第9話 ループ n+5回目――①

 翌朝。


 風邪をひいた。


 といっても微熱があるだけで、せきやくしゃみはほとんど出ない。今の段階では、だが……。


 何が原因だったかは考えるまでもないだろう。


 昨夕、川で溺れた少年を助けた後、ずぶ濡れのまま家路についたわけだが、帰りついた時は寒さで凍え死ぬかと思ったほどだった。


 まだ十一月中旬とはいえ、山の麓に広がるこの町は、日の出が遅く日の入りが早い。山から吹き下ろしてくる風も冷たく、あと一月ひとつきもしないうちに積雪も観測されるだろう。


 つまり、寒い。一年の半分くらいは寒いとつぶやいている気がする。


 手早く支度を済ませ、鍵をかけて部屋を出る。いつものように歯をみがき、リビングの扉を開いた。


「おはようございます」


「……おはよう」


 母の志保子から消え入りそうな声が返ってくる。これもいつものことだが、今日は少し様子が違っていた。


 哀香がいなかった。


「あの、哀香は……?」


 尋ねてみると、


「もう学校に行ったわ」


「そうですか……」


 視線一つ交わることのないまま、会話が終了。俺も手早く朝食を済ませ、家を出た。





 駅に到着。


 いつもと同じ場所に目を向けるが――そこに彼女の姿はなかった。彼女も風邪だろうか……。


 あまりキョロキョロしていてもみっともないので、指定場所の先頭に立ち、次の電車が来るのを待った。


 数分後。降りる乗客を先に促し、次いで俺を含めた同じ学校の生徒たちがわらわらと乗り込んでいく。車内は満員電車というほどではないが、それなりに混んではいる。


 田舎の私鉄沿線ということもあり、車両数が少ないところに朝のピークが重なればこんなものだ。逆にこれでも満員にならないのだから、都会に住むサラリーマンに比べれば恵まれている方なのだろう。


 一駅過ぎ、二駅過ぎ、そして次が目的の駅だ。俺が立っていた場所は車内の端の方。隣りにいた乗客が降りて空きができたので、ようやく吊り革をつかむことができた。


 正直、体調が優れなかったのでこれはありがたかった。まあ一駅だけだが、それでも充分だ。


 電車が走り出してしばらくした頃。ずっと左手で重い鞄を持っていたため、指が痺れてきたので持ち直すことにした。吊り革から手を離し、右手で鞄を持ち上げてから左脇に挟み込む。


 その時、グンと大きな揺れ。咄嗟とっさに吊り革を持つことに成功したが、同時に背後からバランスを崩した女子生徒にぶつかられる。


 長い黒髪の女の子。制服を見るに同じ学校の生徒のようだが、うつむいているせいか顔はわからない。


 体勢を崩したというよりは意図的にぶつかられたような気がしたが、軽くペコリとお辞儀してくれたので俺の勘違いだろう。取り立てて文句を言うほどではない。


 ほどなくして目的の駅に到着。他の生徒の流れに沿うように校門まで歩いていった。





 『それ』に気付いたのは、教室の自分の席についてからだった。


 鞄を机の上に置いて教科書を取り出そうとした時、


「えっ……」


 穴が開いていた。黒い学生鞄。一見して目立たないが、幅数ミリ、長さ二センチほどの細長い穴が、正面から見て右下の位置にできていた。


 切り口から見て比較的最近できたものだと推測できたが、それが確証に変わるのに時間はかからなかった。


 中から取り出した教科書数冊にも同様の穴が開いていたのだ。一冊、二冊と貫通し、三冊目の途中で止まっていたが、これはなんなのかと疑問に思う前に直感的に浮かび上がってくるものがあった。


 刃物か? まるでナイフか包丁で一突きされたような跡……。


 残念ながら思い当たる節はあった。ついさっきだ。電車がブレーキをかけた直後、斜め後ろから女子生徒にぶつかられた時だ。昨日の夜、教科書の準備をしている時にこんな傷はなかった。それ以降で誰かと接触したとなるとその時しか思いつかない。


 しかし――


 ホントにそうなのか?


 仮にその子が刃物を持っていたとして、あの時俺にぶつかってきたのが意図的なものであった場合、それって、俺を……突き刺そうとしていたってことだよ……な……?


 もしあの時鞄を持ち替えていなければ、鞄の切り口の位置から考えて、ちょうどあばら骨の下辺りから突き上げられていたことになる。位置的に考えれば腎臓じんぞう、つまり人体の急所だ。肝臓同様、刺されれば大量出血する臓器でもある。


 ということは、つまりそれって……、俺殺されそうになっていたってこと……?


 いや、そんな馬鹿な話があるか。普通に刃物を持っていたらって仮定したけど、あんな人混みの中でそんなもの持って人を突き刺そうとするか? どんだけ神経がいかれているんだよ。気が狂っているとしかいいようがない。勘違い……だよな……?


 自分を納得させる材料はどこを探しても見つからなかったが、認めたくない現実が意識の淵から沸き上がる揺動をさざ波へと変えていってしまう。


 水面は穏やかではなかったが、現状を見守るしか今の俺にできる手立てはなさそうだった。


 しかし、


 一時間目、三時間目に送られてきた二通のメールを見て、再び胸がざわめき始めた。


 一通目の【どうしてこ】に関しては、センターでバグか何かでも発生したのだろうと考えていたが、同じ形式で送られてきた二通目のメール【用命狙手送】で一気に危機感があおられる。


 『命を狙われる』という二通目の内容が、自分の携帯のアドレスから送られてきたという不可解な現象によって、俺の不安心を上塗りしてしまったのである。


 誰かに相談しようか。しかし、この学校で偏見なく俺に接してくれる人となると、養護教諭の山下先生くらいしかいない。たった一人だが、これ以上の人はいないというくらい頼もしい人ではある。しかし、だからこそ敬遠したくもある。


 生徒の味方になってくれるからこそ、その子のために事態を大事おおごとにもしそうなのだ。


 これが騒ぎになって広まっていった場合、俺以外に矛先が向かいそうな人の中に加古がいるなら、俺はこの問題を咀嚼そしゃくして呑み込むしかない。


 彼女にはこれ以上、俺のことで迷惑をかけたくないのだ。


 結局、四時間目が終わるまで考え抜いた末に出した結論は、保留だった。


 ただ、二時間おきにメールが来ていたことを考えると、次の十三時にまた送信主『俺』からのメールが届くかもしれない。まずはそれまで様子をみよう――ということで昼休み。昼食をとるため教室を出る。


 昨日笠原と話した特別棟の屋上。そこへ行こうかと思ったが、完全に一人になる場所へは行かない方がいいような気がしてやめておくことにした。


 仕方なく向かった先は、中庭に設置されたベンチ。さすがに曇り模様の寒空の下では使用する人などいない。周りの校舎には人も大勢いるし、とりあえずここなら落ち着いて食事することができる。そう考えた。


 一つだけ不安だったのは、今朝、電車の中でぶつかってきたあの女の子が本当に俺を殺そうとしていたのなら、ここだって安全とはいいがたい。なんたって、電車の中で人を刺し殺そうとするような壊れた女だ。


 まあ、そう考えるならどこにいたって安全な場所などないのだろうが……。


 十分ほどで昼食を終わらせる。携帯で時計を見ると、あと一分で十三時になるところだった。


 果たして――




 ヴィー。


 来た。手の中で震える携帯。早速確認してみると、


 【信じろ犯捜】


 ――このメールに書かれていることを信じて、犯人を捜せ。


 これ以外にどう解釈しろと?


 明らかに二通目の内容とリンクしている。バグの線が薄くなる。不安が高まる。


 この疑念を晴らせるならこちらとしても惜しむことなく行動に移したいところだが、ただ、犯人を捜すといってもどうやって……。


 警察に行くか?


 これ、ナイフか何かで刺された切り口かもしれません。科学的な検証を行ってもらえませんか? 生徒の持ち物全て調べてもらえませんか? 俺、狙われているかもしれないので、一日中見張りをつけてください。


 こんなこと言えってか。まともに取り合ってはくれなさそう。下手したら門前払いだ。

 山下先生にも頼めないし、こうなったら自分で手がかりを探しだすしかない。


 一番怪しいのはやはり今朝のあの女の子。一瞬しか見てないけど、確かやたらきれいな制服だなとその時感じた気がする。仮に一年生だとしても、入学してからもう半年以上経っているわけだが、それにしては服の折り目がはっきりしていて、まだ真新しかったような……。クリーニングにでも出した後だろうか。


 体格は小柄。顔は見えなかったが、髪は黒くて長かった。加古も同じような髪型だが、その子を加古だとは認識できなかった。なんとなく雰囲気が違っていた気がしたのだ。


 覚えているのはこれくらいか。


 もしその子が本気で俺の命を狙っているのなら、受け身でいることは危険。これ以上の情報を求めたいなら、自分から動くしかない。


 ゴミを持って立ち上がる。まずは普通科一年生の教室から見て回ることにしよう。人を殺そうとしておいて、呑気に教室で昼食をとっているとも思えないが……。


 歩き始めてしばらくした時――目と鼻の先を、上から下に向かって何かが通りすぎていった。


 一瞬何が起きたのかわからなかった。ただ反射的に「うおっ」と間抜けな声を出して後ろに飛び退いてしまう。


 足元には割れた鉢植え。頭上を見上げると、一ヶ所だけ開きっぱなしになった窓。社会科準備室だった。


 校舎までの距離は十メートルはある。風やちょっとしたはずみで落ちてきたとしても、ここまでは届かない。


 ということは……。


 その瞬間、俺は駆け出していた。内を占めるのは、身もすくむほどの恐怖と、弾けて飛び散る怒りだ。


 こそこそと人のことつけ狙いやがって……ッ!


 三階まで駆け上がり、社会科準備室の前まで走り寄る。扉は開いていた。しかしここで勢いのまま中に入るような真似はしない。


 気持ちは沸騰していたが、頭の中は至って冷静だった。


 待ち伏せや罠が張られていないか慎重に探る。


 大丈夫……だと思う。


 入って左側に資料用の棚、右手側に地球儀や世界地図、その他様々な小物や備品がところ狭しと置かれている。隠れられそうな場所は……ない。室内に人はいないようである。


 窓際まで歩み寄る。思った通り、壁に窓が設置されているだけで、鉢を置けるスペースなどない。


 誰かが放り投げない限り、先ほどまで俺がいた位置に鉢植えは届かないだろう。


 ドアが開いていたということは、犯人は屋上ではなく、この部屋から俺を狙って植木鉢を投げたと考えるのが自然。そして成功、失敗にかかわらず、慌ててここから逃げ出したのだろう。


 そうでなければ、ドアや窓を開けっ放しのまま放置するという、そんな手掛かりを残すとは思えないからだ。


 計画的とは思えない。俺が中庭を歩いているところを見て、咄嗟とっさに犯行に及んだのだとしたら、この社会科準備室自体も最初から開いていたということになる。


 なら、誰がこの部屋を開けたのか……。


 この手の鍵は職員室にあるキーボックスにまとめて置いてあるはず。人目につくところだ。教師であれ生徒であれ、取り出そうとすれば誰かしらの目に留まるはず。


 一番怪しいのはもちろんあの人だが、一応目撃した人がいないか職員室で訊いてみることにしよう――と部屋から出ようとしたところで、


「ん?」


 なんだろう。鍵穴の部分が不自然に歪んでいるような……。


 もっとしっかり確認してみようと、裏側、つまり廊下側に出ようとしたところで、



 ――何かを感じ取ってしまった。



「……………………」


 扉の奥に誰かいるような気がする。


「誰だ!」


 しかし、


 物音一つ返ってこない。


 正直、行くのが怖い。木刀か何か持って、ドアの向こうで息を潜めている奴がいたらどうしよう。そんな妄想にとらわれてしまう。


 だけど確かめないわけにもいかない。


 近くにあった地球儀を手に取り、ゆっくりと出入り口に近づく。そーっと地球儀だけ廊下側に出してみるが――何も起きない。自分の目でも確認してみたが……、誰もいなかった。


 うーん……。人の気配があったような気がしたのだが……。


 すぐに思考を切り替え、鍵穴を確かめる。近くで見てみてわかったが、不自然に歪んでいたのは、鍵穴の取り付け具ごと壊れていたからだった。派手にやられていたわけではないが、明らかに人為的に破壊された跡……。もちろん内側から鍵はかからない。


 昨日、篠塚に監禁された時は問題なかったはずである。ここから俺が逃げ出した、それ以降で誰かにやられたと考えられる。


 なら誰がこれをやったのかということになるが、それなら篠塚ではなさそうである。昨日のことがあるから俺を恨んでいそうな人の中の一人に数えられるが、社会科担当である彼女がわざわざ社会科準備室の鍵を壊すとは思えない。そんなことしなくても彼女なら簡単に鍵を手に入れられるからだ。


 自分を容疑者から外すための工作かとも疑ったが、これくらいでは彼女の無実を証明するにはなんの意味もなさないだろう。


 ――だったら、なんのために犯人はここの鍵を壊したのか。


 俺が中庭にいるところを見つけた犯人が、咄嗟とっさに鉢植えを放り投げて殺害するために選んだ部屋がここだった――それならこの犯行は計画的ではないと考えたが、最初から鍵が開いていたのならともかく、わざわざ鍵を壊してまでこの部屋に侵入する理由があるだろうか。


 咄嗟だったとはいっても、鍵を壊すにもそれなりに時間はかかりそうだ。しかも今は昼休み。人気ひとけはないとはいえ、いつ誰に見られるかわからないリスクを負ってまで……。


 鉢植えもそうだ。たまに社会科の教師が来るくらいしか用のないこの部屋に、鉢植えなんて置かれてはいない。犯人が持ち込まない限りは……。


 つまり、これは、最初から計画されていたもの……?


 俺が中庭に来る前から、犯人はこの部屋に鉢植えを持って侵入していたのだとしたら……。


 馬鹿馬鹿しい。だったら俺の行動はどう説明する。俺が中庭のベンチを昼食に利用しようとしたのはついさっき思いついたからだ。普段はこんなところ近づきもしない。


 俺がこの日、この時間、この場所に来ることを『前もって知るすべ』でもない限り、そんなことは不可能だ。いや、不可能というよりかなり低い確率に賭けていたということになる。


 そんな偶然をものにできる人間なんて……。


 いないこともないか。


 笠原ノア。決定的瞬間を撮り続ける女。またの名を死神。一年生で小柄な体格。彼女自身はショートカットのよく似合う子だが、カツラを被ってうつむかれたら他の女子生徒と見分けられない。今朝真新しい制服を着用して刃物で俺を殺害しようとしたのも、返り血を浴びた服をすぐに取り替えられるように、前もって二着目を準備していたとも考えられる。


 昨日の別れ際、彼女のやった行為を非難して、もう話しかけないでくれと拒絶した経緯もある。それが、殺されるほどの恨みを抱く要因になったとは思えないが、何を考えているのかわからないあの子なら、密かに俺に殺意の芽を膨らませていたとしてもおかしくはない。


 活発な印象はあまりないが、目的のためなら一転して行動的になる、そんな女の子。


 困ったな……。その目的とやらが俺の命を狙うことなら、早めに話し合って矛を収めてもらう必要がある。もちろん俺の推測でしかないので、初めから疑ってかかるのは失礼かもしれないが、とにかくまずは笠原に会おう。


 そういう考えに至り、早速普通科一年の教室に向かう。廊下で談笑していた女子生徒に尋ね、笠原のクラスを聞き出す。目的の教室の前からドア越しに中の様子を探るが……いなかった。


 ほとんどの生徒から敬遠されている女だ。まあ、クラスには居づらいのだろう。


 となると、部室か。あまり一人で出歩いていると話し合う前に襲撃されるおそれもあったので、なるべく人の多いところを通るように慎重を期した。


 結果は、いなかった。昼休み中探し回ったが、どこにもいなかった。





 五時間目。十五時ぴったりに送られてきたメールは、【お前は誰か】。


 これまで送られてきたメールと併せて考えるに、なんとなくこの後に【に殺される】と続くのではないかと思ってしまった。





 放課後。笠原のいるクラスに行ったが、彼女の姿はそこにはなかった。クラスメイトに聞いたところ、この日は欠席で学校には来ていないとのこと。


 それだったら、お昼に話しかけた女子生徒もそう言ってくれたらよかったのに……。これじゃあ無駄に手間がかかっただけじゃないか。


 尋ねたのが別のクラスの女子生徒だったせいかもしれないが、つい恨み節を口にもしたくなるというものだ。


 仕方ないので、職員室に直行。笠原の担任のもとへ行き、自宅の電話番号を教えてもらうことにした。少しいぶかしんだ目で理由を問われたので、新聞部に入るために連絡を取りたいと言ったところ、渋々とではあったが了承してくれた。


 早速職員室を出てかけてみるが……、繋がらなかった。留守電にもなっていない。さすがに先生も携帯電話の番号まではわからないだろうし、住所まで聞き出すにはさっき言った理由では弱い。


 何か緊急性のある要件でもでっち上げて、どうしても笠原と連絡を取らなくてはならないと説明するしかなさそうだ。その理由を考えていると、


「どうしたの、春日くん。そんなところでうんうんうなって……」


 山下先生だった。これはグッドタイミング。今日中に笠原と会って話さなくてはならないことがあると、理由をぼかして力説してみたところ、


「ふーん。いいわね、若いって。うらやましいわ」


 何か勘違いされたようだが、山下先生の力を借りてどうにか笠原家の住所をゲットすることに成功した。


 渡された紙をポケットにしまい、そのまま下駄箱へ。いつ襲われるかわからない状況だ。なるべく身軽でありたいという心理が働き、鞄は教室に残していくことにした。


 学校を出る。


 なるべくほかの生徒から離れないように、それでいて背後や頭上に注意しながら歩き続ける。明らかに挙動不審だったが、油断して殺されるよりは遥かにマシだ。




 書いてもらったメモを頼りに、駅を乗り継ぎ笠原宅の前へ――


 二階建ての共同アパートだった。


 部屋番号は201号室。階段を上り、扉の前へ。呼び鈴を鳴らしたが……出てくる気配はない。もう一度電話をかけてみたが結果は同じだった。


 たぶんこのアパートの広さと部屋割りから見て、間取りはワンルームだと思う。家族と同居するには少し狭いだろう。一人暮らしなのか?


 しばらく帰ってくるのを待っていたが、今日はもう諦めることにした。まだ五時前だが、日が落ちる前にはここを離れたかったからだ。この辺りは土地勘がないし、暗くなるにつれて危険度も増していくだろう。


 とりあえず電話番号はゲットしたし、また夜にでもかけ直すことにした。無事に家までたどり着けたら、の話だが……。


 来た時よりも慎重になって――特に交差点や駅、高い建物の下を通る時など常以上に注意しつつ――地元の駅に到着。




 安心するにはまだ早いが、ほっと一息。


 だが、


 駅を出てしばらくしてから、急に雨が降りだしてきた。


 なんということだ。こういう時のために折りたたみ傘を持参してきたというのに、肝心のそれは鞄ごと教室だ。


 事が事だっただけに仕方なかったとはいえ、なんともやるせない気持ちになる。


 しかも結構な本降り。通り雨では済まなそうだ。


 駅に引き返しても仕様がないので、いつものようにショッピングセンターへと立ち寄ることにした。


 店の軒先に入り、ひとまず濡れた顔を制服の袖でぬぐいとる。


 その時――


 ポケットに入れていた携帯が一度震えた。


 ビクンと体が反応する。忘れていたわけではない。そろそろ来る頃ではないかと思っていた。


 時刻は十七時。間違いない。差出人『俺』からの五通目のメールだった。


 今回も本文には何も書かれておらず、件名に五文字のメッセージ。


 内容は――


【にからされ】


「ん?」


 こんな日本語は見たことも聞いたこともない。漢字のように意味を含ませているわけではなさそうだし、暗号? それとも本当にただのバグなのか……?


 とりあえずこれまで送られてきたメールの内容を参考に、その意図をはかる。


 一通目の【どうしてこ】は、一文を最初の五文字で区切られたからこそ、あのような意味不明な内容になったのだろう。


 それは二通目、三通目も五文字だったことからそう判断できた。元々は『どうしてこんな~』とか、『どうしてこれは~』などのような文が後に続いていたはずである。


 なら、この【にからされ】も前後に含みを持たせて考えればいいと思うのだが、ただ、俺はこの時点で察していた。


 ヒントは四通目のメール【お前は誰か】だ。


 この『誰か』、で文が終わるのは少々不自然なので、この後に続く言葉があると踏んでいたのだ。


 考えられるのは、『誰かが』とか『誰かの』とか『誰かと』など。


 そして送られてきた五通目のメッセージ【にからされ】。これと四通目が繋がった文章なら、『お前は誰かに~』となる。これに掛かる語尾で一番自然なのは、『~される』。


 このメールの送信主は、五文字か十文字でメッセージに意味を持たせようとしている。なら、[【にからされ】『る』]の『る』だけ途切れているのはおかしい。本当は、この『る』まで含めた五文字でメッセージを完結させようとしていたのなら、【お前は誰かに『から』される】となる。残された『から』の二文字を一字の漢字に変換するはずだったなら――


 もう、ここまできたら解答へと至る道はシンプルだった。二通目、三通目のメッセージと併せ考えても、ここは『に殺される』と打ち込みたかったのではないか。


 ならなぜこのように打たなかったのか。


 それは、打てなかったから。


 命を狙われている人間が、意図した内容を打ちたくても打てない状況というのはどんな時か。


 そんなもの焦っている時か、死にかけている時ぐらいしかない。


 『殺』を『から』とひらがなで打ち込んでしまったのも、単に打ち間違え。それを修正する余裕がなかったと考えれば、【にからされ】と意味不明な五文字が出来上がってしまうのもうなずける。


 【お前は誰か】【に殺される】。四通目(お前は誰か)が送られてきた時点でこのような一文ができるのではないかと想像していたわけだが、実際にその裏付けが取れたわけだ。


 人の出入りが激しいショッピングセンター入り口。雨音とまざった喧騒けんそうがやけに遠くのことのように思える。


 ずっと疑問だった。


 なぜ一通目のメールの内容が【どうしてこ】だったのか。この時は送信主も五文字のルールは知らなかったはずである。


 もしこの時犯人に命を狙われている状況で、それでも『誰か宛』にメールを送りたいと考え、それで選んだ言葉がこれだったなら、『どうしてこ』の後にどんな文章が続いたのか……。


 俺の携帯に届いた俺のアドレスからの送信メール。もしこれが俺自身が送ったものだとしたら、これを受け取った俺は『いつ』の俺だ?


 『過去』の俺。『加古へ』送るつもりが、『過去へ』送られてしまったのなら――


 そう。これは未来からの警告だったのだ。


 それに気付いた瞬間、ぞわぞわぞわ……と、全身に悪寒が走った。


 瞬間――誰かに見られている気がして、勢いよく振り返る。ショッピングセンター入り口前。駐車場の広がる一角に、一人の女が赤い傘を差して俺を見ていた。


 長い黒髪。クリーニングにでも出した後か、折り目のきっちりした、ぱっと見新調したとも思えるようなきれいな制服。白い肌に小柄な体格。うつむいて表情の隠れた彼女の姿が、今朝、電車の中で俺に刃物を突き立てたあの子の姿と、重なって見えた。


 彼女の名前は、相原加古。


 昔付き合っていた恋人で、俺のことを殺したいほど恨む動機のある、ただ一人の女性。

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