二日目

 それから通りすがりの人々の連絡があって病院に運び込まれた、という話だけは医師から聞いたものだった。そこを覗けば全てが彼自身の記憶であり、回想である。

 ひとまず経緯を振り返った彼は、ベッドの上で上体だけを起こしながら意味もなく窓の外を眺めた。晴れやかな空の下、自ら光を発するように輝かしい白さの雲が流れていく。

 朝一番で飛んできた母親が帰って行ったのはつい今し方のことだ。地元の病院に移ったらどうだと、そんな提案を切羽詰まった様子で勧めてきて、彼は宥めるのに相当の苦労を要した。

 だから落ち着いて状況の把握に取り組めたのは今になってからのことである。ただ思い返しても何もかもが彼の手を離れていて、どこか、自分に起きたことなのだという実感がなかった。

なかったけれども、打ち消せない肌寒さが蘇る。

「夢ではない、よね……」

意図したわけでもないのに、夢とも現ともつかない明け方の一幕を思い出していた。

 静かな病室、舞い上がったカーテンの向こうに溢れる淡い朝焼けの色、そしてそれに照らされて静寂を破る黒い影。

 大して意識せずとも、精細に思い起こされる。それほど時間もかからなかった。そうだというのに彼は暫く、動かなかった。というよりは、動けなかった。

 柔らかい日溜まりに浸かっていれば少しは、冷え切った体のどこかも暖まるのではないかと、そんな期待をしていた。残念ながら日の光は心の中までは差し込まず、彼は蹴散らしていた布団を手繰り寄せる。それを抱え込んだ膝と肩に纏って彼は、抑えきれない寒さに耐える。そうでもしないと、震えは止まってくれそうになかった。

 これが普段だったならば何も食べられなくなるまで腹を膨らませ、後は布団で寝てしまうことだってできた。眠くなるまで無心に頬張れば、多少の辛いことは忘れていられる。三大欲求の二つに従うだけの安直なその場しのぎだったが、ひとときの安らぎを得ることはできた、はずなのだ。なのにその、彼を幾度となく和めてきた些細な真実が、まるでこの場には当てはまらない。

 眼前にある、ベッドの脇から延びる収納式の机に置かれた盆とそこに並んだ食事を見下ろしながら彼の表情が歪む。

 彼の箸が多少の意欲のために動いたのは最初の一口を運ぶまでだった。それからもう箸を握っている気にもなれなくて、盆の上に転がしてしまった。

 米も味噌汁もまだ湯気を上げていて香りを嗅げば食欲がそそられるのだ。そう、匂いを嗅ぐだけならば。だけど口に入れた瞬間、全てがだめになってしまう。

 病院食が味気ない、なんて話の通りだったからいけないのではない。

 というより、今の彼にはどんな味も障害にならない。

 そもそも、何を食べても無味にしか感じられないのだから。

 味噌汁を飲むとまるでヘドロでも流し込まれた気分になった。水にだって味はあるはずで、味覚の消えた舌で飲む味噌汁はそれよりもずっと無機質に感じられる。ご飯にしてもそれは変わらない。仄かな甘みを感じられなくなって、粘つく粒は噛み潰す度に不快感が溢れた。

 それらは全て、彼自身の選択の結果である。

だとしても、易々と甘受するには苦痛が伴った。あの夜闇と曙光が入り交じった世界のことを思い出して、彼は何度も後悔させられる。

 夜明け前の薄闇の中、現れた暗闇の主は彼にこう告げたのだった。

「これから一日に一つずつ、あなたの五感を奪う。その全てが乗っ取られた時、その体はわたしのものとなるわ」

 あまりにも唐突で身勝手な宣言だった。だけどその時の彼は、覗いてしまった容貌に言葉を失っていて、反論さえもままならなかった。だからその少女に、一方的に質問を突きつけられてしまう。

 つまりは、

「どの感覚から奪えばいい?」

 なんて、笑い出してしまいそうなほどに間の抜けた死刑宣告。自分の体をどこから解体するか尋ねられるようなものである。体を乗っ取るつもりならば彼に意見など求めずに、最初から最後まで勝手に振る舞えば良かった。もしそれが、別の意図があってのことだとしたら恐ろしく残酷なやり口だとも彼は思った。

 いくら彼が自分の生に絶望していても、即答などできるわけがない。

 しかし彼女が直後に語った言葉が、一瞬にして彼の中に選択の基準が築き上げる。

「奪われた感覚でなら夜明けの時間以外でもわたしを認識できる」

 その時、彼の口は考えるよりも早く動いていて、自分で自分が言ったことを理解するのに時間がかかった。それほどのものが彼の中で渦巻いて、彼女の知覚を拒絶した。

 味覚ならば他人を認知するのに役立つとは思えない。

 そうして選択した果てが、この味の抜け落ちた食事だった。現代社会においてならば最も生存に役立てる機会の少ない感覚とはいえ、生まれてしまった空洞は風が吹き抜けすぎてうそ寒い。時間が立てば立つほどに彼はその大きさを実感させられた。

 だけどいつまでもこうしてはいられない。彼には時間がないのだ。彼は味が消えた味噌汁と白米と漬け物の残りを掻っ込んでざっくばらんに噛み砕き、水で流し込む。

 満ちていく朝日に薄まりながら彼女はこう言い残していた。

「もし、体を奪われたくなければ、わたしの名前を探り当てなさい。そうすればわたしは消えるから」

 質の悪い冗談だとは、彼も思った。五日間、布団に潜り込んで丸くなっていれば全てが終わっているのではないかと、本気で考えもしたのだ。しかしながら彼には親への恩があり、或いはそうしたものの姿を借りた生への執着がある。

 まだ死ぬわけには行かないと、それが彼の出した結論だった。

 そのためにはまず手始めに、手持ちの情報を整理しておきたかったがための先ほどの回想である。現状、彼にわかっているのは恐らく彼女が女性であろうことだけだった。他にも不確かな直感のようなものが働いていたが、どれも確実とは言い難い。

 あまりにも自分の情報量が頼りなさ過ぎて、溜め息すら出てきそうになかった。だからその名残を鼻から吐き出しつつ、彼はふと気づく。

 あの時、鼻孔を擽る香りが漂っていた。今はどこにもそんなものなんて感じられなかったけれども、あの少女は微かな花の香りを纏っていた。

 それは単に甘いのとも違う、不思議と心が和む香り。吸い込むだけで緊張が解れる軽やかな匂い。

 記憶の欠片が小さく煌めく。昔、姉に引きずられていった香水専門店で彼は似たような匂いを嗅いだことがあった。原料となる花の香りが控えめすぎて、その人が立ち去ると初めて嗅ぎ取ることができるという変わった香水。店主が自ら精製したものでそこでしか手に入らず、値は張るが遠くから買い求めにくる人も多いと聞いていた。

より深く記憶を呼び起こし、その微細な欠片を寄せ集める。

 その店は、辺鄙な地方の市街の表通りから外れた薄暗く狭苦しい路地にひっそりと開かれていた。個人が経営する小さな店で、店主と顧客が顔馴染みであることは十分に考えられる。情報源としての見込みは確かだった。

もちろんのこと、こんなのは全て徒労に終わる可能性だってあった。だけど万が一、彼女の言うとおりになったとしたらこのままでは彼の体が乗っ取られる。それはつまり、そういうことなのだろうと、どうしようもなく避けがたい想像が彼の脳裏を過ぎっていった。凡人らしく、真正面から立ち向かう力のない彼は、彼女の発言を鵜呑みにするしかなくなる。

 そうすることに課題が多いのも事実だったが。

 彼は布団を蹴り飛ばし、悩み始めた。どうにか看護師の目を掻いくぐって外出しなければならない。おまけに昼食の時間にまで帰って来られなければ面倒な騒動になる。もしこんなところで余計な騒ぎを起こしたら親や看護師たちに迷惑が――

 そうまでして自分は良いように見られたいのだろうかと、思わず彼は失笑していた。

 じきに死ぬ人間が体面など気にかけ、何の意味があるだろう?

 考え出すと馬鹿らしくて、細かな計画を立てる気にもなれなかった。彼はベッドの脇にあるラックから財布を取り出して中身を確かめる。

「行けそう……だな」

 カーテンを閉めると昨日も着ていた制服に着替えた。平日にこの服装はまずいだろうかと着替えの入手先を思案する。だけど家に帰ろうにも叔父や叔母への言い訳が思いつかず、仕方がないので適当に中古の衣類を買うことにする。

 迷うべきことなど、もうなかった。

 これからの未来を切り捨てて、いつまで続くかわからない『今』を希求する旅へと彼はさまよい出す。

 まだ何も見えてこない彼方の霊の墓を目指して。



 電車に揺られて三時間弱。

 彼が向かったのは小さな田舎町だった。駅の改札が人の手で行われていたり、駅前にはおよそ繁華街といった賑やかな場所もなかったりと、よくある寂れた地方の枝葉である。

 電車を降りた彼は駅員との会釈も程々に、町へと繰り出した。目指す店は駅から歩いて十分ほどの商店街にある。そこは地元民同士の縁だけで存続してきた、古い店ばかりが目立つ区域だった。

 駅前のロータリーを抜けた先には、チェーンの居酒屋や軽食店が一見ずつ、見て取れる。他に飲食店だと寂れた洋食屋が一件あるだけ。ロータリーにはタクシーの一台も停まっていない。

 眺めているだけでもうら寂しくて、しゃがみ込みたくなる光景から目を逸らすと彼は真っ直ぐに歩き出した。道順は頭に入っている。

 駅前から延びる、この一帯では比較的広い道を進んでいった。国道を越え、墓や寺が道の脇に過ぎ去り、やがて足下の歩道の石畳が痛み始める。人よりも雑草で賑わう一帯が過ぎ、程なくして今にも倒壊しそうな民家と個人経営の小さな店がひしめく通りに出た。

 そこが目当ての商店街である。

 早速彼は、記憶と目の前の光景を照らし合わせながら歩みを進めた。郵便箱のような大きさと形状の怪しげな自販機も道の岐路にて高らかに佇む仏像も変わりがなくて、かつての風景と重なる。

 記憶に間違いがないことを確かめると、今度はすし詰めになっているいくつもの店を見渡した。表通りに例の香水店はない。昔からの老舗が多すぎて、空間的にも雰囲気的にも新しいものを受け入れられる余地などそこにはなかった。

 だから彼は、そんな店と店の隙間、初めて通れば見過ごすことは間違いない細い路地に入り込む。薬局と民宿の間に開かれたそこは淡く光るような苔が道の両脇に群生していて、薄暗い中へと彼は誘われていった。

 道の幅は狭く、またそのせいで二階建てまでの建築物しか存在しないのに酷く日当たりが悪かった。およそ視界は民家の木の柵に埋め尽くされていて、そんな小道が無限に続くようにも思われる。

 しかし歩を進めていくと、一件だけ柵もなく、敷地の割には背丈も低い木造の店の硝子戸が見えてくる。頼りない木製の壁に風で吹き飛ばされそうな屋根を載せたその店の周りだけは日が差し込んでいて肌にも滓かな熱が滲み、陰気な雰囲気が払拭されていた。

 彼はその明るさに誘われて、店に近づいていく。

 微かにくすんだ扉の硝子の向こうには立ち並ぶ棚が見えた。立てつけの悪そうな引き戸開くと冷たくて少し埃っぽい空気が流れて出してくる。だがそんなことなど忘れてしまうほどに、そこに混じった幾千もの花の香りが彼を包み込んだ。数え切れないまでに多様なのに絡み合った香りは甘い心地よさだけを残して霧散していく。どんな人間でも気を緩めてしまうだろう感覚に、彼の脳は痺れを覚える。

 甘い香りに酔いながら、彼は店に入った。

 それら香りの元となった小瓶が、壁沿いと、店の中央で背中を合わせている棚の中に無数に並べられている。店の前とは対照的に店内は薄暗く、色褪せた木の床に落とされた陰の色の深さには積み重なった時間が透けて見えた。

 こんな平日に昼間だから他に客はいないものの、彼が姉とここを訪れた日には狭い店内にそれなりの数の人間が出入りしていた。そうした帰り際に手荷物の増えない客はなかった。こんな平日の昼間でなければ、もっと客の賑わう人気店なのだろう、と彼は一人結論づけて思考を断ち切る。

 この店が繁盛してようがしてまいが、彼の目的は変わらない。

「こんにちは」

 挨拶は意識して、彼の方から投げ掛けた。

「こんにちは」

 木目が目立つ古めかしい机の向こうに立った、古めかしい店を経営している割には若い女性が挨拶を返してくる。髪を纏めて藍色のエプロンを着たその人は時間を忘れたように穏やかな笑みを浮かべていて、それが溌剌に弾けると彼は僅かに肩をびくつかせた。

「どうしたの、こんな店に来て。偶々入っただけ? それとも彼女への贈り物?」

 事情を明かすわけにも行かず、他の言い訳を考えるのも面倒だった彼は「そんなところです」と曖昧に茶を濁した。明るい人間は苦手である。暗い自分が置き去りにされていくのを強く実感させられるから。

 そんな彼の様子をどう受け取ったのか、女性は納得したように鼻を鳴らした。

「ふむふむ。そっか。よく男の子がこんな店を知っていたね」

 言われてみれば、少々不自然な状況ではある。これに関しては口ごもりたくなる事情があるわけでもないので、彼は正直に事実を語った。

「前に、姉の買い物に付き合わされたことがあって。それで来たんです」

 彼の姉はどうしてか、友人とでも一緒に来れば良かっただろうに頻繁に彼を連れ出す。しかも荷物持ちや雑用といった意味のある同伴者として引っ張り出されることすら稀で、ただなんとなく、そんな理由にならない理由で彼は振り回された。

 こんな根暗な自分と連れ立っていて何が楽しいのだろうか。そんな疑問を今日もあの日も抱かないではいられなかった。

 ともかく、彼はここで余計な物思いは振り払って、本題に入ることにする。

「水芭蕉の香水はありますか?」

 それが彼の姉が何本か買っていた内の一本だった。多く持っていたところで、自分一人だと使いきれないのは明白なのに。

彼の質問を受けた女性は目を丸く見開いた。「ほほぉ」と時代劇じみた感嘆を漏らして、面白そうに微笑む。

「よくそれが売ってるって知ってたね? 意外に通じゃない!」

「えぇと、姉によく話を聞かされていたので」

 彼の姉が言うには、本来、水芭蕉は花に囲まれていても条件が合わなければ匂いを嗅げないような、微かな香りの花だった。しかしこの店の店主は独自の製法で香りの淡さを上品さへと仕立てあげて、一個の商品として成り立たせているのである。

「買う人は珍しいんですか?」

 だとしたら幽霊の正体に近づきやすくなる。彼は興奮とも陰鬱ともつかない不思議な心地を噛み殺して返事を待った。

「そこそこかな。他では売ってない品物だから、固定客は多いし」

 言われる前からわかっていた話ではあった。供給が程々でも需要が極端に大きな商品なのだ。彼は少しばかり落胆しながら質問を重ねる。

「そうですか……。若い女の子だと、それ、気に入ってくれると思いますか?」

 いかにも、彼女への贈り物で悩んでいる風を装いながら。彼は次なる策に打って出る。これで客層を絞り込めたのならまだ、生前の霊に迫る望みがあった。

 思惑が見え透きそうになるので、彼は極力、己を宥めながら店員の様子を伺う。

「それは……そうだね、若い子にはあまり人気無いかな」

 木目が連なる机の天板にひじを突いて、女性は一応、考える素振りをしている。しかしながら返答までの間は短くて、思い出すまでもないことなのは明らかだった。

思わず彼は期待に胸を高鳴らせる。

水芭蕉の香水を買う若い人間はごく僅かしかいないのである。それならば女性が客の顔を覚えていることもあり得るだろうと思って、彼は次なる質問を連ねる。

「だったら、最近になって――」

 見かけなくなった少女はいないだろうか。

彼はそう訊ねるつもりだった。なのに喉に詰まった空気がそれを阻害する。不意に沸き上がった逡巡に喉が締め付けられる。

 こんなことを調べていって、何になる?

 これまでの日常を取り戻そうとして、彼は今も必死になっている。しかし、迷ってしまうのだ。果たしてこうして駆けずり回ってまでも自分は、閉塞した灰色の日々に戻っていきたいのだろうか、と。

 自分のそれまでの生活を省みれば、彼はどうして自分に幽霊が憑いたのか、その理由を明らかな確信を持って即答できた。単純な話だ、他よりもずっと、中身に欠けているからである。周りの意見に従い続けて自分の本音を見失い、異物が入り込むには十分な空洞が彼の内には穿たれてしまっていたからなのだと彼は考えていた。

もちろん彼だって、そんな自分の有様を肯定しているのではない。自虐と評されても仕方のない考えが過ぎる度に、彼は目の前が黒く染まっていく思いをした。今だって体が気怠く、意識が遠くなっていう。

「どうかしたの?」

 我に返る店員の女性の顔が目と鼻の先に近づいて、

「うわぁ!?」

 素っ頓狂な声を上げて彼は飛び退いた。背中が棚の一つにぶつかって、その最上段から小瓶が一本落ちてくる。それが彼の頭を強打して、さらなる悲鳴を絞り出した。だけどそのおかげで彼は瓶が落下していることに気づけた。咄嗟に痛みがした方を見ると、視界の頂点から、硝子製の瓢箪のような小瓶が流れて落ちていく。掴み取ろうとして延ばされた右手が、それを追いかける。

 指が、硝子の磨き上げられた表面と擦れた。

 彼はその頼りない摩擦に追い縋ろうと必死に指を引き戻し。

 しかしまるで力不足で、指が硝子の上を滑っていく。

 瓶は視界から流れて落ちていき、硝子が砕ける甲高き断末魔の悲鳴が飛び散った。

 散らばった破片の幾つかは爪先に当たり、跳ね返って静かになった。そして例の、じっと意識を研ぎ澄まさなければ嗅げないはずの仄かに甘い香りが、今は何倍にも濃縮されて死臭となり鼻につく。

「…………っ」

 それは否が応でも、彼に彼女のことを思い出させてしまう。夜明け前の薄闇に佇む、あの現実のものかも定かでない少女の影を。

 その様子を見ていた店員がきまずそうに苦笑いを浮かべた。

「えぇ……っと、あっと。その、ごめんね?」

 顔の前で小さく手を合わせて、謝罪の意を示してくる。それならば叱りつけてくれた方がずっと気楽でいられたのに。もう彼は落ち込む気にも慣れなかった。かぶりを振って店員の謝意を退け、彼の側から頭を下げる。

「すみませんでした。責任は僕にありますから。これっていくらなんですか? お代、払います」

 彼の発言を受けて店員は慌てて顔の前で大げさに手を振った。

「え、大丈夫だよ、そんな! その彼女さんにお店を紹介してくれたら――」

 店員の気遣いはありがたかった。紹介してくれたら、というのが彼に気を遣わせないためなのだと察してもいた。子供らしく大人の厚意に縋っていれば、それでよかったのだ。

だけど店員の発言で奥底に押し込めてあったものが沸々と沸き起こり出す。自制する間すらなく、彼の喉は息吹を紡ぎ、彼の歯と舌で言葉を刻んでいく。

「――――――、――――」

 最初、自分でも彼はなんと入ったのか理解するのに時間がかかった。

「え……、あ、あの……そうだったの」

 たった一言、彼が口走っただけ淀んだ、店員の目を見て、把握する。自分が声に出してしまったことの息も苦しくなるような重苦しさに。

「じゃ、じゃあ今日はその子へのお供えものを買いに?」

 もう死んでしまった、なんて吐き出された途端に広がって空気を濁らせる失言の後なのに、店員はすぐさま明るく言葉を取り繕う。彼は彼で失敗した反動から恐ろしく冷静になっていて、真実と区別のつかない深刻な声音で虚構を語っていた。

「ええと……はい。その子が香水はここで買ったらしいと聞いていたので、最近になって来なくなった子はいないのか、訊ねに来たんです。気に入っていた商品を知るために」

 今しか話せる時はないと思って、彼は必死に全てを吐き出した。自分でもどうやって口を動かしているのかわからなかったが、言葉はすらすらと彼の口から滑り出た。

「あぁ、そういうことか。そうだね、水芭蕉と合わせて買っていく人が多いのは……」

 店員は赤みがかっていたり、花びらが沈んでいたりする香水の入った瓶をいくらか彼に見繕ってくれた。彼はそれらを漏らさずに買い、店を出た。

 店の外は日溜まりになっていて、服の上からも温もりが滲んだ。吸い込む空気には葉の匂いが混じり、夏の訪れを感じさせる。

 そんな中にあっても、彼は自分の影に視線を落としていた。目映い輝きの中にあればあるほど黒々と澱む自らの影に。

 結局、値段を負けてもらってまで香水を購入しまった。こんなものはそれこそ、彼女への供え物にするしかないというのに。こんなものは助命の嘆願にすらなりはしないのだが。

 立ち止まって返品しようかとさえ考え、彼は店の方へと踵を返そうとした。だけど古びた木の枠にはめ込まれた、埃の付着する硝子が視界の端には入って首を止める。あんな出鱈目を言っておきながら、どの顔を下げて戻れば良いのだろうか。そんな器用で図太い生き方を彼は知らない。

 少し考えて、来た道とは違う方角へと歩き出した。

 でこぼこの石畳はやがて砂利道へと変わってくる。少し湿った焦げ茶色の砂に大小様々な小石が転がっている。道の両脇に木の板が連なって柵を成し、道と敷地を分断していた。曲がりくねった路地は行く先が見えないが、真昼の日光が直上から注がれて、さほどの閉塞感はない。汗まで滲み出したので、古着店で買った寸法の小さい長袖シャツで髪の生え際を拭った。どうも服がきつくて動きにくく、この上、汗などかいたら生地が張り付いて酷く無様な格好になるだろうことは予想できた。だけど彼はそうなった姿を想像して、陰鬱な気分になるよりもむしろその滑稽さに腹を抱えたくなった。今の彼に服装を気にするだけの余裕はない。

 暫く歩くと、無数のタイヤとアスファルトの擦れる音が忙しなく彼の耳にも届くようになってきていた。どうやら、大通りが近づいてきているらしい、と察するとどこか夢想めいていた時間にも現実の質量がまとわりついてくる。それから病院を断りなく抜け出してきた自分の立場を思い出し、待ち構えているだろう困難を想像した、とは言っても初めから目を逸らしていただけだ。ありありとその情景が思い浮かぶ。

 両親が、恐らくはいきり立ってやってくるだろう。或いは泣いているのかもしれない。

 そんなことを考えると、自分もまだ捨てたものではないように彼は思えた。誰かの愛を実感できて。同時にそれがのし掛かってくるようで気詰まりでもある。自分がそれに見合うほどの人間かと問われたら彼は答えを返せない。親が何と言おうとも、彼しか知らない自分自身がどうしようもなく無価値であることを教えてくれる。

 また思考の泥沼にはまっていると気づいて、彼は溜め息をついた。

この悲観的な考えを振り払うのだって、今まで挑んではきたことの一つである。自分より苦しんでいる人間は他にもっといる。自分にこんなことを思う資格はない、と。何度も言い聞かせ、その度に思いは挫折してきた。苦しみを絶つことだって、何の労力をかけずに、とはいかないのである。

 それが自分の中でだけ歯車を空転させるような行為だったのだとしても。

 いい加減に考え事をしていても気持ちが沈むだけだと思い至り、彼は足を早めた。できる限り無心に足を動かしていたくて、目指す指標が欲しくなって周囲に視線を行き交わせる。目の前の景色は代わり映えのしない路地で、気温は昼寝するならちょうど良さそうな陽気だった。どちらも欠伸が出るほど退屈で気を紛らわすには頼りない。味覚に関しては言わずもがな、となると残りは鼻か耳かしかない、そこまで考えて彼は感づく。

 まとわりついてくる異質に。

この気配は、この雰囲気は。

昼下がりの陽だまりと夜明け前の病室が重なる。

 何の感覚が働いたのか、そんなことはどうでも良かった。気が付いたとき彼はむち打たれたように走り出していた自分に気づく。その気配を追いかけて。

 来た道を少し戻って途中の辻を右へと曲がり、来たのとは違う道へと駆けていく。住宅の合間を通り抜け、本当に道なのか怪しくさえ思える狭い路地を抜け出す。

辿り着いた車一台がどうにか通れそうな道を左へと走っていく内に、いつの間にか気配は掻き消えていた。当惑した彼は周囲を見やる。瞼の裏にちらついた少女の姿など影も形もなく、彼は戸惑うばかりだった。

 だけど彼はそこで、不思議と目が引きつけられるものを発見していた。

 一件の店、と呼ぶには少々見窄らしい小さな小屋である。今にも崩れ落ちそうな庇の上には看板がかかっていて、彼はどうにかそこが茶と菓子を提供している店らしいことを知る。塗料が剥がれ落ちて剥き出しになった壁はどこか痛々しくさえあった。だけでなく窓と言うものが一つも見当たらなくて、酷く閉鎖的な印象も与える。

 それなのに彼が目を引き付けられたのはそこで、また、徐々に足が引き寄せられていくのもそこだった。

 荘重で分厚い木の扉に歩み寄り、真鍮の鍍金が剥がれかけた大きな取っ手を両手で握りしめる。ゆっくりと後ろへ体重をかけながら開くと、扉は軋みを上げてその奥を覗かせて彼をその内へ招き入れた。

 埃っぽいのとも違う、不思議と年代を感じさせる穏やかな暗中に天井からぶら下げられたランタンが頼りない明かりを投げかけている。そうして幽かに、四人掛けの机と椅子が三揃い、照らし出されている。およそ一般的な店で見るようなカウンターはなかったが、扉を入って正面から延びている廊下が足音に軋んだ。聞いていると床の木板の悲鳴は酷く、その内に抜け落ちはしないかと不安にさせられたが、何事もなく老婆が姿を現す。頭髪こそ白く老けきっていたが、こんな場所に似合わない背筋の延びた老人だった。くしゃりと相好を崩した顔が和やかでいて、その瞬間だけ、心が緩んだ彼は足下が覚束なく感じる。

「いらっしゃい。お茶にする? それともかき氷?」

 喉は乾いていない。かといって、この時期にかき氷は少し早いだろうかとも彼は考えた。しかしながら逡巡したのは一瞬のこと、理性的な判断など遠く思考の外へと弾き出される。

「なら、かき氷を」

「味は?」

「えっと、小豆金時で」

 知らずと甘みを欲した口が勝手に動く。味覚が失われて気づけなかったが体は糖分を欲しているのかもしれない、なんて推測をしていると否が応でも直視するしかなくなる。例え甘味を頼んだのだとしても、自分にはそれが楽しめないことに。

 しかし老婆はもう店の奥に引っ込んでしまっていた。今更、取り消すこともできず、彼は棒立ちになっているしかなくなる。

 程なくして老婆が線香と砂糖の匂いを着古された割烹着から振りまきつつ戻ってきた。

「待たせたね。小豆金時で合ってたよね」

 差し出されたのは底の浅い透明な器に降り積もった細かな氷の粉末だった。頂点から流れ、雪山の半ばほどで止まった滑らかな小豆からは甘い香りが漂う。

「えぇと、はい。ありがとうございます」

「そうかい。五百円だよ」

 既にいくらか硬貨を握っていた彼は、そこから一枚だけを老婆の手に載せた。

「どうぞ」

「うん、合ってるね」

 老婆が代金を確認するのを見届けてから、彼はかき氷の皿を持って手短な椅子に近づいた。小さくて安っぽいパイプ椅子だ。それが添えられた机も折りたたんで持ち運べるプラスチック製の簡易なものである。ここ以外は二揃いの机や椅子も積み重ねた時間が染み込み、木目の色が味わい深い代物なものだから明らかに浮いていた。

 座っても平気なのだろうか、なんて疑問が冗談でもなんでもなく彼を不安にさせた。耐久面でもそこの他にも懸念が多い。だけどこの時はどうしてか、彼は自然とそこに腰を下ろしていた。机の高さに彼の体格があっていなくて椅子も些か小さすぎたが、意外にも安定感はある。

 一息つくと、彼はスプーンでかき氷を一掬いしてみた。そっと口に運んで、氷の粉が一粒ずつ溶けていくのを感じる。冷たすぎて味が気にならないのは幸いだった。彼は気分が良くなって、次に掬った氷に小豆を乗せてしまう。

 そのまま、腕に染み着いた自然な動作として口に運んでいた。口を閉じ、舌と口蓋で押しつぶして、彼の頬は期待していたものに緩んだ。いつも通り過ぎて何も気づけず、舌ですりつぶした小豆の小粒と氷を飲み込む。

 仄かな砂糖の名残が吐き出した息から散っていった。

 さらにもう一口とスプーンを持った手を伸ばそうとして、彼は硬直する。腕が、思考が。

「甘い……!?」」

 らしくもなく声を上げて驚いていた。自分の舌が信じられなくて、彼はもう一口、口にする。だけど錯覚などではない。

 甘い。

 当たり前ではなくなった当たり前が彼を愕然とさせた。言葉さえ奪われて、意味を成さない震えた声が喉から漏れる。

 味覚が働いている。

 なぜだと、疑問が渦巻いて視界が捻れた。現実感はなくて、しかしもはや否定のしようがない。

 疑問に思うべきことは、もっと他にたくさんあった。だけどその時は、再び戻ってきた幸福からじわじわと発されだした熱に満たされて、理由などどうでも良くなる。無心に手を動かして、ほんの半日の間だが自分の内に穿たれてしまった空虚を彼は必死に埋める。皿から溢れんばかりに盛ってあった雪山はみるみる山肌が削られて小豆の流れは枯れ果てていく。どれだけ舌が冷えても彼の手は止まらなかった。

食べ進め、掘り進め。

 透明な皿の底を見たとき、彼は言いしれぬ虚脱感に襲われる。もう食べ終わりかけていることが信じられなくて、砂糖の残滓が混じった溶けかけの氷を何度も掬い、口に運んだ。その度に伝わる甘さは中々彼を離してくれない。

 だけどやがて、自分のしていることに虚しくなった頃に彼はスプーンを置いた。不思議な心持ちのまま、立ち上がる。それでも感覚の残滓は消えなくて、呆然としたまま食べ終わったことを老婆に告げて、扉の方へと向かう。

 店に入るときは重たく感じた分厚い扉も、このときばかりは中身をなくしたようだった。 足をもつれさせながら店を出ると、生温い風が頬を撫でていく。彼はもう一度あの味を思い出そうとして、舌の上に意識を束ねようとする。そうしてだけど、全ては幻だったとばかりに味覚はその存在すらも感じさせなかった。



 誰にだって耳を塞ぎたくなるときはある。そう信じないと現実は彼を見捨てて、遠く及ばない場所にまで飛んでいってしまうような気がした。向き合う度に、打ち付けられる無力感の一つ一つが痛くて堪らない。

「なんであんな場所へ来ていたんだ!? 母さんに来いと命じられていたのか!?」

 不必要に大きな声は同じ病室にいる他の患者から著しく視線を集める。そのことを憂いながら、だけどそれ以上に父親とはち合わせたときのことが思い出されて彼は気分が沈んだ。

 茶屋を出てから彼は、もう一つだけ寄った場所があった。言葉にできるほど確固とした理由はなく、出し抜けに湧いた衝動に駆られて赴いたのだが、そこに父親がいた。いつも彼に『正しい』道を示す厳格な人物である。

「今のお前に余裕があるのか? あんな場所へ行っているなら、するべきことが他にあるだろう!?」

「それは……」

 間違いではなかった。彼は今日まで、随分と時間を浪費してしまっている。

 今まで父親を納得させられるだけの成果が見せられていない彼に、刃向かう死角はなかった。

 方を強ばらせて浴びせかけられる叱咤の怒声に必死に耐える。体にいくつものひび割れが走り、軋みが上がるのを錯覚した。

 それでも耐えて、父親の気に障らないようにしていると、やがて少しずつだけど勢いが弱まる。怒鳴り声がぶつぶつとした「母さんも母さんだ……」なんて愚痴に変わっていった。

 だからといって肩は軽くなるどころか、重くて今にも抜けてしまいそうなのだが。

「――じゃあ、しっかりやれよ」

 丸椅子から立ち上がった彼の父は、急かされたように病室から立ち去っていった。骨の髄まで萎びた彼はベッドを囲うカーテンを締め切り、白々しいほどに洗い抜かれたシーツに倒れ込む。息を吐くと、僅かに残った気力に混じって気疲れも逃げていくように感じた。しかし空気を吸い込めば当然、体はまた少し重たくなる。

 ずっと吐き出し続けるだけでいられたら良いのにと、下らなくて馬鹿げた願いが一抹煌めき、肺の隙間に消えていった。体の中の全てを吐き出して、溶けて行けたのなら、もう何にも煩わされることはないだろうから。

 もう何度も彼が辿ってきた思考である。ここ数年間、一人でいても誰かといてもそんなことを度々考えさせられてきた。

しかし中でも、父と対面した後のそれは一際である。

父が期待しているものが彼にはわからなかったが――否、頭ではわかっていたのだが実行できていない彼を見て、父は会う度にその素行を厳しく戒めた。今回などはわかり易い。こんな時に何をしているのか、お前の為すべきことは療養と勉強だろうと、つまりはこんな内容である。

 どちらが合理的なのかは言うまでもなかった。

 問題は、合理的に動けない彼にあることは自覚している。

 ベッドの下に隠した古着のごわごわとした感触思い出しながら、小さな不満を集めて繋げる。本当は命じられたどんなことをしている最中でもこれで良いのかと疑問を拭えないでいた。若い気力を生かして為すべきことは他にあるのではないのかと自問自答し続けていた。

 冷静になって振り返って、彼は自分が持っているたった一つの趣味のことを考える。世界の縮図に見入るそれこそが彼のそんな心情を体現しているように思えた。誰にも告げず、広げた両腕よりも小さな世界に求めるのだ。どこかにあるかもしれない理想を。

 窓の外はもう暗い。じきに夜が深まるに連れて、病院の中の喧噪が少しずつ収まっていった。夕食をとった彼は頭まで布団を被り、早く次の朝が来ることを願う。

 明日は何をするのかも、残る五感のどれを捨てるかも決心はついていた。

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