五日目
「あっ……」
指の関節に細いビニールの糸のすり抜ける感触が走っていく。咄嗟に手を閉じようとしたけれど間に合わず、彼の手から紐が、その先につながれている水で膨れ上がった袋が損なわれる。固いアスファルトにたたきつけられたそれは弾けて、中身からまき散らされる水に混じって赤みがかった黄金の小魚が三匹飛び出し、地面に跳ねた。
「あぁっ!」
太陽はとうに消え去って、連なる提灯から滲む赤らんだ光に照らされている夜空の下、少年は手を伸ばす。だけど指先で触れる魚は彼の手を必死に逃れて、棘だらけの地べたで鱗と、それが守る皮膚を傷つけていく。
「う、ぁ……なんで、どうして」
目の前で傷つき、そして死んでいこうとする魚と彼らを見つめていることしかできない自分に、ただただ少年の中で疑問が沸き上がる。
なぜこんなに自分は無力なのか?
どうして、こんな小さな命がすぐそこで消え失せようとしているのに、見ていることしかできないのか?
嫌だ、死なせたくない。
そんな思いに答えるが如く、救う言葉がさしのべられた。
「何してんの、すぐ捕まえてっ!!」
荒らげられた少女の声が、震えて固まりそうになっていた少年を鼓舞する。その瞬間に彼は我に返り、跳ねる金魚をすぐさま手の平に掬い始める。
まずは一匹。
手の肉に張り付いてぐったりとするそいつの傍に、ペットボトルの白い口が寄せられる。
「早く入れてっ!」
そうすることが正しいのかもわからず、少年はただ反射だけでその手の上にいる金魚をペットボトルの中に送り込んだ。流し入れられ、露を纏って曇った容器の中にいるそれは動かない。だけど彼は構わずに残りの二匹を掬い、ペットボトルの中へ流し入れた。
「ふぅ……これで大丈夫、かな」
丸く白い膝小僧に手を押いていた少女が立ち上がって、ペットボトルに蓋をする。中々動き出そうとしない金魚達が不安で少年が「なんで動かないの?」と少年が疑問をぶつけると、少女は動じることのない余裕そのものといった笑みで彼を見つめ返した。
「水温が低いからよ。安心して、多少の殺菌剤が入っているかもしれないけど死ぬことなんてありえないわ」
少女が話していることは当時、小学生の中学年であった少年には飲み込めなかったが、関係はなかった。ただそのことを少女が語っていると言うだけで、少年はその発言の内容を全肯定できた。
「そっか……」
胸を撫で下ろし、知らぬ間にしゃがみ込んでいた彼は少女と同じように立ち上がって、ほっと息を吐く。
「えぇ」
白いワンピースのスカートを舞わせ、自信たっぷり頷いた彼女は少年の頭を楽しそうに撫でた。
「……ねぇ。バカにしないでよ」
そんな、少女以外には決して口に出せないだろう憎まれ口を叩きながらも、少年の口元には笑みが浮かんでいる。そんなことも全て見通した上で、少女は柔らかな微笑みを浮かべた。
「わたしに任せとけば良いのよ」
自信たっぷりに言ったのは少年を安心させるためでもあり、少女自身が抱く自信の裏付けでもある高らかな宣言だった。そんな彼女が頼もしくて、同時に他のどんな人間よりも憧れて、思わず彼はこんなことを口走ってしまう。
「だけどね、×××。もし×××に何かあったら、僕は頑張るから。×××の分まで、×××も幸せになるまで」
偽ることのない、偽りようのない少年の本音。誰も彼もに幸せになって欲しいという、童心だからこそ抱けた幻想。それがどれだけ馬鹿馬鹿しくても少女はわらわない。
ただ少年の心配だけをした。
「あんたに心配されなくたってわたしは平気よ。何があったって、悲しんだり、そんなこと、わたしにはあり得ないんだから。だからあんたは自分の心配だけをしなさい」
少女の言葉を否定するのは気が引けたが、少年としても引き下がりたくはなかった。
暗い暗い、夜の下。表の通りで明るい賑わいと屋台が立ち並ぶ町の片隅、裏路地に迷い込んだ少年はその傍らの少女に告げる。
「それでも僕は、心配なんだ。嫌なんだよ、自分一人が幸せになるなんて」
皆で、幸せになりたい。
そんな誰しもが一度はふと心に抱く、どうしようもなく愚かしくて、例えようもなく尊い願いを少年は口にする。例えそれが、類似した遺伝子を助けるために種に植え付けられた遺伝子の命令だとしても、利他性など偽善者の幻想でしかないのだとしても、少年が願うその瞬間は本物だった。
「僕のために誰かが傷つくなんて嫌なんだ」
そんなことになるくらいなら自分がいっそのこと、どうにかなってしまえば良い。
少年のそんな、好ましくも危うい願いが透けて見てしまって、少女は容易に注意もできず、かといって見過ごすことなど尚更にできない。
幼いながらに端正な色白の面差しに苦渋の色を覗かせて、呟く。
「あんたのそういうのは良いと思う。だけど覚えていて。あんたに幸せでいてもらいたい人だって、この世の中にはいるの」
まさかそれが自分自身だということなどできず、頬に少しだけ赤い血の色を、感情が滲み出たそれを恥じらいながらも少女ははにかむ。単なる誤魔化しであるはずのそれが、しかし少年には何よりも美しく、何よりも尊いものに見えた。
「わかったよ」
肯定しながらも少年は自らに誓う。この少女が幸せでいられるように自分は走り続けようと。いつか言っていた願いを少年が叶え抜いて見せようと。
一歩上手の少女は、少年のそんな微笑ましくも頼もしい純粋さを見抜き、身を預けたくなりながらも首を振った。そして精一杯の強がりを込めて微笑み、少年の腕を引く。
「さぁ、祭りに戻りましょう」
「え、ちょっと、待って」
制止する彼の声も聞かず、「ほらほら」とこの上なく楽しそうにしながら少女は顔だけ振り返る。その強引で少し我が儘ながら、無邪気で明るい笑顔に彼も毒気を抜かれる。諦めて引っ張られるままに暗い路地の闇から飛び出して、まず光に見舞われた。視界に溢れると無数に散らばり、赤や黄に世界を彩ったそれらが眩しくて彼は目を細める。そこへ遅れて、人いきれと歓声とが肌にまとわりつき、耳鼻から流れ込んできて彼は身震いした。
「ほら、何してるの?」
一瞬、力強く生きる人々の名残に立ち尽くしていた彼の肩を小さな手が叩いた。
普段は古ぼけた商店街がその両脇に吊された提灯の列で夜から切り取られ、その下の屋台や道ばたに集う人々が一様に一点を見ている。赤く照らし出された彼らの視線を浴び、そして少女の細い指が示した先にはかけ声と共に練り歩く人の群があった。
「わたしたちも、一緒に声出そっ! えぇと……せぇの、よーいよいやーさーさー!」
そんな掛け声を上げる彼らが担ぐのは神社の本殿を縮小したような御輿だった。金箔で彩られたそれは遠目からでも煌びやかで、夜の町に華やぐ。
だが少年はそちらに見とれてはいられなかった。
「……何で声出さないの」
不機嫌さを隠しもせず、じっとりと少女が睨んでくる。
「そ、れは……ほら、やっぱり恥ずかしくて……」
言い訳さえも尻すぼみになり、彼は自分の立場や性格の諸々が情けなくなった。その目が我知らずどんよりとしていると、「まったく」という声が溜息混じりに吐き出される。
だけどそれは今にも笑い出しそうな調子でいて。
「いいわ、じゃあついてきなさい。きっと御輿を担ぐ人たちに混じったらあんただって黙ってられないでしょ」
そんなことを悪魔の笑みで囁いてくる。今度こそ本気で逃げ出そうとした彼の手を捕まえて、少女は走り出した。
「行くわよっ!」
先を行く御輿は石の階段を登って大理石の鳥居を抜けていく。その目指す先には木々のざわめく山があり、暗く大きな影となったそこを走る長い階段がある。
いよいよ祭りは佳境だった。これから階段の上まで御輿を運んで、それが終わったら盛大に宴を開く。祭りの熱気が残る境内には酒と汗と持ち寄った馳走の臭いが満ちる。
少年と少女は人々の集まりの後ろをついて行った。道中に何度か担がせてもらったが、力になれたのかは甚だ怪しい。しかし盛り上げるのに一役買ったのは確かだった。
今はそこから外れつつも熱気に巻かれ、二人の頭もどこかぼんやりとしている。最後の階段にさしかかって傾く御輿を微睡んだような目で眺めていた。
「もうすぐ、終わりか」
呟いた彼に少女が微笑みかける。
「また来年……ううん、その次も、十年後だってまだあるじゃない」
わたしたちは若いんだからさ、とありふれた歌の一節のようなことを少女は口ずさむ。彼だってそう思っていた。ずっと変わることのない日々が続くのだと。だけどそのときは違うことに心を切なくしていた。
「でもほら、この祭りはこれで終わりでしょ。もう後戻りはできないから、その……なんだろう」
うまく言葉にはできなかった。だけど形にならなかった部分を少女は聞き取って、やっぱり楽しそうに笑った。二人だけの秘密を呟くほどしめやかに。
「ふふふ」
「あはは」
何だか陽気になって少年も笑い声を返す。その声は、藍と紺色の混じった夜空まで届くことはなく、最後の威勢を上げだした祭り囃子に紛れていった。
『じゃあ、その人が幸さんを助けようとした友人ってことで間違いないの?』
それは高校で姉の友人について調べていた瞳からの報告ついてその内容を確認するために綴ったメールだった。もう何時間も前に送ったその文面を読み返した彼は、それからこちらも何度目になるのかわからないが、そのメールに対する返信を開く。
『間違いありません。ですが、その姓って――』
彼は続きを読むのを中断して携帯電話を閉じた。
時刻は午前三時半頃。あと三十分も経てば東の彼方に朝焼けが滲む。この時間になるまで結局寝付けずに彼は思考を弄していた。
すなわち、なぜ彼女は霊になったのかと。
それは二つの意味を内包した疑念だった。まずはどんな経緯で彼女が死に至ったのか。これは何ら変哲のない言葉通りの疑問だった。しかし、そこに加えてもう一つ、彼には答えを見つけ出せていない要素がある。
つまりは、何が彼女をこの夜に引き留めているのか。
彼は死んだことがないから、命を失った人間の末路など知らない。けれども、この世に霊が溢れていないことが証明している。殆どの人間は死んでまで世界に居残るような覚悟や動機などないのだ、と。
どうしても疑問に思ってしまう。何のために、誰のために、彼女はこんな世界にしがみつこうとしているのか。
「誰のため、か……」
幸が関わっていることは想像に難くない。問題なのは、そんなことを訊ねたらまた彼女が取り乱して姿を消してしまうかも知れないことだった。
「訊けない、よなぁ」
体を起こし、ベッドの上で自らの右膝だけを抱え、そんなことについて悩む。夜明け前のの薄闇に沈んでいても答えは掴め取れそうになかった。
「せめてもう少し、今日の一日だけでも……」
彼女のことを知って、その真情に迫れたら、なんて考えていると左のこめかみをつつかれる。
「考え事?」
カーテンの隙間から漏れる朝焼けの欠片に細い肩と長い髪の人影が浮き上がっている。目が慣れてくると見えてきた彼女はひとつまみほどの優しさを笑みに溶かして、こめかみをつついた指を伸ばしていた。
「まぁ――」
今訊ねなければ機会を見逃す。流れに負けてしまう、そのことをわかってはいたのだが、
「……色々と」
彼の思考も口も喉も舌先も全速力で後退して、例の疑念から顔を背けてしまう。どうしようもなく臆病で、そんな自分に呆れ果てるしかなかった。
「隠し事?」
見抜かれて、だけど彼は何も返せない。隠しているのが彼にとってやましいだけならば無様に慌てて誤魔化そうとするも失敗に終わっていたのだろうが、今回は違う。隠し通せなければ傷ついてしまうのかもしれないのは、彼女の側なのだから。
彼が俯いていると彼女も並々ならぬ事情があることだけは察して「ま、良いけど」と軽い口調で話題を流す。
「それより、今日はどうするの? これから感覚を一つ奪われて、わたしの名前を探して回ったら、もうそれで終わりだよ」
言われずともそんなことはわかっていたが、彼はそこで口調を荒げるような人間でもなかった。
「少し、考えさせて」
そう伝えたのは本当に考え事がしたかったから、というよりはただ耐え難かったからである。平気そうな顔を装って、今日で終わりだなんて言ってくる彼女と向かい合っているのが。
「ごめん、どうすれば良いのかわからない」
口に出してしまってから彼はこの発言に酷く後悔させられる。いくら本音とは言え、彼女はこう命じるに違いないのに。
自分で考えろ、と。
だけども彼が耳にしたのは想像していたよりもずっと穏やかで抱きしめるような声音だった。
「じゃあ、今日はわたしが君を連れだしてあげようか」
その意図が読めず、彼は彼女を真顔で見つめる。だけど彼女は何かもがわかったようでいて、そして彼女自身のことは何も読みとらせない微笑で彼を見つめ返すのみだった。
「そんなに警戒しなくても良いじゃない。大した狙いがあるわけじゃないわよ」
「いや、警戒してるんじゃなくて……」
ただ知りたかった。彼女にそう言わせたものの正体を。
でもそれだけのことを言うにも彼は臆病すぎて、それ以上に慎重すぎだった。予想できてしまう何もかもが恐ろしくて、言葉を濁さないではいられない。
そうした自制で、それでも抑えつけられなかった思いだけが彼の口からこぼれた。
「どこに連れて行くつもりなの?」
訊ねられると彼女は、細い顎に指を当てて考え込む。そのために上を向いた瞳がもう一度彼を捉えたとき、その相好が崩れた。
「ふふっ。秘密よ。だけど私の思い出の場所だ、とだけは教えておくわね」
深まる疑問は際限がなかった。溜まらず問いを、きっと真実を答えられたらこの夜明け前に終幕が訪れるだろうそれを、口に出してしまう。
「そんなことしたら、僕は君の名前を知ってしまうかも知れないのに、なのにどうしてそんなことをするの?」
黙っていれば良かったと、繰り返し駆けめぐっていくを後悔をじっと固まって彼はやり過ごす。身震いして、けれども答えようとする彼女の唇の動きに、そこから紡がれる言葉と声に目が引き寄せられて意識が張りつめる。
「気分よ、気分。ほら、スリルがあった方が楽しいじゃない?」
そんな考えられる中では一番他愛ない返答に落胆するのと同時に彼は胸をなで下ろしてしまう。まだ彼の側に答えを聞き果たす覚悟ができていなかったから。
「わかった」
そこが彼に踏み込んでいける限界だった。言葉を選ぶのにさえ目眩すら伴うやりとりから顔を背け、退散してしまう。
「もう良いから、早く感覚を奪ってくれ」
どうせそれだけがお前の目当てなのだろう?
そんな押しつけがましい確認を言外にする物言いで、彼は言い捨てる。それを聞いた彼女はほんの僅かに、それでも彼を驚かすには十分すぎるほどの悲しみを瞳に溜まらせる。たった一度の瞬きで消されてしまったそれに彼が目を見張らせていると、彼女は慰めるようにして例の悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「その通りよ。私がここにいるのはあなたから体を奪うため。わかってるならさっさと選びなさい。今日あなたが捨てる感覚を」
これまでになされた中で最も仰々しい宣言と共に指か突きつけられる。
鳥のさえずりさえもが耳に痛く感じられるほど静寂に支配された朝だった。床から満ちて徐々に部屋を満たしつつある曙光を喰尽かさんばかりに漆黒の長髪が広がって、一瞬だけ彼の視界を覆う。超常の存在にしかありえない威圧感が彼を呑み込み、無力故の恐怖とまぜこぜになって、彼をその場に磔にする。
だけど。
「なんでこんなに怖いんだろう……」
自分に対する疑問の方が先行してしまう。
それは足りない何かを補おうとした死者の空回りであり、それが生けるものに与えた感情であって。
そのことに気づいても彼は予め定められた返事をするのみだった。
「僕が、捨てることを望むのは――」
「ちゃんと歩きなさいよ日が暮れちゃうでしょ?」
晴れ上がった青空がどこまでも遠く突き抜けていく夏の日だった。
彼は霊だからなのか単にせっかちなだけなのか、足取りの速い彼女に腕を引かれていた。その今にも折れてしまいそうな指の、腕に食い込んだ感触は不思議と温かい。まるで生前のようでいて、死者のことをそんなふうに感じてしまう辺り、彼は急に死が間近に迫って感じる。
「どうしたのよ? 陰気くさい顔して」
誰のせいでこんなことになっているのだと怒りが湧きはしたが、彼はそれを胸にしまい込んでおいた。どうせ何を言ったところで、最後は言い負かされる。感情の発露は、溜息をついて少女がいるであろう中空を見やるに留めた。
「何か言いたそうな顔ね」
相手しか表情が読みとれないことに不服さえ覚えてしまう彼である。
無論、昼の眩しすぎる日差しに照らし出された彼女の顔を見たければ、視覚を捨て去るしかない。残っていた触覚も既に失った今、それはつまり、そういうことである。そうならないために彼は奔走してきたのだが、からかわれる一方となる現状には苛立ちもした。
尤も、表情がわかったところで形勢が逆転するようにも思えないのだが。
「はぁ……なんで僕、こんなに立場弱いんだろ」
我知らず彼は二度目の溜息をこぼした。
「あんたが自己主張しなさすぎるからよ」
最もな指摘に彼は何ら反応を返せない。そんな彼を見て、彼女は呆れと心配がない交ぜになった苦笑――彼には見えない感情の顕れ――を浮かべながら彼の手を握る。止まることもなくどこまでも、駆けていこうとするように。
二人の足の向かう先には、高らかに鳥居がそびえていた。
その手前にある三段の石階段は浴びた日光の熱を蓄えて、それが靴の裏越しにまで伝わりそうな勢いである。同様に熱された石畳が玉砂利の中で真っ直ぐに境内へと伸びていた。
ここに来るまでにも随分と汗をかいていた彼である。光を照り返して強く輝くような白い石に辟易せずにはいられない。
しかし死んで暑いという概念すら消失した彼女には、関係のないことだった。彼の腕を離すと鳥居の周りを走って、風もないそこから熱気が押し寄せる。
「ほらここ見て。アンモナイトの化石があるわよ」
ここと言われてもどこを指しているのか彼には見えない。
曖昧な表情を浮かべて立ち尽くしていると急に腕が引かれた。大きな弧を描き、鳥居の右の柱へと近づいていく。遠心力に振り回され、揺さぶられていた彼の視界に突如として石柱が出現し、しかも減速もなく突っ込んでいく。
「うわああああ!!」
溜まらず悲鳴を上げた彼は両手を突き出した。迫る来るざらついた石の表面に手のひらを押し当て、腕に伝った衝撃が霧散するまでやり過ごす。
それでも容赦なく彼女が引っ張って額をぶつけることすら覚悟していた彼は、あっさりと止まったことに拍子抜けさえしてしまった。恐る恐る目を開けると、耳元を声にくすぐられる。
「手と手の間を見て」
不覚にも言われたとおり、そこに注目してしまった彼は、
「あ、ほんとだ」
渦巻く貝殻の文様を見つける。
「まぁ、本当にアンモナイトの化石なのかは知らないけどね。似たような生き物はいっぱいいるし」
オウム貝とかね、なんてことを呟きながら彼女はまた彼の腕を引っ張りだす。
「早く生きましょ。こんなところでじっとしてる時間はないわ」
そのあまりの身勝手さ加減にもう笑うことしかできない彼だったが、抵抗はしなかった。少女のはしゃぐ姿が見えた気がしたから。
「それじゃあ、登るの?」
引かれる腕のままに歩いていく彼の目の前には小高い山が立ちはだかる。山肌を覆い尽くすように膨れ上がった濃緑の中へと、頂上まで至る階段が石畳の道から続いていた。
「用がないんだったら、登りたくないんだけどなぁ……」
見上げても眼前の階段は首が痛くなるまで途切れない。鬱屈とした色合いに目を沈めながら彼は力なく笑い声を上げたが、絶望的に暗い声音にしかならなかった。
頼んだところで、彼女が聞き入れないことなど明らかだったからである。
「さぁ、行くわよ」
まるっきり彼の発言など黙殺されて、少女に掴まれた腕が彼を前方へと引きずり出す。
重たい足は苔に覆われた階段の石にへばりつくようだった。体力に限度のある彼は上ることに腐心した、というより、余計なことを考える余裕がなかった。
階段の左右から伸びた木々の葉が重なり合って厳しいはずの夏の日は和らいでいた。たまに風に揺れた木々の枝から差し込む木漏れ日を浴びて、石に張り付いた苔の緑が照り映える。きらきらと揺らめく小さな日溜まりに見入っていると肉体の疲労に引きずられた心も幾分か安らいだ。
「なんでそんなに年寄り臭いのよ」
石の段を蹴っていく軽やかな足音の持ち主は見えない。やはり霊になったら疲れることもなくなるのかもしれないと思いながら、彼は次の段へと踏み出していった。
やがて終わりがないようにも思えた階段の果てに陽光の溢れる境内が見えてくる。草臥れきっていたはずの体に自然と力が湧いた。
彼は残る段数を駆け上がり、最後の一段に足を掛けると体重を載せてゆっくり体を持ち上げていく。
頭上の木々が途切れて、目の中が日光で白く染まり。
「はぁはぁ……ようやく上りきった……」
荒ららぐ息を整えるべく、むせかえりそうな熱気を何度も吸い込んで肺に酸素を送り込んだ。目眩を伴ってそれが全身に行き渡り、視界がはっきり開けてくる。
「あぁ……」
石畳が続く先、日を浴びているのは一軒家ほどの小さなお社。塗り重ねられた漆のためか、はたまた降り積もった年季のためか、その木材の茶色は底の見えない深さをしている。思わず引き寄せられてしまう、そんな色合いだった。
そちらへと歩み寄る彼の頭の中で、再生を始める。
昨晩の夢で見た、最後の場面が。
祭りの終局に御輿がかつぎ込まれていたここは、あたかも彼自身が通い慣れたような錯覚さえ引き起こし、回想の中へと酩酊させる。気を抜くと蝉の声さえ聞こえてしまいそうで、などと考えていると本当に喧しいあの鳴き声が、繰り返し何度も、夏だけの生命を訴えだした。
聴覚は消えているはずなのに、なぜ?
その答えにふと思い当たって、彼は訊ねてみる。
「もしかしてここに、昔何度も蝉を取りに来たりした?」
少し間があって、彼女の意外そうな声が聞こえた。
「……えぇ、でも、なんで、わかったの?」
「蝉の鳴き声がしたから」
そして今の彼の耳では、彼女と縁のあるものが発する音しか聞き取れない。言い換えれば、視覚以外で彼が感じられる全ては彼女との間に因縁がある。
「なるほど、ね」
納得したらしい彼女の声音にはしかし、まるで落胆でもしたような含みがあった。そのことを怪訝に思いながらも彼は口に出さない。聞かなかった振りをして、ただただ社殿へと歩いていく。
社殿の軒下に溜まった薄闇は見るからに涼しそうで、彼は木の板の段を一つずつ上っていった。小気味良い音を立てて上り切り、訳もなく賽銭箱の中を覗く。目を凝らしても硬貨の輝きは見つけられず、降り積もった埃ばかりが目に付いた。参拝目的でこんな場所を訪れる人間など、彼が生まれた頃には絶え果てているからだった。
けれど彼の背後で、小振りな鐘が鳴り響いて、鼓膜を叩く。振り向くと垂れ下がった綱は揺れていて、周りにそれをなした人間は見当たらなかった。
まさか狐狸の類が現れたはずもなく。
「なんで突然……幽霊がお祈りなんて」
一体、こんな小さな神社の神様に何を祈ろうというのか。
自分にも他人にも頼れはしない彼ではあったが、それでも神様に頼れるほどに不確かなものの力など信じられない。世界を救うとさえ言い切る強さを持ちながらなぜ神になど頼るのか、彼には理解できなかった。
「そんなことしたって、何も変わることなんか……」
「何かが変わるからこうしてるのよ。神様にお祈りすれば、成功するかもって思えて気が楽になる。それは大きな変化じゃない?」
そんなものなんだろうか、と疑問を募らせることしか彼にはできなかった。だが、彼女らしくもないことに神妙なその声には説得させられてしまう部分もある。
もしかしたらその通りなのかも知れない、なんて。
「なんで僕は、こんな幽霊のことを信じてるんだ……」
あっさり感化されそうになる自分に呆れる。それを撥ねつけるよう首を横に振っていると、背後から声がした。
「さて! お祈りも済んだことだし、それじゃあわたしの秘密の場所に案内するわ」
彼が下らない悩みに振り回されていた間に階段を下り、意識は次の目的地へと引き寄せられているらしい。
どうしてここまで楽しそうにしていられるのか、疑問が尽きない彼だが、溜め息をつきながらも彼女の後を追う。 再び社殿前の石畳に下りてくると、右腕を握られる感触があって視界が揺れた。無鉄砲な少女に腕を引かれて、石畳を外れ、砂地を駆けて社殿の裏へと回り込んでいく。境内と森を区切る欄干が後方へ流れていった。建物の陰に入ると僅かな木漏れ日が降り注ぐのみとなって、足下を苔が覆い始める。
やがて彼は暗い色合いの草が群生する中を突っ切った。やがて途切れる欄干の先、密集する樹木の幹の向こうに遠く光を眺める。
「ちょっと、今度はどこに連れて行くつもりなの?」
「ついてからのお楽しみ!」
語る声は弾んでいて、なんだか腹を立てている自分が無粋さえに感じられてしまう。彼女が腕を引く力は強まって、彼は社殿の背後に茂る木々の奥へと引き込まれた。外からだと何もないように見えたそこには獣道が続いていて、彼を山の奥地へと誘う。
一握りの好奇心に支えられ、彼は無数の根や落ちた枝に躓きかけながら必死に駆けた。
程なくして葉と木々が晴れていき、日の当たる場所が見えてくる。そこにあるものを目にして、彼は微かに「おぉ」と感嘆を漏らした。
目指す先の周辺でだけは蜻蛉が飛び回り、照り返された光は木の幹の上で波立ち、揺らめいている。
森にくり抜かれた、水と光と風の集う小さな聖域。
「池だ……」
水の透き通った池が彼の視界に収まっていた。見つけて、走っていくとそこが湛える水はより一層に澄んでくる。
浅瀬では水中の岩肌に、生気に満ちた緑色の水草が群生していた。たゆたうそれらの隙間には小さな海老が飛び交うように泳いでいる。それからより深くに目をやると、水底の泥に奇蹟を残して這いずっていく巻き貝、まだ体の透けた稚魚やその親が見て取れた。
彼らは誰しもが、少なくとも電車で学校と自宅を行き来していた彼よりは、自らの生を全うしていた。
「ここがわたしの秘密の場所。見ているとなんでか、心が安らぐの」
屈み込んでいた彼は顔を上げて声の主の姿を追い求める。しかしいくら視線を行き交わしても見つけられないでいる内に、彼女の姿はまだ見えないことを思い出した。
というよりはもう、見えないはずの存在であることを思い出した。
「他に知っている人は?」
訊ねると曰くありげに「ふふふ」と笑う声が耳元を掠める。
「いたわよ。一人だけ、ね。昔はもっと、それこそ数え切れないくらいにいたのかもしれないけど」
突拍子も根拠もなさそうな推測に彼は首を傾げる。だけど、枝や蔓に隠されていた池の対岸に差された木の看板を目にして頷く。
殆ど文字の掠れて読めないそこには辛うじて、沼という字が見て取れた。今更になって彼は、池だと勘違いしていたそこが沼だと知る。
「そっか、昔はお社からこっちまで道が続いてたんだ」
それがどれほど時代を遡った過去のことなのかは当然、彼にもわからない。だがそこにあっただろう人の往来を思い浮かべるだけでも、二人きりの道のりが見知らぬ多くの人々の足跡と重なって、くたびれていた彼のどこかに癒しを与えた。
「昔の人だってわたし達と同じことしてたんだものね。そう考えると、なんだかドキドキしない?」
それは自分が孤独などではないことに安心していた彼とは似通っているようで正反対の、そして非常に彼女らしい感想だった。
「さて、下りてきたけど」
慣れない運動に打ちひしがれてぐったりとしている彼とは対照的に、彼女の声からは威勢が衰えていく兆しさえない。尤も幽霊に元気だなんて概念があるのか自体、疑問ではあるのだが。
「どうする?」
訊ねる声の調子から察するに彼女はまだ帰るつもりがないらしいと彼は察する。本音を言えば病院のベッドでずっと眠っていたい彼ではあるのだが、まだ知らなければいけないことがこの町には残っていた。或いは彼女に付き合っていればそこへ至れるのかもしれないと考えて、告げる。
「行きたいところがあるのならついて行くけど」
何とも曖昧な言い草であったが、これが彼の精一杯だった。だから仕方ないのだと自分に言い聞かせて、自らの不甲斐なさからは目を背けておくことにする。
「思い出の場所って、あの池以外にもあるでしょ?」
「そうね……」
それっきり考え込んで彼の言葉に反応しなくなる。上昇と下降の激しい態度に、呆れるのも通り越してただただ彼が乾いた笑みを浮かべていると、「あっちも良いけどこっちも……」なんて呟きがしきりに漏らした。
しばらくは放っておくしかない。ようやく得たその結論に従って、彼は夏の灼ける空を見上げる。まだ天上に登り切っていない太陽が暴力的なまでに強烈な明かりを振りまいていた。棚引く雲は東の果てに流れていって、雲のない空の青さが目に染みる。
「夏だなぁ……」
ほんの数日前までは雨が降りしきる梅雨に閉ざされていて、こんなに騒がしく賑わしい季節の匂いなんて感じさせもしなかったのに。
視覚を覗いた全ての五感は消え去っているはずだけど、目から飛び込んでくる光だけでもこの季節を満たす活気と生気に彼は呑み込まれ、溺れた。
「なんで、こんなに眩しいんだろうな……」
呟いた彼の声を、高らかな少女の声が打ち切る。
「決まったわ。ついてきなさい」
そう告げる彼女は彼に許可さえとらない。ただ腕を引き、風を裂いて彼を遠く散り果てた夢の彼方にまで連れて行く。
「ちょ……ちょっと、待って!」
だが叫んでも彼女が聞く耳を持つはずもない。
「待たないっ!!」
少女の霊はどこまでも彼を引き連れていく。
彼は風に目が乾いて思わず目を閉じた。意識すると頬を撫でていくそよ風のくすぐったさに口元が弛んでしまう。
あまりにも腕を引く手が強引すぎて、彼は自分の足を前へ前へと動かすことに必死となる。気を抜いて転ぶ姿が容易に想像できるから。
それは彼が彼女に振り回される度に感じていたことで、彼女が動こうとすればするほどに加速していく彼の経験だった。募った思い出だと、言い換えても良いようにも思える。
左右の林が過ぎ去って、電柱の横を何度も通り過ぎ、遙か後方へと上ってきた道は置き去りにされていった。瞳と初めて出会った図書館は視界の片隅に消え、商店街を駆け抜けると香水店も茶屋も遙か後方に見えなくなってしまう。
彼がこれまで辿ってきた訪れた場所を見せつけるように経由する旅路だった。
息も絶え絶えになり、とても素肌では触れられないまでに熱されたアスファルトを踏みしめていく。やがて風に吹かれれば消し飛ばされてしまいそうな建物が見えてきた。
彼はその名を知らなかった。だけどそこがどんな場所なのか、何を売りどう思われてきた場所なのかは訪れた誰しものように知っている。
尽き果てない体力のままに彼を引きずってきた彼女が立ち止まった。
「駄菓子屋よ」
「知ってるよ。見ればわかる」
彼が口答えしても、彼女は不機嫌そうな声など返さない。それどころか彼は彼女から機嫌の良さそうな雰囲気さえ感じ取った。
「なんだ、知ってるのか。だったらわたしがここで何をいつも買っていたのか、当てられる?」
そんなことは知るはずがないと、断ることだってできたはずだった。けれど往々にして、地方の駄菓子屋における人気商品など直感に頼っても当てられるほどに限られている。
彼は自分の幼い頃を思い出して、そこから最適な解答を二つに絞り込んだ。無論、それが当たる保証などないのだが、きっとどちらかは正解だと信じてそのどちらが正解なのかを判別する質問だけを訊ねる。
「それは今も売っているものなの?」
彼女は自販機の方をちらりと見やって、それから残念そうに首を振った、ように彼は見えた。
「売ってないわね、悲しいことに」
沈んだ声が彼女の心情を何よりも表す。
「だったらいつだか売っていた、振らないといけないゼリー入りの炭酸飲料じゃない?」
かつての夏の記憶を辿りながら、彼はそう答えを述べる。夏休み中に開かれた小学校の自習室が終わると、母親は帰り道に彼と姉にそれを買い与えてくれた。今でもその冷たさは記憶のどこかに染み着いている。
「どうかな?」
問いを重ねるとかなりの間が開いて、それから少なからず悔しそうに答えが開かされた。
「――そうよ」
正解を告げる声を聞いて、堪えようもなく彼はにやつく。
「何よ、当てずっぽうじゃない!」
その通りだったのだが彼の笑みは曇らなかった。そんな様がよほど気に入らなかったらしく、彼女の不満が詰まった問いかけがなされる。
「ところで、『売ってる』って答えてたら何て言うつもりだったわけ?」
彼はそれぞれ一本ずつ両手に割り箸を握ってその先端に固まる溶けた砂糖の固まりと格闘した日々を思い出した。
「練り飴だよ」
たかがピンポン球にも満たない固まりかけの飴に、他の飴玉の倍近い小銭を払っていた日々を思い出す。当時の記憶を当てにするのならばおいしかったのは確かだが、値段に釣り合っていたかと問われると口ごもる他ない。
「うぅ……そっちも確かに人気あったかも……」
彼女のやりきれなさそうな声など初めて聞いて、むしろ彼は戸惑った。弁舌における戦いで勝利したのだが、しかしむしろ困惑しつつ彼女に慰めの言葉をかけてしまう。
「た、偶々だからっ」
その後、彼女の側から行きたい場所についての提案が為されることはなかった。かといって彼に考えがあるはずもない。二人は目的地を定めないままに町を散策していた。
時間はまだ有り余っている。どこまでだって行くことができただろう。彼女の名前を探すのに、訪れるべき場所だっていくらでもあったように思える。
だけど、彼が覚えている道なんて限られていて。
太陽の明かりが空の頂に輝く頃、坂を下って角を曲がると見知った道に出た。彼はそこがどんな場所だったか、まともに思い起こすこともなく歩いていく。
そしてたどり着く、突き出た山の斜面を迂回するように弧を描いた細い道路の半ば。砕けたコンクリと石の欠片が飛び散ったそこ。
一昨日の図書館で記事から見つけた事故の一つ、最後まで彼が頭から振り払えなかった一件の現場である。
何も考えずに通り過ぎれば或いは、彼も彼女も反応することはなかったかもしれない。
だけどそこには人影があった。
砕けたブロック塀の近くで膝を折って、花を手向けている。その女性がそっと熱された地面に横たえた花束は彼が目を見張るほどに大きく華々しく、そこに込められた思いが咲き誇ったようだった。
女性は派手ではないものの上品に纏まった風貌をしていて、その佇まいは落ち着いている。少なくとも彼よりは年上に見えた。
俯いていてどこか憂鬱そうで、だけど瞳が抱えていたような打ち消しようのない悲哀は見受けられない。その微かに影の差す面差しを横から眺めながら彼は声を掛けようか迷う。
何も知らない彼だけれども察せることだってあった。
いくつもの命が死に肉薄し、そのまま帰ってこないものもいた事故。女性はそんな、ここで起きた悲劇の関係者だ。
だからあんな、死の色合いを手で触れて確かめた人間にしかできない表情で花を捧げている。同情でも建前でもない悲しみに、身を包むことができる。
しかし同時に、彼はその女性が恐らくは遺族でないことも悟っていた。取り乱し、悲痛な涙を流すしかなかった瞳やその家族と違って、女性は落ち着き払っている。
でもそうだとすると一つだけ、疑問が残った。
だったらどうして、あんな苦しそうな顔をしているのだろう? まるで事故の日の痛みを引きずっているみたいに。
そのことが疑問で、気になって仕方がなく、彼は見過ごすことができなかった。そうして立ち止まって話しかけることも通り過ぎることも選べずに立ち尽くしていると、女性が顔を上げる。
目があったその人は口を開いた。
「――――?」
訊ねられ、だけど彼も答えようがない。
「今、なんて言った?」
彼の耳はもう彼女の声しか聞こえない。
彼に頼まれると、目には見えなくて、だけど傍らにいる少女の霊は彼に耳打ちした。
「あなたは誰、って訊いてきたのよ」
「……なるほど」
だけど何れにせよ、彼には答えようがない。ここで起きた事件と結びつきがないから、自己紹介のしようがないのだ。
「なんて言ったら言いのかな」
居たたまれなさに苛まれながらも、どうにか考えようとする。あの女性から話を聞き出せるような説明の仕方を。
どうしてか彼には、この出会いが大きな好機に思えたから。
だが硬直して黙り込む彼に、なんと女性の方から近づいてきた。彼の額に暑さが原因でない汗が滲んでも構わず、その大きな双眸に彼を映して顔を寄せてくる。
「え……? あの、何か……?」
立ち退くこともできず、対応しかねた彼は目を逸らすしかなかった。それでも相手が近すぎて、視界の隅に映ってしまう。
そんな彼の不規則な瞳孔の動きに気づいて女性は慌てて一歩たじろいだ。気恥ずかしそうな笑みを浮かべ、頬を掻く。
「――――」
女性の口の動きは見えるのだが、やはり彼の世界からは音が抜け落ちている。やむを得ず、傍らの彼女に通訳を頼もうかと考えていると、さざ波のような囁きが震えないはずの鼓膜に広がっていった。
「ごめんなさい。あまりにもそっくりだったから、だそうよ」
伝わった声に体の奥底までが冷えていく。昼間の日差しに焼かれていても、彼女の声音を聞くと夜明け前の病室に意識が飛んだ。
「あ、あぁ……はい……」
どちらへの返事なのかは自分でもわからず、彼はしどろもどろに返事をする。それから改めて女性の質問の意味を反芻したのだが、理解できなかった。
そっくりだった、とは一体、誰が?
どうしようもなくなった彼が曖昧な笑みで誤魔化すと相手の表情もにこやかになる。不審には思われていないと見て、まず間違いない。
女性の言葉の真意を問いただすのは諦めて、もう一方の疑問を解決することにした。というより、勝手に口が動いていた。
自制もままならず、直接的な質問が飛び出す。
「もしかして、あなたはここで起きた事故の関係者なんですか?」
我に返ったのは言い切ってからで、自分の言動に呆れ果てないではいられない。しかし、そうして自重する反面で気がかりだったことも否めず、彼の興味は多分に女性の答えへと割かれていた。
その視線の先にいる手弱女は嘆げいているようでいて、どことなく安堵した本音も垣間見せつつ、はにかむ。
「えぇ。わたしは、あの事故でトラックに巻き込まれそうになった息子の、母です」
などと彼に耳に届いたのは当然ながら霊の声で、どうにも女性の口調を真似ているらしい。揶揄して翻訳をやめられても困るので、彼は黙って女性が紡いだ言葉をかみ砕く。
事故に遭った子供の母。
女性の明かした自らの立場は納得の行くものだった。あの新聞で見た記事だと、子供たち誰一人死ぬことなく女性に救われている。きっとそうして身内に死者が出なかったからこそ、この女性には立ち上がれなくなるほどの悲しみが感じられないのだ。
「それで、あなたはどうしてここにいるの?」
芝居をする霊の声は見事なまでに女性の姿と噛み合っている。ふざけているのだとしたら些か不謹慎にも思える彼だったが、今はそれが女性の言葉なのだと受け止めた。
「僕がどうしてここにいるのか、ですか?」
念のため確認をとると、女性は頷き肯定してくる。
当然の質問で、偶然にここに通りがかっただけだと言えば相手は納得する。しかしながら彼がした返事はこのようなものだった。
「それが、事故のときに子供たちを助けた女性と僕は……」
まさか、呪い、とり憑かれている関係なのだ、とまでは口に出せず。
なのではっきりとしたことは何も伝えていないのだが、「そう、そうだったの」と女性に了承されてしまう。意外に思う反面、こうなることを期待してもいた彼は、立ち止まることなくもう一歩踏み込んでいた。
「あの、もし良かったら、事故の当時の話をお聞かせ願えませんか? なるべく具体的に、それからできるなら、実際に目の当たりにした人の話が聞きたくて」
口に出してから彼自身、自分の発言が信じられなくて自らの正気を疑う。だけど何度振り返ったところで発した言葉も、そして知りたいという欲望も、彼にとっての真実だった。
「無理に、とまでは言いませんけど」
今更になってそんな気遣いを付け加えたところで、何かが変わるはずもない。そもそも断られた程度では潰えることのない切実な欲求が、彼の目には漲っていた。
「ですけど、だから、どうにか……」
地べたに擦る勢いで頭を下げて、なりふり構わず頼み込んで。
彼の懇願を受けた女性は目を瞑り、何か思案する仕草をした。それは自らに言い聞かせるようであり、問いかけるようでもあった。彼はその裏に飛び交っているであろう幾多もの言葉に望みをかけ、瞑目した女性の細面から目を離せなくなる。
さしたる時間はかかっていないのに彼の背中は汗に濡れてシャツが張り付いていた。そしてそれに気づいたのさえ女性が目を開いてからのことだった。静かな眼に重く沈み込む結論を覗かせて、女性は彼を見据える。
傍らの霊が呼気を吸う音が、女性の息を吐き出す動作に重なった。
「わたし自身は事故に出くわしたわけではありません。……確かにわたしが見ていた限りだと、こんな女の人、いなかったな」
唐突に霊が自分の発言を交えたので彼は戸惑う。狼狽を押し隠しつつ、事故の現場にいたことを白状した霊には問い詰めたいこともあったが、今はするべきことがあった。彼女が通訳する、女性の発言に耳を傾ける。
穏やかだった女性の表情が歪んでいくのを目を離すことなく見つめていた。
「……息子は一番そばから、全てを見ていました。そしてまだたくさんのものを抱えています。だからどうか、聞いて上げてください。あなたならあの子の話を受け止められる気がする」
根拠なんてもちろんない話だし、女性が彼のどこにそんな価値を見いだしたのかもわからない。それでも頷こうとした彼の腕を、しかし何者かが強く、皮膚に指が食い込み鬱血するまで掴んできた。あまりにも突拍子のない行動に彼は驚いて飛び上がりそうになるのだが、臆病な体を全力で抑えつける。
冷や汗をかきながら彼は地図を取り出した。
「えっと実は、この後に少しだけ寄っていかないといけない場所がありまして。だから申し訳ないんですけど、ご自宅の場所をお教え願えませんか? 後で訪れるので」
意識しなければ気づかれない程度ではあるが早まってしまう自分の口調に彼は焦った。危ういところで最後まで噛まずに言い切ると、女性は僅かな間ながら呆けるので、蚤ほどもない彼の心臓は潰れそうになる。しばらくして、凍り付いた川の表面が砕け流れ出すように女性が笑みを浮かべたので、彼はひとまず、胸を撫で下ろした。
それから女性が何か喋り始めたのを、霊がすかさず拾って要約する。
「良いみたいよ。けれどこんな炎天下で長話するのは嫌だって。だから家に招待するみたいなんだけど、その前に部屋を片づけておきたいみたい」
ちょうど彼女が訳し終えた頃に女性は彼が広げた地図の一点を指さした。そこに口頭で住居の外観や番地までを教えてくれて、彼と後で落ち合う約束をする。
最後に互いの名を告げ、女性と頷き合った彼は、
「それでは」
手を振り上げて、同じように別れの挨拶をする女性に一礼し、踵を返す。
女性が曲がり角の向こうに遠のくと、彼は小走りで外れの小道まで駆け込み、振り向いた。
「どうかしたの?」
彼が質問をした相手の姿は見て取れない。だけど構うことなく、問いを重ねる。
「なんで、僕があの人についていくのを止めようとしたの?」
彼女が例の交通事故と関わっているはずはなかった。なぜならあの事故で死んだのはトラックのドライバー唯一人だけなのだから。
記事の内容を思い返しながら、彼は疑念を口にしていく。
「あの事故で、子供を助けた若い女の子って――」
「――後悔、することになるから」
彼の声を遮って、彼女は言い放つ。その声音は鋭くなく、また決して怒鳴ってもいないのだが、彼の胸には突き刺さった。
「後悔……って?」
前後関係がまるで結びつかず、理解しがたい彼女の言葉が宙ぶらりんになって彼の注意を引きつける。
どうして今、そんな言葉が出てくるのか?
だけど彼女は彼が質問する暇さえ与えずに、次の言葉を投げつけてきた。
「覚悟だけはしておきなさい、わたしはあなたを止めたりはしないから。そこで失うものがきっとあるけど、そんなのは忘れて新しい道を自分で見つけるの。良い?」
観念的で、おまけに脈絡のない発言ばかりだったから、彼にはうまく飲み込めない。だけどいくら彼がその意図を問い質そうとも、その声は夏の生ぬるい空気に虚しく吸い込まれていくだけだった。
「いらっしゃい」
年下の彼に丁寧なお辞儀をした女性の言葉を、霊の少女が彼に告げる。その人の名前は読みがケイなのだが、珍しい漢字を使われていた。
「いえ。お邪魔します、蛍さん」
迎えられ、家の中に踏み込んでいく。
敷地は広い上に階層を積まない贅沢な建築だった。彼女からの警告を受け取った後にここを訪れた彼は地図を見間違えたのではないかと何度も見直したほどである。だけど人の一生よりも長くそびえてきた日本家屋が、彼の目的地であり終着点だった。
「お、お邪魔します」
後から取り替えたらしい真新しい檜の引き戸の奥へと進んでいく。広い三和土は濡れたように艶のある石材が使われていて、その冷たい感触は靴を履いた足にまで伝わる気がした。
彼はその家の厳かな雰囲気に気を引き締められて、ぎこちなく脱いだ靴を揃える。
廊下は長く、向かう先は薄闇に溶けていた。窓のないそこへと彼は蛍に引き連れられて歩いていく。角を計五回は曲がった。本当に民家の中にいるのかと疑いたくなる果てしない道のりを踏破して、彼は日当たりの良い居間にたどり着く。敷かれた畳から若草の匂いが漂うそこは大人でも十数人は余裕で横になれるだろう広さがあった。
小学校の教室がちょうどこれくらいの広さだったろうかと思い返しながら部屋の中央に招かれる。そこに置かれた卓袱台の上には、中身から湯気の立つ湯飲みに茶菓子が添えられてあった。
「あぁっと……」
彼がどうすれば良いのかわからずに浮き足立っていると、蛍が卓袱台を囲む座布団の一枚を手で示す。
こちらへ、どうぞ。
唇の動きから蛍はそんなことを言ったのだろうかと予想しながら、指示の通りにする。その座布団の尻を受け止めて衝撃を返さず床の堅さも感じさせない力強い柔らかさに彼が内心で感嘆していると、蛍も向かいの一枚に腰を下ろした。
目線を同じ高さに合わせて、改めて部屋の内装を見回す。
部屋の障子にはよく見ると細やかな揚羽蝶の絵が描かれていた。絵の中の蝶は、或いは実物さえ上回る躍動感と煌びやかな模様を纏って草むらを舞っている。部屋の隅には白い和紙で蝋燭の四方を囲った照明器具があり、見慣れないそれらに彼は嘆息するばかりだった。
別世界の雰囲気に中てられて、柄にもなく彼は正座になる。
そんな彼の緊張しきった姿を目にすると女性は手を口で隠して楚々と笑った。その口が何か呟いている。
すかさず霊が、
「もっと肩の力を抜いても良い、だそうよ」
と彼に耳打ちした。
「は、はい」
先ほどとまるで同じ台詞を返しながら、彼は俯く。熱くなった頬はできることなら隠していたい。
そんな仕草も含めて彼の緊張が解れそうにない蛍はようやく悟った。少しでも息子のためになるようにと蛍はある提案をする。
「――――」
蛍の口が開閉するのを見て、彼は傍らにいるだろう少女の声を待った。
「まだ子供が帰ってくるまでに時間があるから、あの人が知っている範囲で話をしてくれるみたいよ」
幽霊自身の口から、彼女に迫っていく道筋を目と鼻の先に示されて、彼の意識は急速にさえ渡っていく。緊張からではなく、ただ少しでも正確に多くの情報を得ようと姿勢を正した。
「お願いします」
それは霊の少女に告げる懇願でもあった。だから小声で、なるべくそのまま教えてくれ、と付け足す。
彼の様変わりに蛍は僅かながら目を見開いたが、すぐさま頷いてその意思を受け止めてくれた。
「あの日、事故があったと病院から連絡のあったわたしはすぐさまそこへ駆けつけました。息子のことだもの」
そのときの気分を思い出しているのか、語る蛍の顔は青ざめていた。
「随分と取り乱していったのだけど、顔を合わせた息子は平気そうな顔をしていました」
回想は安堵するところまで至ったようで、それが表情にまで出ていた。
「驚くよりも何よりも安心したわ。念のため、その日は精密検査も行ったのだけど異常は見つからなかった。神様が助けてくれたのだと、あのときは本気でそう思っていたわね」
だけどそれから蛍は聞かされたのだ。事故から九死に一生を得た息子の口より、彼を助けた少女の存在を。
「身を張って助けてくれたんだって、あの子は言っていた。警察の方も後から訪れてきて息子に質問していったけれども答えは同じ。信じられなかった、そんな人がいただなんて」
それから息子より伝え聞いた事故の瞬間のことを詳らかに説明する。トラックがほとんど減速せずに歩道に乗り上げてきたこと、ぶつかる寸前に駆け込んできた女性の表情、そして自らを盾にしつつ、子供たちだけを押し退けた彼女の腕の感触。
「そう……ですか」
当事者でないことを考慮に入れれば、これだけの話を聞ければ十分だった。より具体的な事故の現場に起きた出来事、リアルな生と死の有様は蛍の息子に尋ねていくしかない。
ただ、既に彼の脳裏ではその光景が浮かんでいたのだ。
夜明け前の薄明かりに照らされている姿しか見たことのない、濡れ羽色の髪の霊。彼女が昼の太陽の下で子供を助けようと長い髪を振り乱し駆けている、その横顔が。
「現場を見に行ったのはいつ頃ですか?」
「そうね……通りがかることは何度もあったけど、落ち着いて見に行けたのは息子が学校に通え出してからだった」
となると最低でも二日はかかっていることになる。その間に雨が降っていたかにもよるが、人の目と足で食い荒らされた現場に事故の生々しさが残っているとは思えない。彼の欲求はまだ満たされずに行き場をなくして疼いていたが、詳細は女性の息子に聞けば良いことだ。
「なるほど。ありがとうございました」
「いいえ、わたしも人に話せて、少し楽になったかもしれない」
そんな感想の部分まで律義に演技して伝える霊は、真面目なのかふざけているのか判然としなかった。
ともかく、後は蛍の息子が帰ってくるのを待つのみだ。
時間の経過を待とうと彼がお茶に手を伸ばしたら、女性の肩がぴくりと震えた。
「……え?」
まずかったのだろうかと彼が蛍の顔を見上げると、その眉根が露骨に顰められて表情は苦しそうに歪んでいる。
どうしてそんな顔をしている? 今ここで何が起きた?
聴覚も嗅覚も触覚も味覚も喪失した彼にはどんな異変があったかも掴めず、ただ戸惑っているしかない。だけどたった一つ、残っている視覚がその些細な変化を捉える。
机の上にある湯飲みに注がれた茶が、小刻みに揺れていた。それが一度きりではなく、季節外れの寒風にでも震え上がるように短く何度も水面が揺れては静まっていくことを繰り返す。
地震にしては断続的だったし、風も吹いていない。顔を離してみたが鼻息でもなかった。
だったら一体、何が茶を震わせているのか?
立ち上がり、彼は異変を探ろうと周囲に目を配る。けれどもそれらしい原因など一人しか心当たりがなく彼が訊ねようとしたら「わたしじゃないわよ」と質問さえ許されずに否定された。
「だったら、何が起きてるの?」
気を取り直して小声で問いかけるとつまらなそうな彼女の声が、張りつめた部屋の空気を鈍く震わす。
「ん~、おもしろい話じゃないわよ。今なら気づかない振りもできるけど、良いの?」
囁きかけてくる彼女は明け透けすぎた。思わず抗議しようとしたが、それが誰のための台詞なのかを感づいてしまい、反駁の言葉は喉の奥で潰れてしまう。
代わりに彼の内側に広がる深淵から、こみ上げてくるものがあった。
「……もし、そんなふうに心配したのが別の人間だったら引き下がって……いや、逃げていたのかも知れない、けど」
区切った言葉の合間に迷う思いも欲する願いも肺の奥に押し込めて、吐き出す。
「もう一度言うから。……僕に何があったのか、教えてくれない?」
勢いに背中を押されて叫んだことは否めない。だけどそれは彼の偽らざる本心だった。そうすることが、これまでの人生の中で彼が信じ続けたものに報いる唯一の方法だと思い、疑わなかった。
「……馬鹿ね、あんたは。いいわ、なら好きに傷ついてきなさい。わたしがその道先案内人になってあげる」
芝居がかった口調にほのめかされた皮肉も、彼は意に介さない。彼女は本当に諦めて、自嘲の意味で声を上げて笑った。
それから告げてくる。
「どこの誰かは知らないけど、そこの女を誰かが呼んでいる。扉を叩きながらね。出てこい、出てこいって」
予想できていたことではあるが人の敵意や悪意や、そんな醜いものがこの場に絡み付いているのだ。
「一体、何があったのかしらね? その人は悪い人間には見えないけれども」
事実として、何やら恨みを買っているらしいことは明らかである。彼は沈みそうになる気分を引っ張り上げて、この場から逃げ出さないように心を縛り付け、口を開く。
「知らないことが多いから何とも言えないけど、思うんだよね」
「何を?」
訊ねられ、返答に困りながらも彼は口を止めない。
「もっと皆が、笑顔になれるやり方があるはずだって」
呟くと彼女からの軽口が消えた。彼が不安になるほどの沈黙を経て、彼女の口から信じられないくらいに微かで、掠れて消えてしまいそうな声が漏れる。
「……わたしにはできない考え方、ね」
彼女のよう強い人間ならばこんな理想を掲げずとも力任せに目に見える人を救えるだろうとは思ったのだが、黙っておく。
このときほど彼は、彼女の姿が見えないことに感謝したことはなかった。鬱ぎ込んだ面差しも、憂いの渦巻く眼差しも、直視してしまったら彼には耐えられそうにないから。
「それじゃあ――」
どうすれば良いのかはわからなかったがともかく腰を上げようとした彼の正面で立ち上がる人影があった。霊ばかりを意識していた彼がそちらへ振り向くと、蛍が今にも崩れそうな作り笑いを向けてくる。
呆然とする彼に、蛍は一言だけ、言い置いた。
「出迎えに言ってきます、だって」
彼女が通訳し終えた頃には、女性は居間を出てしまっていて、彼はすっかり置き去りにされる。
この先にどんな人間が待っているのか、どれだけの量や色合いの感情が行き交っているのか?
わからないことばかりの彼だけれども、たった一つだけ言い切れることがある。
「行こう」
頼りない自分を支えてきた、信じるものを守るために彼は蛍の背中を追う。
間を開けずに動き出したつもりではいたが、蛍の後ろ姿は日の差し込まない廊下の翳りに薄れるほど遠くを歩いていた。その内面に燃え広がる焦燥が彼にまで感じられる、なりふり構わない早足で廊下を突っ切っていく。
その背中が、他人からの干渉を拒絶している気がして、彼は思わず立ち止まりそうになった。
だけど、
「何してんの! あんたが決めたんでしょう?」
彼女の叱咤を受けて、彼は廊下を踏みしめていく足に力を込める。
急ぎ足で彼が駆け寄っていくと、開かれた扉の光の中に、身を竦める蛍の姿が見える。その向こうで、怒りに目を剥いたもう一人の女性の顔も確認できた。
蛍よりも随分と所帯じみていて、身に纏った青いワンピースは色あせている。だけど、その佇まいがやつれているのも目の下に隈ができているのも、事情がなければ納得できない。
その疲れ切った顔が憤怒に歪められていた。
「――――っ、――――!!」
叫んだ内容まではわからずとも、家中の空気を振るわすその勢いだけは十二分に伝わった。声が聞こえない彼でさえ溜まらずに怯え、たじろぎそうになる。すぐ隣に彼女の存在を感じられなければ、間違いなく逃げ出していた。
だが彼はなけなしの威勢を振り絞り近づいていく。
「今、蛍さんが『お客さん』に出てくるのが遅かったって文句を言われてるところ。申し訳ありませんって謝ってるわ」
実況する彼女の声には緊張感がなくて、もっと言い方があるだろうと抗議したかったが黙っておいた。自分が単に気を逸らそうとしたがっているだけのように思えてならなかったからだ。
「わかった」
頷き、向かい合うべき前方を見据え直す。年齢はさほど変わらなそうに見える二人の内、一方からの糾弾が続いている。声などなくとも、相手の女性の目にぬらりと光る敵意と憎悪は理解できる。そしてその一方で小さく肩を縮こまらせた蛍の姿を目の当たりにすれば、導き出せる結論は一つだった。
止めなければ。
自分でもそんなことを思った自分に、彼は驚いた。だけど自分の見えていなかった一面も受け入れて、彼は彼女に呼びかける。説得するためには二人の話を聞かないといけなかった。彼の耳はもう働かない。
なのに――
「ね……ねぇ、ちょっと。どうしたの、何か問題でも……?」
いくら呼び出そうとしても、彼女からの返事がない。前触れもない彼女の失踪に彼が戸惑っていると、怒りを鋭利な言葉に変えて蛍に突き刺していた女性が彼を睨みつける。
「う……あ……」
正面から見つめた訪問者の女性は思っていたよりも若々しい顔つきをしていた。だがそこから思考を発展させることもできずに、棒立ちになる。
「――――!?」
彼に向かって決して美辞には当てはまらない言葉が吐き捨てられたのを肌で感じた。しかしながら耳の聞こえない彼との間に会話は成立しない。けれども、二つの目を黒々と染め上げる怒りや憎しみは視線となって容赦なく彼を貫いた。
頭から考えていた全てが抜け落ち、五体がそれぞれ別々の意思を持ったかのようにちぐはぐになって、現実感が失せる。薄い膜に隔てられて女性の視線を一身に受けながら、彼はどうすることもできない。
だけど無防備に責め苦を受ける彼を庇う人影があった。
やめて下さい、彼は関係ないですよね?
それは彼には聞こえない声だったけれども、女性の素振りや唇の動きから読み取れた。
紛れもなく自分が守られているのだと彼は思い至る。
こんなはずではないのだと前に進み出ようして、けれどそこで固まってしまった。
気づいてしまったからだ、まるで邪魔者にしかなっていない自分に。
ここにいても無駄だ、下がれば良い、余計な苦しみを背負うことはない。
数え切れないほどの弱音が過ぎって、彼の腕や足や肩を掴み、引き下がらせようと試みた。
身を任せたらきっと楽で、そうすることが賢い選択で。
それなのに、足は下がろうとしない。否、前進しようと力を振り絞っている。全身全霊で、目の前の壁を打ち崩そうと雄叫びを上げて、抱いていた想いを、願いを、声に変えて解き放つ。
「あなた方が話してるのは、あの交通事故の話なんですか!?」
ため込んでいた息を精一杯に喉で震わせて、この場に渦巻くしがらみを振り切る。そうして、二人の女性が揃って彼の顔を見て、蛍だけが悲しげな表情をしながらも頷くのを認める。
やはり、そうなのだ。だから彼女が突然、姿を消したのだ。
恐らくは、自分の今際の話など聞きたくなくて。
「あの事故で子供たちを守ろうとした女の子は……女の子は……」
説明できないことはいくらでもあった。例えばどうして、新聞の記事では死亡とされていなかった彼女が霊になっているのか。被害者の家族でしかないはずの蛍がどんな理由で責められているのか。
だけど、そのどちらが理解できていなくとも大事なことは変わらない。彼が伝えたい核心は揺るがない。
「なんで自分を犠牲にした人までが生まれているのに、どうして他人を憎めるんです!? 生きているのにっ、まだ笑えるのにっ、それならまだ手を取り合えるでしょう!?」
怒り、とも違うけれども抑えつけ難い激情を血を吐くような心持ちで絞り出した。訪問者の女性を責めてしまいそうになる自分は嫌だったけれど、止められなかった。
「そんなの、亡くなった誰も望んでないですよ……」
吐き出せるものは全て出尽くして、彼は俯く。しかし思いも言葉も一方通行ではなかった。
「――夫は――」
もう彼には聞けないはずの霊以外の肉声が音のない世界に落ちて、波紋を広げていく。
「夫は――――、――――で、――――なトラック運転手で……なのに、あの事故で死んだのっ! 助けようとする子がいなければ、もしかしたら……!!」
それが聞こえたのは、あまりにも彼女の喪失と深く関わる話だからだった。同時にそれは、彼は最も聞きたくない話でもあった。
「だけど、そんなの、言いがかりじゃあ……?」
「だったら絶対、あの子がいなくても夫は死んだってあなたは言うの?」
反問はどうしようもなく詭弁で、卑怯な論理で、それでも理屈の上では太刀打ちできない論法だった。彼女の介入が具体的にどんな形でなされたのか、彼は見てきたわけではない。そしてその詳細を語れないものに、具体的な彼女の影響を解き明かすこともできない。
だから言えなかった。
彼女の存在が死を引き起こしたのだと。
「ほら、言い切れないでしょう? だったら、やっぱり――」
こんなにも醜い人間の、どうしようもなく切実な本性。納得のいく逃げ道、目にも明らかな敵を求めて這いずり回る。
そんなものを前にして、それが起きたのが偶然でないとしたら皮肉に過ぎた。
開かれた扉、玄関に差し込む光、その中心には小さな人影が立っている。
「――死んだのは、お姉ちゃんのせいじゃないよ」
意味の知れない英単語が印刷された青いTシャツとジーンズ生地の半ズボンを着た少年が訪問者を見上げている。
「その子は……」
ここに帰ってくる少年の正体など問うまでもない。
そしてその母は当然ながら、
「あ……こら、自分の部屋に……」
救いようのない大人の諍いなど見せたがらなかった。だけどどれだけ強く腕を引かれても少年は動じず、その恩人の名誉を貶める訪問者に向き合う。
少年は決して人を責める口調ではなく、どこか自慢するような色合いさえ見せて語り出した。
「お姉ちゃんはトラックが変なのに一番早く気づいて、走ってきたんだ。お姉ちゃんがトラックのタイヤに鞄を投げたのを見て、やっと僕らはトラックに気づいた」
語る目には恐怖と、それからもう一つ、彼にも見に覚えのある感情が満ちている。
「みんなどうすれば良いかわからなかったのに、お姉ちゃんは違った。鞄でトラックが止まらないと、すぐに僕らの方に来た」
彼はその情景を想像する。
暴走するトラック、速度を落とさないそれに、駆け込んできた少女が鞄を投げつける。だけどタイヤはそんなものをあっさりと呑み込んで噛み砕き、減速さえしない。
だから少女は、あの夜明け前の薄闇のように透き通った黒髪を振り乱して、また駆け出す。
「僕は一番前を歩いていたんだけど、だからトラックのおじちゃんの顔もお姉ちゃんの顔も見た。おじちゃんはずっと眠ってて、お姉ちゃんは凄く強く僕やトラックを見ていた」
その時の彼女がどんな気持ちで終焉を駆け抜けていたのかまでは彼に語れない。だけども彼にも誰かを助けようとするときの彼女の瞳は、その鋭さと凛とした目つきと不安なんて微塵も抱かせない力強さには見覚えがあった。
「お姉ちゃんは少しも止まらないで僕らの方まで走ってきた。それでトラックの前まで来ると僕らを押しのけたんだ」
少しも止まろうとはしなかった、と少年は付け加える。躊躇いはしなかったのだと。高らかに澄んだ理想を振りかざして立ち向かう、迷いない少女の威容は、彼にだって想像できた。世の中にそんな人間がいることを彼は誰よりも知っていた。
「そこからは何が起きたのかわからなかったけど、僕も後ろにいた皆もいて、それで、僕らは気づいた。助けられたんだって、お姉ちゃんに」
少年が物語るあの事故のリアルを前にして、誰も口出しはできなかった。ましてやそれを否定できるものなどなく、圧倒されている。
だけど一人、彼だけは震える声に耳を傾けていた。
トラックに立ち向かっていった少女の、残り滓のように掠れた声を。
「違う……こんな、はずじゃ……」
どうにか耳を澄ませていた彼だけど、か弱すぎて呑み込まれてしまう。少年の純粋な憧憬への訴えに。
「凄かったんだ、お姉ちゃんは。みんな、みんな死んじゃうかもしれなかったのにバッって現れて僕らを庇った。自分も死んじゃうかもしれないのに、凄く強かった」
もはや少年の双眸からは恐怖が押し出されて、そこを満たすのは曇りのない憧れだけだった。彼女の振る舞いを自分のことみたいに誇り、ほめたたえる。
その次に発される台詞を、彼は一字一句違うことなく予想できた。
「僕もあんなふうになりたい」
きっと少年の目にも記憶にも、或いは人格にさえ彼女の姿が刻まれ、生きていくことになる。それを予想よりも確信よりも確かに知っていた彼は、思わず彼女の方を見つめていた。目には見えないのだけれど、それでも視線を向けないではいられなかった。
そうして、言いたいことがあったから。
何も失うものなんてなかったじゃないか、と。
ここに至っても彼は、彼女の忠告の正確な意味も動機も掴めていない。わかっているのは彼女の目論見が外れたであろうことだけだ。
そんな救いようもなく無知な彼だけど、もう一つ言えることがあった
たぶん、これで良かったのだと。彼のためにも、彼女のためにも。
空が赤く燃えている、世界の終わりのような夕方だった。視界を斜陽の茜色に蝕まれながら、彼は黙々と足を動かす。
彼が行くのは、道幅が狭く歩道も片側にしかない割には車通りの多い道だった。道の両脇には生け垣の緑が絶えることなく続いていき、崩れかけの縁石がなけなしの安全を歩道に確保している。
そんないつ事故に見舞われるかもわからない道なのだが、この一帯の住人は親切で、注意深く歩行者を避けていた。自動車に道を譲ることが習慣になっていた彼は、目の前で止まった車のドライバーから先に行くように促される度、くすぐったい気持ちになる。
「慣れないなぁ、どうして道なんか譲ってくれるんだろう」
深い意味はなかったその問いにも、霊の少女は丁寧に答えてくる。
「そうしないと、その内に轢いちゃうからよ。だってほら、ぼーっとしてたら歩道からはみ出したりしちゃわない?」
「それは……僕はしないと思うけど」
「ここじゃあんたがいた街みたいに、いつも気を引き締めていたりなんてしないの」
「そう、なんだ」
証拠なんて何もないけれども、彼は納得させられていた。なるほど、だなんて呟きながら頷いて、思わず口走ってしまう。
「だったら、わざわざどうして、人は都会に集まるんだろう。こういうところにいた方が気楽だと思うんだけど」
かれが愚痴のように漏らした言葉を彼女はささやかに笑い飛ばした。
「ふふっ。決まってるじゃない。行ってみないとそこが、どんな場所なんかなんてわからないからよ。もしかしたらこんなことが起こるんじゃないかって、希望ばかりを抱いて新しい地へ向かうの」
そこに行ったところで幸せになれる保証なんてないのにね。
そんな皮肉を悪戯っぽく囁きながら彼女は彼の後についてくる。
緩やかに曲がりくねる道。一件の八百屋と両手の指の数ほどもある一戸建てが軒を連ねて、二人を目的地に導いている。
歩いていくと、広い道路へ合流する手前から脇道が延びていた。車に乗っていれば見逃してしまうかもしれないそこを曲がると、自動車一台が辛うじて通れる道の両脇に相変わらず生け垣が続いている。
彼はふと、道を間違えているか不安になって、足を止めそうになった。彼女がいるのならば道を尋ねたいところだったが、彼にはその姿が見えない。
「合ってるわよ」
かけられた言葉は、視線を右往左往させる彼を安心させるためのものだった。
「……うん」
やはりこちらから顔が見えないのはどうにも不便に思う彼である。
やがて途切れて、左手に砂地の駐車場が見えてくる。砂利や小石がいくつも転がってはいたが、今のように、昼間にはが止まっていることはほとんどない。だから近所の子供の遊び場に使われていた、そんな場所だった。
その前を通り過ぎると、右手に畑が、その向かいにはアパートが現れる。
その白い壁面は斑模様に薄黒く汚れ、道の脇に備え付けられ、『入居者募集』の看板を照らしていたはずの電灯は支柱しか残っていない。
「まだ誰か住んでるの?」
返される声はくたくたに草臥れきっているようだった。
「ううん。もう誰も住んでない」
「じゃあ、廃墟ってこと?」
「いいえ、入居者がいないだけよ。……尤も、これからここに住もうって人が現れるようには思えないのだけれど」
そうなったらきっと、いつまでも放置されるのよ。
そう捨て鉢になったように彼女が吐き捨てたのは、言葉だけではない気がした。
ここに関与していた何もかもが、遠くへ立ち去ろうとしている。夕焼けに燃やし尽くされるまでもなく、酷く虚ろな建物だった。
「さぁ、こっちよ」
置き去りにされた自転車も打ち捨てられたアパートも二人いるはずの人間も、一つきりの影が尾を長く引いている。この世の終末が訪れたように血の色に染め抜かれて、煌めく駐車場へと彼女に手を引かれて踏み入った。
連れだって、風化したアスファルトの隙間から雑草がひしめくそこを駆け抜ける。正視すれば目が焼き付いてしまいそうな夕日から目を伏せつつ、アパートの二階に続く外階段の前まで導かれた。
「ここの二階、向かって右にある部屋よ」
「……えぇっと、つまりは、この階段を上るの?」
滑り止めは剥がれ、鉄骨は満遍なく錆に食い尽くされている。上っている最中に階段が崩れ行く様を彼は想像してしまい、足を掛けることは躊躇われた。
「危ないでしょ?」
彼はほとんど拒否する意味で言ったのだが、「そんなことないわ!」と威勢のいい声で背中を押される。
「大丈夫。つい最近、わたしが一度上ってみたもの」
当然ながら、生前に、という意味である。
「ねぇ、ほら、早く行きましょっ!」
その声がどこか、あどけなく感じられる。それはもしかしたらここにいると幼かった頃を思い出すからなのかも知れないと考えて、彼は訊ねてみた。
「ここに……ここってどれくらいまで住んでたの?」
質問の形を何度も口の中で変えながら、不自然に吐き出す。頬に感じる彼女の視線は居心地を悪くしたが、見えないのだからと自分に言い聞かせた。
彼のそんな有様に呆れたのか諦めたのか、溜め息を吐きつつも彼女は呟く。
「確か、二年前。わたしが高校の三年に進級したくらい」
拗ねたような声音を彼女はしていて、彼も作り笑いさえ満足にできずに出来損ないの表情を浮かべる。
そうしてしかいられないのが気まずくて、彼は思い切ると最初の一段目に右足で踏みつけた。感触を確かめながら体重を乗せていくと僅かにたわんで、軋みも上がったが不安定ではない。
「ん……思ってたよりは頑丈そう」
これならば問題はあるまいと踏み、左足を地べたから離して次の段に運ぶ。階段は彼の体重を難なく受け止めた。もう怖がっているのも馬鹿らしくなって、淡々と段を上っていく。
「どうよ、だから言ったじゃない。大人しくわたしを信じてればいいのよ」
上り切った途端に偉ぶった彼女の声に出迎えられた。
「…………」
どこまで本気なのかがわからないし、彼女が正しかったのも事実だ。けれど、素直に受け止められないこともある。
「あれは、僕が自分でいけると思ったから上ったんであって、決めたのは僕自身だ」
それだけの責めていると言うには柔らかすぎる物言い。
だけど不思議と、彼女は静かになった。訝しみながらも右の通路の突き当たりまで歩いていく。そこに扉を構える角部屋の前で立ち止まった。
「ここか……」
アパート全体の壁と同様にに白くペンキが塗られた扉の表面は細かな埃がしみのようにこびりついていた。ここはもう朽ちていくいくだけの場所なのだと、無言の内に告げられているようだった。
不意に、苦しくてかきむしりたくなり、彼は胸を押さえつけた。終わっていく何もかもが息苦しくて、だけど正直に気持ちを吐き出せない。
膝に手をついて、動悸が去り行くのを待った。その間に彼女は一言も声を掛けてこない。
彼の疑念、というよりは不安が膨れ上がり、顔を上げる。川の中で溺れて喘ぎ、息継ぎを求めるように口を開く。
「どうしたの? まさか、消えちゃったの?」
思い返してみれば自分でも惨めに思えるほど、声が震えていた。けれど恥じることさえできないでいる彼の耳に間髪なく、落ち着いた少女の返事が届く。
「そんなわけ、ないじゃない」
だけどその言葉つきは酷く、弱々しかった。唸る夏の山風に巻き込まれて、欠片も残さずに擦り切れていく。
そのことがなぜか誤魔化しようもないくらいに不安を呼び起こして、彼の表情が歪んだ。堪えようとはしたけれども徒労に終わってしまう。何一つ抑えきれずに、端からぼろぼろと決壊していく。
「……っあぁ、もう」
それでも噛みしめて、目にこみ上げてきたものは閉じた瞼の奥に押し込んだ。五日間もこの霊に憑かれていたからどうにかしてしまったのだと自分に言い聞かせる。瞑目している間に目の熱は引いていったけど、それぐらいしか、消えていくものは何もなかった。
そうして動けなくなってしまいそうな彼を、その気持ちなんて知りもしない声が鼓舞する。
「ぼうっとしてないで! 鍵はもう開いてるわよ!」
彼の内心を安易に掬い取らないからこそ、却って彼の力になった。
或いはそれさえも、彼女は想定していたのかも知れない。
「なんでそんなこと……何でもない。わかった」
問いつめてみたくなることは多々あったが、ひとまず彼はドアノブを回す。
鉄が錆を擦り付け合って、若干堅い。だかそれは施錠されているときの何もかもを寄せ付けない頑なさとは違って、力込めれば。
「うわ、ほんとだ……」
回ってしまう。
いくら居住者がいないからといって、問題の多い管理体制である。しかし今は都合が良いので、その杜撰さをありがたく思っておいた。
「……開けるよ」
「えぇ、好きになさい」
扉を引くと、蝶番が耳をつんざく悲鳴を上げる。彼は顔をしかめながらも扉をじわじわと引き寄せた。廃墟らしい今にもどこかが折れてしまいそうな建材の軋みは止まなかったが、辛うじて人が通れるだけの隙間は確保する。
「よし」
彼は素早く身を滑り込ませると、また極力ゆっくりと、音を立てないように扉を閉め始める。こんなことをしている今、目立つわけにはいかない。
多少は慣れた力の配分で、手早く動かした扉とその枠がぶつかる。そして、細い線になっていた光も途絶えて。
彼は振り返る。決して広くはない室内。玄関は廊下を挟まず居間に繋がっていて、台所もそこにある。
靴を脱いで上がり、居間の中央に居座る木製の大きなテーブルの傍で立ち止まった。
見回すと台所の脇から順に和室、寝室、そして奥まった便所と浴室の入り口がある。さらに玄関を挟んでもう一つ寝室があったが、彼はそこに目もくれなかった。というよりも、その興味は和室にばかり集中していた。
「あそこって、確か……」
近づいていき、中途半端に開きかけた格子の引き戸を掴んで揺れ動かす。もう最後に開閉されたのがいつかも知れない割に、差し支えなく動きそうだった。力を込めると扉はレールを滑っていき、向かいの壁にぶつかってはめ込まれていた化粧硝子が小刻みに震える。
割れやしないかと肝の潰れる思いをしたが、硝子も彼の心臓も無事だった。
「はぁ……」
彼は胸をなで下ろしながら、自分の手を見下ろす。
「ちょっとは加減しなさいよ。子供じゃないんだから、そんなに力込めて動かしたら壊れちゃうじゃない」
「わかってるけど、もっと劣化してると思ってたんだ」
自分で言っておきながらも言い訳にしか聞こえない。十八にもなってそんな物言いをする自分に、嘲笑すら催す。
「なんでにやついてるのよ」
「え!? そんなこと……」
あくまでも今の自分が浮かべているのは自分を嘲る笑みなのだと、自身に諭そうとする。だけど疑念を御しきれずに自分の頬に指で触れる。触覚が消えていたことを思い出すだけだった。
「僕、本当に笑ってるの……?」
惨めにも彼女に縋るしかない彼の肩を指の細い手が勢い良く叩いた。
「ばーか。大人しくできないのなら、もっと思いっきり騒ぎなさいよ。そんな、しけた顔してないで」
「そんな……」
それこそ、そんな馬鹿なことはないだろうとも思ったのだが、思い至る。どうせ、この場で彼を馬鹿にするのなんて自分だけなのだと。だから自分で自分を肯定できさえすれば良いのだ、と。
「そう……かも、ね」
叩かれた肩越しに彼は背後を見やり、僅かに差し込む残照に埃が赤く光るばかりの虚空へ笑いかける。見えないけれども、同じ意味合いの表情で見つめ返されている気がした。
「少しは良い顔するようになったじゃない」
そんな、どこか素直でない言葉も自分が肯定されているようで、心穏やかに聞いていられた。いつになく安らいでいく心地の裏側で、だけど膨れ上がる不安がある。
「明日の今頃は、僕か君かのどちらかが消えているの?」
声になり、音になった本音はもう両手でかき集めても戻らない。知らずこぼしてしまったそれに彼自身の呼吸が乱れて、耳の奥から早まった動悸が聞こえてくるようにさえ錯覚する。
「当たり前でしょ、そんなの。まさか自分を呪い殺しにきた幽霊に、情でも移っちゃったの?」
指摘されてひときわ痛切に、彼の心臓が脈打った。否定する言葉は出てこない。
だから霊が、
「……本気?」
訝しむのは至極当然である、はずなのに彼はそんな彼女の態度にぎしぎしと軋みを上げる違和感を抱いた。どこかが噛み合っていない。
どこが、とは?
その答えへとたどり着きそうになる思考を、彼は咄嗟に封じ込めた。まだ早い、ここで至ってしまうのは。
「それより」
それまでの会話の流れを強引にねじ切って、彼は目の前の部屋を見渡す。
狭い部屋だった。寝転がって手と足の指を伸ばせば、向かい合った壁の双方に届くかも知れない。
カーテンや装飾品の類は一切なかった。右手にある猫が一匹通れるかどうか、といった程度の小さな窓と正面のベランダに通じる掃き出し窓は仄かに赤く光を帯びている。薄汚れたベランダの欄干の向こうには、遠い空で掠れて消えていく茜色がよく見えた。それでも夕陽の姿は望めず、部屋は夜に侵されて隅や角にわだかまる影は色を強めている。
「思っていたより、綺麗だ」
敷かれている畳はいくらかの傷を見て取れはしたものの、気になるほどではなかった。入ってすぐ左にある押入の奥を覗いてみると、なぜか一人分の布団と寝具が残されている。
「あれって、使える……の?」
長らく放置されていたのなら、埃や虫にまみれていてもおかしくない。彼が触れようか触れまいか迷っていると、耳元で押し殺したような笑い声がした。
「大丈夫よ。あれ、わたしが持ち込んだものだもの。たまにここで昼寝したりしてたの」
「……やっぱり、昔に住んでいた家だから?」
「もちろん」
肯定する声は弾んでいて、わかり切ったことを訊ねてくるなと言われているような気がする。彼は表情を誤魔化しながら、ここで一人膝を抱え込む少女の背中を想像した。その両肩は小さすぎて、夏の夜明けに風の運んでくる些末な冷気にだって耐えられそうにない。
そんなうら淋しい光景を瞼の裏に眺めていたせいなのだろう、彼の顔に沈鬱な色合いが表れる。それは隠しようもなくて、傍から確かに彼を見つめている彼女にだって伝わらないはずがなかった。
「平気よ、今は一人じゃないんだから」
こんな台詞を労うように投げ掛けられて、なぜか彼の方が慰められてしまう。あくまでも彼は同情しているに過ぎないのに。
こんな気遣いをしながら、人の体を乗っ取るつもりでいるというのだから、彼女の心根は推し量れない。どちらも心からの言動だというには、無理があるようにも思えてしまう。
「どうせ、暇でしょ? 最後なんだから今日くらい、付き合いなさいよ」
「……まさか、そんなことのために僕をここに連れてきたの?」
一人でいるの嫌だったから。
彼自身、ありえない可能性だとは思う。
だけど、声にしていない意味までも過不足無く理解した上で、彼女は「どうでしょうね」と言葉を濁すばかりだった。
「あ、もちろんここにあなたを閉じこめておくのが一番の目的よ。今晩が終わったら、あなたの体はわたしのものになるんだから」
「その言い方って、どうなの……」
時と場面が違ったのなら、意味深長に聞こえていたことだろう。少なくとも彼と彼女が逆の立場だったならば間違っても口にしてはならない。
「そんな馬鹿な話、してられる状況じゃないでしょ。残りの時間は今日の夜だけなのよ?」
その通りだったが、敢えて触れないでいた。考えたくない事柄がまだ多くあったし、何より生きることを選ぶのだとしてもすぐにはこの時間を終わらせたくない。
せめて、夜が明けるその時まで。
だが、はっきりさせておきたいことはあった。
「だったら、質問したら答えてくれるの?」
「内容によるわね」
当然だった。彼だって名前を直に聞き出そうとは考えていない。
「じゃあ、するだけしてみようかな。一つ目は確認なんだけど」
自分から訊ねると言っておきながら、いざその場面が迫ってくると選ぶ言葉に困窮する。いきなり訊ねるには重苦しく切迫したないようかもしれない。
だけど彼はもう、決めていた。ここで止まりはしないのだと。
「……あの事故でトラックから子供を庇ったのってやっぱり……そうなの?」
相手の呼び名に困って、どうにもはっきりとしない物言いになってしまう。だけどこれで伝えるべきは伝わっていた。
「えぇ、わたしよ。あの子たちを助けたのは」
「そうして、死んでしまった、と?」
「それは見ての通り……って今は見えないんだっけ?」
やだ、わたしったら、なんて冗談をこんなときに言えてしまう神経は理解に苦しむ。彼はそのことには触れずに、事実の整理だけに勤しんだ。
彼が読んだ記事は事故が起きた直後に書かれた。少なくともその時点まで彼女は生きており、時間を経てからこんな霊になってしまった。
「実は、」
生き霊だったりしないのか、と聞きかけて彼は口を噤んだ。知ったところで意味のないことだ。いずれにせよ、彼女は新しい肉体を求めているのだから。
「どうしたの?」
そう不思議そうにしている彼女に彼はかぶりを振った。
「いいや、何でもない。それよりまだ聞きたいことがあるんだけど」
「えぇ、今した程度の質問だったらいくらでも答えてやるわよ。どんときなさい!」
迷いなんて母親の腹に置き忘れたように彼女は言い放つ。これが本気で実名を知られないと思っているからこその発言なのだとしたら、油断しすぎている、とは思えなかった。だって彼女は、彼に生きる気力がないこと、例え名前を突き止められても体を差し出すだろうことを見越してとり憑いたのだから。
この霊を追い払う上で一番大切なのは、彼自身に自ら人生を背負っていく覚悟があるかどうか、それだけだ。
その覚悟を示せなければ、どのみち彼にはその命を全うすることなんてできない。
そうして、死と隣り合わせに物事を考えていたから、彼はふと思い出す。その末期の心情に手を伸ばす。
一昨日出会った姉妹の片割れ、自ら命を断った彼女はどんなつもりでその結末に望んだのだろう?
残された妹に、見せてもらった遺影を思い出しながら彼は訊ねる。
「幸さんを救おうとしていたのも?」
口にするまでに逡巡がなかったかと言えば嘘になる。既に一度、幸という名を耳にした彼女が取り乱す様を彼は目撃しているのだから。
けれど、これは訊ねずに終わることもできない事柄だった。憂慮を引きずりながらも彼は彼女の答えを待つ。
「……結局、わたしは力になれなかった……」
彼自身に迷いや悩みがあったからこそ、か細くとも彼女の声を聞けた彼は胸をなで下ろす。そして、窓の外で吹きすさぶ風の音にさえすりつぶされてしまいそうな少女の言葉の続きを必死に追いかける。
「きっとどうにかなる、助けられるって思ってた。わたしならあの子を助けられるんだ、ってね」
だけど現実は違ったのだと、首を振る姿があまりにも生々しく繊細に想像される。例え、目では見えなくとも彼にはもう彼女の体温も、息づかいも、微かに香る水芭蕉の香りだって感じられてしまうのだから。
「だから……死んだ、って聞いたときは驚いたわよ。それに憎らしかった。誰も彼も助けられるだなんて思いこんでいた自分が」
「そこまで言わなくても……」
「ううん。それくらい、わたしは馬鹿だったの」
何にも幸のことをわかっていなかった。
こぼした呟きは床に落ち、小さな滴を散らして爆ぜる。
「なんのためにこんなこと、してるんだろうって。自分でもよくわからなくなったわ。友達の一人も助けられないで、わたしがここにいる意味なんてないんじゃないかって」
それは違うと言いたかった。目の前の少女がしたことはきっと無駄ではないのだと。だけどそのことを伝える言葉が彼にはない。今の彼女はあまりにも遠く、ちっぽけな彼の手では届かない。
「……わかってるわよ、あんたに言われなくたって。わたしだって今日、気づけたんだから」
「どういうこと?」
彼女が救った少年との邂逅が変化をもたらしたことまでは理解が及ぶ。だけどもあれから得たものは彼女自身にしかわからない。
「あのね、あの子は、幸を助けられなかったわたしが本当に誰の役にも立てないのか知りたくて、助けようとしたの。わたしの崩れかけの正義が打って出た、最後の悪足掻き」
彼女は信じたものに命を捧げたのだった。彼にはそこまでして貫こうと思える信念はなくて、だから馬鹿げているだとか、そんな冷静な批判よりも心に浮かぶ感情がある。出会ったときからずっと、感じないではいられなかったことが。
ただただ、羨ましかった。そうまでして、求められるもののあることが。
「結果は散々だったわ。トラックの運転手さんを死なせてしまったし、何より、わたし自身が死んでしまった」
「それは……」
最後の発言が気になって、我知らず彼は反問してしまう。
わたし自身が死んでしまった。
「それが駄目だったの?」
彼女は理想のために、命を投げ出すことも厭わない人物に思えた。だからそんな少女から、自らの命を惜しむ発言が飛び出したことは単純に意外だった。
彼女がどことなく、苛立たしげな気配を帯びる。
「……あんたに言ったってどうせわかりはしないだろうけど、こうして化けて出てから気づいた。このやり方はいけないって」
その言い草には少なからず、彼の疑念をはねつける意図が見て取れた。気にはなったが、拒絶する意思をはねのけてまで誰かの内側に踏み込む勇気が彼にはない。臆病で、情けなくて、だけど知ってしまえばもう取り返しがつかない予感がしたから。
どんなふうにして向き合えば良いのか。
彼が黙りこくって考え込み、彼女に話しかけあぐねていると不意に柔らかな声がかけられた。
「まぁ、それが全てってわけでもなかったけどね」
見えないけれども、今の彼女が微笑んでいることは彼にもわかった。
「全部、無駄だったって思っていたけど。そんなに大きなことじゃなかったとしても、わたしは目の前の誰かのためになれた」
呟きが途切れて、微かに漏れた少女の笑い声が挟まる。
「ふふっ。きっと成仏しちゃっても、わたしが助けたあの子の世界でわたしはヒーローとして生きていくのよね」
独特な言い回しだった。まるで人それぞれに、自分のための世界があるようである。
「僕らは同じ世界に住んでるんじゃないの?」
「それはわからないわ。わたしはあなたではないもの」
「……なんだか、難しそうな話だね」
言って、彼はこの話題を断ち切ろうと試みる。哲学に価値を感じられる性分ではない、こともないのだが。
今は深く考えたくない。
「ところで、僕を病院に帰すつもりはあるの?」
「ないわね」
即答だった。概ね彼の予想通り、だからというわけでもないが、不満は生まれない。ただ、今日は疲れた。全身の骨が鉛に入れ替わったように体が重く、今にも溶け落ちそうな筋肉では持ち上がらない。
思えばこの四日間、随分と街を奔走した。おまけに慣れない病院のベッドで寝ていたのなら疲弊しても無理はない。
「そろそろおねむ?」
「からかわないでよ」
押入から引っ張り出した布団に入った。こんな、誰からも見捨てられた住居の一角なのに、抜けていく。息が、緊張だとか重圧だとか、そんな心に張り付くものを取り払い、引き連れて。
いつの間にか日は落ちて、室内は紛うことなき濃密な夜闇に満たされていた。上下の感覚も狂い、だけどそんな闇に抱かれて彼は意識を手放す。睡魔と疲労、それに安心感が入り交じって、彼を夢の中へと誘っていった。
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