたみたいに小豆金時ばかり食うがきんちょがいたよ」

 突然何の話を始めたのだろうかと彼はかき氷を口に運びながら耳を傾ける。続く老婆の声は、誰にも届けるつもりなどないように静かで、なのに奇妙なまでに言葉の一つ一つが染み入ってきた。

「そいつは隣にいた奴を真似して、できるわけがないことに挑んでは挫折してた。ずっと憧れてたんだね」

 周りに憧れて模倣を繰り返し、何一つ成功せず。彼にはまるで中身がない人間にも思えてしまう。

「そんなのに意味があるんですか……」

 それだと老婆の話すその人間が得たものなんて、失敗と挫折の記憶ばかりになってしまう。そのために失ったものの方がずっと重かっただろうことは簡単に予想がついた。

 だけど放られてくる老婆の言葉は想像していたものと少しだけ違う。

「あれもまた、勉強だろうよ。得なのかどうかなんて、後になってもわからない。……あんたは、割り切れてないんだろ?」

 唐突に質問まで飛んできたので面食らいつつも、彼は「はい」と誤魔化しようのない気持ちで返事をする。

「なら、それが答えだ。何で迷ってるか知らないけど、もう少し、自分の気持ちに素直になってもいいんじゃないかい?」



 両手に持って、購入したばかりの地図を掲げる。

 久しく眺めることなんてなかった、方形の図面。

 なだらかな山や、そこから流れ出す無数の源流が集った大河、数知れぬ人々が住まう市街までもが広げた両腕の中に収まっている。そこから広げていく想像は彼を飲み込むほどに広大で、莫大なのに。

 描き出されたこの市の全景から、彼は今日まで訪れた場所を感覚の中で繋いでいく。

「あっちにあれがあるから、ここは……」

 地図から見つけだした彼の現在地は、駅からやや距離がある国道沿いの書店だった。幾つか思い浮かべた目的地の候補と、そこまで道のりを目で辿っていく。

 どうしてこんなことをしているのか、結果はついてくるのか。はっきりしたことなんて何も言えないけれども、彼は昔、憧れた人の背中から教わったことがある。

 どんな苦難の中にいても、どれだけの無様を晒すことになっても、駆けずり回れば世界は変えていける。迷ったり考え込んだりしていても、心が重く、沈んでいくだけなのだと。

 その人は無茶苦茶で、理解のできない動機のために、ばか馬鹿馬鹿しいほどの労力をつぎ込んだ。彼女の周りでは着実に変化が積み重ねられて成果となり、結実した。

 その強さを、真似はできなくとも、追いかけたい。

 ひとまずの目印にしたのは雲に霞む、深緑に覆われた峰だった。遠く、そちらの方角を眺めてからすぐ目の前の国道を渡り、一昨日と同じ道順で商店街へ向かっていく。

 足取りは知らず、速まった。

 店が建ち並ぶ通りにまで到達すると地図を取り出し、再び自分の位置を確かめる。地図上の現在地と方向感覚を一致させて、商店街沿いに進み出した。

 硝子に蜘蛛の巣がこびり付いた薬局や廃屋と区別のつかない民家の前を通り過ぎる。

 やがて比較的広い道と交差するT字路に行き当たった。そこで彼は立ち止まると曲がり角の先へと向き、道の果てを遠目に眺める。しかしながら僅かにくねった道を縁取る生け垣や塀に視界を遮られて、遠くまでは見渡せない。

 そして、隠されているのならばそれだけ、惹きつけられるのが人の性だ。

 どのみち、行き先など決まってはいない。彼は好奇心に駆り立てられるまま、歩き出す。

 歩いてくとまず目に入ってきたのは、道の右手にある文化会館と、その正面の建つ幼稚園だった。そこから先は車線が減って道が細まり、進んでいくと正面に小学校の校舎がそびえている。彼が目印にしていたのはその学校の裏山だった。

 校区の関係から、あの小学校が彼女の母校だったと考えるのはそれほど無理のある推測でもない。探せば霊の足跡が見つかったのかもしれないが、今からそうする時間などなく、そんな気がそもそも彼にはなかった。

 文化会館の手前まで戻ってくると、そこで入っていける細い道へと曲がっていく。

 古い民家に挟まれ、一車線しかないその道路はやがて左側に連なる家屋が途絶えた。それに代わって、陽炎にぼやけた遠景にまで広がっていく景色がある。

 眩しいくらいに白い雲が流れていく空の下、夏の日を浴びて生気を漲らせる青々とした稲の葉が、風にざわめく。駆け抜けていく強風に煽られて稲は何度も波立ち、かき鳴らされる草の音は涼やかに彼の耳元を吹き抜けていく。

 けれども彼にはそんなもの、耳にも入らなかった。

「――……あぁ、これは……」

 彼は言葉を紡げずに立ち尽くし、目前の情景から目が離せなくなる。視覚と結びついた記憶が引き出されて、曖昧なそれを目の前の仔細と一つずつ照合していく。

 青い葉の稲がそよぐ水田、道路の上にまで枝を伸ばした松の木、金網が張られた下で鯉の泳ぐ貯水槽。

 そのどれもが、夢の中で見た光景そのもので。

 言葉にできるような感想は思い浮かばない。ただじっとそこに見入って、あの夢のことを思い出す。

 未だに彼女があんな夢を見せてくる目的が彼にはわからない。妙に思わせぶりでいて、意味のあるものを見せられているようには思えないのだ。

 ただ、彼女と関連深いことは確かである。何の当てもなく探し回るよりは建設的だろうと思って、彼は似通った場所に的を絞ったのだ。

 まさか、夢の中そのままの風景に出逢えるとまでは考えていなかったのだが。

 いずれにせよ、夜明け前でもない限りは水芭蕉の香りを追い求めるしかない。今は仕方がないと割り切り、彼は一歩ずつ踏み出していく。

 意識を嗅覚に集中すると、何よりも鼻につくのは日差しに灼けた土の臭いだった。彼はこれがそれほど嫌いでもないのだが、水芭蕉の微かな香りこれにだって打ち消されかねなかった。おまけに日差しが素肌から水分をそぎ取り、着実に集中力を奪っていく。

 止める理由は幾つだって思いついた

 それなのに、彼の内側に灯された得体の知れない活力が、放り出すことを頑なに拒絶する。田んぼが途切れるまで見つからなかったのなら折り返し、戻ってくる道中で、より念入りに見落としたものを暴き出そうと意識を張りつめていく。

 昼の光の眩しさがあの少女を覆い隠してしまったのだとしても諦めない。どれだけの時間をかけても見つけだそうと、それだけの覚悟で彼はいた。

 文化会館の脇まで彼は、肩から力を抜いて息をつく。

 結局、彼女は見つからなかった。

 けれども、彼は落胆したわけではなく、新しく吸い込んだ息をからっぽにした体に込める、気力へと変えていく。

 夢で見た少年と少女は、この道を通って虫だか蟹だかを取りに出かけていた。この先に、そんな目的で向かう場所があるのだとすれば、答えは一つだ。

 彼は田んぼを縦断して山へ向かう、たった一本の道へ歩を運んでいく。松の木の下をくぐり抜けたすぐ先がそこで、夢で見た少年らもそちらへ曲がろうとしていた覚えがあった。

 ふと、ここが現実なのか、感覚が揺らぐ。回想の世界に迷い込んでしまったような心地がする。

 ゆっくりと流れる時間も、穏やかに包み込むだけの陽光も、彼が繰り返していた日常とはほど遠い。外からの圧迫に潰されそうになることも、内からの焦燥に胸を焼かれることもない。

 もし仮に彼女の呪いから逃れたとして、自分は本当にあんな日々に戻りたいのだろうか?

 考えていても仕方のないことだった。それにこうして物思いに耽っていたら、いずれは足を止めてしまう。今は、ここまで諦めようとしなかった本音の一端だけに従っていようと思った。

 田んぼを抜けて密集した民家のただ中に入っていき、そこを抜けると小学校についた。回り込んで裏山の登山道に通じるに脇道に入っていく。

 左手に続く小学校の金網は早緑色のペンキも剥がれて錆が露呈していた。その向かいにある家屋のブロック塀は所々が崩れていて、防犯という概念は存在しないらしい。

 そんな建物たちの前を通り過ぎると、アスファルトが途切れて、頭上は鬱蒼と茂った木々の濃緑に覆い隠された。緩やかだった坂道の勾配が急になって、足下の湿った土は靴の先が僅かに沈む。

 彼は額に滲む汗を拭いながら、重たくなる足を一歩ずつ進めていく。

 やがて細い丸太を連ねた階段が現れた。その両脇には竹藪が生い茂り、右へと曲がりくねっていく道の先は果てが見えない。

「……ははは」

 元々体力がある方ではなく、運動もしてこなかった彼である。彼はひきつる頬を、だけどどうにか笑みに変えて、朽ちて崩れかけた丸太の階段の一段目に右足を乗せた。



 

 登ってみればどうということとはない、なんてことはなかった。汗だくになりながら彼は最後の一段を登り切る。

 階段と、空を遮っていた木々の枝が殆ど同時に途切れて光が差した。

 たどり着いたそこからは整備されたコンクリの道が頂上まで続いている。その道の横切る、控えめながら可憐な花々の咲く野原は、自然のままの姿を剥き出しにしていた登山道と違って色濃く人為の跡が見て取れた。

 その善し悪しは置いておくにしても、薄暗い森の中にいたときの不安は薄らぐ。人の立ち入りを拒絶する山の圧迫感が、こびり付いた人の手垢に上塗りされて、感じられない。

 整備された道に沿って彼はさらに山を登った。階段のような急斜面に出くわすこともなく、終いには駐車場へ通じる道路と合流してしまう。そんなことに安心感しか抱けない辺り、もう童心は手放してしまったのだと実感させられた。

 自動車の立ち入りを禁じる、風が吹いただけでも倒れそうな木製の柵を越えた先から単純な登り坂ではなくなった。山肌に沿って緩やかな下り坂を織り交ぜながら、勾配のきつくなった上りが続く。

 定まった目的地などなかった。彼女が見つかるまで、頂上までだって登り切ろうと考えていた。

 けれど彼は、ふとある広場の前で立ち止まってしまう。

 そこは傾斜が緩やかになった山道の傍らに開けていた。背の高い草が入り口を隠しているが、その向こうには人が立ち入って踏みならした草むらがある。

 自分でもそうして気を惹かれた理由が気になって、彼は夏の空気に意識を溶かした。植物に溢れたそこでは日差しに焦げ付くアスファルトよりずっと強く、草いきれが香り、その熱気の持つ青臭さに呑み込まれる。そこへさらに、土や名前もわからない花の香りが気づけるかどうかといった具合に溶け込んでいて、街中にいては感じられない生命の息づかいを確かに嗅ぎ取れた。

 だけど、幾多もの命がその存在を匂わせすぎて特定の花の香り、それもよりによって存在感の薄い水芭蕉の香りを探り当てるのは川に落ちた涙の一滴を探るようなものである。人ができる範疇にない。

 ここに至って彼の内面に、鼻でしか彼女を探せない自分が山に来たのは失敗だったろうかという後悔が押し寄せてくる。考えても事態は動かないのだからと駆けてきた道のりがどこにも通じていないのではないかという不安に襲われる。

 そんな煩わしい彼を呑み込みかけたとき、その意識を微かな音がそよ風のように撫でていった。

 何がこの音を発しているのか?

 どこにそれはあるのか?

 研ぎ澄まされていく意識に暑さは掻き消され、小鳥のさえずりも蝉の鳴き声も遠のいていき、代わりに垂れる滴と流れるせせらぎの囁きが世界に響く音の全てとなる。

 思い出していた、彼は。

 夢の中で二人が山に出かけていた理由を。

 あの二人は、その片割れの少年は「沢蟹を取りに行くなんて」と、そう発言していた。不意に甘いものや苦いものが過ぎって心なしか、どこかで嗅いだ泥の臭いさえもが鼻に蘇ってくる。

 道の真っ直中で棒立ちになっていても仕方がなかった。それでは彼の気持ちが少しも静まらない。

 彼は草をかき分けて飛び越え、あの広場に躍り出た。水音が僅かだが強まって、彼の予想を確信に塗り替える。

 ここには晴れた夏の昼間にも途絶えることのない小川が、生き物を育めるだけの水の流れがあるのだ。

 ぐるりと見回すと視界を覆い尽くさんばかりの緑と木陰と空が広がっていて、だけどそうした光景のある箇所に彼の目が止まった。斜面が崩れて、黄土や焦げ茶や赤茶色が折り重なった地層の断面が見える。近づいていくとそこでは土の表面を水が伝い、反射した日光を照り返している。

 そこから染み出した水は地べたまで流れ落ちると子供でも跨げそうなほどの小川に流れ込んでいた。近づいていった彼が屈み、見下ろしてみると、澄み切った水の奥底で泥の上を飛び交うように泳ぐ微生物がいる。種類など当然わからないそれらを眺めていると、長らく忘れていた好奇心が刺激された。

 他にもいるはずの生き物を見てみたい。

 そこで彼は思い立って、拳ほどの石を一つ持ち上げると、

「あ……」

 小指の爪よりもさらに小さい、だけど確かに蟹の形をした生き物が別の石の下へと逃げていった。

 せっかく隠れたそいつをもう一度驚かすのも気の毒なので、持ち上げた石だけを元の場所に戻し、彼は立ち上がる。

 見つけたここが、夢の二人が目指していた場所なのかは彼にもわからなかった。ここよりももっと生き物が豊かな遊び場を彼らが見つけていないとも限らない。

 だが、もし彼女が山を訪れ、生物に触れることを楽しみとしていたのならば、欲していたのは今の彼が感じている気持ちだと思った。もう随分と久しく感じていなかった高揚感。言葉にしてしまうとちっぽけに成り下がってしまいそうなときめき。

 彼女は遠く遙か、彼で果ての届きようもない場所を独り、走っているのだと思っていた。けれど今はその存在がずっと身近に感じる。夢の中を駆け回っていたあの少女が彼女だというのならば、彼女だって彼と、それほど大差はないのだと。

 きっとここにいる。

 何の根拠もなかったけれども、彼女はそばにいてくれるはずだと彼は確信していた。だから願う。この彼女の存在が感じ取れるように、その声が聞けるように。

 感じることも気づくこともできず、心を触れ合わせた人が追憶の彼方へと消え行くなんて受け入れられなかった。

 やがて風が吹き止み、草がざわめくことをやめる。水までもが流れを止めてしまったように沈黙し、鳥や虫の生命を歌い上げる詩も静まっていく。

 希うのは、あの声だった。まるで人の気も知らず、ずかずかと入り込んできては揶揄する、腹立たしいくらいにお節介なあの声。この世界からこぼれ落ちようとしている少女の最期の囁き。

 迎えるのがどんな結末であれ、彼女の問いに何一つ答えられず、別れていくのは悔しい。彼女が伝えようとしたことの一つも理解できず、終わってしまうのは寂しい。

 だから夜明け前のような二人の時間に彼女を引き戻して、語り合いたかった。まだ話せずにいたことはいくらでもあった。

「どこに……どこにいる? あれだけ大きな口を叩いて、人に好き勝手言って、それで嫌になったら突然いなくなって」

 もし彼女がこのままいなくなって、彼が生き延びたのだとしても、それでは本当に生きることにはならない。また『生かされて』いる日常に逆戻りするだけである。

 だから彼は選択したかった。生きるのか死ぬのか、それだけの誰しもが持っている自由を享受したくて、その答えを彼女の見届けてもらいたくて。

「戻ってよ……戻れよ! まだ僕は答えを見つけてさえいないんだ、それに……それに――!!」

 音が消えて、世界が静まって。

「何そんなに、泣きそうな顔してんのよ」

 探してみても、見えるのは変わりない夏の山の風景だけ。

 けれど、仄かに甘く、ただそう表現するにはあまりにも曖昧な、嗅ぐものを穏やかにさせる香りを彼は吸い込む。

「泣きそうな顔、してなんて……」

 ここ数年来、涙した覚えなどなかった彼なのに、感情はいつになく高ぶっていた。あるいはそんなこともあるのかもしれないと手の甲で目を拭う。

 濡れた感触はなかった。

「やっぱり何ともない」

「ふふっ、冗談にきまってるじゃない」

 全く、人を小馬鹿にしていて、今にも笑い出しそうでも穏和そうでもある不思議な声。終焉を告げる、悲しい音色。

 間違いなく、

「幽霊、って太陽の下でも活動できるの?」

「ちょっとせっかく呼ばれたから来てあげたのに、そんな下らない質問?」

 どうしようもなく身勝手で変わりない彼女の声だった。

「出会い頭にからかわれたら、誰だって真面目になんかなれないよ……」

 溜息をついて、肩を落としながら、それでも内心で胸を撫で下ろす。まだ終わっていない。まだ終わりではない。この最後の五日間に知らずに賭けてしまっていた思いはまだ繋がっている。

 自分の命が体を奪われかけているというのに、彼の注意はその一点に尽きていた。

 だから次に投げかけられる質問にも迷いなく答えられる。

「良かったの、私を呼び戻したりなんてして? 放っておけば助かったかも知れないのに」

「これで良かった。まだ、色々と決心がついてないから。もう少しだけ、待っていて」

 それまでには決意する。生きるのか、死ぬのか。

 そう言外に伝えて、だが彼は表情を曇らせる。残る時間は今日と明日、それから明後日の夜明けまでだ。終わればどうなるのかは知れないが、そこまでに全てを終わらせないといけない。

「どうして、五日間にしたの?」

 それは彼が初めてする、不可解な幽霊の行動に対する問いだった。一日に一つ、五感を奪う。それが精一杯振り絞った力の限界なのだと言われてしまえばそれまでなのだが、そんなこととは関係なしに彼は疑問に思っていた。

「人の命がかかっているのに、すぐに終わらせるんでもなく、わざわざ五日間なんて……」

 その日数に伝わらなかった思いは、届くことのなかった感情は、どうなってしまうのか? 掃き溜めに集められて、全てなかったことにされるのだとしたら、残酷に過ぎる。

 だけど彼女は相変わらず容赦がなくて、冷徹に真実だけを穿った。

「何日経っても、同じことしか知らないのなら考えは変わらない。空を見上げて、ぼうっとして、そうしている間にたどり着いた答えが一年後にだって変わらずにあるわ」

 見えない彼女がそれをどんな色の瞳で語って、どこに向けて話しているのかわからなかった。ただ、「だけどね」という呟きの直後に彼は、視線が頬を撫でていく気がした。

「五日間くらいはあってもらわないと、わたしの方が困るの。本当はそれでも足りないかもしれない。だからこの猶予の期間はわたしのため」

 抽象的で、言いたいことが掴みきれなかった。何一つ彼女ははっきりした話をしてくれていない。しかしだからと言って、訊ねても答えてくれるようには思えなかった。

 それに訊ねずとも、彼女はとうにそのことを彼に伝えているようにも、そんなふうに思えた。

「わかった。もう訊かない」

 これ以上の追求を諦めて彼が呟くと、

「そう」

 返事をした彼女の悪戯っぽい笑みが日差しに透けて見える。そう幻視した微笑みは音もなく光の中に消えていった。

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