第6話 ループ n+2回目

 翌朝。


 風邪をひいた。


 といっても微熱があるだけで、せきやくしゃみはほとんど出ない。今の段階では、だが……。


 何が原因だったかは考えるまでもないだろう。


 昨夕、川で溺れた少年を助けた後、ずぶ濡れのまま家路についたわけだが、帰りついた時は寒さで凍え死ぬかと思ったほどだった。


 まだ十一月中旬とはいえ、山の麓に広がるこの町は、日の出が遅く日の入りが早い。山から吹き下ろしてくる風も冷たく、あと一月ひとつきもしないうちに積雪も観測されるだろう。


 つまり、寒い。一年の半分くらいは寒いとつぶやいている気がする。


 手早く支度を済ませ、鍵をかけて部屋を出る。いつものように歯をみがき、リビングの扉を開いた。


「おはようございます」


「……おはよう」


 母の素っ気ない挨拶。隣に座る哀香は返事一つしない。まぁ、いつものこと。自分の席につき、不出来な朝食に目を落とす。


 今日の朝ごはんは食パンと焦げた目玉焼きだった。飲み物は何もない。


 何か一つは焦げてるな……。


 もしかして、微量に毒とか混ぜてあって、味で気付かれないようにわざと焦がしているのではないか――そう邪推してしまいたくなるくらいには陰湿な嫌がらせに思える。


 別にそれでも構わないのだが……。これは食事ではなく儀式なのだから――などと考えながらパンを口に運んだ時、哀香と目が合った。


「……………………」


 たっぷり三秒間、二人の視線が交差する。いつもはすぐに目をそらすくせに、今日はやたら強気の様子。「なに?」と訊くと、


 ――スッと顔を伏せられた。


 相変わらず何を考えているのかわからない子だ。県内有数の進学校に通っている義理の妹だが、勉強のしすぎで感情面の発達がまだまだ不充分なのではないか。学校でもこんな感じなら友達なんて一人もできないだろう。


 要らぬお世話かもしれないが、無表情でジッと見られる俺の身にもなれば、そのように酷評したくもなるというものだ。


 食器の音だけが鳴り響くこの空間が息苦しい。出されたものだけさっさと胃に収め、俺は逃げるようにリビングを後にした。




 外に出ると、空はどんよりと曇っていた。


 正午から六時間後までの降水確率は二十パーセント。同じような天気模様で比べた場合、五回に一回は雨が降るということだ。しかも降水確率は一ミリ以上の雨が降る確率を表しているため、パーセンテージが低くてもどしゃ降りの雨に見舞われる可能性がある。


 天候は次第に回復傾向にあるようだが、風邪気味で体調も悪いし、万が一にも体を冷やして悪化させたくない。


 荷物がかさばるのも嫌なので、折りたたみ傘を持っていくことにした。


 いつもと同じ時間に家を出て、いつもと同じルートを通って駅に向かう。いつもと同じ改札を抜け、いつもと同じ場所に目を向けるが――そこに彼女の姿はなかった。彼女も風邪だろうか……。まさか俺に見られるのが嫌で、乗車する時間帯をずらしたとか……。


 しかし、昨日の笠原との一件で俺を避けたかったにしても、これまで俺の存在に気付いている様子はなかった。意図的にそんな行動に移したとは考えられない――とここで頭を振る。


 ダメだな。考えすぎてしまうのが俺の悪い癖だ。しかもネガティブな方に。


 きっと、少し早く着いてしまったため、一本早い電車で行ってしまったのだろう。


 無理やりにでもそう考えた。


 前の電車が行った直後ということで、ホームに人は少ない。まだ誰も並んでいない指定場所の先頭に立ち、次の電車が来るのを待った。


 サラリーマンや同じ学校の制服を着た生徒が徐々に増えていく。しかし彼女――相原加古の姿は……やはりどこにもなかった。


 はぁ~と一息。いつまで別れた女のことを引きずっている。自分がこんなにも女々めめしい奴だったということに今更ながら気付かされる。


 気をまぎらわせるため、線路奥の壁に設置された広告に目を向ける。内容を理解しないまま羅列された文字を追っていくこと数分。アナウンスに続いて電車がホームに入ってきた。


 動き出すには少し早かったかもしれないが、降りる乗客のことを考え、いつものように横にずれようとした、その時――


 トン、と何かに背中を押された気がした。


「えっ……」


 体勢を崩し、よろめきながら白線を越えていく。反射的に上体を反らそうとしたが、足がもつれてそのまま腰から砕けるようにしゃがみ込んでしまう。


 その、目の前。まさに鼻の先スレスレのところを電車が通過していった。


「うわあぁぁぁ……ッ!?」


 仰け反りながら尻餅をつく。同時にぶわっと全身から冷や汗。心臓が爆発しそうな勢いで収縮を繰り返す。


 しばらくの間、目が点になったまま動くことができなかった。


 慌てて駆けつけてきた駅員に誘導されながらその場を離れる。乗客からの視線が痛かったが、ショックが大きすぎて何も反応することができなかった。


 駅員室に入り、椅子に座らされる。そのまま駅員に事情を説明することになった。


「誰かに押されたような気がして」


 そのように告げると、


「それ本当?」


 いぶかしんだ目で尋ねてくる。それも仕方ないと思う。俺自身、自分の言っていることに自信が持てなかったし、そのせいか声も疑問まじりで小さかったからだ。


 もう一度きちんと思い返してみる。


 あれは押されたのだろうか……。バッグか何かが当たっただけとも思えるし、しかしそれにしては勢いがあったような……。そうだ!


「すいません、監視カメラ。確か構内のあちこちに設置してますよね。それでちょっと確認してもらえませんか?」


 これならはっきりするのではないか。そう思ったのだが――


 駅員の顔には微妙な表情が張りついていた。


「うーん。残念だけど、あの辺りはカメラの死角になってるところなんだよね。駅のカメラってもともと防犯用に設置しているわけじゃないからさぁ……」


「そう……ですか」


「君の勘違いってことはないかな」


 駅員の言葉には、君の勘違いであってほしいという願望が含まれている。向こうからしたら警察沙汰は勘弁したいところだろうし、ただでさえ今のトラブルで遅延も発生している。肝心の俺の証言も自信なさげで曖昧な回答……。


 俺の思い過ごしということにしておけば、これ以上事を大きくせずに済むのだろうが、果たしてこのまま有耶無耶にしていいものだろうか……。


 考えた末に出した結論は、


「わかりました。たぶん俺の勘違いだったと思います。どうもご迷惑おかけしてすみませんでした」


「いやいや、大事に至らずに済んでよかったよ。もしものことがあるといけないから、今度からはもう少し線の内側で待っていた方がいいかもしれないね」


 に落ちないところはあったものの、ここでごねるだけの確証が持てない。それに、こんな人の多いところで殺人を犯すほど大胆な奴がいるとも思えないし……。


 これでよかったのだろう。もう一度駅員に挨拶し、ホームに向かって歩き始める。大した時間拘束されていたわけではない。今から行けば遅刻せずに済むだろう。


 駅の中は人で賑わっていたものの、先ほどの混乱は嘘のようになくなっていた。


 念のために周囲を見回したが、加古の姿はそこにはなかった。





 人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、今朝の出来事は早速クラスメイトたちの話の種となっていた。


 ヒソヒソ、ヒソヒソヒソヒソ……。


 何か、自分の失態をあざ笑われているようで――実際にその通りなのだが、この日ばかりは不快感を押し殺すことはできそうになかった。


 軽い苛立ちをあらわにしながらも始まった一時間目の授業。頭に入れることもないまま、黒板に書かれた文字をノートに写していると、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。


 間隔の短さからメールだと思われる。誰だろう……。席が先生の目の前なので、堂々と携帯を取り出すわけにもいかない。加古からメールが来ることなど絶対にないので、こそこそしてまで授業中に確認しようと思えるほど、今の俺の気持ちをたかぶらせてくれる人などいない。まぁ、親戚の叔父さんだろうと当たりを付けながらも、少しだけ相手が誰か気になった。


 一時間目の休み時間。早速確認してみると、


「は?」


 思わず声が出てしまう。なぜなら、送信主のアドレスが自分の携帯のアドレスと一緒だったからだ。


 確かに、自分宛にメールを送ると、送った内容がそのまま返ってくることは知っているのだが、そんなことした覚えはないし、する理由もない。


 本文には何も書かれておらず、あるのは件名に書かれた五文字のメッセージ。


 内容は、


【どうしてこ】


 意味がわからない。色々考えた末に出した結論は、センターで何かトラブルでも起きたのだろう――ということにした。


 あまり気にしていても仕方ないので、次の授業の準備に取りかかった。





 再び俺の顔が困惑に満ちたのは、三時間目の休み時間だった。


 また、謎の五文字のメッセージが授業中に送られてきたのだ。


 受信時間は十一時ちょうど。前回が九時ちょうどだったので、ぴったし二時間後ということになる。


 ということは、やはりプログラム上で発生したバグが原因だと思われる。修正が間に合わなければ、次はまた二時間後の十三時に送られてくるのではないか……。


 まぁ、それは置いといて、気になるのはメッセージの内容。これも本文ではなく、件名に書かれていた。


【用命狙手送】


 中国語? 文字化けではなさそうだ……。


 字面から読み取るに、緊急事態を伝えている文に思える。


 そう判断できたのは、二文字目と三文字目の『命』と『狙』だ。普通に解釈するなら、命を狙う、もしくは狙われるだ。狙う側がこのようなメッセージを残すとは思えないので、恐らく『狙われる』と考えればよいのではないか。


 そして、四文字目と五文字目の『手』と『送』。この二文字から受けるイメージとして、直感的に『手紙を送る』と解釈することができた。


 つまり、命を狙われているから、手紙を送ってこの危機をしらせろということか。


 問題は、誰が狙っているのか、誰が狙われているのか、そして誰に手紙を送ればいいのか、この三点だ。


 先ほどの『命を狙われる』という解釈が合っているのなら、一文字目の『用』は犯人の名称ではなく、狙われている側の名称を指しているのだと思われる。それなら、手紙を送る相手も狙われている人――この『用』という人と想定して間違いないと思う。


 そして、これが一番の問題だが、俺はこの『用』という人にもの凄く心当たりがあるわけだ。


 そう、何を隠そう、この俺だ。


 俺の名前は春日用一。俺の知る限り、名前に『用』という文字を使っている知り合いは他にいない。


 この『用』が俺を表しているのなら、このメッセージが意味しているものは……。


 春日用一の命が何者かに狙われている。手紙を送ってこの危機を伝えろ――ということになる。


 今朝、電車にかれそうになったあれがこの事実を伝えているのなら――


 うん、馬鹿馬鹿しいな。俺自身が狙われているなら、なんで俺が俺宛に手紙を送らなければならないのだろうか。この『手紙』が『メール』を指しているのなら、送信元と受信元が俺の携帯であることがすでにおかしい。


 仮に今朝のあの出来事が『命を狙われる』という一因だったとして、俺はいつそれを俺宛に送ったんだ?


 そもそもあれは押されたのか、ただ荷物がぶつかっただけなのかも確証が得られていないのに、『命を狙われる』、つまり犯人がいて、そいつに殺意を持たれていると、俺はいつそれを自覚した?


 メールを受信した九時も十一時も授業中で、俺は携帯を手にしていない。


 ここから導き出される結論は、メールを送ったのは俺ではない。送った記憶もないわけだから、別の人物だと考えるのが妥当。


 ただし、俺宛に送ってきたアドレスは俺自身の携帯なため、俺以外に送れる者はいない。


 見事なまでに矛盾している。


 ということはやはり、送られてきたこの二通のメールはバグか何かが原因だろう。五つの文字の意味を探るあまり、深読みしすぎてしまったようだ。


 まあ、いい暇潰しにはなったよ。


 四時間目の始まりを告げるチャイムが鳴る。集中しすぎたあまり、あっという間に十分経ったようだ。先にトイレに行ってからにすればよかったなと微かに後悔しつつ、次の授業へと意識のスイッチを切り替えた。





 昼休み。


 学食でパンとコーヒーを買って屋上へと移動。いつもは校舎裏とか体育館裏とか、雨が降っていたら教室で食べることが多いのだが、この日は特別棟の屋上に行くことにした。


 昨日、笠原と二人で話した場所である。帰る時にドアノブから針金を抜いて、閉めたまま放置してその場を離れたのだが……、よし。案の定開いたままだった。


 普段はどこの校舎の屋上も鍵がかけられているため、あまり生徒がここに近づくことはない。そのうち誰かに気付かれるだろうが、しばらくは俺一人のいこいのスペースとさせてもらおう。


 そう考えていたのだが……。


 やっぱ寒いな。この時期に長時間いる場所でもないようだ。


 手早く昼食を済ませ、校舎に足を向ける。


 屋上から三階のフロアへ下り、螺旋状になった階段をそのまま二階部へ――。


 昼休み終了までまだ三十分以上ある。今日はどこで時間を潰そうか考えていた、その時――


「ん?」


 今廊下の奥に誰かいたような気がしたのだが……。


 確かあの辺りには社会科準備室があったはずだ。篠塚先生に見つかると面倒なので――だったら最初から特別棟に来るなよって話だが――足早にこの場から離れることにした。


 一階まで下り、中庭を横切っていく。空を見上げると、雲間から光が差していた。この調子なら予報通り天候は回復していくだろう。


 軽く安堵しながら前を見る。


 そのまま目的もなく校舎に沿う形で歩いていると、突如――


 ガチャンッ! と背後で何か音がした。


 振り返って見てみると、砂利で覆われた地面に割れた植木鉢が散らばっていた。


 たった今俺が歩いていたところにである。


「えっ!?」


 あまりにも突然で突飛な出来事に理解が追いつかない。


 えっ……、割れてるってことは落ちてきたってこと? というかそれしか考えられない!


 頭上を見上げると、校舎三階の一室の窓が一つだけ開いていた。


 社会科準備室だった。


 俺は全力でその場から駆け出した。怖くなって逃げ出すためじゃない。いや、少しはそれも含まれていたが、どうしてもこの目で確認しておきたかったからだ。




 来た道を戻り、一分と経たずに三階へ。目的の社会科準備室の前に到着し、そこで息を呑む。


 ドアが半開きだった。


 まるでいざなわれているかのようだが、無論、それが足を止める理由にはならない。


 入る前に周囲を見回す。誰もいない。不気味なくらい静かだ。警戒しながら足を踏み入れる。


 入って左側に資料用の棚、右手側に地球儀や世界地図、その他様々な小物や備品がところ狭しと置かれている。隠れられそうな場所は……ない。室内に人はいないようである。


 窓際まで歩み寄る。思った通り、壁に窓が設置されているだけで、鉢を置けるスペースなどない。もし無理やり置いていたとしても、風か何かで落ちたくらいではあの位置まで届くとは思えない。俺が歩いていたところ(植木鉢が割れた位置)は、校舎から十メートル以上離れているのだ。例え屋上から放物線を描いて落ちてきたとしても、この距離では届かない。


 ――誰かが投げつけない限りは……。


 ドアが開いていたということは、犯人は屋上ではなく、この部屋から俺を狙って植木鉢を投げたと考えるのが自然。そして成功、失敗にかかわらず、慌ててここから逃げ出したのだろう。


 そうでなければ、ドアや窓を開けっ放しのまま放置するという、そんな手掛かりを残すとは思えないからだ。


 計画的とは思えない。俺が中庭を歩いているところを見て、咄嗟とっさに犯行に及んだのだとしたら、この社会科準備室自体も最初から開いていたということになる。


 なら、誰がこの部屋を開けたのか……。


 この手の鍵は職員室にあるキーボックスにまとめて置いてあるはず。人目につくところだ。教師であれ生徒であれ、取り出そうとすれば誰かしらの目に留まるはず。


 一番怪しいのはもちろんあの人だが、一応目撃した人がいないか職員室で訊いてみることにしよう――と部屋から出ようとしたところで、


「ん?」


 なんだろう。鍵穴の部分が不自然に歪んでいるような……。


 もっとしっかり確認してみようと、裏側、つまり廊下側に出ようとしたところで、


 ――ドガッ!


 一瞬の出来事。


 頭部に激痛。視界がグラグラと揺れ、足腰から崩れ落ちる。


「ク……ッ!?」


 意識が朦朧もうろうとする。体に力が入らない。


 気持ち悪い。吐き気が込み上げてくる。床が渦を巻いて沈んでいっているようだ。


 『何者か』に鈍器のようなもので殴られたのだということがわかったが……、クソッ。


 決して気を抜いていたわけではない。別のことに気を取られていただけなのだが、殴られた今となっては二つの意味に違いはない。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 視界がぼやける。満足に呼吸できない。水の中にいるみたいだ。


 『何者か』に足首を持たれ、ズルズル引きずられていく。抵抗を試みようとするも、体は言うことを聞いてくれない。壁際に到着。背後から脇の下に手を入れられ、体を起こされる。そのまま窓枠の外に上半身が投げ出される。


 体がクの字に折れた状態。ひんやりとした風が熱くなった顔を伝っていく。依然として視界はぼやけているが、全く何も見えないというわけではない。


 目に映るのは、十数メートル先の固い地面。


 おい、嘘だろ……。冗談だよな……?


 動かない体とは裏腹に、内側では切迫感と焦燥感が早鐘となって鼓動を打ち鳴らしていく。


 足を持ち上げられる。徐々に傾いていく体。


 やめろ……ッ! やめてくれ!


 必死に願うが、声にならない。


 そして――


 校舎三階から、落とされた。


「ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……ッ!!」


 どのような体勢で落ちたのかわからない。意識を失ったり、即死していないことの方が驚きだったが、この『痛み』は死者ですら蘇らせてしまうほどの苦痛だろう。


 中庭の端を彩っている花壇かだん。そこをさえぎっている鉄製のさくが、両足の太ももを斜めに貫通していた。


 恐らくそれが衝撃を和らげる一因を果たしたのだろうが、これだったら即死させてくれた方が遥かにマシだ。


 足が上に、頭が下に、斜めになった体勢で動きを止める。背中の中頃から地面に押し当てられ、首が窮屈きゅうくつに曲げられた状態。


 不思議なことに、痛みのせいで一時的に覚醒でもしているのか、周りの景色がやけにクリアに映る。それが最悪なことに、自分の体がどのような状態になっているのかを、まざまざと見せつけられているわけだ。くそったれ。


 太ももから溢れ出るおびただしい量の血液が、制服を伝って上半身へと侵食してくる。遠くで聞こえる悲鳴が、他人事のように思えた。


 体が寒い。痛みも感じなくなってきた。


 俺、こんなところで死ぬのか……。


 頭もボーっとしてきた。意識も薄れていく。


 後悔とか、やり残したことがそれほどあるわけでもない。将来の夢も特にあるわけでもない。ここで死んでしまうことを、すでに受け入れ始めている自分もいる。


 だが、死ぬ前にこの想いを伝えたい相手がいる。


 こんな言葉残されても、その人にとっては迷惑なだけだろう。未練がましくてみっともないし、下手したらその人のところにも警察が事情を伺いに行くかもしれない。


 でも、死にゆく前に、今でも好きだというこの想いを、どうしても彼女に伝えたい!


 震える手でポケットから携帯電話を取り出す。たったこれだけのことに、ひどく時間がかかる。


 意識を失う前に早く……。


 加古へ。どうしてこんなことになったのかわからないが――


 メーラーを起動。頭の中で作った文章を打ち込んでいく。


【かこへ】


 漢字に変換する手間が惜しい。書き込む位置も『本文』ではなく『件名』のところだった。確か『件名』でも五十文字ほどは書き込めたはずだ。構わずそのまま文字を繋げていく。


【かこへどうしてこ】


 ――まで打ち込んだ時に手が止まる。


 どうしてこ……?


 見覚えのある文字……。


「……………………」


 なるほど……。あまりに遅すぎたかもしれないが、俺はそこで全てを悟ってしまった。

 一通目の【どうしてこ】。二通目の【用命狙手送】。


 どのような原理で『過去の自分宛』にメールが届くのかわからないが、この二つのメッセージは未来の俺からの警告だったのだ。


 なら、『今の俺』がメールを送れば、どのくらい前にさかのぼるか判断はつかないが――一通目と二通目が二時間おきだったことを考えれば、次は十三時か? ――そのメールの内容次第でこの惨劇を回避へと導けるはず――


「くっ……!?」


 一瞬意識が飛びかけた。もう時間はない。考えろ。最後の力を振り絞って、『何も知らない状態の俺』に、この危機を信じさせる五文字のメッセージを、送りつけろッ!


 ほどなくして――


 親指に懸命に力を込め、文字を打ち込んでいく。


 最期に残されたこの時間で、俺が残した言葉とは――

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