第5話 ループ n+1回目――②

 昼休み。


 学食でパンとコーヒーを買って屋上へと移動。いつもは校舎裏とか体育館裏とか、雨が降っていたら教室で食べることが多いのだが、この日は特別棟の屋上に行くことにした。


 昨日、笠原と二人で話した場所である。帰る時にドアノブから針金を抜いて、閉めたまま放置してその場を離れたのだが……、よし。案の定開いたままだった。


 普段はどこの校舎の屋上も鍵がかけられているため、あまり生徒がここに近づくことはない。そのうち誰かに気付かれるだろうが、しばらくは俺一人のいこいのスペースとさせてもらおう。


 そう考えていたのだが……。


 やっぱ寒いな。この時期に長時間いる場所でもないようだ。


 手早く昼食を済ませ、校舎に足を向ける。


 屋上から三階のフロアへ下り、螺旋状になった階段をそのまま二階部へ――。


 昼休み終了までまだ三十分以上ある。今日はどこで時間を潰そうか考えていた、その時――


 ドン、と背中に当たる衝撃。


「うぉッ!?」


 またたく間に階段を転げ落ちていく。


 全身に走る痛み。十数段転げ回り、壁に背中を激しく打ちつけ、ようやく動きが止まった。


「ぐっ……ぁ……いてぇ……」


 反射的に頭部を守ったおかげで事なきを得たようだが、そこに意識が回らないくらい背中や腕に痛みを覚えた。


 うめきながら体を持ち上げる。骨に異常は……特にない。打撲だぼく程度で済んだようだ。


 四つん這いになりながら階段の上を見上げる。


 今何かが背中に当たったようだが――何もない。誰かに押されたんじゃないかと最初に思わなかったのは、それが無意識のうちに拒絶したい事実だったからだ。しかも、


 ――タッタッタッタッ……。


 三階の廊下を遠ざかっていく足音。そんなもの聞こえてしまえば『そう』だと確信するしかないだろう。


 急いで階段を駆け上がり、廊下の奥へと目を光らせる。


 だが――


 誰もいない。すでに逃げられた後のようだ。


 その場でひざをつき、呼吸を整える。ひとまず助かった安堵感と、何者かに狙われた恐怖心が同時にやってきた。痛みと熱による体調不良も少しは影響していただろう。


 体に力が入らず、しばらくその場から動くことができなかった。


 数分後。立ち上がって周囲を見回す。日の当たらない北側の校舎ということで、相変わらず人の姿はない。場所が場所なだけに、もしかしたらと思い社会科準備室の前まで行ってみたが、鍵がかかっていてドアは開かない。無論、篠塚芽衣子の姿もない。


「……………………」


 冷静に考えてみる。


 今俺は殺されそうになったんだよな……。


 階段から落ちた原因は、何者かに背中を押されたから。


 そう、あれはぶつかったとか当たったとかではなく、押されたのだ。


 今も十本の指の感触が背中に残っている。それが男のものか女のものかはわからないが……。


 妙に手首の辺りがヒリヒリするなぁと思って見てみると、りむけて血がにじんでいた。とりあえず保健室で治療を受けがてら、先生に相談してみよう。


 そう思い、周りを警戒しながら一階へと下りていった。





「本当なの? それ……」


 不安げな顔で問い返してきたのは、養護教諭の山下先生。三十路みそじで独身、スタイルも良くて綺麗な人だとは思うのだが、いかんせん彼氏ができない。


 非常にサバサバした性格で、いつまで経っても結婚できないんだよねぇ――などと自虐的に話すのだが、周りがそれを笑って受け流せるのだから、この人のキャラクター性というか人柄の良さというか、人間的な魅力のある人だと思う。


 全く裏表を感じさせない人なだけに、俺がこの学校で唯一といっていいくらい気の許せる先生である。


「ええ。男か女かわからないですけど、俺の背中を押したあと走って逃げていきましたから」


 主観的かもしれないが、俺の意見はこれである。これに対し先生は、


「例えばよ、例えばその子が何かの拍子で君にぶつかっちゃったとして、それで階段の下に転がっていった君を見て怖くなって逃げ出しちゃった、というのは考えられないかな?」


 返ってきた答えは、なかば予期していたものだった。確かに、殺人未遂よりも事故の線を疑った方が自然だし、納得できるし、何より面倒くさくなくて済む。


 もし俺の話を信じるなら、この件だけで確実に警察沙汰になるだろう。そうなれば生徒や保護者への影響、マスコミへの対応、騒ぎが大きくなれば卒業生の評判や、翌年度の新入生の募集率にも響いてくる話だ。


 この先生に限って、そんな目先の動向に左右されるような人ではないと信じたいのだが、あいにく彼女の方が俺の言っていることを信じきれないのかもしれない。


「そうですね……。確かに俺の勘違いだったのかもしれません。ご迷惑おかけしました」


 うっかりしていた。こんな『かもしれない』出来事を人に話したって、下手に注目を浴びてしまうだけだ。俺が狙われているんじゃないかと生徒の間で広まってしまった場合、一番疑われるのは誰か――


 そんなの加古に決まっている。


 あまりおおっぴらだったとはいえないが、俺たちが恋仲にあったことは今では周知の事実。


 三ヶ月前のこととはいえ、彼女と別れ、ほとんど誰とも接点を持たずに学校生活を送ってきた俺だ。この状況で俺が狙われたと知った生徒が誰を犯人に仕立てあげるか――そこに通じるからである。


 接点といえば、一番怪しいのは笠原になってしまうが、あいつの場合は例外として処理して構わないだろう。笠原を犯人だと思う人も中にはいるだろうが、おおよその人間は、笠原に近づいたからこんなことになったんだと、彼女の死神説を強める結果になるだけ。それだけ彼女はこの学校で特別視されている存在なのだ。


 真剣な顔で相談しておいて、あっさりと引き下がる俺に山下先生は、


「ちょっ、ちょっと待って。ほかの先生方にも相談してくるからちょっとここで待っていてくれる?」


 ここで放り出さないのが彼女の善性なのかもしれないが、すみません。


「いえ、よく考えてみたら、誰かにぶつかってしまったのは事実ですけど、バランスを崩して階段から落ちたのは俺の責任です。ちょっと怖い思いをしたから、先生が言うように勘違いしてしまったのかもしれません。あまり大事おおごとにもしたくないし、今度から気を付けますので……」


「そう? あっ、一応私の携帯の番号教えておくから、何かあったら――」


「いえ、ホントに大丈夫なので。どうもありがとうございました」


 強引に会話を切り上げ、保健室を後にした。





 五時間目、六時間目と過ぎていくが、特に変わったことは起きていない。人前で犯行に及ぶとも思えないので、当たり前といえば当たり前である。


 それでも俺が周囲に目を光らせていたのは、普段と態度や仕草に違いがある人物がいないかを調べるためだった。


 犯人だって犯行に及ぶ時は相当な決断に迫られたはずである。今ごろ相手が抱えている精神的な疲労度やプレッシャーはかなりのものだろう。


 周りの生徒に気付かれることなく人一人を始末する、または事故にみせかける。これがどれだけの労力を要するかは、自分が犯人になったつもりで考えればわかるというものである。


 なら、抱え込んだストレスの末、または後には引けないといった思いが行動に表れてしまっても不思議ではない。それに、俺が何も騒ぎ立てないことを不気味にも思っているかもしれない。


 ――といっても、この時点では同じクラスの生徒に焦点を当てるのがせいぜいである。


 見たところいつもと変わりない。まるで居ない者として視線が素通りしていくが、俺が何か行動を起こすと――例えば席を立ったりするだけで、近くにいる生徒、特に女子が視線をぶつけてくる。


 それが普通の反応ではないため、いまいち見分けがつかない。


 あまりこちらからジロジロ見ていると、逆に俺の方が不気味だと思われてしまうため、息を潜めてやり過ごすしかないようだ。


 全く、これじゃあどっちが犯人かわかったもんじゃない。





 放課後。


 何事もなく学校を後にする。しかしここで油断はできない。あんなことやった後だ。この後俺が警察に行くのではないかと、犯人は気が気ではないはずだ。ただ、五、六時間目は普通に授業に出てしまっているため、ひょっとしたら「こいつにその気はないのでは?」と疑われているかもしれないが、それでも俺のこれからの行動は気になるはずだ。


 尾行してくると踏んで行動した方がよいだろう。


 俺は『えて』人通りの少ない道を選んで歩き始める。帰宅部の生徒と下校時間が被らないように、三十分ほど帰宅時間を遅らせてもいる。


 無論、犯人を釣るためだ。


 昼間にも考えたことだが、加古に迷惑をかけないためには、俺自身の力で直接犯人を捜し出す必要がある。もしくは、決定的な証拠を見つけるだ。


 そのためには、犯人の素顔を知っておく必要がある。そしてそのチャンスを得るには、今をおいて他にはない。今も付いてきているであろう犯人と、正面から対峙するのだ。


 現在、俺が向かっているのは交番。小さい町だ。犯人もそこに交番があることは知っているだろう――そこを狙い打つ。


 ビルの角を曲がり、俺は死角となるそこで足を止めた。このまま真っ直ぐ行くと、五十メートル先に交番がある。犯人は俺がそこに入るか確認してくるだろう。なら、地形的にこの角から顔を出してくるのは間違いない。


 その時、俺が真正面に立っていたら犯人はどうするだろうか。上手いことトボケた顔で通り過ぎていってしまうかもしれないが、どんな些細な変化も俺は見逃さない自信がある。


 それに、ジッと凝視する俺を見て、犯人も気付くのではないか。


 ――自分が犯人だと疑われているということに……。


 本当は首根っこひっ捕らえてでも警察に突き出したいところだが、残念なことに証拠がない。このまま泥沼化していくくらいなら、自重してもらって大人しくなってくれた方がいい。


 少なくとも、加古が在学中の間はそういう方針でいこうと思う。


 待つこと十数秒……。現れない。そのまま一分が経ち、二分が経ち、そして――


 誰も来なかった。こちら側から顔を出してみたが、誰もいなかった。尾行している者など最初からいなかったのだ。


 ホッとすることはなかった。むしろ何故なぜという疑問が膨らむばかりだった。


 俺が犯人なら、対象者の行動は逐一監視しただろうに……。


 それとも山下先生が言っていたように、俺が勘違いしていただけだったのか……?


 わからない。


 引き続き周囲を警戒しながらも、来た道を引き返し始めた。




 駅を出て、自宅のある方角へと歩き出す。人の流れに沿うように、途中建てられたショッピングセンターへと立ち寄った。


 昨日は体が濡れていたためそのまま帰路についたが、最近の俺の行動としてはここに寄って時間をつぶすのが日課になっていた。


 理由は、あまり家に居たくないからである。いや、理由になってないか。正確には、あの母親とできるだけ顔を合わせたくないからだ。


 自分の部屋にこもっていれば何も問題はないのだが、それでも、同じ屋根の下にいる時間は可能な限り減らしたい。


 施設の中に入り、迷わず三階までエスカレーターで上がる。この時間帯は同じ学校の生徒も多いので、ウインドウショッピングも控えるようにしている。


 なら普段何をしているのかというと、読書である。


 三階東口の非常階段のそばにある男性用のトイレ。設計上の段階では予想もされていなかったであろうが、このトイレの手前側一帯が婦人服売り場として展開されている。


 つまり、この男性用のトイレにはほとんど人が来ないのだ。


 いつも使っている――用は足していないが――一番奥の個室に入り、図書室で借りてきた文庫本に目を落とす。音楽プレイヤーで好きな曲でも聴いていれば、細かな雑音も気にならない。


 ここで二~三時間かけて一冊の本を読了する。


 それが放課後の俺の日課だった。


 しかし、今日は本を借りてきてはいない。仮に本が手元にあっても集中して読むことはできなかっただろう。


 言うまでもなく、昼間のあの一件があったからだ。


 時間が経つごとに、あれは本当はただの事故だったんじゃないかと自問する回数が増えていくが、どうしてもそのように割り切ることができなかった。


 あれが意図的なものであったとしても、そうじゃなかったとしても、何者かの両手が俺の背中を押したという事実は変わらないからだ。


 あれはただの事故だったのか、殺意があったのか……。殺意があったならその動機はなんなのか……。私怨? しかし、殺されるほどの恨みを買うとなると、思い当たるのは――とそこで、突如照明が消えた。


 ――停電か!?


 耳からイヤホンを取りながら個室から出る。しかし、館内からは音楽が聴こえるし、トイレの入り口も館内からの明かりが届いている。


 ということは、トイレの照明だけが消えたということだ。確か手前と奥に蛍光灯が一本ずつ設置されていたはず。同時に寿命を迎えたとは考えられないから、誰かがトイレ入り口の照明スイッチを切ったということになる――


 ここでぞわっと全身の皮膚が粟立つのを感じた。


 誰かが消した……のか?


 果てしなく襲いかかってくる嫌な予感に、急速に頭の回転が速まる。答えもシンプルなものだっただろう。だが、その解答が導きだされたのは、思考によってではなく、体に走る痛みを自覚してからだった。


 ドンッ、と背中に何かが突き刺さった。


「グッ……カハッ……!?」


 強制的に息が吐き出される。同時に頭の先から足の先まで電流が走り抜けたような衝撃。激痛が意識を削り取り、全身から力を奪い取る。


 ひざから崩れ落ち、そのまま前のめりに倒れ込む。


「……ァ!」


 声が出ない。顔を横に向けたまま小さく呼吸を繰り返すことしかできない。


 目の前を何者かの足が通り過ぎていく。暗すぎて男か女か、大人か子供かも判別がつかない。


 決して慌てるでもなく、ゆっくりと遠ざかっていく足音。


 誰なんだ……?


 トイレの照明を消し、壁側に移動。個室から出てきた俺に、背後から一撃。これが無差別的な犯行でないのだとしたら、わざわざ俺を付け狙っての犯行なのだとしたら、こいつは学校で俺を階段から突き落とした犯人と同一人物の可能性が高い。


 しかし、尾行は巻いたはず……いや、最初から尾行などされていなかったはずなのに、どうして俺がここにいることをこいつは知っていたんだ。


「あ……」


 かすれた声。それがうめいた声なのか呼び止めようとして出た声なのか、自分でもわからない。


 その声に反応したように、何者かの足が一度止まった。


「……………………」


 しかし、すぐにきびすを返し、そいつはこの場から去っていった。


 体が寒い。痛みも感じなくなってきた。


 俺、こんなところで死ぬのか……。


 頭もボーっとしてきた。意識も薄れていく。


 後悔とか、やり残したことがそれほどあるわけでもない。将来の夢も特にあるわけでもない。ここで死んでしまうことを、すでに受け入れ始めている自分もいる。


 だが、死ぬ前にこの想いを伝えたい相手がいる。


 こんな言葉残されても、その人にとっては迷惑なだけだろう。未練がましくてみっともないし、下手したらその人のところにも警察が事情を伺いに行くかもしれない。


 でも、死にゆく前に、今でも好きだというこの想いを、どうしても彼女に伝えたい!


 震える手でポケットから携帯電話を取り出す。たったこれだけのことに、ひどく時間がかかる。


 意識を失う前に早く……。


 加古へ。どうしてこんなことになったのかわからないが――


 メーラーを起動。頭の中で作った文章を打ち込んでいく。


【かこへ】


 漢字に変換する手間が惜しい。書き込む位置も『本文』ではなく『件名』のところだった。確か『件名』でも五十文字ほどは書き込めたはずだ。構わずそのまま文字を繋げていく。


【かこへどうしてこんなこ】


 ――まで打ち込んだ時に手が止まる。


 どうしてこ……?


 見覚えのある文字……。


 かこ(過去)へ。どうしてこ。そして『本文』ではなく『件名』に残されたその言葉。


 その意味が理解できた時、背後から突き刺された時以上の衝撃が全身を貫いた。


 朝送られてきたあのメール……。あれは、俺が送ったもの……?


 いや、しかし、そんなことあり得るのか? 過去の自分にメールを送るなんて、そんな非現実的なことが……。


 仮に送れたのだとして、なぜ五文字? 五文字しか送れないということか? 送られてきた時間も九時ちょうど。なぜ九時なのか……。


 わからない……。わからないことだらけだが、なぜか妙に気になる。


 今日の朝送られてきた『どうしてこ』のメールが、数時間先の俺自身が送信したものだとしたら、今の俺がこの危機を文に乗せて送れば、過去の俺の行動次第でこの惨劇を回避することができるのではないか。


 いや、なんだそれは。そんな馬鹿げた話があるか。自分の都合の良いように解釈し過ぎている。だけど、これ以外にあの謎のメールが送られてきた理由が説明できない。


 クソッ、こんな時に何を考えている。今は加古に俺の最期の言葉を残す大事な時なんだ。


 ディスプレイの明かりが床に反射しているが、バケツの水をぶちまけたように血の赤で染まっている。


 恐らく俺は助からない。もう一分も持たないだろう。


 親指に懸命に力を込め、文字を打ち込んでいく。


 最後に残されたこの時間で、俺が残した言葉とは――

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