第10話 ループ n+5回目――②

「はぁ、はぁ、はぁ……!」


 気付いた時には、俺はその場から逃げ出していた。


 雨に濡れながら、自宅までの道をひたすら走り続ける。


 本当はわかっていたんだ。わかっていて目をそらしていた。それを認めたくなかったから。


 自分の命が狙われていると知って、一番最初に頭に浮かんだのは加古の顔だった。



 俺は彼女に、殺される理由がある……!



 ひょっとしたら、毎朝駅で彼女の姿を目に収めたかったのは、未練があるからじゃなくて不安だったからかもしれない。『あの時』から何も変わらない彼女を見て、自分自身を安心させたかったのかも……。


 商店街を抜け、自宅前の坂を駆け上がる。くそ、降水確率二十パーセントのくせに雨足は強まる一方だ!


 気分が悪い。精神的なこともそうだが、肉体的な面でもだ――と、


「……!?」


 もうすぐ自宅というところで俺の足が止まってしまったのは、息が切れたわけでも吐き気をもよおしたからでもなかった。


 自宅の門扉の前に、見知った人物が立っていたからだ。


「なんであんたがここにいる……!」


 年上だけど敬語で接する余裕などなかった。そもそも、今となってはこの人をうやまうことなどできはしない。


 自分の情欲のために、教え子に手を出そうとした女――篠塚芽衣子が、ビニール傘を差して立っていた。


 篠塚は俺の質問には答えず、


「ずいぶん大きなおうちに住んでいるのね」


 皮肉や嫉妬といった感情を含んでいるようには見えない。だからといって、感心しているようにも見えないが……。


「うちになんの用ですか」拒絶の色を含ませた問いに、


「別に? たまたまここを通りかかっただけよ。あっ、そうか、ここ春日くんのおうちだったんだ。へぇ~、そうなんだ~」


 わざとらしいことこの上ない。相手にするだけ時間の無駄だ。


「用がないなら失礼します」


 篠塚の前を横切り、門扉に手をかけたところで、


「ウソ。ほんとはたまたま通りかかったっていうのはウソなの」


 何も答えず、耳だけそばだてて用件を促すと、


「春日くんにきちんと私の気持ちを知ってもらいたくて――」


 迫る気配。反射的に振り返った直後、勢いよく体を押しつけられた。


 られる! まさかこいつが犯人だったとは――


 そう思ったのも束の間。篠塚が俺に突き立てたのはナイフや包丁ではなく、己の唇だった。


 首に両腕を回され、力任せにそれを押しつけてくる。


 キスと呼ぶにはあまりにも乱暴なその行為に、俺は一瞬何をされたのかわからなかった。


 我に返ったきっかけは、篠塚の斜め後方からのフラッシュライト。


 パシャっと一枚、写真を撮られた。篠塚を突き飛ばすのと、その人物が誰であるかを認識したのは、ほぼ同時だった。


「笠原……ッ! なんでお前まで……」


「――が―――から――――――です。――――――――――ください」


 距離は十メートルもないが、雨音のせいでよく聞こえない。


「痛いよ、春日くん」


 尻餅をついた篠塚。言いながら腰を上げる。どちらの歯で切ったのかは知らないが、下唇からツツツと血が流れ落ちていた。痛いよと口にしたのは、唇ではなく突き飛ばされたことについてのようだった。


 篠塚も笠原の存在には気付いているはずである。写真を撮られたことも。


 なのに篠塚に焦りはない。笠原の方を見ようともしない。


 まさか……、こいつらグルだったのか? 思えば社会科準備室の時も、二人が最初から共謀していたのならドンピシャのタイミングで写真を撮られたことにも納得がいく。笠原が決定的な瞬間に立ち会う回数からすれば、それだけで説明できるものでもないが、ただ――


 なんで二人は手を組んでいたのだろうか……。


 目的は金か? 笠原は俺が父から譲り受けた資産が現金だけでも数千万あることを知っていた。二人がその金目当てなのだとしたら、この写真でゆすってくることが考えられる。


 うちは父が町長をやっていただけではなく、祖父やその上の代、親戚を見渡せば、国会議員や県議会議員、市議会まで含めて、数多くの政治家を輩出してきている政治色の強い家柄である。ゆするには恰好かっこうの相手だろう。


 しかし、笠原はあの時撮った写真を破棄してくれた。俺に篠塚について注意を促してくれたのも彼女だ。


 もしかしたら、笠原も俺のように篠塚に弱みを握られて脅されてるのではないか。


 全部想像に過ぎないが、スクープ以外興味がないと言っていた笠原が、教師と生徒の密会写真をわざわざ撮影しに来たのはそう考えるほかない。


 無表情でカメラを手に持つ笠原。薄く微笑む篠塚。今の二人の態度を見ているとそのように勘繰りたくもなってしまう。


 もしそうならここは篠塚に先んじて笠原とコンタクトを取る必要がある。写真を破棄してもらうためだ。恐らく一回目は「うまく写真が撮れなかった」とでも篠塚に報告したのだろう。だから二度目の機会をうかがって篠塚が俺に接近し、笠原に証拠を残させたのだ。


 ならば、篠塚に対抗するため、ここで手を組むべきは笠原。そういうことになる。


 なんてことだ。さっきまで俺の命を狙っていた犯人じゃないかと疑っていた相手だというのに……自分勝手なものである。


 そういえば、犯人といえば加古は俺の後を追いかけてきてはいないよな……?


 道路の奥に目をやろうとして――息が詰まりそうになった。


 赤い傘を差した女が、笠原の背後を通り過ぎようとしていた……ように見えたが、違った。赤ではなくてオレンジ色の傘だ。顔は見えないが……というか、あの傘。見覚えがある。


「……ッ!? 笠原!」


 思わず叫んでしまったのは、オレンジの傘を差した女が背後から笠原に向かって手を伸ばしてきたからだ。


 笠原も俺の声に反応したようだが、相手の方が一瞬早い。そいつは笠原が手に持っていたカメラを強引に奪い取った。その上で突き飛ばす。容赦ないほどに力強く。


 色彩の失せた目で倒れた笠原を見下ろし、そしてカメラを思いっきり地面に投げつけた。


 オレンジの傘を閉じ、柄の部分で何度も何度も叩きつける。レンズが割れ、部品が散乱し、フィルムが弾け飛んでいく。それでもそいつは止まらない。折れ曲がった傘で何度も何度も叩きつける。最後に足で踏みつけ、蹴り飛ばし、そしてようやく動きを止めた。


「お兄さん。何やっているんですか? また私とお母さんに迷惑をかけるつもりですか」


 一緒に暮らし始めて半年にもなるが、話しかけられたのはこれが初めてだった。


 義理の妹――哀香が、冷たい瞳で俺の顔を覗き込んでいた。


 俺は不覚にもその目を見てすくんでしまった。その瞳があまりにも狂気に彩られていたからだ。


 無言で応じるしかない俺。その沈黙を埋めたのは、平然とした様子で立ち上がった笠原だった。


「こんなことやって満足ですか?」


 何も答えない哀香。代わりにボロボロになった傘を持ち上げて答えを示す。


「やめろ、哀香!」


 思わず叫ぶが、ススッと距離を空けた笠原を見て、振り上げた手をゆっくりと下ろした。別に俺の声が効いたわけではなさそうだ。


「それでは先輩。今日のところはこれで」


 はっきりと聞き取れる声で告げ、笠原はそのまま去っていった。二十万円もしたというカメラには、一度も目をくれることはなかった。


「私もこれで失礼するわね」


 哀香に恐れを成したのか、それとも目的が無為に帰したがっかり感かは知らないが、睨みつける哀香の目から逃れるように、そそくさと篠塚もその場を後にした。


 哀香はボロボロになった傘を道の端に放り投げ、俺の横を無言で通り過ぎていく。一言も声をかけられなかったことが逆に不気味だった。


 哀香に遅れること五分あまり――わざと時間をずらしたわけだが――捨てられた傘とカメラの残骸を拾って家に入る。今度燃えないゴミと一緒に出そうと玄関の端にまとめて置いた時、リビングの扉がガチャッと音を立てて開いた。


 姿を現したのは、母の志保子だった。


「あなた、また問題起こしたそうね」


 先ほどのことを哀香から聞いたのか、その瞳には明確な非難の色が浮かんでいる。


「すみません」


 俺は被害者で責任はないはずだが、この人の求めている返答は言い訳の類ではないだろう。一秒でも早く終わらせてもらうため、望む通りの人物を演じることにした。だが、


「早くお風呂に入りなさい。風邪が悪化するわよ」


 それだけ言って、リビングへと戻っていった。


 意外といえば意外である。俺が風邪を引いていたことに気付いていたこともそうだが、こんなにもあっさり引き下がるとは思えなかったからだ。


 俺が風邪をこじらせて困る理由でもあるのか? ついそのように邪推してしまう。例えば、家の中でウイルスをばらまくなとか、学校休んで家に居られると迷惑とか……。


 どちらもありそうだから困る。


 ともあれ、まずは体を暖めよう。寒くて死にそうだ……って、さっきまで本気で殺されそうになっていたのだ。安易に『死ぬ』なんて言葉使わない方がいいな。


 二階に上がり、自分の部屋のドアノブに手をかける。解錠する前にいつもやっていること。ノブに少し『遊び』があるか確かめるためだ……が!


 やられてる……。遊びがない。誰かに回されている!


 鍵穴も見てみたが……やっぱりだ。何か細長い金属のようなものを突っ込まれていじくられた形跡――削れた粉や細かい傷跡――がある。


 鍵も開いていた。恐る恐る中に入ったが、ぱっと見で異常はない。今朝部屋を出た時のままだ。


 盗られる物はないため、特に実害は計算しなくてもいいのだが――


 志保子さん。あんたも俺の預金狙っていたのか……。


 不信感が急速に積もっていく。


 父さんには悪いけど、正直財産なら半分くらい分けても俺は構わない。その代わり、家族の縁を切って一人暮らしすることが条件になるが……、いや、ここの家は元々父さんの持ち家だ。出ていくとしたらあの二人だ。それで納得できないなら金に糸目をつけなくてもいい。


 今日一日色々なことがあって、ちょっと精神的に不安定になっているせいもあるだろうが、一線を越えられたとあってはもう我慢できない。


 今日明日というわけにはいかないが、近いうちに叔父さんに立ち会ってもらって話をつける必要がありそうだ。


 着替えを持って風呂場に行こうとしたが、やめた。


 あの二人を前に無防備な姿をさらすことが急に怖くなった。同居が続く間、風呂は近くの銭湯を利用することにしよう。


 ただ、今日はもう疲れた。体だけ拭いて、鍵をかけて寝ることにした。


 タンスからタオルを取り出し、濡れた制服を脱いでいく。カッターシャツに手をかけたところで――携帯が一度震えた。


 えっ、なんで……。


 時刻は十七時二十分。もし『あのメール』が来るとしたら次は十九時のはず。だが、俺はもう家に帰り着いている。とりあえず今日に関しては乗り切ることができたはずだが、この上まだ危険を報せるメッセージが?


 ゆっくりとボタンに指を伸ばし……確認。


 そのメールも件名に五文字のメッセージが書かれていた。


 【御免ごめんなさい】と。


 送信主のアドレスは俺じゃなかった。もう二度と来ることはないと思っていた彼女――相原加古からの謝罪メール。


 ただ、何を謝られているのかわからない……。


 ふと、


 自室二階の窓から、奥にのびた道路が目に入った。


「あっ……」


 心臓を鷲掴わしづかみされたような感覚に襲われる。


 直線距離で七、八十メートルほど。顔が判別できるほどではないが、道の端に赤い傘を差した女が立っていた。


 身動きも取らず、ただジッとこちらを見ている。


「うぁッ……!?」


 体中の毛穴が収縮する。とっさにカーテンを閉めて、布団の中にもぐり込む。


 髪もズボンも雨に濡れたままだったが、そんなことに意識を向ける余裕はなかった。


 朝が来るまで、ただ俺はその中で震えていることしかできなかった。

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