第2話 決定的瞬間を撮り続ける女
廊下を走る。屋上に向かうには、校舎三階の中央階段を使うしか方法はない。それでも屋上へ繋がる扉には鍵がかかっているはずだが、『あの笠原』なら必要とあらばどこにでも侵入を試みるだろう。
予想した通り、扉は開いていた。ドアノブを見ると、鍵穴に細い針金みたいなものが刺さっている。こんな原始的な手法でよくもまぁ開けられたものだ。
妙に感心しつつ、屋上に足を踏み入れる。
今の俺がそれほど焦っていないのは、『あの程度の写真』ぐらいでは笠原は俺から逃げない、そういう確証があったからだ。
案の定、鉄柵に背中を預けてこちらを見ていた。もちろん逃げる素振りなどない。むしろ俺が現れるのを待っていた節がある。
笠原ノア。人づてに聞いた話ではハーフだかクォーターだかという噂だが、真偽のほどは確かめるまでもないだろう。典型的な日本人顔ではあるが、両目が少し
近づいた俺に、笠原の方から挨拶してきた。
「お久しぶりです、先輩」
「そうか? 一昨日も昨日も会ったと思うけど?」
「そういえばそうでしたね。ところでどうです? 調子は」
「まあ、ぼちぼちだな」
言いながら、俺も鉄柵にもたれかかる。隣りを見ると、笠原もこちらを見ていた。目が合う。ニコリと微笑みかけられるが、愛想笑いにいちいち応えてやる義理もない。
俺は黙って手を差し出した。
「なんですか? それは」
「とぼけるなよ。さっき撮った写真だ。データ消すからそのカメラ貸してみろ」
笠原の首から垂れ下がっているカメラを指差すが、
「やだなぁ。先輩にはこれがデジカメに見えるんですか? これ一眼レフカメラですよ? 二十万ですよ? フィルム使ってるんですよ? さっき撮った写真一枚だけ消すなんて、さすがのわたしでもそんな器用な真似はできないですねぇ」
「じゃあ買い取るよ。そのフィルムはいくらするんだ? 千円か? 二千円か?」
「さすが、お金持ってる人は言うことが違いますねぇ。なんでも金で解決ですか」
「それは関係ないだろ。いいからいくらだよ」
笠原は間髪いれず、
「百万円です」
「百万!? そんなわけないだろ」
「残念ですが、これにはそれだけの価値があるのですよ。なんてったって、このフィルムには今、二人分の人生を変えてしまうだけの物的証拠が写り込んでいるわけですから。それに、そんなに払えるわけないと先輩は言いましたが、ホントは払えるんでしょ? 隠さなくったって知ってますよ、わたしは」
「……何をだよ」
「お父様から譲り受けた遺産、貯蓄が数千万単位であることはね」
心臓がドクンと高鳴ったが、なるべく顔に出さないように意識する。相手のペースに呑まれないように注意しながら、考える。
どうしてこいつはそのことを知っている……?
今こいつは遺産といったが、確かに俺の父は四ヶ月ほど前に亡くなっている。そのことを知っている人間は多いだろう。なんたって、うちの父はこの町の町長をやっていた人物。葬式にも数多くの人が参列してくれたのだから。
息子である俺が、父から遺産を譲り受けることはこいつにも予想はつくだろうが、なぜ貯蓄、つまり現金でそれだけのお金が残されていると知っていたのか? 勘で言ったにしては、やたら自信のある顔をしている。
「どうしてそれを?」
「遺言、があったみたいですね。遺産の全てを息子である先輩に相続させたいと。遺産相続には遺留分というものがあって、特定の人物にのみ相続させることは難しいそうですが、先輩の家は結構な割合で遺言書通りになったとか。まぁ、仕方ありませんね。お母様とは、お父様が亡くなる少し前に再婚されたばかりみたいなので」
「……やたらうちの事情に詳しいんだな。それも新聞部の活動の一つなのか?」
「ええ、そういうことにしておいてください」
相変わらず油断ならない女だ。どうやって調べたのか訊いても答えてくれることはないだろう。
だが、この段階でもまだ俺に焦りはなかった。
こいつが本当に興味があるのは、金なんかではないことを知っているからだ。
「お前がその写真を公表するつもりがないのも、それをネタに俺や先生をゆするつもりがないのも知ってるよ。お前が本当に興味があるのはこんなことじゃないもんな。だろ?」
「フフーン。さすが先輩です。そうですね。わたしが追い求めているのは事件や事故です。いわゆるスクープというやつです。こんなゴシップ程度の内容を紙面に載せるなんて、わたしのプライドが許しませんので」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
笠原はそこでムフンと笑うと、
「今日の放課後わたしに付き合ってください。あっ、付き合ってって、別に交際してくださいって意味なんかじゃないですよ?」
「わかってるよ。いちいち補足されなくてもお前と付き合うつもりなんてこれっぽっちもないから安心しろよ」
「うわっ、先輩って何気に容赦ないですよね。そんな言わなくてもいいことで乙女のハートを傷つけにこなくても……っと、まあこんなどうでもいいことはさておき、どうなんです? 放課後付き合ってくれるんですか?」
「……どこに行くつもりだ?」
「それは着いてからのお楽しみです」
絶対ただで済まないことはわかりきっていたことだが、他に選択肢はないようだ。今さら百万円払うなんて言ってもこいつは受け取らないだろう。
「わかったよ。助けてもらったお礼もしなくちゃいけないしな」
「わかればよろしいんです」
笠原はカメラからフィルムを抜き出し、引きのばしてから日光に当てた。これでさっき撮った写真は使い物にならなくなったはずだ。
フィルムを別の物と入れ替えていなければの話だが……と、一瞬疑ってしまったが、その辺りなら大丈夫ではないかと思う。この女の行動原理というか、筋は意外にしっかりしているように思えるからだ。
信用したくはないが、信用できてしまうことが少し腹立たしくもある。
「なぁ、笠原。そもそもどうしてお前はあのタイミングで現れることができたんだ? わざわざそんなロープまで用意していたくらいだ。張り込んでいたのか?」
「別にぃ? たまたまですよ? たまたま。たまたまウォールクライミングしようとしていたところに、たまたま先輩と先生が室内に入ってきて、たまたまわたしの首もとにカメラがあったので、たまたま撮影しただけです。それが何か?」
胡散臭いことこの上ない。これが嘘であることなど小学生でもわかるだろう。
助けてもらったお礼もしなくちゃいけないと、今さっき俺は言ったが、そう……。俺はこの女に助けられたのだと考えている。
なぜなら、
篠塚芽衣子が計算高い女であることを教えてくれたのは、ここにいる笠原ノアだからだ。それも二週間以上も前に。
一週間前に篠塚先生に呼び出された時も、わざと大きな音を立てながら廊下を歩き、俺が逃げるきっかけを作ってくれた女子生徒というのも笠原だ。
どうして俺を助けるような真似をしてくれるのかはわからないが、この二度の救済は決して偶然などではないだろう。
そして偶然ではないといえば――
『決定的瞬間を撮り続ける女』と言われる
俺と先生が社会科準備室に向かったのは元々予定していたことではない。張り込んでいれば撮れたかもしれないが、それでもかなりの労力を要するように思える。いつ来るかわからない人物の決定的な瞬間など、普通の人間であれば人生で一度あれば充分なくらいだ。
しかし、この女は撮り続けている。
線路に転落した酔っぱらいや火事現場、車の衝突事故から工場の爆発事故まで……。
最後の爆発事故なんか、炎をあげて工場が吹き飛んだ瞬間を見事に……といったら失礼かもしれないが、きれいにフィルムに収まるように撮影されている。
新聞社が主催する写真大賞も受賞したことがあるそうだ。
だが、あまりにも決定的な瞬間が多すぎるため、笠原自身が事件を起こしている、または主導しているのではと警察から疑われてもいる。
証拠はないため拘束されることはなかったが、今でも時折刑事っぽい人間にマークされていると笑いながら語っていたことがある。
普通の人間であればそれで控えそうなものだが、本人は構わず事件の様子を捉え続けている。
むしろ反抗するように増えているくらいだ。
当然だが、彼女がやっていることが生徒たちの間で広まらないわけがない。
偶然事故現場に居合わせたのではなく、彼女が向かうところで事故が起きているのではと噂される日々。次第に恐れをなして誰も近づかなくなる。
いつしか付けられたあだ名が――『死神』。
今年の春まで二十名以上いた新聞部員が、彼女の入部を境に徐々に辞めていき、今では笠原一人になってしまっているのも仕方のないことかもしれない。
本人は「部室が広く使えて便利ですよー」などと全く
「なあ、どうしてお前はいつも決定的な瞬間に立ち会うことができるんだ? 偶然にしてはできすぎだろう」
何週間か前にそう尋ねてみたことがある。笠原は、
「偶然というなら、物語の探偵はどうしていつも行く先々で事件に遭遇するんでしょうね。先輩は考えてみたことはありますか?」
「あれは創作物だからだろ」
「そうですね。作者がそのように物語を
「……何が言いたいんだ?」
「私が人よりも決定的な瞬間に立ち会うことが多いということで、みんなはそれを偶然で片付けたくないのでしょうが、今言ったように事件や事故というものは至るところで起きているわけです。そこに遭遇することを偶然と解釈するなら、わたしは他人よりもその
――とまあ、長々語ってはいたが、結局『偶然』なんですってことらしい。いや、遭遇すべくして遭遇しているのなら、それは『必然』と捉えてもいいのいかもしれない。
どちらにせよ、もっとシンプルにまとめられただろうに……。回りくどいことこの上ない。
「さて、先輩。私はもう行きますね」
カメラを首から下げ、ロープをクルクル巻きにして片手で持つ。
写真の破棄という目的は達したため、こちらとしてもこれ以上引き留める理由はない。うなずいて見送るつもりだったが、笠原は何か思うことがあったのか、
「先輩」
話しかけてきた。わざわざ正面に立ち、俺の顔を見上げてくる。
「もしかしてわたしの知らないところで篠塚先生ともうやっちゃいましたか?」
ぶっと吹きそうになった。
「やっ、やっちゃうって……?」
「な、なんで聞き返すんですか。そのくらい察してくださいよ……」
少し照れたように顔をそらす笠原。
どうでもいいことなのだが、こいつのこんな顔は初めて見た気がする。まあ、どうでもいいことなのだが……。
「いや、肉体関係も何もないよ。まぁ、裸は見てしまったが、それだけだ。そもそも篠塚先生に注意しろって言ったのはお前だろ?」
「別に注意しろなんて言ってませんよ。わたしは篠塚先生の人柄について述べただけです。計算高くて利己的、彼女の行動には一つ一つに意味があるとね」
「それが?」
「もしかして先輩は篠塚先生に誘われていることを、ただの誘惑だと捉えていませんよね?」
「誘惑なんだろ? 密室で裸になっているんだし……。俺を誘うようなことも言っていたしな」
「先輩の体目当てだと?」
「だからそうなんだろ?」
はぁーとあからさまなため息をつく笠原。
「先輩はそんなに自分の容姿に自信があったんですか? 本当にそう思っているのならこれは驚きです」
「いや、自分のことをそんな風には思っていないが、でも、あの女からすれば都合がいいのは事実だろ? 弱みを握っているわけだし」
「三ヶ月前の『あの一件』ですか。ですが、ほとんど全校生徒に知れ渡っている内容ですよ。まあ先輩と相原先輩が事実を認めない限り、噂の域は出ないでしょうが……」
「仕方ないだろ。例えただの噂だとしても、真実を知る篠塚がそれを言いふらせば面倒なことになるんだから。なら俺はそれに
「だから、先輩と相原先輩が認めなければ噂の域を出ないんですよ。例え篠塚先生がどれだけ吹聴しようがね。なら、それは弱みとして有効的であるとは言えないと思うのですが」
「それでも、俺はこれ以上彼女に迷惑をかける真似はしたくない。短大の推薦も決まったみたいだし、最近やっと落ち着いてきたところなんだ。ここで余計な波風を立てて蒸し返されたくないんだ」
「なるほど。先輩がそんなんだから篠塚先生につけこまれるんですよ」
「なら、なんでお前は俺のことを助けてくれたんだ? それも二度も」
「はて、助けた? なんのことですか? わたしはネタを探して動き回っていただけですよ? 新聞部の部長としてね」
「ほう。ネタを探して動き回っていただけの割りに、俺に向かって注意はしてくれるんだな。いや、注意じゃなくて人柄を述べただけだったか? 篠塚は計算高くて利己的、彼女の行動には一つ一つに意味があるとかなんとか」
「それただの世間話ですよ。みんなよく言ってるじゃないですか。あの先生うざいよねーとかなんとか。わたしが言ってるのもその延長線上のことです」
「そうか。ただの世間話ならこれ以上篠塚について言及する意味はないし、俺と加古のことについてもお前からとやかく言われる筋合いはないわけだ。どうせスクープ以外に興味ないんだろ? だったらいいじゃないか、俺たちのことは放っておいて」
言葉の応酬を繰り広げるうちにちょっとだけ熱くなってしまった自覚はある。
俺が篠塚と肉体関係を結んでしまっていた場合、こいつが何を言おうとしていたのか少しだけ気になったが、どうせもう関係ないことだ。
先ほど笠原が撮った写真を破棄した時点で篠塚との縁は切れたのだか……ら……と、そこまで考え、少しだけ胸がざわつくのを感じた。
大丈夫……だよな……?
社会科準備室から出る時の篠塚のあの顔が、鮮明に頭の中に浮かび上がってくる。
動揺していた顔から一転無表情に変わり、そして最後……。
ほんの少し笑っていたような……。
「先輩、女性には気をつけた方がいいですよ。女という生き物は、目的のためなら男よりも残酷な手段をとれる生き物ですから……」
「どういう意味だよ……」
尋ねると、
「別に。ただの世間話ですよ」
そう言って、笠原は校舎の中へと消えていった。
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