第7話 ループ n+3回目

 翌朝。


 風邪をひいた。


 といっても微熱があるだけで、せきやくしゃみはほとんど出ない。今の段階では、だが……。


 何が原因だったかは考えるまでもないだろう。


 昨夕、川で溺れた少年を助けた後、ずぶ濡れのまま家路についたわけだが、帰りついた時は寒さで凍え死ぬかと思ったほどだった。


 まだ十一月中旬とはいえ、山の麓に広がるこの町は、日の出が遅く日の入りが早い。山から吹き下ろしてくる風も冷たく、あと一月ひとつきもしないうちに積雪も観測されるだろう。


 つまり、寒い。一年の半分くらいは寒いとつぶやいている気がする。


 手早く支度を済ませ、鍵をかけて部屋を出る。いつものように歯をみがき、リビングの扉を開いた。


「おはようございます」


「……おはよう」


 母の志保子から消え入りそうな声が返ってくる。これもいつものことだが、今日は少し様子が違っていた。


 哀香がいなかった。


「あの、哀香は……?」


 尋ねてみると、


「もう学校に行ったわ」


「そうですか……」


 視線一つ交わることのないまま、会話が終了。


 この家で一緒に暮らすようになって、学校のある日に哀香が食卓にいなかったことは一度もない。三人とも几帳面な性格をしているせいか、決まった時間に起き、決まった時間にリビングに集まり、決まった席で食事をこなす。


 行動が完全に習慣化されているからこそ、このようなイレギュラーな出来事が目につく――というのは少し大げさか。


 一緒に生活を共にしてまだ一年も経過していない。


 単に日直とか学校行事で早く家を出ただけだろう。


 彼女がいないことで少しだけほっとしている自分に気付いたが、この母親がいる限り気の休まる時はない。


 手早く朝食を済ませ、足早に家を出た。




 微妙な天気だった。


 午前の降水確率が三十パーセント、午後から二十パーセント。徐々に天候も回復傾向にあるようだし、普段であれば手ぶらで家を出ていたところだが、あいにく今日は体調が悪い。


 念のために折りたたみ傘を持っていくことにした。




 駅に到着。


 いつもと同じ場所に目を向けるが――そこに彼女の姿はなかった。彼女も風邪だろうか……。


 昨日、笠原に腕を組まれているところを目撃されている。まさかそれが原因で意図的に避けられているのだとしたら、これ以上俺にとってショックなことはない。


 今も俺の中に残る彼女への気持ち。これが失われていないことはどうか知っていてほしい。


 例えそれがやり直すことに繋がることはないのだとしても、別れて三ヶ月で別の女と校内でイチャイチャするような、そんな軽い男だと勘違いされたくはない。


 彼女に近づくことは許されていないため、この誤解を解くには電話かメールしかないのだが、別れてから一度も連絡は取っていないため、彼女の方で番号やアドレスを変えていれば無益に終わる。


 そもそも、俺に言い訳する気があったら昨日のうちにとっくにやっている。それをやっていないということは、彼女が携帯のアドレスを変えたという事実を知りたくないからでもある。


 それが俺に対する拒絶の意思の表れだとも判断できるからだ。


 前の電車が行った直後ということで、ホームに人は少ない。まだ誰も並んでいない指定場所の先頭に立ち、次の電車が来るのを待った。


 数分後。アナウンスに続いて電車がホームに入ってきた。


 動き出すには少し早かったかもしれないが、降りる乗客のことを考え、いつものように横にずれようとした、その時――


 ドンッ、と誰かに背中を強く押された。


「うぉッ!?」


 次の瞬間、目に映ったのは二本の錆びた鉄骨。線路上に落とされたのだ。


 プアァァァァァンと耳障りな警笛。


 スローモーション。


 運転士と目が合う。


 驚いた顔。


 迫る電車。


 死ぬ。


 俺は――


「避けろぉぉぉぉぉ……ッ!」


 背後から聞こえた男性の声に、金縛りが解けたように動きを取り戻す。咄嗟に線路脇の退避スペースに潜り込むことができたのは運がよかったというほかない。


 甲高いブレーキ音を立てながら、目の前を鉄の塊が通り過ぎていく。


 電車が動きを止めるまで、ずいぶんな時間を要したように思えた。


 一秒でも遅れていたら……今ごろ俺は……。


 ガチガチガチガチと歯が合わさる。寒さ以外でこれほど震えたのは初めてのことだった。


 三十分後。ようやく救助の手が伸びる。


 大勢の野次馬に見守られながら、駅員かも警察官かもわからない人に連れられその場を離れた。駅員室の中で数名の男に囲まれる。


 落ち着くまでかなりの時間が必要だったが、真っ白になった頭のまま答えたその『内容』によって、事態は緊急性を増して動き出した。


 相手からの問いは、俺の過失(不注意)だったのか、それとも自殺目的だったのか――ということだったが、俺が答えた一言「誰かに突き落とされた」を聞き、表情が一気に険しくなる。


 事件性があるということで、いつの間にか駆けつけてきていた警察官に連れられ、署で事情を説明することになった。


 駅を出て警察車両に乗せられる。近くには救急車も数多く停車しており、タンカーに乗せられて次々と人が運ばれていた。話を聞くに、急ブレーキをかけたため、車内で転んで怪我をした人が何人かいたということだった。


「そうですか……」


 まるで他人事のように聞き流しながら、その様子を眺め続けていた。


 午前九時。警察署に向かう途中、ポケットの携帯が一度震えたようだが、この時の俺はそれに気付かなかった。


 警察署に到着。ドラマとかでよく見るような取調室に連れていかれるのかと思ったが、通されたのは刑事課内にある、パーテーションで区切られた省スペース。対面式のソファに座らされ、書類を渡されてそこでしばらく待つことになった。


 書類には氏名や住所、電話番号などの個人情報を記入するもの以外に、簡単なアンケート用紙も挟まれていた。途中、女性の刑事さんがお茶を運んできてくれたので、それを飲みながら記入作業を続けていく。


 到着早々、事情聴取が始まらないのは、こうやって作業に集中させることによって、こちらが冷静になれるための時間を稼いでいるのではないか――いや、合っているかどうかは知らないが――そのように考えられるほどには落ち着きを取り戻していた。


 記入が終わり、ほどなくして中年の刑事さんが入ってくる。見るからに人がよさそうな柔和な顔つきだが、まなじりの奥に潜む眼光は、研ぎ澄まされた刃のそれを連想させた。


 ここから長い問答タイムが始まる。


 相手が探り出したいのは、本当に俺の言っていることが正しいのか、ということ。


 後ろから押されたというのは俺の勘違いではないかとか、自殺に失敗したから下手な言い訳で誤魔化しているのではないかなど――


 もちろん、こんなにストレートに尋ねてこられたわけではないが、相手の刑事いわく、


「電車を止めると多額の損害賠償を請求されるということで、そうやって虚偽きょぎの発言で言い逃れしようとする人も中にはいるんだよねぇ」


 知ってはいたが、本当に刑事というのは疑り深い生き物なんだなぁと実感させられる。逆にこうでなければ成り立たない職業なのだろう。


 さらに話は普段の俺の学校生活に至り、交遊関係から休日の過ごし方、過去の女性遍歴まで含め、根掘り葉掘り尋ねてくる。先ほど記入した書類から調べたのか、俺が元町長の息子で苦労もあったのではないかとか、義理の関係である母と妹と一緒に生活してて、色々ストレスがたまっていたのではないか、なども――


 俺は被疑者ですか? と問いたくなるほどあらゆる可能性の芽を潰しにかかってくる。


 中でも俺を一番困らせた質問が、「誰かにうらまれていたということはない?」だ。正直、心当たりは多い。しかし、殺されるほど恨まれるとなると……、思い浮かぶ人が一人いた。


 しかし、


「いえ、いないと思いますけど……」


 嘘をついてしまった。口調に変化はなかったと思う。これまでの受け答えと同じ調子で答えられたと思ったのだが……。


 そこから集中的に俺の周りにいる人たちについての質問が相次いだ。明らかに疑われていた。まぁ、それでもボロを出すことはなかったと思う。


 約三時間にも及ぶ事情聴取に、終始肝が冷えっぱなしだった。


 漠然と思ったのは、刑事の直感というのは本当にあるんだなと思った。少なくとも、浮気を疑う女性の勘よりは怖いことを悟らされてしまった。


 これだったら最初から「うっかりホームから転落しちゃいました」とでも言っておいた方がよかった気もするが、今さら言い分を転換させるわけにもいかないし、それに、これで事情聴取も終わりのようだ。


 ほっと一息ついた俺に、刑事さんは、


「とりあえず今日はこれで終わりだけど、またお話伺いに行くかもしれませんので」


 吐いた息を吸いなおすはめになった。


 刑事の後に続いて部屋を出る。


 だがそこで、俺は驚きで心臓が潰れるような錯覚を覚えた。


 通路に、別の刑事に付き添われる形で、母の志保子が立っていたのだ。


「どうも、うちの用一がご迷惑おかけしたみたいで、すみません」


 普段見ることのない母の気を遣った表情。そして、思い出したくもない顔だった。


 事が事だっただけに、自宅まで送りましょうかと刑事が申し出てくれたのだが、母は丁重に断りを入れた。そして、


「さあ、用一。今日はもう学校はいいから母さんと一緒に帰りましょう」


「……うん」


 はたから見ている分にはどこにでもある母と子のやり取りだが、その本質はまるで違っている。


 ――世間体を気にする、上辺うわべだけの態度。


 『これ』を見て、さっきの中年刑事は何か感じるものはないのだろうか。


 無意識のうちにその表情を探ると、バッチリ目が合ってしまった。唇の端を持ち上げ、何かしら含んだ笑みを俺にみせてくる。


 さっきの事情聴取で、俺に恨みを抱いている人に心当たりはないと答えた以上、母との関係は良好だということにしておいたのだが、たぶんこの人は『これ』に気付いているのだろう。


 ということは、さかのぼって俺が嘘をついたということも確信しているのかもしれない。


 その上で何も言ってこないのだから、なんか、弱味を握られた気分だ。


 やっぱり刑事というのは怖い生き物だなと思った。





 警察署を出て五分。前を歩く母と今のところ会話はない。黙っているのもどうかと思ったので、


「あの、ごめん。また迷惑かけたみたいで……」


 今回は俺がやらかしたことではないので、謝る必要もない気がしたが、一応そのように告げると、


「どこまで付いてくるの? まだ午後の授業には間に合うでしょ。早く学校に行きなさい」


 感情の失せた顔で言われた。


 一人になることへの抵抗より、二人でいることの気まずさの方が勝っていたため、「わかった」と小さい声で返事し、そこで母と別れた。


 学校まで一キロほど。ここからなら歩いていける距離だが、思うように足が前に進まない。


 誰かに狙われているという不安もあったし、今朝の出来事が原因で、またいらぬ注目を浴びることになりそうだと思ったからだ……。


 深く溜め息をついた時、ポケットに入れていた携帯が震えた。


 無視しようかとも思ったのだが、確か十一時くらいにも一度あったような……。


 確認してみると、今受信したのも含め、合計三通のメールが受信フォルダの中に入っていた。


 受信時間は九時、十一時、そして現在の時刻、十三時。ぴったし二時間おきだ。


 送り主は三通とも……えっ!? 自分のアドレス?


 最初に来ていたものから確認してみるが、本文には何も書かれていない。


 代わりに件名に【どうしてこ】の五文字。


「……………………」


 自然と足が止まる。意味がわからなかった。


 首をかしげながらも二通目。【用命狙手送】。わけがわからない。いや、なんとなく自分の命が狙われているから手紙を送れ的なメッセージだということはわかるのだが、なんでこんなものが送られてくるのかがわからないのだ。


 首を反対にかしげながら三通目。


 【信じろ犯捜】


 このメールに共通していることの一つに、三通とも五文字しか書かれていないことが挙げられる。


 『犯』と『捜』は、犯人を捜せという意味だろう。どんな縛りか知らないが、五文字で何かを表現したいのなら、平仮名よりも情報量の多い漢字を用いた意味はわかる。一通目の『どうしてこ』や『信じろ』とあることから、相手が中国人だったり、中国語で内容を表現しようとしていないこともわかる。


 一通目はよくわからないが、二通目と三通目には共通した意図が含まれている。これをバグで済ませて「ハイおしまい」ではどうに腑に落ちない。


 歩きながら考える。


 なぜこんなにもこのメールが気になるかは、まさに今朝、俺自身が命を狙われたという自覚があるからだ。


 このメールに書かれている犯人というのは、俺を襲った犯人を指しているのだろうか……。そもそもこれを送ったのは一体誰なんだ? 送信主が俺の携帯ということは俺しかいないわけだが――とここで交差点に差しかかる。


 赤信号だったため、横断歩道の真ん前にあたる位置で立ち止まる。そのまま考え事を続けようとして――ふっと我に返る。


 危ない危ない。犯人が俺の後を付けてきていて、ここで押されでもしたら……。


 後ずさりしようとして……、できなかった。


 俺の背中に、ピッタリと張りついた二つの手のひら。


 その瞬間――


     戦慄せんりつが走った。


 直後、思いっきり前に突き飛ばされる。


 道路に飛び出た俺のもとに、背丈を優に越える大きなダンプカー。


 当たる瞬間、車体の泥や水垢すらもくっきり目に映った。


 ドン――と、


 何十メートル弾き飛ばされたかわからない。痛みも感じなかった。即死していないことが奇跡のようだ。だが、体が思うように動かない。アホみたいに血が流れ出ていく。


「お、お、おい! だ、大丈夫か!?」


 運転手らしき男が近づいてくる。そこでハッと息を呑む音が聞こえる。


「うわぁ……やっちまった……」


 そんなに俺の状態は酷いですか?


 うつ伏せに倒れているせいか、顔が上げられない。男は狼狽ろうばいしたまま、


「お、俺じゃねぇ……! 俺は悪くねぇぞ! そ、そうだ! 警察……警察に……」


 できれば救急車を呼んで欲しかったんですけど……。俺……死んでるように見えるのか?


「警察か!? 俺じゃねぇ! 違うんだ、聞いてくれよ! 今……誰かがこいつを後ろから突き飛ばしたんだって! 嘘じゃねえって! は!? うるせぇ、これが落ち着いてられるか!」


 突き飛ばした……か。俺を恨んでいそうな何人かの顔が浮かんでくる――と、一瞬意識が飛びかける。


 駄目だ……。時間がない。携帯……。携帯に目を落とす。


 通話……は無理だ。喋れない。メッセージ……。メールで……。


 加古へ。どうしてこんなことになったのかわからないが――


 メーラーを起動。頭の中で作った文章を打ち込んでいく。


【かこへ】


 漢字に変換する手間が惜しい。書き込む位置も『本文』ではなく『件名』のところだった。確か『件名』でも五十文字ほどは書き込めたはずだ。構わずそのまま文字を繋げていく。


【かこへどうしてこ】


 ――まで打ち込んだ時に手が止まる。


 どうしてこ……?


「……………………」


 なるほど……。どのような原理で『過去の自分宛』にメールが届くのかわからないが、送られてきた三つのメッセージは未来の俺からの警告だったのだ。


 なら、『今の俺』がメールを送れば、そのメールの内容を見た俺の行動次第で、この惨劇を回避へと導けるのではないか……。


 馬鹿馬鹿しい。なんて不可解な話なんだ。御伽噺おとぎばなしが実話だったと言われた方がまだ信じられる。


 だけど、もうこれにすがるしかない。しかし、どうしようか。『何も知らない俺』に、一体どんな内容のメッセージを送れば行動に移すだけのインパクトを残せるんだ……?


 一通目が『どうしてこ』で切れていること、二通目、三通目が五文字で従っていることを考えると、やはり送れる文字量は限られているようだ。


 【警察行相談】【用背後注意】【外出禁止×】【駅道路注意】【是警告未来】


「……………………」


 駄目だ……。色々思い浮かべるが、「なんだこれ」で一蹴されそうだ。さっきの俺がそうだったように、実際に殺されそうになった直後ならこれらの警告も活きてくるだろうが、その前に『何も知らない俺』を動かすだけのインパクトが欲しい。


 ――といっても無理な話か……。


 一通目が九時。二通目が十一時。三通目が十三時。これから書こうとしているメッセージが何通目にあたるのかは知らないが、二時間おきだったら最速でも十五時ということになる。もはや過去というより未来に向かってメールを送ることになるが、この際そんなこと気にしていても仕方ない。


 『このメール』を送ることでやり直すチャンスが生まれるかもしれないからだ。ただ、同じ行動を取って、同じようにここで殺されるならやり直すことに意味はないが、『このメールを送る』という行為が過去に変化をもたらす可能性があるなら、ぜひとも行動に移すべきだ。


 その上でインパクトを求めてさらにリスクを負ってメッセージを残す必要がある。


 最期に残されたこの時間で、俺が残した言葉とは――

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