第3話 撮影

 六時間目終了のチャイムと同時に、一気に賑やかになる室内。


 スポーツバックを持って部活に向かう生徒や、ダラダラと帰り支度を始める帰宅部の生徒。隣近所で談笑し始める女子生徒や、先生のもとに質問しに行く男子生徒。


 放課後の始まりを示すこの空気は、恐らくどこの学校でも共通していることだろう。


 ざわめきを耳にしながら、緩慢な動きで鞄に教科書を詰めていく。


 さすがに六教科全てとなるとそれなりの重さになってしまうが、普段あまり運動していない俺からすればいい筋トレ代わりだ。


 別に学校側から「持って帰れ」と指示されているわけではないのだが、俺の場合、机の中に何か入れていると、次の日来た時に向きが変わっていたり、上履きが下駄箱の上部に移動していたりと、イジメともとれないような不可解な現象に見舞われてしまうのだ。


 これも三ヶ月前のあの一件を境に起き始めたことなのだが、わざわざ犯人捜しをするつもりはない。


 恐らくからかい半分で楽しんでいる一部の生徒の仕業だろう。


 その割りにやっていることが卑小すぎてどうかと思うが……。


 こちらのあずかり知らぬところで誰ともわからぬ人間に触られている、というのは気持ちのよい思いがするものでもない。


 自分できちんと管理しておけば特にそれ以上何かされるわけでもないので、あまり気にしないようにしている。


 鞄のほかに下履きの入ったシューズバックを机の上に置き、さてどうしようかと、しばしその場に留まる。


 昼休み、笠原に放課後付き合ってくれと言われたが、待ち合わせ場所を聞いていないことに気付いたのだ。


 行くとしたら新聞部の部室か一年の教室。一年の教室といってもクラスまでは知らない。まさか約束を交わした屋上ではないよな……などと考えていると、



 ――シン、と、



 ざわめきが一瞬にして収まった。


 半数以上の生徒は周りに釣られて口を閉ざしたのだが、突如襲ってきた静寂にみんな何事かとまゆをよせる。


 まだ授業は終わったばかり。三十人ほどは教室内にいただろう。その全員が、黒板横の扉を見つめていた。


 人垣ひとがきでそこに『誰が』いるのか見えなかったが、この状況をつくりだせる人物などそうはいまい。


 察してしまう。その誰かとは――


 笠原ノア。


 決定的瞬間を撮り続ける女。彼女の向かう先には事件や事故が待ち構えている。


 人は彼女のことをこう呼ぶ。


 ――『死神』と。


 今から四ヶ月前に彼女自身も交通事故に遭い、一週間ほど意識が戻らなかったそうだが、その何日か後にはケロッとした顔で学校に顔を出した。その数日後に事故を起こしたドライバーが行方不明になっただのと妙な噂が出回っているが、真偽のほどは定かではない。誰かが『死神』という言葉と結びつけて吹聴したデマというのが有力。


 つまりそれだけ影響力のある女子生徒なのだ。


 笠原は俺の席まで歩み寄ってきて、こう言った。


「先輩、お待たせしました。さぁ、行きましょうか」


 右手を差し出してくる。


 こんな状況でこんなこと思うのはどうかしているのかもしれないが、俺は笠原のあおい瞳を見て吸い込まれそうな錯覚を覚えた。素直に綺麗だと思った。


 何ものにもけがされない高貴な存在。他人にどう思われるかとか、そんな些細なこと微塵も気にしない自己の在り方。


 その瞳を通じて、俺は笠原が持つ意思の力というものに魅入ってしまったのかもしれない。


 気付いた時には、俺は笠原の手を握っていた。


「あっ……と」


 瞬間、注目の的になっていることに気恥ずかしさを覚え、すぐに手を離す。鞄を持ち、彼女の後に続いて教室を出る。


 クラスメイトたちもそうだが、廊下にいたほかのクラスの生徒もあからさまに笠原を避けて離れていく。


 噂が先行し、悪い評判ばかりが広まってしまったせいだろう。


 ――近づいたら自分も『不慮ふりょの事故』に遭ってしまうのでは――と心配しているわけだ。


 皆一様に、嫌悪というよりはおそれの感情を顔に貼りつけている。


 心なしか、俺にまで同様の視線が突き刺さっている気がする。


 ひょっとしたら俺への嫌がらせがイジメに発展しないのは、彼女の影響があるのかもしれない。


 俺が笠原と話すようになったのは三ヶ月前の『あの一件』からだ。


 新聞部員としてしつこくぎ回る笠原と、それをあしらう俺の構図。結局その一件は記事にされることはなかったが――事件でも事故でもないため、途中で笠原自身が飽きてしまったのかもしれないが――それ以降、日常会話程度ならするようになった……というか、なってしまった。


 ほとんど笠原の方から俺に話しかけてくるといったものだったが、周りから見ている分にはさぞや仲のよい友人として映っていただろう。


 そのせいで、俺まで笠原の同類だと思われているのかもしれない。


 ということは、俺がこの学校で孤立している理由の半分はこいつにあるということではないだろうか。


 まあ、別にそれでも構わないのだが……。


 階段を下りて一階下駄箱へと向かう。


 依然として黙ったまま俺の前を歩き続ける笠原。


 そしてこれも依然として、彼女の姿を目に収めた生徒はそそくさと廊下の端に避難する。


 ポジティブに考えるなら、町に下りてきたお殿様気分を味わえるというか、モーゼが割った海を眺めているというか、人が避けていってくれるのは便利だと思うのだが、その意味は崇敬すうけいではなく、畏怖いふたぐいだ。恐がられていることに変わりはない。


 どこに行っても奇異な目で見られ、物理的に拒絶の意思を示される。毎日がこれで笠原は悲しいとか苦しいとは思わないのだろうか。


「いつもこんな感じなのか?」


 たまらず尋ねてみると、


「いつもとは?」


「言わなくてもわかるだろ?」


「……そうですね。お殿様になった気分です」


 俺と同じこと考えていやがった。


 しかし、それはきっと本心ではないのだろう。こんなことが日常的に続くなら、誰だっていい気分のするもんじゃない。


 今だって、つらい、そう感じているんじゃないか?


「……………………」


 笠原は何も応えない。


 まぁ、だからといって俺はお前に同情なんかするつもりなんかないがな。


 なぜなら、この状況は全てお前のやってきた行動の結果なんだから。


 普通に女子高生演じたかったら、わざわざ新聞部に入る必要はなかった。カメラがやめられないなら趣味でやればよかった。そんなに事件や事故に興味があるなら、自分で勝手に調べて勝手に写真を撮って、マイフォルダにでも保存しておけばいいだろう。


 なんだって普通の新聞記者が一年がかりで待ち構えても撮れないような写真をバンバン撮って掲示板で公表するんだ。おまけにその写真ネットにも上げてるよな。


 悪い意味で目立つってわかるだろうに……。


「お前……、今のままでいいのか?」


 無意識のうちにそう尋ねていた。声が小さかったせいか、笠原は反応しない。


 聞こえなかったのなら別にいいかと思っていると、突如クルっと振り返ってくる。


「そうですね。わたしは今の生活に満足してますよ」


 自然体でそう告げた。強がりで言っているわけではなさそうだ。


「でも友達とか恋人の一人でも欲しいとは思うだろう。こんなこと続けていても周りは誰も理解しちゃくれないぞ?」


「先輩。もしかしてわたしに同情してくれているんですか?」


「違う、これは同情じゃない。俺はお前のことをあわれんでいるんだ」


「哀れむと同情するは同じ意味ですよ」


「そうか? じゃあなんて言えばいいかな……」


 なんか、この気持ちをうまく言葉に表すことができない。


 少しの間考えて――顔を上げる。


 完全に自分のことは棚に上げているが、こんな生き方しかできないこいつのことを寂しい奴だと、そう言いたいわけだ。


「お前、こんな生き方してて楽しいのか?」


 要約するとこの一言に尽きる。笠原は、


「いいんですよ。わたしは自分が最大限に楽しむためにスクープを追い求めているのですから……。あれもこれもはいりません。一番好きなことを最優先です。というか、先輩こそ人のこと言えないんじゃないですか? ちゃんと教室で喋ってくれる人はいますか?」


「俺のことはどうだっていいだろう」


「なら、わたしのこともどうだっていいでしょう?」


 ぬぅ。


 なんかうまくやり込められた気分だ。ちょっとだけ勝ち誇った顔をしているところに腹が立つ。


 もういい。下手にこいつの事情に首を突っ込もうとした俺が間違っていたのかもしれない。これ以上このことに触れるのは止めておこうと顔をそらした時、


「だったら先輩――」


 スッと笠原が俺の脇に近寄ってくる。


「嫌われ者同士、仲良くしましょうか」


 腕を組んでくる。


「お、おい、やめろって」


「いいじゃないですかぁ」


 冗談半分でやっているのはわかったし、今さら笠原と仲良くしている姿を周りに見られることに恐れを抱く俺でもない。それでも嫌がってしまったのは、単に恥ずかしかったからだ。


 そんな俺の態度が新鮮に映ったのか、ますます調子に乗る笠原。抱きつくように左腕に絡んでくる。


 まだまだ成長期とはいえ、笠原も高校一年生。十六才だ。法律的に結婚も認められる年齢にさしかかっている――というのはこの際全く関係ないのだが、身体の方はそれなりの成長をみせている。


 つまり何が言いたいのかというと、上腕二頭筋を包み込むように挟み込んでくる割と豊かな膨らみが、感覚器官を通じて俺の脳内物質エンドルフィンの分泌を促し、わずか、ほんのわずかではあるが抵抗の度合いを引き下げにきたことに果てしない罪悪感を覚えてしまっていたわけだ。


 そんな俺が、本気で、ともすれば笠原を突き飛ばしてしまいかねない勢いで腕を引き抜いてしまったのは、『その人』と目が合ってしまったからだった。


 真正面からその人の顔を見たのは、実に三ヶ月ぶりのことだった。



 俺の元彼女――相原加古が、十メートルほど先からこちらを見ていた。



「……………………」


 声が出てこない。ここは一・二年普通科の校舎。三年生のはずの加古がどうしてこんなところにいるのかと疑問が湧いたが、それも一瞬で霧散した。


 今の俺にあるのは決まりの悪い感情。居心地の悪さ。罪悪感……。


 もう別れているためそんなこと感じる必要などないのだが、体が勝手にそう感じてしまったのだから仕方がない。


 加古は、少しだけ目を見開いてこちらを見ていた。驚き、というよりは、もっと別の感情がそこに浮かんでいたような気がしたが、それがどんなものかはわからない。


 実際は二秒ほどだっただろうが、体感的には十秒以上も目が合っていたような気がする。


 先に視線を外したのは加古。体ごと顔をそらし、そのまま小走りで校舎の外に出ていった。


 わずかに遅れて、バクバクバクバクと心臓の鼓動が早鐘を鳴らし始める。


「わたし、地雷踏んじゃいましたかね……」


 申し訳なさそうな声で笠原が言ってきたが、そこに向ける意識は今の俺にはなかった。





「先輩。元気だしてください。もう五分も黙りっぱなしですよ」


 学校を出てからずっと、笠原のお尻しか目に入っていなかった……いや、そういう意味ではなく、顔を落としたままトボトボ歩いていたから自然に視界に入っていただけだ。視点は定まっていない。


 笠原に触られること自体初めてのことなのに、よりにもよって抱きついてきたあのタイミングで最も会ってはならない人に遭遇するなんて、こんな偶然ありえるのだろうか。


 ある意味これも『決定的な瞬間』といえるのか? これが笠原が演出したものでないのなら、偶然で片付けるしかないのはわかっているのだが……。


「ねえ、先輩。聞いてますか?」


 うるさい。誰のせいでこうなったと思っている――と口にするのは逆恨みというものだろう。もっと早く振り払うことはできたのだから。そうできなかった俺が全て悪い。


 はぁ……。まるで浮気現場を目撃された気分だ。


「ねぇ、先輩ってば」


「なんだよ」


「先輩はまだ相原先輩のことを引きずってるんですね」


「お前は聞きにくいことをズバッと言ってくるなぁ」


「そうですね。遠慮していても仕方ないので。あ、次こっちですよ」


 横断歩道を渡り、線路沿いの小道を北上。たわいない会話を続けながら歩くこと十分。川辺に到着。そのまま川沿いに進んでいく。


「なぁ、どこ行くんだよ。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」


「いいですよ。答えはデートです」


「は?」


「大好きな先輩と一緒にお散歩デートを満喫してみたかったんです」


「いや、そんな真顔で言われても困るんだけど……」


「そうですね、冗談はさておき……」


「おい」


「本当の目的は……」


 言ったまま固まる笠原。視点は俺の横をすり抜けて後方へ。


 そして、機敏な動作でカメラを構えたかと思いきや、せわしなく人差し指を動かし、シャッターを切り続ける。


 ――同時にドボンと何かが着水した音。


 何事だと思い、振り返って見たその先で――


 子供が溺れていた。


 橋の欄干らんかんから落ちたようだ。


「チッ、笠原! 救急車!」


 叫びながら駆け出すが、笠原はファインダーを覗き込んだまま一心不乱に撮影し続けている。


「おい! 聞いてるのかよ!」


 腕をとって強引に振り向かせる。笠原は平然とした様子で、


「大丈夫です先輩。ここあまり深くありませんから。それに――」


「三十センチあれば大人でも溺れ死ぬんだよ!」


 耳の中に体温と違う温度の液体が入れば、人はそれだけでめまいを起こすし、橋から落ちた衝撃で怪我をして力が入らないかもしれない。パニックを起こしていたら正常な判断もつかないだろう。浅瀬で子供が溺れ死ぬなんていくらでもある話だ。


 言い争いなどしている場合ではない。鞄を放り投げ、上着を脱ぎながら川の中へ――


 幸いにも川幅は大したことない。岸から子供まで二十メートルほどだ。


 飛び込み、顔を上げながらクロールで近づく。


 ここで注意しなくてはならないのは、助け方だ。溺れている人は呼吸をしようと必死だ。周りが見えていないし、当然余裕がない。助けに来た人にしがみついて、それでも水面に上がろうと暴れまわる。まさに、溺れる者はわらにもすがるというやつだ。


 それで二人とも溺れ死んでしまっては意味がない。


 それを防ぐには、一度相手の顔を水の中に引きずり込み、わざと失神させてから救出する――というのを何かの本で読んだことがあるが、水深は腰の高さ。相手も小学生のようだ。その必要はないだろう。


 わきに手を挟んで持ち上げる。少しの間抵抗されたが、すぐに大人しくなってくれた。


「おい、大丈夫か」


 二十歳くらいの大学生が近寄ってくる。俺のほかにも救助にかけつけてくれたようだ。その人と協力して、小学生の男の子を川岸へと運んだ。


 助け出された子供は延々と泣きわめいていたが、意識ははっきりしているようだし、見たところ外傷も負っていない様子。手伝ってくれた大学生が頭をさすりながらなぐさめている。


 同じく、二十歳くらいの女性――恐らく男性の恋人だろう――が男の子のランドセルの中を調べ――緊急連絡先として家の電話番号でも書かれていたのか――携帯電話を手に連絡している。


 とりあえずこの場はあの二人に任せても大丈夫なようだ。


 俺は重くなった体を引きずり、一人ポツンと所在なげに立つ笠原のもとへと歩き始めた。


 カメラは手に持っているが、撮影はしていない。


 当たり前だ。この状況でまだそんなことしていたら思いっきりひっぱたいていたところだ。


 笠原は自分の鞄からタオルを取り出す。手ぬぐいにしてはやけにボリュームがある。大きさはバスタオルほど。教科書の代わりにそんなもの入れてるなんて……。


 まるで、俺がずぶ濡れになることを最初から知っていたかのようじゃないか。


 俺は差し出されたタオルには目もくれず、笠原に非難めいた目を向ける。


「どうして写真なんか撮ってた」


「どうしてとは?」


「聞き返すなよ。言ってる意味わかるだろ。子供が溺れてたんだぞ」


「……そうですね。でもあの場で撮影できたのはわたししかいませんでしたから」


「人命がかかってたんだぞ! そこまでして撮る必要があったのかよ!」


「はい、だから撮っていたんです」


 こいつ、なんでそこまで……。


「大体、先輩が助けに行かなくても、最初からあの二人に任せておけば大丈夫なようでしたから」


「それでも事態がどう転ぶかなんてわかんないだろうが」


「ええ、でも、仮にあの大学生の男の人と先輩まで同時に溺れたとして、わたし一人で助け出すことなんてできると思いますか? わたし泳げませんよ? 救急車ならあの大学生の女の人が呼んだでしょうし」


「それでもできることはあるだろう。近くに助けを呼びにいったり、ロープとか浮くものとか借りにいくことだってできたはずだ。違うか?」


 頭のいいこいつのことだ。あの時も冷静だったようだし、そのことに気付かないわけがない。


 しばしの沈黙を挟んで出した笠原の答えは、


「それでも、この場でわたしが優先しなければならないのは撮影です」


「なんでそこまでする必要がある? お前おかしいよ。そんなの普通じゃない」


「そうですね。私は普通ではないのでしょう。たぶん、目の前で家族が殺人鬼に殺されていても、近くにカメラがあったら撮っていたでしょうから」


「だからなんでそこまで――」


「だって、それが私ですから」


 言葉を被せてくる。


「面白ければなんだっていいんです。今、この瞬間、その場所で起きた一瞬を、フィルムに焼きつけたいんです。焼きつけなければならないんです」


「……………………」


 呆れて物が言えないとはこのことか。


 少しでもこいつのことを理解しようといたことが馬鹿らしくなってくる。


 それがジャーナリスト魂だとでも言うつもりか?


「もういい。明日からは俺に話しかけないでくれ」


 それだけ告げて、その場を去った。笠原は、何も言わなかった。

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