三日目

 左手には民家や公民館のブロック塀や生垣が連なっている。そして歩道と車道の区別もない細い道路を挟んだ向かいにはまだ鮮やかな萌葱色の稲が風に煽られ揺れていた。

「もう少し、ゆっくり行こう?」

 ぽつりと漏れた少年の呟きは辺りを弾んで回るけたたましい蝉の声に塗りつぶされてしまう。そこに混じる、車輪のかき鳴らす調べだけがなけなしの涼しさを運んできてくれた。しかしながら熱気は依然として暑いままで、汗となりべっとりと肌に張り付いてくる。

 少年はシャツの袖で頬を拭い、前を行く少女の背中を見据えた。先ほどから躍起になってペダルを漕いでいるのだが、一向に距離が縮まる気配はない。

「沢蟹なんていつでも取れるでしょ。わざわざ、こんな熱い日に行かなくたって……」」

「そんなこと言ってないで。ほら、早くしないとおいてくわよ」

 振り向いた少女の、笑って震える小さな肩を覆っていた髪が晴天に舞う。少女は楽しげに、自分に遅れて自転車を走らせる少年に振り返っていた。その瞳は単に幼いからだけではない、今にも零れ出しそうな気力が満ち溢れている。輝くようなその笑みを崩さず、前を見ていない少女の自転車はしかし車輪を鳴らせて警戒に駆け抜けていく。置き去りにされそうになった少年は慌ててペダルを漕ぐ足に力を込めた。

「ま、待ってって……」

 車体と共に左右に揺れ動く視界の中で小さくて大きな背中が遠ざかっていく。少年が途切れ途切れの息の合間に訴えかけるけれども、少女の方には減速する気は一切ない。

 そのことを十分に承知していたから少年は噛みしめた歯の奥に思わず苦笑を漏らした。半ば呆れて、それでも必死に少女の背中に追い縋ろうと意を決する。

 彼女に連れられてなら、どこまでも行ける気がしていた。

 彼女と一緒だからどこまでも行ける気がしていた。

 夏の太陽は高く眩く、その色合いさえも騒々しいくらいに賑やかで。

 道の先には、道路を覆うように捻くれ曲がった松の木が延び、その向かいには金網で蓋をされた貯水池があり、そこを曲がった先、稲が茂る田の果てには夏を謳歌する山がある。彼は散り散りに光が乱反射する彼方、少女の向かう方角へとさらなる加速を試みて――


 

 眩しすぎるほどだった光が儚げに、或いは優しげに萎んでいった。残った小さな明かりが薄く開いた瞼の隙間から差し込む。目の奥がじんわりと温かい光で満ち、意識に炎が灯された。

 まだぼやけているところがあって、眠りから目覚めた意識が指先にまで行き届くには時間がかかりそうだった。体の感覚がまだ残っていることを確かめるように、彼は寝返りを打つ。

 そうして窓の方を向くと飛び込んでくる血の気のない顔。彼と共に横たわった少女の涼やかな美貌。

「ひぃ!?」

 海老もかくやといった勢いで彼はベッドの端まで跳ねる。

「何もそこまで怖がることないじゃない」

 愉快そうに霊がのっそりと体を起こした。

 無茶を言うなと彼は反射的に反駁しかけた。しかしこの身勝手な霊には意味がないだろうことに気づいて言葉を呑み込む。それにもっと、彼には気になることがあった。

 まずは一つ目。

「今日、茶屋に寄ってかき氷を食べたんだけど、無くしたはずの味覚で甘みを感じられた。なんで?」

 昨晩、眠るまで考えたが結論は出なかった。まさか答えを教えてもらえるとは思えなかったが、せめてヒントだけでも手に入れたい。

 そうして彼は一握りほどの期待を込めて彼女を見上げたのだけど、彼女はおかしそうに肩を揺らす。鈴を転がすような笑い声がして、彼女は口元を押さえていた手を離した。

「それくらいのことなら、いくらだって答えるわよ。わたしのことを見くびりすぎ」

 余裕たっぷりの彼女を前にして自分が卑小に思え、目を逸らす。そんな彼を、膝に肘を当てて頬杖をつき、眺めながら彼女は口を開いた。

「わたしが奪った感覚で認識できる『わたし』の中には、わたしと因縁深いものも含まれているだけ」

 霊が因縁だなんて言葉を使うと、憑代の話でもしているように聞こえる。するとあの茶屋でお祓いをしたら彼女も去っていくのだろうかとも考えたが、意味はないように思えた。彼女の言い方だと因縁深いものとやらは一つきりではないようだ。

「そうなんだ……わかった。じゃあ、あと一つだけ」

 彼が頼むと、彼女は夜明けの空を背景にして「何?」と首を傾げてくる。

「今の夢は君が見せたの?」

 おかしな夢だった。奇妙な実感があって太陽の熱がまだ肌に残っているようにすら感じる。それに記憶が正しければ、と彼は夢の中の光景を思い出す。

あの活発そうな少女は紛れもなく幼い頃の霊である。

そんなことを考えている内に彼は思い至る。自然に『昨日』のことだと感じていたがそもそも今が何時なのかわからない。窓を覆い隠すカーテンの隙間からは弱々しい黄金色の光が漏れ出ていたが、バケツ一杯の水に落ちた絵の具一滴のように夜闇を打ち消すにはほど遠かった。

 辛うじて物の位置だけが識別できる暗中で、肩をすくめた彼女だけがくっきりと見える。

「どうでしょうね?」

 彼は問い詰めたくなるのを堪えて顔を引きつらせるが、彼女はその様を面白がって笑うのを堪えている。時折吹き出しかけるのが余計に彼の怒りを煽った。

だが、そんなことで感情をぶつけていけるのならば彼は今頃自分だけの道を邁進している。気ままに生きられないから苦しんでいるのだ。

「はぁ……」

 答えるのも面倒で、彼は口を噤んだ。まともに相手にしては行けないと自分に言い聞かせる。

「あらら、いじけないでよ」

「誰がいじけてなんてっ!」

 思わず叫んで、しまったと彼は自らの口を押さえた。ここは病院で、ベッドを囲うカーテンの向こうには他の患者たちがいる。話し声が聞こえず、寝静まっているだろうことも明らかである。

 どうしてこの幽霊を相手にするとここまで感情を揺さぶられるのだろうか、嫌悪を通り越して奇妙にさえ感じつつ彼は冷たい目を彼女に向けた。

「からかいに来ただけなら帰ってくれない?」

 彼がぴしゃりと吐き捨てても彼女は含み笑いを返すだけである。

彼女と話していても疲弊するだけだとようやく結論付けた彼は用件だけを済ませることにした。

「……わかってるよ。どの感覚を捨てるか選べって言いに来たんでしょ?」

「なんだ。わかってるんなら余計に手間取らせないでよ」

 誰のせいでこうなったのかと叫び出したい彼ではあったが、ここで言い返しては同じことの繰り返しになる。だから怒鳴りつける代わりに、昨日から理解できないでいた疑問をぶつけた。

「何が目的で、こんなことするの?」

 訊ねると彼女は不思議そうに一つ、まばたきする。それが苛立たしくて彼は語気を荒げながら質問を重ねる。

「何のために、僕の体なんて奪おうとしているのかって訊ねてるんだ」

 納得したようでいて、それでもどこかぎこちなく、彼女は頷いた。一瞬、考えるようなそぶりを見せて、それでも次の一言を言い切るには迷わなかった。

「――世界を救うためよ」

 理解が追いつかなくて、彼は唖然とする。乾いてきた喉で唾を飲み込んだが、まだ意識は形にならずに疑問さえ湧いてこない。

 しかし彼女は違った。誇らしげに胸を張って、そのあり得ないほど現実から飛び出た大志を言葉にしていく。

「あなたが見るこの世界を、わたしは救ってみせるの。そのためには、こうすることが必要だった」

 呆れることもままならなかった。ちっぽけな彼の自意識などが立ち向かえる領域になく、彼女は遥かに高潔な佇まいで自分の夢を語り続ける。

「わたしはもう死んでしまっているけれど、いえ、死んでしまったからこそ納得できないの。変えてやるわ、そんな世界」

 言い切ってから、彼女は彼に視線を落とした。

 あなたはどう思う?

 意図は彼には計りかねたが、彼は彼女がそう訊ねてきているように思えた。

「それは……」

 彼にだって、世の中に思うところがないわけではなかった。きっと世間の人間の大多数がそうであるように。何の不満も抱かずにこんな世界を渡り歩けるわけがない。

「それは、僕にだって、不満はあるよ? でも……」

 結局、まともな人間は誰しも、はそういったことに耐えながら日々を過ごしている。ならば世界から弾き出されたのだとしても、その責任は自分にあるのだろう、と彼が抱えてきた不満はこのようにして彼自身を刺す刃になった。

 だがそれでも、そうすることでどうにか出る杭になることもなく、崖の先の中空と地べたとの境界を綱渡りしてきたというのに、彼女はそれを鼻で笑う。

「それで迷った挙げ句、そんな様になってるのなら哀れよね。わたしが理由なくあなたに憑いただなんて思ってないでしょ?」

「そんなの……っ!」

 喉元までせり上がってきていた何かを彼は押し戻す。酷く気分が悪くなって、だけどそれを堪えるしかない彼を彼女は侮蔑ではなく、憐憫の目で見つめた。

「あなたが一番、執着しなさそうだったからよ、この世に。だから奪いやすいだろうと思ってあなたに憑いた。ねぇ、違う? 嫌気が差してるんじゃないの、生きることに?」

 死へ誘い。死者からの囁き。情人からすればおぞましいだけのそれはその実、慈悲に溢れた、天使とも悪魔ともつかない者が差し伸べる救いでもある。その唇が紡ぐ言葉の一つずつが背筋をなぞって鳥肌が立つ。

「……今までの話は全部、本気で言ってるの?」

 思わず口をついて出たのは、そんな答えのわかり切った問いだった。

「当たり前でしょ?」

 否定とも肯定とも断言できる文句ではないのに、その一言が何よりも強く彼女の真意を明白にする。

「そうだよね……」

「わかったらさっさと、体を明け渡してちょうだい」

 俯いて、彼は何も返せなかった。

「ふん。その調子だと、まだ決心はつかないようね」

 体のことに限らず、彼はもっと広範に渡って決断を放棄したかったのだがわざわざ話して聞かせるのも手間である。ちらりと彼女を見上げて、目で訴えかけた。

 だけど彼女は睨むようにして彼の視線をはねつける。

「そんな目をしていたって変わらないわよ。わたしも、あなた自身も。昨日に宣言した通り、感覚は一つだけ貰っていくから」

 抵抗する気は元よりなかった。なくそうと決めていた感覚は既にある。

 彼がその名を告げると、彼女はずっと見ていなければ気づけないほど微かに目を見開いた。その驚きに込められた意思は彼が読みとれるものではなかったが、少しだけ胸の空く思いになる。

「わかったわ」

 告げた声は徐々に強まる曙光に溶けた。朝を告げるはずの小鳥のさえずりが、子守歌のように彼を眠りへと誘う――



 口の中で粘つく、咀嚼した里芋の煮物を彼は飲み込んだ。触覚はまだ生きているので、これはまだ、平気だ。しかし残る、イカの煮物を見て彼は表情を歪ませる。赤く茹であがって丸まった足、それにまとわりつく滑り気や奇妙な弾力の触感を思い出す。

 残すと看護師から何を言われるか、わかったものではない。既に昨日のことで、彼は目をつけられている。せめてもの抵抗として、げそに箸を突き立てて、二つに引き裂く。それを二回繰り返し、細切れになった三つを一つずつ口に運んだ。

 まず一つ。

「ん……」

 先端の一番小さなものだったこともあって難なく喉を通る。

 二つ目。

「……くっ……」

 吸盤が喉に引っかかって吐き出しそうになる。それをどうにか唾と気合いで胃の奥底へと送り込んだ。

 そして最後の三つ目。

「――!? げほっ、げほっ!!」

 どこかで詰まり、呼気が逆流した。息を吸っているのか吐いているのかがわからなくなり、視界が目まぐるしく荒れ狂う。咄嗟に彼は水が入ったコップに手を伸ばし、その半分以上は残っていた中身を全て舌の上に受け止めた。

「ぐぅ…………」

 なだれ込んでくる生温い感触が一度だけ大きな圧迫感を伴って、膨れ上がった。やがてしかし意識の届かない胃か腸のどこかへと流れていく。後には束の間、窒息の名残が息を詰まらせるのみだった。

 それさえも溶けていくと、入れ替わるように落ち着きが彼に戻ってくる。そのとき、ふと漂う香り――昨日消えたはずの感覚――に感づいて、知らず彼の表情が曇る。風が運んでくる草の青臭さにさえもみ消されてしまいそうなほど仄かで、単純に甘いのとも違う、ずっと嗅いでいたくなる香り。間違いなく、水芭蕉のもの。失われた彼の五感が唯一、感知できる少女の存在の片鱗だった。

 姿こそ見えないが、彼はあの少女の霊がすぐ傍から彼の醜態を笑っているように思えてならなかった。根拠はないが殆ど確実と言っても良いその想像に、歯ぎしりを堪えるだけでも多大な精神力を要する。昨晩は彼女の決意を聞かされた彼だが、本当は単に命ある者をからかいに来ただけではないかと、そんな根拠のない疑いさえ抱いていた。もちろんそれがあくまでも妄想に過ぎないことくらい、彼は理解しているのだが。

兎にも角にも、あの霊の鼻を明かしたければ名前を探り当てるしかない。そのためには少々癪だが、彼女自身の口から語られた情報を頼りにするしかない。

 あの幽霊は間接的に、昨日の茶屋が因縁深い場所なのだと話していた。死んでも断ち切れない繋がりが生まれていたとなると、まさか香水店のついでに立ち寄るだけだったとは考え難い。

 つまりは、生前の彼女があの近辺に住んでいて、日常的に通っていたと考えるのが自然だ。

 そうとなれば、次に取るべき行動は決まりきっている。彼は立ち上がろうとして、だけど少しだけ硬直した。 

 こんなことをする意味があるのか。

 彼女に投げかけられたその問いに、彼は未だ答えが出せていない。この生にそうまでして全うする価値があるのかはわからない。

 けれどひとまずは状況に流されようと思った。投げ出すのは行く先が見えなくなってからで良い。

「……よし」

 探るのならば、若い女性の死亡した事故か事件が適切に思えた。病死の可能性もなくはなかったが、そんな人間が社会に不満を持つのかと問われたら疑問が残る。死因に人為が絡んでいないのは不自然だ。

 布団をめくり上げてベッドを抜け出すと、彼は衣類を取り出しながら言い訳を考え始めた。外出申請をすれば許可は下りるらしいのだが、父親が納得できるだけの理由が欲しい。

 自分と社会とを結びつける糸で雁字搦めになりながら、彼は歩き出していく。行き先は本当に生きたいのか決心もつかない、皮肉な非日常だった。



 図書館に行って勉強をする。

それが彼の父親に対する建前であった。病院では周囲が煩わしくて集中できない、なんて模範的すぎる回答が通じるのかは彼自身も甚だ疑問に思うところだったのだが、難なく了承が下りた。そのことに拍子抜けしつつも、彼の行く道を遮るものはない。目的地だけは建前の通りに、彼はそこを訪れていた。

 病院から徒歩で十分もかからないそこには、突如地面から逆巻いて目前に立つものを飲み込まんとする大波のように奇妙な形状をした建物が彼を待ちかまえている。設計者の名前など彼は興味もなかったが、この珍妙な構造物がこの市の図書館だった。

 そのガラス張りの断面に設けられた庇の下で彼は額に滲む汗を拭う。自動ドアが左右に開く冷風が押し寄せて、蒸し暑さに苦しんでいた彼は息をつく。どこにそんな予算があるのか、熱気と共に夏の気配が高まりつつある外と違って、館内は空調が行き届いていた。

 顔を手で仰ぎながら、入って手前のところにあるロビーを横断する。取り込まれた日光が健康的ながらも不規則に揺らめくそこを通り過ぎると、扉もない出入り口の先に人工の優しい光が溢れていた。

 彼は大量の蔵書が収納された本棚を一望し、漂ってくるインクの匂いを肺一杯に吸い込む。奇妙に強ばる意識を捨て置いて受付を探した。

 入って左手すぐのそこには長机に四台のパソコンが彼に背を向けて並んでいる。その内の一台を前にして椅子に腰かけ、白いブラウスに紺色のエプロンというありがちな図書館の制服姿の女性が文字を打ち込んでいた。

 彼が申し訳なさそうに近づいていくと女性は顔を上げる。平日の昼間に出歩いている彼を不審に思う表情など瞬く間に打ち消され、作り笑いで上塗りされた。

「何かお困りですか?」

 実に愛想のいい声でお決まりの文句を告げてくる。

「あぁっと……」

 最初から考えていたはずの用件が頭から消えて、何も返せない。知らぬ相手にあちらから話しかけられると会話の流れを見失って混乱する。昔からそんな悪癖があって、苦しめられてきた。彼はそれをどうにか息を落ち着けて、肺の空気が全て入れ替わる間に思考を整理する。

 問題ない。少し、焦っただけである。

「あの、地方紙ってどれくらいありますか?」

 紡ぎ出した言葉がまるで曖昧なことに気づいて、「何ヶ月分ありますか?」と補足した。受付の向こうから係員の女性は表情を崩さずに対応してくれる。

「おおよそ全て、二年分程度はありますよ。どの新聞をお探しですか? お教えいただければ具体的な期間まで調べられますが」

 二年分。どうでも良いことなのだが彼の想像を大きく上回っていて密かに驚嘆する。地方紙も含め、十やそこらなんて数ではない記事を二年も貯めたら、一体どれだけの空間が必要となるのだろうかと。

 何はともあれ、彼が探している地方紙の名前を告げた。女性はパソコンに向かって文字を打ち込み出す。なんとなしにその様を黙って眺めていると、彼の方が気まずくなってくる。仕方がないので入り口の方を見やった。

 地方紙ならば、どんな些細な事件でも実名を載せて報道したがる。おまけに相手が死んでいるとなれば、多くのメディアは実名報道を行う。悪くない手段だと彼は思っていた。

 そうして考え事をしながら女性と出入り口とに視線を彷徨わせていると「あの……」と声が掛けられる。たまたま顔を上げた女性と目が合って、彼は滲み出した冷や汗を気にしないようにしながら極力笑顔を装った。

「え……あっ? はい!」

「お探しの新聞は三年半分、残っているようです。探しているのはどの日の記事ですか?」

 狼狽する彼と相反して、事務的に淡々と告げてくる声音が冷たすぎて心の芯まで凍り付いてしまいそうだった。が、残る日々が少ないことを思い出して体面を取り繕うことも馬鹿らしくなり、彼はその足枷から解放される。

「キーワードで検索ってできますか?」

 彼が訊ねてみると女性は当初、何のことかと空っぽの目で彼を見上げてきた。しかし遅れて、その表情は苦々しく歪んでしまう。

「申し訳ありませんが、この図書館だと単語から調べられる目録を作っていなくて……」

 ならばここで、目当ての記事を見つけるのが難しいのは想像に難くない。だからそれまでは単に落胆しているだけだった彼だが、次に告げられた町の名前に目を見張った。

「×××なんかのところだと、できるそうなんですけど……」

 女性がこぼした町の名前を耳にした途端、重苦しいものが彼の胸に宿る。どうしようもない因果を感じて、或いは意識したら水芭蕉の香りを嗅ぎ取れてしまえるような気さえした。

 なぜなら女性が口にしたのは、昨日彼が訪れて、『彼女』と関わりがあるらしい、あの町の名前なのだから。

「……どうかしましたか? 顔色が……」

「あぁ、いえ」

 鏡なんてなくとも、彼は今の自分の顔が到底見られたものではないことくらい、わかっていた。喉の奥に絡まったものを吐き捨てたくて溜まらなくなる。吐き気がするのにこみ上げるものが喉につっかえて、果てしなく不快だった。

 この世界は彼に優しくない。

 気を取り直して、なんて容易く気分転換ができるはずもないのだが、彼は顔にだけは出さないようにと気を配る。感情を押し殺すつもりで、吐息を声に噛み分けた。

「×××ですよね?」

 聞き間違いではないが、注意深く訊ねておいた。こくりと頷く女性の姿を見て、曖昧なままにしておきたかった何かが姿形を得て彼の内に据えられる。進める先がただ一つしかないことを思い知らされ、逃げ出そうとする自分が膨れ上がっていくのを感じる。

 ずっと目を背けていることだってできるはずだった。三日後には全てに幕が閉じるのだから。

 だけど踏み留まってはいられない。生への執着は決して彼を逃そうとはしなかった。

「ありがとうございました」

 礼を告げはしたものの、彼はもう女性の顔を直視できなかった。その意識は呆然と、まだ見えない彼方に焦点を定める。



 逃げ出したいけれども、自分の内にそれを許さないものがある。指の先から神経の一本にまで糸を張り巡らされて、彼はそれに繰られていく。

 目前に聳えるのは、町の規模と比して不釣り合いに大きな建築物だった。遠くから見ると天に力強く伸びるそれは遙か青と蒼と藍の果てにまで知恵を求めて枝を茂らせ、その傲慢のために切り取られた大樹の切り株のようにその威容を誇っている。

その一角にくり抜かれたちっぽけな空洞へと彼は歩いていった。トンネルの中は頼りない電灯が頭上に点々と列を成し、その奥からは光が溢れている。その輝きのもとに出た彼の視界は、あまりの明暗の差に白一色へと染まり果てた。やがて充溢する光が目の端から流れ出していき、微かな虹色の残滓だけを置き去りにしていく。

 現れたのは天上から降り注ぐ光に照らされた円形のホールである。正面と左右に一つずつ、計三つの硝子の扉が訪問者を待ちかまえている。彼の目当ては真っ直ぐに進んだ先にあった。そこだけ自動ドアになった扉が低く呻きを上げて中央から切り開かれ、漏れ出した過剰気味な冷気が額や額を撫でていく。

 入ってまず目に入ったのは、いくつも連なった石の段差を流れていく人工の滝だった。不自然に透き通った水の奥で濡れた石材が黒光りしている。案内板に記されている図書館の入り口を示した矢印はその裏へと向かっていた。

 大きく回り込んで、盗難防止用のゲートの間を通り抜ける。左手の受付に軽く会釈をして、幅の広い通路を進んだ。書架の据えられている開けた空間に出ると、目の覚める蛍光灯の白い光が瞼の裏にまで入り込んでくる。彼は行く先にある階段を登り、二階に上がった。辺りを見回して壁につり下げられた無数の最新刊の新聞紙を目にした。

立ち止まって新聞紙が並べられた光景を大まかに眺める。全国紙も地方紙も取り揃えてあった。

 十分すぎるほどに取り揃えられてはいる。

 ここなら見つかるだろう。

 だがそこで、いっそ見つからないでくれたら、とまるで相反する願いが俄かに沸き起こる。それは期待とぶつかってせめぎ合い、彼の胸中に小さな葛藤を引き起こした。

あの少女の方が余程有意義に自分の命を活用していけるのではないか、なんて。

「…………」

 彼はこの段に至っても生きたいと確信できているわけではなく、しかし死ぬ踏ん切りなど尚更にできるはずもなかった。生半可な自分の有り様にどうしようもなく嫌気が差し、それでも自分の命が惜しい。

無論、今決断したのだとしてもこれから何度だって覆せてしまう。まだそのどちらを選ぶにしても時期が早すぎる。

 もう少し、もう少しだけ選択を引き延ばそうと思った。まだ選べない。だから目を瞑って何かに縋るように、彼は事態の流れのままに歩き出してしまう。

 そんな消極的とも違う思考の放棄を経て、彼は、二階に上がって右の手前にある雑誌類用のカウンターへ向かった。

 広く間隔を空けて並べられた椅子と奥の事務室をぐるりと囲むカウンターの向こう、制服姿の少女らが落ち着いた雰囲気の男性から指導を受けている。彼女らはそれぞれに相づちを打ち、或いは頷いて了承の意を表す。それらに満足そうに頷くと、男性は少女らの内の一人に視線を投げかけた。背中を向けられて顔つきは見て取れないが、小柄な体で背筋を伸ばしたその少女は生真面目そうに頷き返す。彼女はそれから、男性に連れられていく他の少女たちに手を振って見送っていた。

 どうにも、あの少女が受付を任せられたらしい、と今更になって彼は悟る。職業体験だとかその類だろうことは推測できたが大した意味はなかった。関心を寄せるべきはあの少女が職務を果たせるか否か、その一点のみである。しかし駄目だったなら他を当たれば良いと考え直し、彼はカウンターに赴いた。

 そんな彼の足音に気づいて、少女が振り返る。

 舞い上がった柔らかな黒髪が肩に落ちた。対照的に、強ばっていてどこか睨まれているようにも見えてしまう、緊張した目つきが彼を射抜く。

 上げそうになった狼狽の声を彼は辛いところで呑み込んだ。

「え、えぇと……」

 どうしたものかと思案する。訊ねるべき内容なんて最初から決まっているはずなのに、切り出す糸口を完全に見失ってしまっていた。

「どうかしましたか?」

 真剣すぎて鋭すぎる少女の視線がじっと彼を射抜き、貫いてくる。そんな彼の表情が引きつっていることに遅ればせながら気づいた少女は、思わず声なき声を上げて口元を押さえた。

「ご、ごめんなさい、睨んでいたわけじゃなくて……」

 慌てた表情はすぐに暗く塗り替えられて、申し訳なさそうに俯いてしまう。人次第ではこうした態度の方が睨まれる以上に声を掛けにくかっただろうが、幸いにして彼はそうでなかった。奇妙な共感を得て、その為かはたまた別の要因があったのか、臆することなく近づいていく。

「新聞を閲覧したいんですけど」

「あ、はい」

 気負わない調子で話しかけてきた彼に拍子抜けしつつも、肩の力の抜けた少女はまたすぐに例の生真面目そうな目で彼を見据えた。黒目がちの大きな瞳は眼力が凄まじく、彼は内心でたじろぎながらも自分の用件を淡々と告げる。

「一年分ほどのある地方紙を、キーワードで検索させて貰いたいんですけど」

「えっと、探している新聞の名前は何ですか?」

「それは……」

 キーボードからパソコンを操作する少女に、彼は五年後に存在するかもわからない零細な地方紙の名前を伝えた。振り返った少女がほんの僅かに頷いた後、「キーワードは?」とさらなる質問が飛んでくる。

「そうだな……」

 何とするべきだろうか、少々判断に悩むところではあった。『死亡』をキーワードにすれば人の少ない田舎でのことだからすぐさま目的の記事には行き当たるだろうが、人の目が気になる。怪しく思われやしないだろうかなんて、この期に及んで気に病んでも仕方のない煩悶がじりじりと彼の心を炙る。それが酷く鬱陶しくて、目の前が煙に覆われていくようだった。

 もう何度目になるのかも覚えてないが、今はそんなことで立ち止まっている場面ではないと自分に言い聞かせて彼は一歩を踏み出す。

「キーワードは『女性』と……それから、『自殺』で」

 口に出してから彼は、『自殺』だと思い描く目当ての記事からは遠のいてしまうように思えた。そんなことをするほどの脆弱さが世界を変えて見せるとまで豪語した彼女の後姿に重ならないのだ。

「あの、やっぱり――」

慌てて訂正しようとした彼はしかし、大きく跳ねた少女の肩に驚いて口を噤んでしまった。どうしたんだろうと動揺する彼を、傷口の抉られた猫のような俊敏さで少女が見上げる。彼をのぞき込む両の眼は、恐怖とも違う不自然な情動に揺れていて、ありありと見て取れる狼狽が痛々しいほどだった。

「どうか、しました、か?」

 訊ねてみるけど硬直したまま少女を眺めながら、まず彼は自分の認識の甘さを疑った。いくら自分の信頼をかなぐり捨てるつもりでいても、自殺した人間について嗅ぎ回るなど人として品位に欠けるのではないかと、そんな心配をしたのだ。

「ええっと、その、何て言えばいいんだろう……」

 だけど発言を取り消そうとして彼は、少女の眼差しの奇妙な色合いに気づいた。警戒しているのとは少し違う、より睨むように真っ直ぐで内面を見つめてくるような、そんな視線。警戒されているというよりはむしろ試されている、といった方が彼の受けた印象を適切に表していた。

 目があった彼は蛇に睨まれた蛙も同然の心持ちとなって動けないまま。少女との間に凝り固まった沈黙を共有する。

 共感しているようでいて、どこかが決定的に外れている。

 親近感を得られるほどに近くはなく、疎外感を与えられるほどに遠くもない。そんな身じろぎさえままならない不安定な距離感に、先に限界を感じ取ったのは彼の方だった。

 というよりはようやく、自分のなすべきことを思い出した。

「悪いんですが、やっぱりキーワードを訂正します。『自殺』を『死亡』で」

 彼が口火を切った途端に二人は現実に引き戻された。

「わかり、ました。少し待っていてください」

 少女の側からも事務的な内容を喉につっかえさせつつも、吐き出す。彼から目線を外すと、居心地の悪さを忘れようとでもしているように、作業に打ち込み出した。

 互いに言いたいことがあるのは明白だった。が、彼は一切を口に出すことなく椅子に腰掛ける。

 ここで余計な探りを入れても、掘り返せるのは骨だけに成り果てた人の心の燃え滓程度しかないことくらいわかっていた。そうでもなければ彼には、こんな集中しているだけでも卒倒してしまいそうな少女が職務を放棄してまで彼の趣旨を窺い知ろうとする理由を見つけられなかった。

 程なくして片手の指の数ほどディスプレイに表示された検索結果が彼女の瞳に映りこむ。

「出てきました」

「どれくらい……?」

「五件ありますね。この数なら、まとめて閲覧できますが」

 どうしますか?

 そう目で尋ねてくる少女に、彼は、

「なら、そうしてください」

 努めて短く、意向が伝わる最低限度の返事をする。

 少女の側も頷くともう口を開くこともなく、立ち上がって受付の奥にある事務室に入っていた。その中から紙と紙の擦れる音がして、さほどかからずに目当ての記事が運ばれてくる。

少女の両手に抱えられてきた記事は新品同然に汚れや見当たらない。机に置かれたそれを受け取りつつ、彼は礼を口にした。

「ありがとうございます」

 ついでに軽く頭を下げて、彼はそそくさと立ち去ろうとする。

「いえ……」

 と発された呟きは後に続く言葉もなく、肌寒いまでに冷房の効いた空気に消え入る寸前で、その飛沫だけが彼の背中に染み込んだ。

 また振り返ってまで頭を下げそうになる自分を戒めて、彼は記事の束を両の腕に持ち直す。どうにもこの場にいては居たたまれなかった。彼はカウンターからは死角になる机を探してそこに陣取り、新聞を重ねて置く。

「始めようか」

 探すのは十代後半から二十代前半、ちょうど大学生程度の死亡した女性。

 そのことを改めて思い出し、まず一枚目を広げる。この中だと若干の皺が目立つ記事には交通事故による死者の名が記されている。二人いる内の一人の女性が三十代であると知って次に移った。

 二枚目も同様。死亡した女性の年齢は二十代後半である。それとは対照的に四枚目は老婆が水路に転落して溺死したというもの。二枚目を折りたたむと広げた三枚目を机に叩きつけた。

ここまで内容のためにこれにも期待していなかった彼だが、三枚目は様子が違った。

 被害者は小学生の児童、三人と十九歳の女性、それからトラックの運転手。居眠り運転をしていたトラックの運転手が小学生の一団に突っ込んだところを女性が庇った、という内容の記事である。

 一目で彼は、それが彼女の記事なのだと思い動悸が乱れた。児童を暴走車から庇うなんて、いかにも彼女にありそうなことだったから。

 だけど、違う。

 違うのだ、死亡した人間が。

 記事によると、子供らを庇った女性は重態、事故を引き起こしたトラックの運転者は急停止した際に硝子を突き破って車外に投げ出され、死亡、とある。死んでいるのは女性ではない。しかしながら、彼女は幽霊として彼の前に姿を表しているのだ。

 彼は文章を隅から隅まで確認した。だけど被害者が生きているためなのか、未成年だったからなのか、或いはそのどちらも関係しているのかもしれないが、年齢以上に詳しい女性の情報は見つけられなかった。一応、加害者である男性の名前は載っていたものの、役に立つ場面が彼には想像できずに溜息を漏らしてしまう。

 得られるものはもうなかった。そうわかってはいたが、彼はどうしてか思い切ることができずに現場の位置だけを記憶してから新聞を畳み、読み終えたものの上に重ねた。

「見つかんないな……」

 脱力した肩の重みが彼にのしかかる。読み進めたところでめぼしい情報が手に入るとは思えなかった。だけど、わざわざここまで足を運んできたのだから、その労力も無駄にしたくない、というのも彼の本音である。

 仕方ない。

そう自分に言い聞かせて、次の記事を手にとってみた。『五十代女性、孤独死』の見出しを目にした途端に彼の手は自然と開いた記事を閉じていた。

結局のところ、見事に無駄足になってしまったわけである。

 気落ちしながらも借りていた新聞を重ねて両手に持ち、受付まで運んでいった。彼はさほど時間が経っているようには感じていなかったが、あの少女の姿は既に受付の向こうにはなかった。



 行く当てなどなかった。

 手がかりだって尽きている。

 それでも彼は収穫のないまま帰るのが嫌で町を彷徨っていた。

 時刻は太陽が頂点から僅かに傾き出した頃、一車線の道路の脇、道の片側にしかない歩道を彼は歩いていた。

 凹みばかりで欠片も転がるアスファルトは熱を放射し、足下から彼を灼く。おまけに車道のある左手も広大な駐車場になっている右手にも、日差しを遮るものがない。どこへと向かう当てもなく熱に晒されて呆けていると、歩道の中央に伸びた無遠慮な電柱に何度もぶつかりかける。熱のことは別にしても、自転車二台がすれ違うのも難しそうな道幅と言い、とても通学路に選ばれている道には思えない、というのが彼の感想だった。

しかし彼が歩くそこは、事故あったという日も今も、変わりなく通学路とされている。

 不便に思いながらも道を進んでいくと駐車場が途切れ、道の両脇に建物と塀がそびえ出す。そのさらに先、大きく道がうねった一帯が彼の目的地だった。

 歩道のない車道の左脇からせり出した山を迂回するように、道が急激な弧を描く。弧の円周の上を歩いてると、程なくしてそれは現れた。

 そこだけ道路との境界にある縁石が砕けている。そこに面するブロック塀にも穴が穿たれ木板で修繕されていた。それでも痛々しい事故の名残は消せずに、小石にしては大きすぎるコンクリの破片が散らばり、塀には擦れた痕が消えることなく白く刻まれている。

 そんな道の脇に捧げられている、黄や橙の花々の前で彼は膝を屈した。くるむビニールは土や泥の汚れが目に付いたが、まだ花は萎れていない。もう命はとうに絶たれたはずなのに、青い葉を天に向けて反り返らせ、細やか花びらに風を受けている。この場には場違いなくらいに色鮮やかだった。

 彼は新聞で見つけた例の交通事故の現場にまで来ていた。あるわけがないのに明快な答えが眠っていないかと、馬鹿馬鹿しくも切なる期待が拭えなかったからだ。

 だから彼はそうしてそこを訪れても、何もすることがない。できることなんて何もない。曖昧な希望に追い縋っただけの、意味のない愚行だった。

 急に自分がどうしてこんな事をしているのか、彼の中の空洞に寒々しく虚ろな風が通り抜けた。霊に怯え、意味がないと知りながらも死人さえ生まれた事故現場を訪れて。

何がしたかったのだろうかと、無駄に費やしてしまった時間を数える。それだけの時間があれば、まだもっと違った調べ方だってできただろう。でなければ徐々に遅れつつある勉強の時間を少しでも稼げたかもしれない。

 考えれば考えるほど、自分の愚かしさと怠惰は浮き彫りになった。

こんな場所で浪費している時間ないのだと自分を叱咤して、立ち上がろうとする。なのに気怠くて重たくて、彼の腕も足も動くことを拒絶していた。額を伝っていく汗の冷たさを感じながら、しばらくこうしていようかとさえ迷う。

だけど彼がどれだけ動きたくなくとも、体の方が悲鳴を上げていた。しゃがみ込んだ姿勢に耐えられず、腿と膝がじくじくとした痛みとも違う疼きを訴え出す。

耐え難くてすぐさま彼は立ち上がった。今にも軋みを上げて脆く崩れ去りそうな自分の膝に思わず苦笑させられる。

 立ち上がったからにはここでじっとしているのも嫌だった。病院に帰ろうと思い、振り返る。

しかしそこから彼が動くことはなく、目を見開くと体を硬直させてしまった。閉じることのできない口の奥で喉が震える。

「え……?」

 深い紺色の制服に身を包み、両手で肩掛け鞄の紐を握りしめる、小さな少女。透き通ったように艶やかな黒髪が初夏の日差しに照り映える。

「確か……」

 黒目がちの真面目そうな双眸を見つめて彼は思い出す。

 先ほど図書館で受付をしていた少女だった。

 偶然、にしては出来過ぎているようにも思えた。先刻のやり取りを思い出し、少女の姿を正面から見据えることすら躊躇ってしまう。だが逃げ出すわけにも行かず、彼は可能な限り素っ気なく「こんにちは」と挨拶をして、すぐにその脇をすり抜けようとした。

 だけど、

「待って」

 呼び止める声が彼をその場に縫い付ける。なんとなしにこうなることを予想してしまっていた彼は、自分の想像があったことに驚きながら肩越しに少女を見た。少女は彼とまともに目を合わせず、かといって他のどこかに視線を定めることもないまま右往左往させている。

 なるべく早くこの場から立ち去りたい、というのが彼の本音だった。どうしてかと問われても答えることはできないが、彼にはこの少女が面倒事を運ぼうとしてきているように見えた。

「用事がないのなら、僕は帰りますけど」

 ぶっきらぼうに告げた彼がもう一度踵を返して立ち去ろうとすると、今度ははっきりと彼を引き留めようとする意志の現れとして「待って!」と少女は叫ぶ。

 それから少し遅れて、申し訳なさそうに言い直してきた。

「待って……ください」

 懇願する声は切なる音が響きすぎて、しきりに何度も胸の奥の琴線を爪弾く。その度に胸が詰まって、彼は今度こそ立ち去ることができなかった。諦めて観念し、体ごと振り向く。

「どうかしましたか?」

 年上かどうか程度の素性さえもわからない相手だった。少しだけ迷ってから敬語を使うことにする。そこに突き放そうとする意図があったことを彼は否めなかった。

だけど普段気弱な彼がそんなことをしたくらいで、効果が表れるはずもなかった。 揺らいでいた瞳は彼を視界の中心に定めるともう微動だにしなくて、逃れられない。

「僕に何の用があるの?」

 恐怖からか諦めからか、自然と彼の敬語口調は崩れ去っていた。少女はそんな些細な変化になど構わず、質問に答える。

「教えて欲しいことがあるんです」

 少女の足下に落ちた言葉の一つ一つが彼には不発弾のように思えて、気が狂いそうになった。だけど少女の切迫した悲痛さが、訴えかけてくる目が彼に立ち去ることを許さない。

「どうして、なんであんなことを調べてるんですか?」

 やはり来たかと、彼はため息さえ出てこなかった。

「あんなこと、っていうのは?」 

 目を逸らしながらの白々しいほどにとぼける。あからさますぎて一瞬だけ険しいものが少女の表情に沸き立ち、しかし閉じた瞼の向こうにそれは葬られていった。

「この近くで死んだ女の人を調べてるんですよね、なんで、今更になってまた」

 言葉を区切る事に、一歩、また一歩と少女は詰め寄り始める。彼はもうどこにも行けない心地で、背一杯の嘘を紡いだ。

「実はその、知り合いの女性と連絡が付かなくて。死んだ、って噂まで聞いたから、その人の地元だって聞いていたこの土地を訪れていて……」

 自分がこうしている理由ですら虚構で塗り固めてしまえる己の白々しさは誰よりも彼自身が痛感していた。おまけにたった今だまそうとしている相手は、疑われても尚信じることで相手を説得してしまえそうな少女で、薄っぺらな自身の本性を殊更に彼は自覚させられる。

 だが。そうまででしてでも、彼は。

 この少女とは関わることだけは、避けたかった。その心根に思いを馳せたりなんてしたくなかった。

 例えば、少女が何気なく使った『今更』という言い回しにどんな意味があるのだろうか、なんて。

 考えれば考えるほど深みにはまっていくことが目に見えているから。

 しかし彼が近寄らまいとしても、何もかもが思い通りにいくとは限らない。そうできるのなら、彼はこんな町の中を行く先があるでもなしに彷徨ったりなんてしていない。

「その人ってどれくらいの年齢の人ですか?」

 少女のさらなる問いは着実に彼を追い詰めていた。選択を誤ったのだと気づいても、もう遅い。

「もしかして、若い、二十代になるかならないかくらいの女の人じゃないですか?」

 立て続けに繰り出される質問が少女の歩みのように着実に一歩ずつ彼に近づいてくる。

「それ、は……」

 間違いなどではない。恐ろしいほど迷いなく、一直線に少女は、彼が探す『彼女』の姿に迫ってくる。

「あたしは知ってるかも知れないんです、その人を」

 少女は胸に手を当てて自分を示した。

「どうでしょう? もし良かったら、その人の元まで案内しましょうか? その場合、交換条件っていうと変だけど……協力して欲しいことがあるのですが」

 一拍おいて、目を瞑り。空気を吸った少女は彼を見据える。不規則に移ろう訪れかけの日影が、その瞳の中で強い輝きを垣間見せる。

「その協力して欲しいことっていうのは?」

 やめろと自分を抑えつけようとしても、意味はなかった。その質問は思わず、口から零れたものだったから。

じっと目を瞑って首肯し、少女は答えた。

「はい。あたしの姉をちゃんと死なせてやってもらいたいのです」



 まだ若い葉も、寄り集まった樹木の枝に隙間なく茂れば色濃い木陰を描き出す。

 わずかに日差しの大人しくなった太陽を葉と葉の合間に見上げつつ、彼は少々傾斜の厳しい山路を歩いていた。一応、舗装はされてないわけではないのだが、でこぼこと小さな穴や突起が目立つ。

「……きついな」

 どうしてこんな道を平然と歩けるのだろうか、と彼は酷く辟易しながら、先を行く少女を見やった。

 ここまでの道中で最低限の自己紹介は済んでいる。瞳と名乗ったその少女は、彼より一つ年下の高校生だった。放送部に所属しているらしい。そんな、運動部員でもない年下の少女が、平坦だった町中の道と変わることのない速度で歩いている。

 単に慣れ、ということもあるのだろうが認め難い。平均よりも体力に劣ることは自覚していたものの、他愛ない矜持が折れる寸前で踏ん張っている。足取りを緩めるようにだなんてとても口に出せず、無心に足を動かした。

「この先に、あたしの家があります」

 きっと染めようだなんて考えたこともない漆黒の髪の少女は立ち止まり、振り返って坂の向こうを手で示す。

「そっか」

 瞳の勢いに流されてここまで来た彼の返事はまるで気の入ってないものだった。自分の発言を顧みて、似通った返事を姉にしたらどうなることだろうかと肝を冷やす。

 しかしながら少女は進む先にある目的にしか興味がなく、彼の口振りを一々気にかけたりはしなかった。

「姉の末期のことは、まだ話してませんよね?」

 前を向く少女の髪は翻らない。

「うん」

 もし話されていたら、忘れられるはずもなかった。

「だったら、そのときの状況だけは説明しておきます」

「わかった」

 とは言ってみたものの、彼女の話を受け止めきれる自信はない。ただ断ることもできずに彼は、木葉と雲の切れ間に見えないものを探し求める少女の眼差しを目で辿った。

 夏の空は騒々しすぎて、そこから降り注ぐ光を眺めると目が眩んでしまう。

「大学生だったあたしの姉は、ある日唐突に、実家に帰ってきたんです」

 となると普段は一人で生活していたことになる。故郷から離れた暮らしに共感する部分もあったが、抱く感情はどれも快いものではない。

「それで、帰ってきた日までは家族ともすごく明るく話していてたんです。わたしも少しだけ、大学でのお話とか聞かせてもらったりして」

 そこで言葉を切った瞳の、深く大きく森の空気を吸い込む音が彼の耳を撫でていくようだった。

「次の日になって母親が、姉は自室で首を吊っていた、って」

 結末は短く、直接の表現はなくとも一人の人間の終わりを濃く臭わせていた。言いきった瞳の、自らの影に沈み込んでしまいそうな様子を見かねて、というわけではなく自らが巻き込まれようとしていることの重みをようやく実感したから、彼は口を開く。

「自分で、自分を殺したの……?」

「はい」

 毅然と答える瞳は頑なな目をしていて、真意を読ませない。わかるのはその姉が、自身の手で人生に終止符を打ったことだけだ。

 彼は思わず、口走る。

「なんで、そんなことを、」

 してしまえたのか?

 その結末へと至らせた事情だって当然、気にはなってはいた。だけどそんな興味が及びつかないくらいに彼は引きつけられていた。自殺という、苦難から逃避する無二の手段へ踏み切れてしまえる心理に。

 それは彼が、どれだけ願い望んでも得られなかったものだから。

 そうして個人的な衝動に駆り立てられていたから、感づけなくなる。

「あなたこそ、どうしてそんなことが、訊けるんですか……?」

 振り返り、彼と目があった瞳の目つきは厳しい。その視線は氷を研いだ刃のように鋭く冷たく、今にも折れそうなほどに脆く、彼に突き刺さる。

 遅れてその目に感情の湿り気が滲み、瞼を閉じてそれを堪えた。溢れる激情を抑えつけながらそれでも黙って入られなくて、ぴしゃりと言い捨てる。

「そんなこと、知るわけ……ないじゃないですか……!? 勝手にっ、何も言わないで! お姉ちゃんはっ……姉は、独りでいなくなっちゃったんですから!!」

 言い切った直後に彼女は大きく見開かれている濡れた目で彼を見つめて、口を押さえる。

「あのっ! ……ごめんなさい」

 口早にそれだけを伝えると、瞳は前に向き直ってその表情すら彼に読ませようとはしなくなる。

 どう考えても迂闊な自分の責任で、彼はそこからさらに追求しようと言う気にはなれなかった。

 だから、黙々と歩くけれども、頭の中でこだまする。

 知るわけ、ないじゃないですか、と。痛切な瞳の声が。

 本当に理由も告げず、命を断ったのだろうか。彼にはそうは思えない。その切れ端が交わした言葉のどこかに紛れ込んでいたか、さもなくば最初からはっきりした理由なんてなかったかのどちらかだと思った。小さな傷や疲労だって積み重なったものが急に疼き出せば、耐えられない痛みに膨れ上がっても不思議ではない。

 それに、自分を殺したものの名さえ告げないで命をかなぐり捨てるなんて虚しすぎる。後には何も残らず、残せず。

 自分が死んだ後に、生きていた痕跡も残らないのだとしたらそれはどんな気分だろう?

 ふと思い浮かんだその考えを彼は反芻する。何かを残すこと。確かにここに自分はいたのだと主張すること。多くの人は、例えば子を遺してそれを行う。だけど配偶者も子を育てるだけの力もない彼にはまだ、そんな選択はとれない。

 今ここでできるのは、手が届く範囲。けれどももし、躓いている人が居て、その手を取り、立ち上がらせられたならば。ささやかでもその人の中で、手を差し伸べた自分が生きていくのだろう。

「ねぇ、ちょっと」

「何ですか?」

 瞳は振り返ることもせず、突っぱねるような返事ばかりが投げつけられる。我知らず声をかけていたに過ぎなかった彼は、口ごもって呼吸一つ分ほどの間、悩んだ。だが、やがて感情が纏まって、言葉が練り上げられる。

「ごめん、僕は何にもわかってなかったんだと思う。今になってやっと少しだけは、自分がしたら良いことを理解できた気がする」

 相変わらず彼の口振りには自信が欠けている。未だに何一つ、断言はできない、けれども。

「ちゃんとした返事できてなかったから、言っておくけど」

 肩越し彼を見やる少女の半眼は開かれて、彼の知らない色が覗いた。揺れ動いているものが驚きだとか期待だとか、そんな感情であることだけはわかった。

「僕なんかで良ければだけど……力になりたい」

 伝えたかったことがどれだけ話せたのか、彼にはあまり自信がない。だから、

「いえ、こちらこそよろしくお願いします」

 という瞳の返事が、想いの通じた結果であると信じておくことにした。

 上る坂道の傾斜は緩やかになり、日向と木陰の境界を何度も踏み越えて、目的地の家へと急ぐ。滲む汗がいくつか散って、ぼろぼろのアスファルトの隙間に染み込んでいった。

 息を切らしながら顔を上げると視界が開ける。その前方には生い茂った木々に陰る山道から、日当たりの良い空の下へとせり出す建物が見えった。小さな崖の上に建ったそこは、二階まである洋風の一軒家だった。



 開いたままの格子の門を抜けて、煉瓦で作られた階段を登る。日の届かない軒下まで来ると瞳が鍵を取り出して扉の右側についた錠前に差し込む。その間に彼は扉の脇に置かれた金魚鉢を眺めていた。

 水中にとぐろを巻く水草とふわりと放射状に広がった浮き草の根の隙間を縫い、メダカが五か六匹の小さな群れを成している。水底に積もった泥の模様まで曇りなく見える透き通った水の中で、ひれをたゆたわせていた。

 その銀色の鱗に包まれた小さな青白い体躯に見入る間もなく金属の擦れ合う音がした。遅れて勢いよくシリンダーが回り、あるべきもう一つの形にはめ込まれるのが聞こえてくる。

「空きましたよ」

 瞳は扉を左手で開け放ち、残る右手でその奥を示す。入れ、と言われているのは察しの良くない彼にでも明らかだったが、戸惑った。突然に訪問する他人の家、友人の少ない彼には何年ぶりのことかもわからない。極めつけに同年代の異性が住んでいると来た。

 気にしないつもりでも動作はぎこちなく、彼はびくついた様子で扉の内側に足を踏み入れる。

「お。お邪魔しまぁす」

 家の中は小綺麗に片づけられていて、埃一つない。玄関から真っ直ぐに伸びた廊下は今へと続き、その中途にはいくつかの扉が並び、右手の壁にはそれらの合間に階段があった。

「狭いんですからもっと奥へ入ってください」

 小さな両手と言葉に押されて彼は靴を脱ぎ、廊下に上がる。ちらりと背中越しに見えた少女が自宅なのに靴を揃えていて無礼を責められたような気分になり、彼もきびすを返して上がり框に腰掛けた。靴を揃えようと手を伸ばすと、狭い廊下に横に並んだ瞳と肩がぶつかる。制服の生地越しでも人の肌は柔らかく、温かくて、居たたまれなくなった彼は廊下のもう一方に身を寄せた。

「狭いって言ってるのに何で来るんですか」

「ごめん」

 他に返せる言葉もなく彼が自信なさげに顔を背けると、瞳の方が気まずくなる。彼女はなぜだか自分が悪いような気がしてくる。

「……別にいいですけど」

 瞳自身がその言葉の意図を理解していないのだから、彼にその真意を読めるはずはない。

「そ、それなら、良いんだけど」

 年長者としての尊厳が脆く崩れていくのを彼は幻視するようだった。

 どうしてかまた落ち込んでいる彼を怪訝そうな目で見つめながらも、瞳が先に立ち上がる。埃を払おうとはたいたスカートの裾が揺れた。

「こっちです」

 彼も慌てて立ち上がり、廊下から階段に消えていく背中を追う。瞳のすぐ後ろに並んだ彼は、機嫌を損ねてはいないだろうかと肩越しに彼女の表情を伺う。

 そして目撃する。

 酷く厳しい、そう形容しても差し支えのない瞳の目つきを。

 まるで階段を上った先にいる、あらがうことも容易ではない何か、それこそ幽霊でも相手取ろうとしているような態度だった。

「どうかしましたか?」

 瞳が彼の視線に気づいて顔だけ振り返る。

「いや、何でも……」

 安易に声を掛けるのも躊躇われた。

 今になって彼は、瞳が告げてきた「姉をちゃんと死なせる」という目的を思い出す。その意味に深く意識を潜り込ませていく。

 死に切れていないものに引導を渡そうとしているかのような言い草。きっとそうに違いないと思い、だったら、と瞳にその少女の名前を聞き出そうかとも迷う。もし『彼女』が瞳の姉なのだとすれば、少なくとも次の明け方には決着をつけられる。

 けれども、

「まだ早い、か……」

 どのみち今は、嗅覚でしか彼女の存在を知覚できない。急ぐ必要はなかった。

 ぬか喜びさせるのも申し訳ない、彼はもう少し、瞳から話を聞いて名前と霊の関わりを明かすことにした。

「広い家だね」

「そんなことありませんよ」

 廊下を上がり切った二階には一階のそれと比べると幾分か短い廊下があり、その両端と正面に扉が一つずつある。

「あたしの部屋はこっちです」

 瞳は真っ直ぐに進んで正面の扉を開き、その奥に入っていった。彼もそれに続くと、予想通りのような、或いは意外でもあるような様相の部屋にたどり着く。

 真っ先に抱いた印象は、

「これなら、落ち着けそう」

 というものだった。

 女性の部屋に装飾過多な印象を抱いていた彼である。

 けれども置かれているのは、観葉植物が植えられた鉢と飼っているもののわからない小さな水槽。よく見るとベッドの枕元に一つ、少年らしい天使のぬいぐるみが座り込んでいる。その不気味なまでに精巧なのに愛らしい表情もさることながら、彼は天使の右にしか生えていない翼が気になった。

 左の翼が千切れたようにも見えないがどういうことなのだろう?

 しかしそんな疑念はすぐさま打ち切られる。

「どうかしましたか? やっぱり、あたしの部屋ってどこかおかしかったりします?」

 彼の目をじっと見上げる瞳の双眸は、人付き合いに乏しい彼には近すぎた。

「いやっ……ううん、そんなことない」

 視線を逸らすために部屋を見回すと、他に飾り気のあるものは見あたらない。後は勉強机やベッド、簡素な箪笥など最低限のものだけが揃えられた部屋だった。

 少女趣味の部屋などに押し込められたら窒息死する自信さえあった彼なのでひとまず胸をなで下ろす。

「だけど……」

 気になって彼は、鼻から大きく息を吸ってみるが、何ともない。

 匂いに関してまで別段、まるで変わったところがないのはどうしてだろうか、などと考えている内に思い出した。彼は現在、嗅覚を失っているのだ。

 喜んで良いことなのか、判断に困る状況ではある。が、今回に限っては調子が狂わされないのだから、むしろありがたい。

 それならそれで良いだろうと割り切って、彼は瞳の部屋に踏み込んでいった。

「本当はもう少し整理しておきたかったんですが」

「これ以上は難しいんじゃないかな」

 瞳は机の脇に鞄を置くと、茶色の、やはり年頃らしくない絨毯に腰を下ろす。

「どうぞ、こちらへ」

「うん」

 彼は瞳が手で示した先、丸い机を挟んだ彼女の向かいにあぐらをかいた。行儀良く、もしくは堅苦しく膝を揃えて正座をしている瞳と、彼との目線の高さが合わさる。

 逃げ出したくなる衝動を彼は必死に抑え込んだ。

「細かい事情を説明します。……あまり気分の良くなる話じゃないのですが、大丈夫ですか?」

 どこか浮き足立っていた彼は問いかけられて、我に返った。今更になって、自分がしていることに疑問を抱く。

 こうして過ぎ行けば遠からず尽き果ててしまう時間を、見ず知らずの少女を助けることに費やしている。霊の名前を探るのならば、もっと効率の良いやり方がいくらだってあるはずなのに。手段を選べるほどに余裕もないはずなのに。

 考えればその数だけ、反省と後悔が生まれた。

 それでも、と彼のどこかが訴えかける。

 命と引き替えにしてでも、譲れないものがあるはずだと。

 ようやく自分自身で見つけだした一欠片の本音を両手に掴み、離さないように抱き抱えて、彼は瞳を見つめ返す。

「大丈夫。教えて」

「……わかりました」

 言葉を探そうと瞳の瞳孔が僅かに緩んで、深淵を覗かせる。その内なる視線が記憶の底を駆け巡った。

 彼がその思椎の終わりを待っていると瞳の目がゆっくりと伏せられて、悲哀や悔恨、他人が安易に触れることを許されない暗い影が過ぎっていく。

 それらを睫毛が二度、瞬かれてそれらを振り払った。

 もう一度、彼に焦点を合わせた双眸には強靱な意志が張りつめている。

「姉がこの世にいないことは先ほど説明したとおりです。そのことはもうどうしようもなくて……言葉にできないけど、普通じゃ、いられなくなるんです。わかりますか?」

 溢れそうになったものを呑み込んで、彼は頷く。

「ですよね。当然だけど、あたしの家もそうでした。避けることなんてできなかったと思います」

 家族を亡くした人間としては致し方ない反応だろう。ただ彼が気がかりだったのは、瞳の口振りが当事者らしくない点だった。まるで悲しむ家族を傍から見つめ続けていたかのように。

「だけど、わたしの母は少しおかしいんです。ついていけなくて……」

 どんな意味にでもとれてしまう、曖昧でありながら今にも破裂しそうな危うさを匂わせる物言いだった。瞳の暗い雰囲気も相まって、好ましくない方向にばかり想像が膨れ上がる。

 本音を言えば、彼とてどんなことが起きたのか、訊きたい気持ちは少なからずあった。だが、訊けない。訊けるはずがない。震える睫毛や、自分よりも遙かに強大な何者かへ抗おうとしているように強ばる口の端を見ていたら。

 それでも問題の解決に勤しもうとするのならば、真実に触れることのないまま解決法を探っていくしかない。それは傷に触れることなく傷を治療するくらいに無茶なことなのかもしれないけれども。

 どう訊ねたら良いものか、恐る恐る彼は、纏まらない疑問を慎重に言葉へと変えていく。

「だから、その、僕はお母さんを説得すれば良いの?」

 自分で言っておきながらも彼は思わずにはいられない。今ここで迂遠なことをしていたところで、真実も知らない人間がいくら説得を試みても言葉に重みが生まれない。それでは、相手の心に届かない。

 そのことを自覚して肩を落とす彼だけれども、やつれ、小さく縮こまっていた瞳の表情から多少なりとも憂いが抜け落ちている。もうそれを見てしまうと彼には、無意味だとわかっていても直接的な物言いはできそうになかった。救いようのない自分の性分にまたしても溜め息を漏らしつつ、彼は瞳と目を合わせる。

 どれだけ自分が馬鹿でも、逃げ出したらいけない場面もある。

 瞳は彼をじっと見つめてから、最小限の返事として、首肯を返した。その動作に、辛そうなところが混じっていないか彼は注意深く観察しつつ、手に入れた事実を整理し始める。

「そっか……」

 瞳が抱えている問題。姉の死が発端となったそれは、悲嘆に暮れた母親の異常として表れている。しかしそれがどのようなものかまではわからない。

 月並みながら彼が想像したのなら、重苦しい家庭の空気ということになる。瞳一人が空元気で他を賑わそうとしているのなら、きっとその光景は救いようもなく痛々しい。

 だが、それが事実だったとしても彼にできることなんてない。その母親を元気づけられるのなんて亡くなった姉本人にしかできないだろう。ましてや部外者である彼の言葉など空々しくしか響かない。

「僕は……僕は、何をしたら良いんだ?」

 気がついたらその問いは口から漏れていた。改めて自分の立場を見つめ直し、その異常性に思い至る。

 なぜ、初対面で、何ら身分の保証もない人間がここまで信頼されているのか。こんなところに導かれてきたのか。

 考えて、考えてから、一つだけ。

 やるせなさばかりが募る結論に至る。

 詰まるところ、それくらい瞳には余裕がなく、また頼れる当てもなく、死に物狂いで掴んだ藁が彼だったのだ。

「僕にも、どうにかなることなのかな?」

 怖じ気付いた、というのとは少し違う。まだ彼に尻尾を巻くつもりはなかったから。

 ただ背負っている期待に気づき、それに自分が相応しいのかが知りたかった。まさか、そんな絶望と背中合わせの希望に己が見合うとは彼自身が思えなかったのである。

 進もうとする足が竦んでしまう。

 だから、欲した。

 他人からの肯定を。

 自分が誰も傷つけないで済む、確信を。

「あなた、は……」

 苦しみが多少は和らいだ代わりに、泣き出しそうなほど脆い顔を見せていた瞳の目が見開かれる。驚いて、それから納得したように肩の力を抜く。

「もちろん……か、どうかはわかりませんけど、あなたなら、なんとかなると思います」

 そう伝える瞳の頬と目尻は優しい微笑に緩んでいた。

「それは、僕が似ているから?」

 君と、まで口に出しそうになって慌てて彼は自分を戒める。そんなのは彼だけが心のどこかで思ってきたことであり、瞳からすれば見当違いも良いところである。無闇に寄り添いすぎて不快に感じられるのではないかと、彼はそんなふうに危惧をした。

 だが瞳は、そんな彼の姿に少しだけ苦々しさを交えつつ微笑みながらも「それもあるかもしれません」と否定はしない。彼はその発言の細かな意味を計りかねて訊ねようかとも思ったが、瞳は目を伏せてしまっていた。

 彼が諦めて黙すると、彼女はそのままいつの間にか手元から消えていた宝物を探すように視線を巡らせる。その度に部屋の奥で揺れるカーテン越しの淡い白光が細やかな黒髪の上を踊った。

「……実は、自分でも、無茶苦茶なことを言っている自覚はあるんです」

 日差しの残滓は髪に染み渡り、不規則に波立っていた黒い瞳孔が静かに凪ぐ。その奥深く、底を見透かせない強かさは穏やかな冬の夜の海を思わせた。

「こんな頼みを真面目に受け止めて、しかも請け負ってくれる人なんて他にいません。あなたにできなかったら、そもそもできるはずがなかったんです。そもそもわたしのやり方が間違っていたんだって、それだけのことなんです」

 自分にしかできないこと。そんなものが存在しないことは知っている。社会を生きて、人の濁流に溺れて、誰しもがまざまざと見せつけられることだ。

 だが、現実にこの少女の悲鳴を聞き届けることになったのは彼である。もし彼よりあらゆる面で優れた人間がいたのだとしても、というよりは間違いなく存在するのだろうけれども、そいつに瞳の声は届いていない。

 可能性だったらいくらでも考えられる。

 だけど現実に、彼女を助けられるのは彼だけなのだ。

「無理強いはできませんけど、お願いです。どうかあたしを、助けてください。こうして話を聞いてくれる、その優しさだけが頼りなんです」

 優しさ。

 卑怯な言葉だと思った。

 惰性と自らの意志との間で揺れる葛藤さえもが、正しかったように言い換えられてしまう。打算も何もかもが、あやふやで形のない温情に書き換えられて、しかもそれをやめてしまうことに罪悪感を抱かせる。

 おまけに――

 目の前の少女に別の面影が重なりかけて、彼は口で表せない感情の有象無象を飲み干した。

 それでもまた、響いている。或いは自ら疼いている。彼の人格の柱を成す根幹の記憶に。

「そ、そう……」

 奇妙な感覚は徐々に収まっていった。しかしどうしようもないむずがゆさが後に残る。うまく正体はつかめないけれども、懐かしさも混じる感慨が消えようとしない。

 そこから湧くものが、ぼろぼろにひび割れていた彼の傷を埋めていった。崩れ落ちそうだった骨と皮膚とが今、一時ばかりの力を取り戻す。

「……できるかは、わからない」

 しかしながら、彼にも矜持がある。期待でも願望でもなく、懇願を向けられて、彼は退けない。ただそれだけで嬉しくて、前に出ようと歩を進められる。

「こんな僕じゃ、頼りないだろうけど、見捨てることだけはしないから」

 どれだけ気張っても、格好良く、とは行かないのが彼である。だがそれで良い、泥臭くたって構わない。そう心の中で、そのときに限っては頷くことができた。

 そんな彼が、どんなふうに見えていたのか、或いはどんなふうに見られていたのか。それを穏やかでありながら苦しんでいるようでもある瞳の表情から推察することはできない。ただ、小さく首を縦に振るその行為が彼の背中を押していた。

「わかった」

 彼がもう一度肯定すると、瞳は固く目を瞑った。それからまた開くとそこには、真面目そうな澄ました双眸が彼を映している。

「ごめんなさい、さっきまでの説明だとよくわかりませんよね。なので今から、具体的に何をしてもらいたいのか、あたしの作戦を説明します」

「うん」

 答えた彼は前のめりに身を乗り出すのだが、力みすぎて奇妙なまでに肩肘張っている。その様を見て、瞳は目を丸くした。

「えっと……どうかされましたか?」

「説明するんだから、ちゃんと聞かないとな、と思って」

 至極真面目に彼が言うものだから瞳は失笑してしまう。どうにも切り出しづらい空気に困惑しながらも、彼は真剣そうにしているか良いだろう、と結論づけて説明を始めた。

「それではまず。あなたには姉の彼氏に……それでもできたら同棲してるくらいに、深い関係になってもらいたいんです」

 今度は彼の方が唖然とする番だった。

「ええと……君の姉はもう死んでるんだよね? それで僕は、その人がしっかりその……成仏? できるようにって呼ばれたんだよね?」

 彼の確認にうんうんと頷いていた瞳は「だから」と付け加える。

「ちゃんと姉を死なせるためには、家族と同じくらい親しい間柄の人間になってもらわないといけないんです」

「うん?」

 まるで理解が追いつかず、彼の思考は混迷を極めていく。元々情報が余りにも少ないのである。そこに加えてこの少女の、色々と先走りすぎた説明が飛び込んでくるものだから、風が吹いて儲かった桶屋も真っ青の論理の飛躍が生まれる。

「ごめん、僕、馬鹿だからさ。一から説明してくれない?」

「はい」

 冗談など微塵も入る余地のない、真剣そのものと行った真顔で瞳は返すので、彼はもう何も言わずに解説を待った。

 彼女は彼の目を見て、しかしそこよりもずっと先にある今は遠いものを見つめる。心の中で星ほどの数の感情が遣り取りされ、それらの光跡が彼からも目に見えるようだった。

 やがて光は潰えて、深い闇色が訪れる。

「あたしの家族の問題点はとても単純です」

 ぽつぽつと瞳の口から、幾多もの心情と綯い交ぜになった記憶が吐露される。

「幸せな家庭なら、家族を失うと必ず苛まれる危機」

 俄に沈みだした瞳の声音と表情に彼も無用な口は挟めなくなくなる。

「つまるところ、受け入れられないんです」

 何が、とまで訊くほど酷なことができるのは本物の考えなしから人でなしだけだと彼は思った。

 そんな彼にも思うところがあって、瞳から目を逸らしてほんの一瞬だけ別のことが頭を過ぎる。

 その視界の隅で立ち上がった瞳の肌の白がちらついた。

 事情を飲み込めずに顔を上げた彼が呆けた顔をしていると「ついてきてください」と瞳が横を通り抜けていく。振り向くと、その背中は扉の影に消えていった。

 どうにも当初の予想からは外れて、この少女は猪突猛進するきらいがある。本日、何度目になるのかわからない溜め息をこぼす彼である。

 それから改めて、廊下を見据えた。日当たりの良い室内は光に溢れていたために際立って薄暗く感じられる。そこには結局、得体の知れなかった瞳の姉への不気味さも混じっていた。

「早く来てくださいよ」

「うん? ……あぁ」

 隠すことなく本音を言えば、彼の心の半分は怖じ気付いて立ち上がろうか迷っていた。だけどもう残りの半分が使命感や何かで奮い立ち、逃げ出すことを許さない。否、そんな上辺だけの部分ではなく、もっと根幹から彼は目を背けたくなかった。それは十数年間で培ってきた彼という人間がこれからも彼であるための闘いである。

 膝を立て、力を込めながらゆっくりと延ばして立ち上がった。きっとあの廊下よりも遙かに暗く湿った、瞳が宿す翳りに踏み込んでいく。その決意もする。

 廊下に出ると、瞳は向かって右手の突き当たりで進むことも退くこともできずに棒立ちになっていた。豊かな黒髪に覆われた肩は一際華奢に、そして儚げに彼の目には映る。

 彼が歩み寄ると、彼女は頭だけ振り返った。その仄白い横顔とこぼれ落ちそうなほど透明度を増した目に、これから自分が触れようとしているものの意味と価値とを思い知らされる。

 彼は瞳の顔から視線を下ろし、その手がドアのノブを握っていることに気づいた。

「僕が開けた方が良いかな?」

 恐らくそこは、姉の部屋。開こうとしているそれは、瞳にとってはトラウマの扉でもあるのかもしれない。少なくとも気軽に開けられるものでないだろうことぐらいは彼にだってわかった。

 だけど瞳はかぶりを振る。

「平気です。これくらいのことで躓いていたのでは、話になりません」

 唇は青ざめて、無理をしているのは目にも明らかだったが、瞳はゆっくりとドアノブを回した。微かに擦れた音が廊下に落とされて、抵抗なく、扉が開かれていく。

 粘つく闇に閉ざされている。

 そう室内に感想を抱いたのは錯覚ではなかった。僅かながら確実に光の届いていた廊下とは違い、瞳の姉の部屋はカーテンが締め切られている。瞳の頭越しに覗き見る室内はやたらと多い収納棚や一人掛けのソファー、そこに置かれた薔薇の形のクッションに、文様が彫り込まれた机などが見受けられる。実用性を重んじた瞳の自室とはあまりにも対照的な様相で、二人の性格の違いを如実に表していた。

 だが、壁掛け棚に置かれているそれがふと目に入る。

「あの天使のぬいぐるみは……」

 短い両足を投げ出して座る、笑って見える顔の天使の少女を目で示す。

 その背からは左だけの片翼が広げられていた。

「お揃いのですよ。元々は姉の趣味だったんですが、きっと気に入るはずだってあたしにもくれたんです」

 道理で、瞳の部屋の中でただ一つあったあのぬいぐるみは異彩を放っていたわけである。姉に振り回される境遇に彼はどこか親近感を覚え、直後、瞳からはもうそれが失われていることの虚しさに取り込まれた。

 ここには置き去りにされた言葉が降り積もって、足下がおぼつかない。その一々に感傷的になって躓く彼にはあまりにも似付かわしくないこの世とあの世の境目だった。

 その証明である、彼の視線を引き寄せて離さないものが部屋の隅に追いやられている。

 引きちぎられた電源コード。片づいた室内の中でそれだけが乱雑にカラーボックスの前でとぐろを巻いている。冗談でも何でもなしに、そいつは人を絞め殺していたのだ。

 なぜ瞳はこんなものを見せるのだろう?

 彼は当然、疑問に思った。通常なら発見次第、捨てていてしかるべきものなのに、どんな理屈で残されているのか。一瞬悩みかけて、しかしほとんど考えることもなく自分の中で納得のいく答えにたどり着く。

 通常、ならば捨てられているものなのだ。

 通常、でないから彼はここにいるのだ。

 そのことを知らしめるために、あれ以上、有力なものもない。

 瞳は後悔と懐古とが入り交じった難解な色に目を潤ませて、呟く。

「姉の部屋に入るのは、久しぶりです」

 まるで水面に爪先で波紋を立てるようのような慎重さで、踏み踏み入っていく。その度にみしみしと鳴る軋みが、不自然なまでに鼓膜に響き、耳に残った。

「全部が変わった日の前日に姉に呼ばれて入りました。それ以来、一度もここには入っていません」

 締め切られていた部屋の中心まで瞳は歩いていった。そしてそこで、白い表面に大輪が浮き上がったテーブルの隣で右の爪先を軸に身を翻し、彼と向き合う。

「姉はここで亡くなっていたそうです。首を吊って、それから机は蹴り飛ばしてあったとか」

 見ているだに痛ましい、必死になりすぎた笑みに彼はどうしようか、なんと言葉を掛けようか迷う。込める力の強すぎた頬は固く、なのに触れた途端に崩れだしてしまいそうだった。

 その笑みに触れるにはどんな言葉だっておそらく角張りすぎていて。

 だから彼も精一杯に微笑む。好きでもない同級生らに向けていたものと似ていて、だけど少しだけ力強い。他人のためになれば、という思いが彼を後押ししていた。

 大変だったね。

 大変でしたよ。

 そんなことを表情の裏でやり取りして、互いに笑みを打ち切る。意図したわけでもなしに、二人のその仕草は同時に行われていた。

 彼は湿っぽさに捕らわれないようにしながら、きっと核心に迫る質問を口にする。

「ここに入ることを許してくれなかったって、どういうこと……?」

 訊ねると瞳の表情が引き締まり、彼に向けられた目つきがきつくなる。

「それは――」

 階下から扉が開く音を聞いたのは、そんなときのことだった。



 ――ただいまぁ、お母さんよ。

 男性ほどではないが低い中年女性の声音。

 見知らぬ人間の登場に彼は危うく飛び上がりそうになる。落ち着いて気に病むべき事は何もないと自身に言い聞かせるが、そんな彼の動揺がずっと冷静に見えるくらい、瞳は取り乱していた。

「ま……まずいです、ど、どうしましょう!?」

 何かまずいのかさえさっぱりな彼には当然、的確な行動の指示などできるはずがない。瞳は捜し物でもしているのか頻りに辺りを見回し、彼は所在なく、ただじっとしていることもできずにあたふたしていた。

 そうこうしている内に階段が軋みを上げ、重たい足音が迫ってくる。

 なぜだかは知らないが、逃げるべきなのだと彼は悟った。それが最良の選択肢なのだと。だけどその『逃げる』という行為事態が彼に強い嫌悪感を抱かせる。

 決めていたのだ、今回ばかりは真正面から立ち向かうと。

 それは散々に情けないところを見せてまで瞳に作り上げてもらった決意があるからできたことであり、またそうであるからこそ、彼に他の選択は取れなかった。

 何よりもまずは、彼が頼ってくれた少女に自分の存在を、頼りなくとも助けがあることを教えなければならない。

 彼は瞳の元まで歩み寄るとその目を見て「僕が連れてこられた目的は?」とだけ質問した。慌てた様子の瞳は当初、質問の意を飲み込めず、怪訝そうに彼を見つめた。

 問い方を間違えただろうかと焦りが過ぎる。余計に瞳を焚きつけてしまったかもしれない。

 気が急いていた彼はこの後に不必要で回りくどいやり取りが待ちかまえていることを想像して悶えそうになった。だが、直後に返ってきた「ごめんなさい」の一言は落ち着きを取り戻していて、胸をなで下ろす。

「こうなればもう一か八か、一発勝負です。手短に説明するので聞いていてください」

 痛みや苦しみを必死に堪えて揺らぐ目で瞳は彼を見据え、語り出した。

「――これだけです」

 彼女が語った内容の、あまりもの平凡さに彼は息を飲み込む。だがすぐさま理解が追いついて、当たり前だからこそ、この家の異常を正す切り札となることに思い至る。

「そうですね、では事前に言っておいた通り、あなたは姉の彼氏だったってことにしてください」

 扉の枠の奥、階段と廊下とを隔てる手すりの向こうに外出していたとは思えない乱れた髪が覗く。その寸前にそっと瞳が耳元で囁きかけたのは簡単な口裏合わせだった。まだ言い残していたことがあったらしい。

 彼は無言で頷き、二人して来るべき困難に向かい合った。

 階段を上がってきた女性は、実年齢がわからないまでに老け込んで見えた。だけどそれは頬が痩けて顔色も悪く頭髪に白髪まで混じった有様だからだ。その眼窩の中で黒ずんだ目が蠢き、彼と瞳を視界に納める。直後、瞼が大きく開かれて彼はその目の黒色に呑み込まれるような心地がした。

「な、なに……してるの? 誰、あなた? なんでっ、なんでそこにいるの、瞳!?」

 前のめりに今にも倒れそうになりながら、瞳の母は迫ってくる。瞳はやりきれなさそうに苦いものを飲み下してから、母親を真正面に捉えた。目を逸らすことを辞めて。

「あたしが案内してきたの。もう死んじゃったのにお姉ちゃんは誰からも見送られてない。このままじゃずっと、お姉ちゃんは一人になっちゃう。だから、一緒に――」

 続く言葉を待たず、部屋に踏み込んできた母親が叫んだ。

「何度も言ってるでしょ!? まだあなたの姉は死んでない、一人で生活してるんだって。姉への僻みか何かは知らないけど、冗談でも、死んだ、なんて言わないでっ!!」

 その台詞に彼は、この家庭で起きたことの異常性を垣間見る。接してきた瞳の言葉や仕草の一つ一つが線で結ばれ、確かな輪郭を描き出す。

 実際に手に触れてみた真実は接したそこから体に入り込み、何度も彼を責め苛んだ。

「だから、お母さん! お姉ちゃんはもう死んでるんだよっ!」

 会ったときからは想像もできないくらいに熱く湿った声で瞳は訴えかける。その双眸に今にもこぼれ落ちそうな悲哀に潤み、まるで臓腑を吐き出すように言葉を紡ぎながらも、引き下がらない。

「あたしはもう、いやなの……死んだお姉ちゃんから目を逸らして生きているお母さんがぼろぼろになるのは! わかってるはずなのに、自分に嘘ついて、このままじゃ壊れちゃいそうで……!」

 瞳の告白に一瞬、母親の表情が歪むのを彼は見た。だけどすぐに険しく引き締められる。

「いい加減にして、瞳。それにその人は誰? なんで知らない人を勝手にお姉ちゃんの部屋なんかに連れ込んでるの?」

 溢れるものが多すぎて赤く血の昇った瞳の目が揺らぐ。反論する言葉を探していることは彼にもわかり、また身を引き裂かんばかりに本心をぶちまけた瞳にはもう吐き出せる言葉なんて残っていないことも痛いくらいにわかってしまった。

 だから彼は、瞳の眼前に手を掲げて制する。

「待って、お母さんは、あたしは……あたしが――」

 見上げてきた潤む眼に任せてくれるようにと無言で見つめる。瞬き一つの後、瞳は震えと見紛う小さな動作で頷いた。その意志を受け取って、小柄な少女と目を合わせていた彼は顔を上げる。

 そうして一対の目が向けられるのは少女の母親。そこに根を張る、少しだけ大きくなりすぎてしまっただけの悲しみ。

「僕は彼女の……瞳さんの姉と親しくさせてもらっていたものです。彼女の行方が知りたくて調べ回っていたら、ここにたどり着きました」

 初めから打ち合わせていた通りの内容を口にする。それ故に緊張はなく、だが、熱が籠もらない。

「だから何? 悪いけど娘はここにいないの! 今は一人で暮らしているだけっ! それに本人の許可もなく自室に入るなんて――」

「僕は……僕はここまで、お参りをしにやって来ました。別れを、彼女に別れを告げに来たんです」

 思いが先走って同じ語句を繰り返してしまう。それでも彼は、がむしゃらになってでも、瞳の母へと当たり前のことを伝えるためにここに来たのだ。

 強がりも体面も打ち捨てて泣けばいい。それしか、できることなんてないのだと。

 なぜかと言えば、聞いている瞳の表情があまりにも見ていられなかったから。まるで傷だらけの体で何も掴めない四肢を振り乱しながら暗い海の深淵へと沈んでいくようだったから。

 その痛ましさは関係のない彼にまで生々しい痛みを伴って突き刺さり、見て見ぬ振りなどできるはずがなかった。

「だから、あの子はまだ……!」

 食い下がる母に瞳がまたも吠えようとする。だけど今度も彼が目配せで抑え込んだ。それから改めて、瞳の母と向かい合う。

「無理ですよ」

 なんと切り出そうか言葉に迷い、いつの間にか漏れていたのはそんな台詞だった。彼自身、唐突に飛び出したそれに戸惑いながらも、しかし頭とは別のところから湧き出すものを必死に形にしていく。

「無理なんです、大切な人の死をなかったことにするなんて」

 前置きもなく語り出した彼に、瞳の母は「え?」と怪訝そうな顔をした。その表情が戸惑いから怒りや呆れへ成り下がる前に、彼は次なる情動を言葉にしていく。

「認めまいとしても、気づいてしまう。だっていないんですから」

「だけどあの子は、一人暮らしをしているだけで……」

 異常を平常で覆い隠す自己防衛。誰しもに潜んでいる弱さ。彼自身にも覚えがあって、だから責めることなんて到底できずに、とは言え瞳のことを思えば見過ごすこともできない。

 と、そこまで至って、疑問がつっかえてしまう。

 どうして瞳は、こんなことを受け入れようとしているのだろう。このままでも良いのではないか、と。

「ねぇ、でも、どうしてもしなくちゃならないことなのかな。無理にこんなことしなくても……」

 自分でもどこから滲んできたのかわからない言葉がぽつぽつと彼の口からこぼれた。その滴は床に当たって跳ね返り、微量ながら瞳にも届く。

「受け入れたりなんてしなくたって……」

 語る言葉の行く先が彼自身にも判然とせず、語尾は曖昧に震えるままとなった。けれども消え入った続きは、形になどしなくても通じてしまう。

 その最後までを聞き届けた瞳は、目を伏せてしばらく、考え事をしていた。やがて彼女が再び顔を上げ、彼を見上げる。

 その目の透明さに、彼はこの少女が疑いようのない願いを抱えていることを思い知らされてしまう。

「あたしが姉の部屋に呼び出された話、しましたよね?」

 漏れ出した声に、瞳の母親も黙し、その行く末を見守っていた。

「そのときにあたしは、別れる間際にこんなことを言われたんです」

 それから瞳の目が虚ろになり、ここでない場所を見つめる。曖昧な意識になって、その口から言葉がこぼれる。

 ――ごめんね。どうか許してほしい。

 まるで姉の霊が現れたかのように寒気さえ伴って首筋を駆け上る迫力に彼の肌は粟立った。戦慄なる感情を全身の皮膚に感じ、彼は、それだけでなく瞳の母も、横槍なんて入れられない。

「だけど、家がこんな状態じゃあ、あたしはお姉ちゃんを許せない! いきなり帰ってきて、いきなり死んで……何で何も言わないの!? 皆、お姉ちゃんを助けようとしてたのにっ」

 かつてはここにいた、そして今はどこにもいない姉への弾劾はやるせなく虚空を穿つだけだ。それでも彼はその、発露した感情の熱に当てられて鼓動が痛いほどに激しくなる。

 そんな感情の使い方を彼は知らなかった。そんな刺々しさが瞳の中にあることを彼は知らなかった。不器用で優しげな少女にどこか親近感を覚えていた彼は、だから思考停止に陥った。

 どうにか紡ぎ、吐き出す言葉にも力が籠もらない。

「でも、死んだのにだってきっと理由が……」

「あるんだと思いますよ、だけど! 相談くらい、してくれたって良いじゃないですか!! ……家がこんな風になることくらい、わかっていたはずなのに……」

 語気が萎み、身の丈に合わない激情を背負っていた肩が縮こまって、瞳はうなだれる。どうしようもなく弱々しくて、惨めな姿にようやく彼はこれまでと同じ瞳を見出していた。

 それは単に、彼女が敵意を失ったから、ではない。

 行き場のない悲しみが憤りに変質して、姉を非難しようとした少女。その、抑え込むことも叶わない怒りに戸惑って攻撃的にもなりきれず、それどころかもういない誰かに縋ろうとさえしている弱さに、だ。

 或いはこの世界の人間は、それを優しさと呼ぶのかもしれない、なんてそんな他愛ない考えが頭の片隅を過ぎる。そこに苦々しさを感じつつ、彼は「わかった」とだけ告げた。

「……はい」

 すっかり弱り切った瞳に、彼はもう声をかける気になんて到底なれず、もう一度その母親と向かい合った。

 何を言おうかなんて、決まってなかった。

 だから、どうしても批判的になりそうな口調に気をつけながら少しずつ偽らない思いを吐き出す。

「慰めたりなんて、難しいと思います。悲しみが消えることもないと思います。だからせめて一緒に、彼女と泣いて上げてくれませんか?」

 彼がそう言い切ったのを最後に、意味のある言葉が声となって部屋に響きわたり、空気を震わすことはなかった。ただ無言で母が彼の横を通り抜けていく。しばらくしてその咽び声だけが、娘のそれに寄り添い、重なった。



「お世話になりました」

 玄関前でお辞儀をする瞳に、彼は首を横に振る。

「僕が来なくても、瞳さんたちならどうにかなってたよ」

 そうでなければ彼が担った役割は、せいぜい、最初の切っ掛けを作ることだけだ。後はもう、誰の手を借りずとも然るべき結末へ流れたことだろう。謙遜でもなく彼は自分をそんなふうに評価していた。

 だけど瞳は横に首を振る。

「いいえ、他の誰もないあなたがいたおかげです」

 鮮やかに冴え渡る夕焼けの赤に溶けて目立たない、泣きはらした瞼を薄く閉じて、にこやかに微笑む。その風にそよぐ黒髪から照り返す茜色すら鮮烈すぎて、彼は目を細める。

「あたし一人じゃ、お母さんと向き合えませんでしたから。後のことはどうでも良いんです、だからどうか、お礼をさせてください」

 抱え込んでいたものを吐き出して晴れやかな表情になった少女は、風に煽られるスカートを両手で押さえつつそんなことを微苦笑混じりに言う。彼はそのたおやかな佇まいに、こんな一面もあったのかと嘆息しながら「まぁ、それなら」なんて曖昧な返事をしていた。

 しかしここに至ってようやく彼は、自分がここを訪れた目的を思い出す。

「あぁ……そうだった。えぇっと、最初に話していたこと、覚えてる?」

 これまでの出来事に感情を揺さぶられてきた瞳も、思い出す前に一瞬だけきょとんと笑顔を曇らせる。一呼吸分ほどの沈黙があって、そこで彼女も目を僅かに大きく開いて手を打ち、「そうでした」と自分のことで手一杯だったそれまでを恥じた。

「今更、になってしまいましたが、探していたのはあたしの姉で合っていましたか?」

 この質問には彼の方も、あの霊の少女に確かめないことにはどうすることもできないのでお茶を濁す。

「それは……そう、だと思う」

 せめて名前さえわかれば、なんて考えていた彼は重大すぎる自分の手落ちに気づいてしまう。

「あ。その、お姉さんの名前って何だっけ?」

 勢いのままに発言してしまった彼は、それが故人を探す人間としては不自然極まりない質問であることに思い至れなかった。

 夕方の薄い暗がりの中から、怪訝そうな目で瞳に見つめられ、彼はたじろぐ。

「し、知らなかったんですか、姉の名前?」

 ふと我に返って彼はさらなる自分の失態に頭を抱え込みたくなった。名前すらわからない人間を追ってこんな田舎町まで来るとは、生前、どんな関係だったのか。自分が作り出した状況でありながら、得心の行く説明がまるで思いつかない。

「いや、それは、……変な関係だったんだよ」

 観念した彼は、説明できないことを説明した。

「ふふっ」

 疲弊した様子の彼に、瞳は思わず声を漏らして笑ってしまう。すると恨めしそうな彼の視線を受けて、彼女は気恥ずかしそうに口を押さえた、

「す、すみません……落ち込んでいるさまが、なんだか可愛らしかったもので」

「ぐ……」

 あまり素直には喜べない。

 こちらの様子を覗く少しだけ不安そうで、でも楽しげな双眸にもはや彼は反論の言葉も出そうになかった。打ち解けた雰囲気に乗じて、さっさと名前を聞き出してしまうことにする。

「それで、じゃあ、お姉さんの名前はなんて言うの?」

 随分と迂遠な道のりを経て再び巡ってきた質問に、もう瞳も余計な疑問を口に出すことはなかった。

「さち、と言います」

 幸せと書いて『幸』です、と付け加える瞳はおどけた調子でいて、その裏で溢れ出しそうになる涙をうまく誤魔化していた。だから彼も無為な励ましはしないでその応酬に乗る。

「それじゃあ海の幸とか、山の幸みたいだね」

 言うだけ言っておきながら、我ながら酷い感想もあったものであると自重する彼である。そんな苦笑する彼を、責めるような口振りで「お姉ちゃんは食べ物じゃありません!」と憤慨する瞳は、どことなく楽しげだった。

「ところで、帰り道はわかりますか?」

「えっと……あぁ、わからない」

 意地を張ることなく彼が白状すると、くすりと笑う声が聞こえる。

「それじゃあ、駅まで案内しますね」

 冗談を言い合った調子のまま、瞳は跳ねるようにして彼の脇を通り抜け、門扉の外に飛び出した。

 頭上で木々がざわめく道路へと横殴りに投げかけられる夕映えはぞっとするほどに赤く燃えている。枝に生い茂った若葉から道ばたの雑草までが鮮やかに紅葉し、その色に世界が沈んでいく。

 そこへ躍り出た瞳はくるりと身を翻し、彼へ振り返った。飛び散った血よりも赤い煌めきが数滴、見えなくなる最後のときまで、色褪せることなく輝いていた。

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