一日目
引っ越して二年と少しになるマンションから駅までは徒歩で、そこから人混みに分け入り、電車を目指して改札口に流れていく。そんな、特別なことなんて何もない環境が彼に与えられた日常だった。
小さな田舎町を出身地に持つ彼だったが、その一帯では頭一つ抜けて勉強ができた。だから故郷に先生に勧められ、引っ越した先の進学校に推薦を受けて入学した。
その才能を見込まれた故に与えられた待遇であり、望んだ立場である。
だけどそれがどんなときでも気が抜けない、まかり間違っても留年などできない環境であると気づいてから随分と経つ。息苦しさに慣れることはなかった。だから時折、願ってしまう。
休まる時間が欲しい。今は遠い昔のように。
考えていても気が沈むだけだとわかってはいた。だから頭から余計な思考を振り払い、ICカードを片手に急ぎ足で改札を抜ける。
そうして見上げることになるのは寄り集まった人々が上へ上へと蠢く階段。いつもの光景ながら辟易しつつ、彼も流れの中へ身をねじ込んでいく。立ち止まることも許されず熱気に溺れながら階段を上り切ると、今度は人の群れをより分けて通路の奥へと縦断する。その最中で彼は幾度となく小さな衝突を繰り返したが人々は無関心に、無感動に過ぎ去っていく。
ここにのっぺらぼうが紛れ込んだとしても誰も気づきはしないのだろう。
そんな下らない考えを弄んでいると習慣のしみついた足が勝手に彼を目当ての流れの中へ放り込む。楽しそうな顔ではしゃぐ女子高生。眠そうな顔をしたサラリーマン。やけに厳しい目つきでヒールを鳴らすOL。本当は怠惰でありたい無数の人々の些細な義務感が集い、逃すことなく彼を運び出した。
ここからは人の流れに身を任せるだけだ。考えることをやめて足ばかりを動かしているとそんなつもりはないのに他愛無い物思いが頭を占拠する。
昨日は思ったように勉強ができなかった。こんな失敗をするのはもう数えきれないほどなのに、後悔する感情はいつまでも擦り減らない。せめて夢や目標の一つでもあればこんな苦境も打破できるのだろうかとテレビや何かに取り上げられていた意欲溢れる少年や少女の姿を思い出す。年上も年下も含めて、夢を追いかける彼らの目は燃えていた。
彼からすれば少し、眩しすぎるほどである。
固い床を踏みしめて、彼は階段を下っていった。プラットホームに出ると俄に日差しの色合いが増し、溜まらず目を細める。
目指す場所も自分の足下も見失い、そんな彼はふと屋根と屋根の隙間、レールの直上に覗く、吸い込まれてしまいそうなほど透き通った空を見上げる。
こうして空の青色の起源を探していれば少しだけ現実を忘れていられる。その様がさながら、酸欠に喘ぐ魚のように哀れだとしても。道具も不思議な力もない彼には、この街の塵が舞い上がった雲の向こうさえ見通せないのだけれども。
――まもなく、三番線に列車がまいります。危ないですから……
プラットホームに列車の到来を告げるアナウンスが響いた。彼の夢想は断ち切られ、避けることのできない日常を運んでくる音がする。当たり前のことながら彼が疲労を隠せないでいると、そんなことにはお構いなしに遠くでレールが震え出す。やがてホームに差し込む光が少しだけ閉ざされて、無粋な騒音で喚き散らしながら列車が滑り込んでくる。
周囲が列車の空席や携帯電話に注目する中、彼は呑み込まれていくレールに目が惹き付けられていた。そこと電車の狭間に、夏の学校帰りに見かける自販機のような、思わず手が伸びてしまう魅力を感じる。
無論、感じるだけのことでしかないのだが。
初めから、そんな行為に打って出る勇気がないことは彼自身が一番よくわかっていた。そうできるだけの意志があれば生きることだってもっと容易くなるだろうに、と溜め息をつく。
そうこうしている間に列車は停まり、気体が吹き出す音と共に扉が左右に開かれた。もう人で溢れかえっている車内に、なおも彼の前で並ぶ人々が雪崩れ込んでいく。当然のこと彼もその流れに捕まっているわけで、無言で迫る誰かの熱気に押されてつんのめりつつ乗車していく。だが入って二歩目で人だかりに行き当たり、しかし立ち止まろうにも得体の知れない強迫観念に駆られた人の波が彼を奥へと押しつぶしていく。圧迫感に吐き気さえ催しながら熱と肌と布に揉みくちゃにされ、落ち着いた頃には電車が走り出していた。
とは言っても、まだ暑苦しいのは変わらない。息をするにも難儀する圧力の中で彼は、必死に辺りを見回した。どこかに逃げ込める隙間が欲しかった。
その最中にも押し合って、彼と周囲の位置関係は流転し続けた。
そしてどんな偶然が働いたのだろうか、彼はある開けた空間に吐き出される。
そこは一人分だけの空席が目の前にある、小さな間隙だった。
座ったときのことを考えて立っているのが気怠くなりながらも、彼は最後の良心によって周囲を確かめた。理由は知れないが、誰もそこに座ろうとはしていない。
譲るべき相手がいないとわかると、もう気を配るのは面倒で、彼はすぐさま重たくなった腰を小さな幸運に納めた。普通列車の座席に座り心地など期待していなかったが、クッションに尻を沈めると力が抜けて思わず安堵の息が漏れてしまう。
肩の重さを自覚して、彼は膝に肘を乗せた。伸し掛かる重力にあらがうこともせず、そのまま身を任せる。よほど眠気や疲れが溜まっていたのか、それだけで彼の視界が両端から黒ずみ初めて、微睡みがじわじわと彼の脳を浸食し始めていた。とろとろ意識が溶け出して、生温くも心地よい感覚に包まれる。
気を抜くと今にも、眠りに落ちてしまいそうで。
だけどもし眠ってしまったら目的の駅で寝過ごしてしまうかも知れないと意識の片隅で最後の自制が働く。
それでも消え行く意識の中で、ふと彼は思い至ってしまった。
瞼が少しも閉じていない。
ならば自分の視界を閉ざそうとするこれは何なのだろうか?
あやふやな思考でそのことを思案しようとした彼なのだが、黒色が車内の光景を塗りつぶし、見る見る滲んでいく。やがて立ち並ぶ人々の腕と背中しか見えなくなり、彼らの隙間にちらつく、窓から流れ込む陽光ばかりが眩しく瞬く。しかし黒色はそれすらも遮っていき、やがて世界から彩りが失われていく。
持ち堪えようとしたが、既に手遅れだった。彼に力はなく、意志もない。
そして光の最後の一片が途絶えたとき、彼の意識もまた闇に閉ざされた。
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