彼は誰時に

妄想神

プロローグ

 ここは、どこだ?

 音のしない虚空の中、しっとりと湿り気のある闇に濡れて。

 目を開いた彼が最初に抱いたのはそんな疑問だった。昨日までの記憶が思い出せず、まとわりついてくる睡魔を持て余す。だけど慣れない枕は硬く、掛け布団の重みもシーツの薄さも何もかもが違和感に塗れていて、それが拭えなかった。壁からせり出した釘のように意識が引っかかって微睡みに身を任せられない。

睡魔はやがて散り散りになり、眠気も視界の靄も晴れてくる。もはや眠ろうという気にもなれなくて、彼は呆然と天上を見上げた。

 かつては白かっただろう天井は、黄ばみ果てた上に埃までこびり付いた醜態を晒している。そこから下ろされたレールに沿ってカーテンが走り、壁に代わってベッドの右手から正面までを緩い曲線を描きながら囲っていた。

 初めて訪れる場所だった。

 しかしどこかで見かけた覚えがあって、彼は記憶を底からひっくり返し総ざらいにする。思い出せそうなのに思い出せないじれったさに苛まれて、見つけ出すよりも早く限界が訪れる。

 集中が途切れると、部屋の底を這う冷気に気づいた。身を捩って布団を首もとまでずり上げる。

 少なくとも彼が意識を失う直前までは梅雨も終わろうとする時分だった。眠っていただけならば経過した時間は限られいるはずだが、触れる空気はあまりにも冷たい。まるで暗闇から体温を奪い去られているような錯覚さえ引き起こす。長い長い夜をかけて、じっくりと、その闇に取り込まれるように。

早く朝が来るようにと願った。日の光の温かさが恋しかった。だからこそ、手に入らなかったときのことが恐ろしくなる

 もしこのまま、朝が訪れなかったら?

 馬鹿馬鹿しいと、そう断じたら良いだけの想像なのに夜闇が空想には思えない質量で彼を押し潰そうとしていた。そこから抜け出せずに体温を吸い尽くされて、抜け殻さえも闇に呑まれる様子が瞼の裏に描かれる。

 彼は布団をきつく体に巻き付けて、想像をぬぐい去ろうと強すぎるくらいに固く瞼を閉ざした。訪れたのは濃密な闇で、彼を怠惰と安堵の中に沈める。

 酷い夢だった。だが、こうしていればじきに意識は途絶える。そして気づいたときには見慣れた自室で自分のベッドに寝ているものなのだ、と言い聞かせた。そうでなければこの見知らぬ景色に耐えられないから。

 しかしそうした安寧は一条の淡い光に切り裂かれる。

 瞼の些細な隙間から滲む、決して眩しくはない白い光。目を開くとそれは、少しだけ開いた窓から吹き込んだ風がカーテンを押し上げて届けてくる、遠い空の輝きだった。太陽そのものは見えずとも曙光は明けの空に染み渡って仄かに世界を照らし出す。

 そうして、見えなければ良かったものまでをも暴き出す。

 ずっと暗闇に潜み続けていた何かが彼の上にゆっくりと迫っていた。顔の輪郭はどこかぼやけていて、ただ人らしき形をしているそれがベッドに腕をついて迫り来る。軋む音が一つずつ、彼に近づいてきた。布と布の擦れる音が、足の指先に触れる。絶望を形にしたような冷たさが、彼を覆い尽くそうとしていた。

 こんなところで終わりたくはない。

 逃げようとした。叫ぼうとした。

 そんなことは叶わないと、どこかでわかってはいても。それでも彼は藻掻こうとして、気づいてしまう。体が動かない。喉は皮膚が凍り付いたように震えず、腕は脳の命令を聞き入れない。

 信じられなかった。

 いよいよ溢れかえった感情で胸が引きちぎれそうになり、恐怖が脳髄を駆けめぐって脳を犯す。

 だから必死に動かそうとして、その度に心から体が遠退いていくように感じた。だけどそうだというのに、重苦しい威圧感は質量を増す。『何か』が腕を上げる音が腰の辺りで鳴り、シーツの凹む感触が伝わる。次は脇腹、その次は胸へと距離を詰めてくる。吸い込んだ闇が肺の中に溜まって喉を塞ぎ、息ができない。

 逃げられない、と彼は悟った。

 捕まった先に待っているものが想像できても、諦めばかりが心を浸す。

 迫り来た闇は明け方の空さえも塗りつぶし、広がって彼の視界を黒く染め上げる。吐きそうなまでに心臓が跳ね回っていて、そのとき彼の頬に冷たい何かが添えられた。

 引き裂かれそうなまでに凍てつくそれを震えながら動いた彼の眼球が捉える。

 手だ。白く血の気のない、手だった。

 歯はかち合って小刻みに音を立てていた。掴むシーツは自分の汗でじっとりと濡れて生温かい。だけど彼と鼻先が触れ合う寸前にまでで近づいたそいつが彼を凍り付かせていく。彼の胸に落とされたそいつの視線が奥にある心臓を刺し貫く。

 もう鼓動は正常を忘れて、停止と暴走を繰り返していた。なのに仄暗い暁光が少しだけ強く部屋に広まって、そいつの注意が顔へ集まってくるのを感じてしまう。

 見られている。

 揺らめく前髪の奥から眼差しが顔を嘗め回している。

 彼がどれだけ拒絶しようとも徐々に視界の明細は増してしまう。

 死に装束の白も、頬に添えられた青白い手も闇に浮き上がっていた。彼を覆うように広がる長髪は光を吸い込む底のない漆黒で、面差しは前髪の影に隠されている。

 そのまま隠れているようにと彼は願った。どうかこのまま朝が訪れ、日の光に押し流されてしまえば良いと思っていた。

 だけど彼女は消えようとしれない。冷気に混じって流れ込んでくる薄明が少しずつその容貌を暴き出してしまう。細い頬の輪郭が露わになる。それから艶っぽく膨れた唇と少し高い鼻が照らされ、しかし尚も光の届かない瞳の暗闇が見えてしまったとき、彼は――

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