ループエンド
池上 葉
第1話 脅迫
十一月も半ばを過ぎ、朝晩の冷え込みに一層の拍車がかかってきたこの頃、布団の中に広がる世界は安らぎと温もりによって満たされていた。
午前七時三十分。ここから抜け出るには少々骨がいるが、授業開始を一時間後に控えたこの時において二度寝は許されない。
小さく頭を振り、布団から這い出る。瞬間、襲いかかってくる冷気に身体中の皮膚が
パジャマ代わりに着ていたジャージを脱ぎ捨て、手早くシャツとスラックスを着用。一時期に比べればオシャレに対する興味は失われてしまったが、一応馴染みのワックスで髪の毛をセット。といっても、寝癖を直すくらいだ。
赤のネクタイと藍色のブレザーを身につけ、鞄を持って自室を出る。
階段横の洗面所で顔を洗い、携帯用の歯みがきセットを取り出す。本当は顔を洗ってから髪の毛をセットした方が、前髪などが水に濡れなくてすむのだろうが、いちいち二階に戻るのも面倒だし、ワックスや歯ブラシなどの小物を自分の部屋以外に置いていたくはないため、これも仕方ないこと。むしろ効率的だと思えば苦にならない。
軽く歯をみがき、鏡面前で全身チェック。寝癖はないし、ネクタイも歪んでいない。表情が冴えないのはいつものこととして、その他は特に問題なさそうだ。
一度深呼吸し、リビングへ通じるドアを開ける。
「おはようございます」
抑揚がなく、声も小さかったが、普通に聞き取れる音量。愛想がよいとはいえないかもしれないが、家族に話しかける第一声としては充分だろう。
「……おはよう」
四人掛けのテーブル。こちらに背を向けながら母親である
隣には妹の
テーブルにはすでに自分の分の朝食も用意されていた。
明らかに焦げ目の多い食パンが一枚。手にとってみるが、完全に冷えきっている。
母が料理下手とか、うっかり屋さんではないことは、目の前の二人が口にしている食パンを見れば
この家の中における自分の立場というものを考えれば、そんなことできようはずもない。
これもいつものことだ。一秒でも早くこの家を出るには、とっとと用意されたものを処理してしまうに限る。
少しばかりマーガリンとジャムを多めに塗ることがせめてもの抵抗か――。
口に入れて
無理やりにでもポジティブなことを考えて
自然な仕草を装って顔を上げると、哀香が俺のことを見ていた。
目が合うや、スッとそらされる。
またか……。
最近だが、
大抵は哀香が俺のことを見ているのだが、これは一体なんなのだろうか……。
特に照れている様子も気まずそうにしているわけでもない。街中で他人と目が合った時にさりげなく視線を外すような、そんな感じ。それでいて意図的にこちらを見てきているのだから気味が悪い。
なぜ俺のことを見ているのかと、十日ほど前に尋ねたことがあった。その時は、
「何が?」
ムスッとした声で告げられた。
「別に」とか「なんとなく」とか、まだ『見ていること』を肯定してくれているのなら、こちらとしても対応しやすいのだが、このようにとぼけられてしまうとそれ以上何も言えなくなってしまう。
俺自身、過去に犯した過ちによって家族に迷惑をかけたという
結局、何も言うことができないまま食事が続く。
「ごちそうさまでした」
食器を流しに持っていき――といっても皿一枚だが、洗剤の染み付いたスポンジで軽く洗い流し、リビングを出る。
間際に「行ってきます」と同じ調子で口にしたが、二人から返ってくる言葉はなかった。
まぁ、これもいつものこと。
ここ一ヶ月ほどはこのような定型句しか口にしていない。家族らしい
もっと直接的に非難してきたり除け者扱いしてくるのであれば、こちらとしても反発しやすいのだが、一応食事など最低限のことはしてくれているため、何も言うことができないのが現状だ。
それが俺を
返事などないことはわかりきっていたが、もう一度「行ってきます」と口にし、家を出た。
山間に囲まれた小さな町といっても、それほど田舎というわけでもない。少し坂を下れば背の高い建物が軒を連ねて林立している。
町で一番賑わう商店街も、この通りの先にある――はずだったが、それも二年ほど前までの話だ。
通りの両端に三十店舗ぐらい店が並んでいるが、この時間に開いているのはコンビニと自転車屋くらい。今では一日中ガレージの上がらない店も増え、次第に客足も遠のいている様子。道端にゴミも放置され、ひどく薄暗い印象を受ける。
これほど
五年ほど前のこと。この通りの先に霊園が建設される予定になっていたのだが、町の中心にそれを造るのは如何なものか――といった住民からの反対運動を受け、ならばと公募売却の末に法人が入札した果てに造られたのが、ショッピングセンターだった。
この町――
だが、駅があるのは施設の向こう側。遠方から足を運ぶお客さんばかりか、周辺に住む地元の人たちもそちらを利用する機会が増え、必然的にこの商店街は衰退の一途をたどることとなった。
小さい頃からこの辺りで育ってきた俺からすれば、このような変化を目の当たりにすると、
まだ開店していない施設の駐車場を横切り、駅に向かう。高校は多々良瀬駅から三駅いったところ。自転車で通えない距離でもない、というか、高校入ったばかりの頃は自転車で通っていたのだが、彼女ができたのを機に電車通学に乗り換えた経緯がある。
まぁ、結局その子とは今年の夏頃に別れてしまったのだが、一度楽することを覚えるとなかなか元のスタイルには戻しにくいということもあり、以来電車通学を続けている。
「……………………」
――とういのは嘘だ。
本当のことをいうと、遠目からでも彼女の姿をみかけることができればといった、
こう聞くと、フラレてしまったのが俺であるかのようだが、それは違う。
別に俺がフッたわけでも彼女にフラレたわけでもない。だが、俺たちは別れることになった。いや、別れさせられたといった方が正しいか。
それは三ヶ月前の思い出したくもない一事に起因しているのだが……。
今は考えるのをよそう。
朝から思い出すと一日中テンションがだだ下がりになってしまう。
ただ、
もう二度と自分から話しかけることはないし、話しかけられない。彼女から話しかけられることももうない。
彼女は俺より一つ年上の高校三年生。受験で忙しいだろうし、出席もこれから少なくなる。
卒業したら実家から通える短大に行くと言っていたが、古い情報なのでそれもどうなったかわからない。仮にそうであったとしても、偶然町ですれ違いでもしない限り、もう彼女の姿を目に収めることはできなくなるだろう。
だからせめてものわがままというか、自分の中に残ったこの気持ちをやわらげるために、俺は今でも電車通学を続けているのであった。
彼女の姿を目に焼き付けておくために。
この未練が断ち切れるかどうかは……、その時の俺に訊いてみないとわからない。
いつも彼女――
三ヶ月前までは彼女の隣にいることが当たり前のポジションだったのだが、今は一両離れたところから加古の横顔を眺めるのがせいぜいだ。
真面目で几帳面、しっかり者で常に気を張っているような人だけど、ふとした時にみせる緩んだ表情が俺はたまらなく好きだった。
一見地味で、人付き合いもそれほど得意な子ではないけれど、だからこそそんな彼女と親しくなり、恋人同士になれたことが嬉しかった。
俺の特別な人。ずっと一緒にいれると思っていたのに……。
加古は、俺がこんなところから毎朝眺めているなんて知りもしないだろう。電車待ちしている間、乗車中、そして歩いて学校に向かうまで、いつも文庫本に目を落としている。そのせいか一度も目が合ったことはない。俺に気付く素振りすらない。
まるで自分以外の世界を拒絶しているかのようだ。
それが少し悲しくもあり、同時に安心感も与えてくれる。
中途半端に意識した態度を取られたら、今の俺なら『禁』を破って話しかけてしまうかもしれないからだ。
あまりジロジロ見ていてもストーカーかと思われるので、視線を外す。特に同じ学校の生徒にはこんな姿見られたくない。別れたくせにしつこいとか、きっとフラレたんだろうとか、未練がましいとか、聞きたくもない風評が立つことは明らかだからだ。
こういった場合は大概噂に尾ひれがついて巡っていくものである。
何か言われるのが俺だけならいくらでも我慢できるのだが、その
だったら最初から見るなよって話だが、それができるならこれほど悩んじゃいない。
周囲に悟られないように少しだけ加古の姿を目に焼き付け、すぐに視線をそらす。
こういった気遣いしかできない今の自分の立場が、ひどく
学校に到着。
靴箱で上履きに履き替え、階段を上る。二階の一番奥が目的の教室だ。ドアは開け放たれており、ホームルーム前の賑やかな声が廊下まで響いていた。
それを耳にして、わずかに入ることを
ギリギリまで時間を潰してからにしようかとも思ったが、やはりこれもいつものこと。俺が周りを気にしなければすむことだと踏ん切り、教室内に足を踏み入れる。
――その瞬間、
音が止んだ……が、すぐに先ほどまでと同じようにざわめき始める。しかし今度のそれは、これまでとは少々異質な空気だった。
ちょっと風変わりな転校生を遠巻きに見つめるクラスメイトの構図、に近いものがあるか。
誰も近づいてこないし、こちらから近づいても誰も拒絶しない。適度な距離を保って、ただそこに存在する異物に冷ややかな目を向けるだけ。
やがて時間の経過とともに、それが冷笑へと変わることを俺は知っている。すでにその段階へ移行しつつある状況だからだ。
さしずめ今の俺はみにくいアヒルの子状態。ただ、あの童話と違うのは、誰も『腫れ物』に手を触れようとしないこと。そして俺は決して白鳥の子などではないということだ。
教室の真ん中、一番前が俺の席だ。背後から向けられる視線を想像しだすとキリがないので、早速カバンから教科書を取り出し、問答の世界へと足を踏み入れた。
四時間目の始まりを告げるチャイムが鳴る。
次は世界史の授業。担当教師が来るまで息を抜いて待つことにした。
ここまで取り立てて言うべきことは何もない。
相変わらずクラスメイトからは敬遠されているが、元々友達が多かったわけでもない。一人でいることに慣れている俺からすれば、一日中口を開かなくても苦にならないし、誰かに依存して気を紛らわせる必要性も感じていない。
一刻も早く教育課程を修了させて卒業したいとは思っているが、別にそれはこの雰囲気が嫌で逃げ出したいという意味ではなく、単に自立したかっただけである。
そう、今の俺は早く大人になりたかった。
この未成年という縛りから解き放たれ、自分のやりたいことを自由にできる年齢へ、二~三年すっ飛ばしてもいいから大人として認知されたかった。
その結果、責任という重石が圧し掛かってくるが、今だって未成年者という枠で囲われているのだから大した違いはない。同じように自由を阻害されるなら、例えどれだけの重みがあろうと、どこまででも歩いていくことができる前者の方が遥かに魅力的に思えた。
机に肩肘つきながらボーっとしていると、チャイムから五分経ってようやく担当教師が来た。
「きゃっ!?」
両手に持っていた棒のようなものがドアにつっかえたせいか、いきなり尻餅をついてこけていた。
今年度新卒で採用された女性教師――
ドジでおっちょこちょい、天然で舌足らず。いつもアップアップしていて余裕のない人。元々人前で話すのが苦手な人なのだろう。教職に就いて半年経った今でも緊張しながら
体格は小柄で、身長もうちの女子生徒の平均より下回っていると見受けられる。慌てて荷物を拾いながら、そそくさと室内に入ってくる。
髪は短く収まったボブカット。まだ新しいとわかるスーツを身につけているが、さっき転んだせいか、ストッキングが伝線している。
それを見た女子生徒。三割は無反応、もう三割が馬鹿にしたようにクスクス笑っており、残りは冷めた目をしていた。
どんくさいことに腹を立てているのではない。色めきたった男子生徒越しに映る先生の姿が、あざとく見えてしまっているのだ。
「ご、ごめんなさいね、遅れちゃって」
申し訳なさそうに、それでいて邪気のない笑みを浮かべて謝ってくる。
美人というよりは可愛らしい容姿。そんな人がこのように控えめな態度に出てくれば、大概の男なら頬が緩んでしまうことだろう。
ニヤニヤしている隣の男子生徒が気持ち悪い。
これは主観的な判断だが、この手の女性は、異性には好かれるけど同性には嫌われるタイプの人間ではないかと、異性からも同性からも嫌われている俺が心の中で言ってみる。
まぁ、俺を嫌っているのはこのクラス限定、
黒板に書かれる字が丸過ぎて読みにくいだとか、いきなり教科書二ページすっ飛ばして説明し始めるだとか、破れたストッキングを男子に指摘されて頬を赤らめるだとか、話が脱線しながら脇道にそれていくことが度々あったが、授業の方はわかりやすく論点がまとめられており、テンポよく進んでいった。
教科書には載っていないことを
ここから四十五分の昼休みタイム。
教科書とノートを引き出しの奥に仕舞いこみ、立ち上がろうとしたところで、
「あの、このクラスの委員長は……、あっ、春日くんだったよね。申し訳ないんだけど、これ社会科準備室まで運んでもらっても構わないかなぁ?」
篠塚先生が指差していたのは、授業開始直前に尻餅をつく原因となった棒――丸めた世界地図だった。
太さは両手の指で輪っかを作ったほど、長さは先生の背丈ほどもある。
来た時もそうだが、確かに教科書やなんやを含め、これだけのものを一人で運ぶにはかなりの労力を要する。体力の無さそうな先生ならなおさらだ。
ただここで一つ
授業中、黒板の横で広げたまま、結局一度も使用されることはなかったやつだ。
「……………………」
まさかとは思うが……。
ついその狙いを探りにいってしまうが、
「だめかなぁ……?」
思考を遮るように吐息まじりの声が聞こえてくる。
教壇に立つ先生。席についている俺。立ち位置的に俺を見下ろしているはずなのに、なぜか上目遣いに見える。これ不思議。
教師が生徒に向かってそんな甘えた声を出すのはどうかと思ったが、無論、俺に拒否権はない。先生が可愛いからという意味ではなく、俺が委員長だからという意味でだ。
色々と考えるところはあったのだが、
「……わかりました」
地図を先生から受け取り、教室を出る。背後から無数の視線を感じたが、今さらそんなもの気にする俺でもない。一度も振り返ることなく室内を後にした。
「ごめんね。今日の授業で使うかと思ったんだけど……」
「いえ」
「あっ、そういえばこの前の小テスト、春日くん満点だったよ」
「そうですか」
別に並んで歩く必要もないと思うのだが、割りと早足で歩く俺に篠塚先生は小走りでついてくる。
「春日くんはいつも真面目に聞いてくれるから先生助かっちゃうなぁ。そういえば、春日くんって就職志望なんだよね。進学する気はないの?」
「ええ、まぁ」
「もったいないよぉ。せっかくいい成績なのに……。担任の横井先生も職員室で残念がってたよ?」
「はぁ、そうですか」
気のない返事をしているのだから、会話するつもりがないことを察してもらいたいものだ。
「あっ、もしかして他に何かやりたいことがあるとか」
「いえ、特に」
「そうだよね、あんまりこういうのって話したくないよね」
「……………………」
「でも困っていることがあったら、なんでも先生に相談してね。私にできることだったら、先生がんばっちゃうから!」
ガッツポーズで可愛さアピールですか?
今さらだが、俺はこの人が苦手である。
テンションについていけないとか波長が合わないとか、そういったことではなく、この前『あんなこと』しておいて、こうも普通に話しかけくる篠塚先生に対して、どうしても警戒心を抱かずにはいられないからだ。
端から見たらなんて愛想のない奴だろうと思われるだろうが、俺はそれ以降相槌すら打つことなく歩き続けた。
渡り廊下を伝い、特別棟の三階、北側へと向かう。ここは社会科準備室の他は文化部の部室がいくつか、あとは備品置き場として使用している小部屋が一室あるだけで、今のこの時間は閑散としている。
窓から入ってくる日の光もないため、昼間なのに薄暗い。こういう一人になれる場所を好んでふらりとやってくる生徒も中にはいるだろうが、十一月の肌寒いこの時期にわざわざここを選ぶ者はいまい。田舎の学校。無駄に敷地も広い。日の当たる場所で一人になれるところなど他にいくらでもある。
つまり、辺りには今、俺たち以外誰もいないということだ。
返事一つしないのだから当たり前かもしれないが、ここに来てから篠塚先生の口も鳴りを潜めていた。
コツ、コツ、と、床を叩く先生の足音だけがやけに耳に残る。
社会科準備室の前に到着。教室の半分ほどの広さで、天井付近に小さな採光窓があるだけ。中と外を繋ぐのはスライド式の扉が一つ。
「ちょっと待ってね」
ポケットから鍵を取り出し、開錠。ドアを開けるなり、
「どうぞー。重かったでしょ」
ニコニコしながら言ってくる。
今のところ特に怪しいところはない。ジッと見つめる俺に、先生は「どうしたの?」と小首をかしげる。
「……いえ」
考えすぎか? などとは思わない。この場合、考えすぎないことの方が俺にとっては愚かといえる。
一刻も早くこの場から立ち去りたかった俺は、室内入ってすぐのところに地図を置き、そのまま出ようとした。
わざわざ所定の位置に戻してやる必要もない。何か言われれば「ここまで運べば充分でしょ」と苦みの利いた顔で告げる用意もしていた。
もちろん密室に二人で長居したくないからなのだが、しかし――
俺の考えを、先生の行動力が上回った。
ドンと、後ろからぶつかられた衝撃で室内の中央まで押されてしまう。
振り返った時にはカチャリと施錠音。篠塚先生がドアを閉め、後ろ手に鍵をかけたのだ。
やられた、と思った。
使いもしない地図をわざわざ教室に持ってきて、「委員長は~」と探す『フリ』をして俺を指命してきたことには気付いていた。その上で相手の誘いに乗ったのは、もちろん俺が委員長だからという理由と、最初から警戒していれば防げると思っていたからだ。
それがふたを開けてみればこの有り様。まさか物理的に監禁、拘束を図ってくるとは思いもしなかった。
さて、どうしたものか……。
通ろうと思えば力任せに押し通ることはできるのだが、今の俺にそれはできない。先生が可愛くて怪我させたくないからという意味ではなく、できるだけ
そう、俺は今、俺と加古との三ヶ月前の一件をネタに、この先生に脅迫されているのだ。
脅迫というと
チッと心の中で舌打ち。自分の甘さに
本当に加古のことを考えるなら、密室うんぬん以前に、この先生と二人きりになる状況ですら避けるべきだったのだ。
こうして先生と対峙するのは二回目だが、前回はうまく逃げることに成功している。
ちょうど一週間前のこの時間、手紙でこの場所に呼び出された俺は、たまたま女子生徒が廊下を通りかかった機に乗じて逃げ出すことができた。
その時の先生が俺を引き留めることのできない理由があったからだ。
上半身、裸だったのである。
スルスルと衣擦れの音。あの時と同じように服を脱ぎ始める篠塚芽衣子。
白く透き通る肌に、ほんのり差した赤み。
小柄で痩せ型だが、胸部は豊かな膨らみを保っている。腰のくびれも含めれば、見事なまでに女性的な曲線を描いているといえる。
乳房は腕を持ち上げて隠されているが、恥らう仕草が逆にエロティシズムをかき立てる――ということをこの女は知っていてやっているのだろう。
そのせいか、今の俺は性的な興奮など微塵も感じていなかった。
ミロのヴィーナス像を見ても情欲がわかないように、よく出来た彫刻像を目の当たりにしている気分だ。
俺は
「やだぁ、そんなにジッと見つめないでよ」
本当に恥ずかしいならそんな仕草は取らないし、そもそも自分から脱いだりしないだろう。
出来の悪い喜劇ほど、観ていて萎えてくるものはない。
「先生。いい加減にしてもらえませんかね。前も言いましたが俺にその気はないです。大体、ここは学校で俺たちは教師と生徒ですよ。どうかしてるんじゃないですか?」
厳しい口調だが、冷や水をぶっかけるくらいのことでもしなければ、この先生は
「春日くんひどいよ。私の気持ち知っててそんなこと言うんだから……。でも、そうやって冷たくあしらう姿も結構好きよ。ゾクゾクしちゃう」
本性表したか……。まぁ、言うほど態度が豹変しているわけでもないが……。
「そこまでして『したい』なら、別の生徒でも誘ってみたらどうですか? 先生ほどの美貌なら大概の男はなびきますよ。まぁ、子供相手にこんな場所でそんなことしたら、十中八九見つかって免職くらうでしょうがね」
暗に、俺にその気はない、このことバラして
「好きな人と結ばれるならそれも悪くないと思うわ。春日くんなら、その意味わかるよね?」
こいつ……。
「揺さぶるつもりですか? 残念ですけど、俺と加古は別れています。もう連絡も取ってないし、顔も見てません。『あのこと』をバラしたいなら好きにしてください。どうせみんな気付いている。先生も教室の中の雰囲気を嗅ぎ取ればわかるでしょ。俺が周りから距離を置かれていることが」
「大丈夫よ。みんな噂に惑わされて疑心暗鬼になっているだけだから。きっと誤解は解けるわ」
「誤解じゃありませんよ。それが真実だから噂を否定できないんです」
「真実でも否定しないとダメだと思うよ? 現に、相原さんは君との関係は否定しているみたいだし……。君がそんなにあやふやなままだと、彼女が行きたがっている短大の推薦もパーになっちゃうわよ? 学校側ってそういうことは敏感に反応するものだから」
沸々とした怒りが込み上げてくる。篠塚は俺に近づいてくると、いつの間にか握り締めていた俺の拳を、両手でそっと包み込んできた。
目の前に裸の女がいるだとかどうだとか、そんなこと意識の中から完全に吹き飛んでいた。
「春日くんはまだ相原さんのことが好きなのね。でも大丈夫。三学期に入れば三年生はほとんど出席してこなくなるし、卒業してしまえばもう会うこともないでしょう。来年は君たちが受験生になるのだし、そうなれば忙しくてみんな『あのこと』も忘れちゃうでしょう。今だけよ、今だけ……。ねっ? 今だけ」
――『あのこと』を学校にも生徒にも黙っていてあげるから、逆らわずに私の相手をしなさい。断るなら相原さんの推薦がなくなるわよ?
これはそういった脅し。
今だけこの女の相手をしたとして、これから先、俺が失うものは一体どれだけのものになるのか……。
手頃なところで情欲を満たせる関係性。弱みを握っているため口外される恐れもない。
篠塚から見た俺は、そんな都合のよい男なのだろう。
加古に迷惑をかけたくない気持ちと、加古を裏切りたくない気持ちが胸のうちで対流する。
もう彼女とは別れてしまっているため、この誘いを受けようが断ろうが俺個人の立場として考えればどちらでもいいこと。
しかし、俺は人形じゃない。感情がある人間だ。加古に対して
俺は、家族や他人にはいくら嫌われてもいいが、彼女にだけは嫌われたくないのだ。
でも――
彼女なら、俺が信じる彼女なら、ここで俺が取る行動にもきっと理解を示してくれると思う。
俺は篠塚の手を振り払った。
バランスを崩して俺の体にもたれかかってくるが、その体すらすぐに押しのけるつもりだった。
だが、
意図せぬ
「はい、1+1は~?」
突如、背後から聞こえた声。
反射的に振り返ると、ロープに吊られた女子生徒が窓の外でカメラを構えていた。
瞬間、
女子生徒はニッと笑うと、器用にロープを伝って屋上へと消えていった。
「……………………」
あまりにも突然のことに二人とも固まってしまう。我に返ったのは俺の方が早かった。
今何をされたかというと、写真を撮られたのだ。
上半身裸の先生が、俺の体に寄り添っているところを……。
相手の顔には見覚えがあった。
本学校唯一の新聞部部員――笠原ノア。
『決定的瞬間を撮り続ける女』として、この学校では生徒会長よりも有名な女。
何を考えているのか、どんな行動を取るのか、誰にも予測のつかない変人だが、一つだけはっきりしていることがある。
彼女は新聞部であり、撮った写真は被撮影者の断わりなく学校の掲示板に貼り、場合によってはネットにも上げてしまう女だということだ。
「あ……ど、どうしよう……」
困り顔で
結局口だけだったのだ。
しかし、この状況は利用できる。
「先生。今から俺があいつを捕まえて写真を破棄させますので、それが済んだら二度と俺に構わないで下さい! いいですね!」
返答も待たず駆け出す。鍵を開け、ドアを開き、廊下に飛び出ようとしたところで少し考えてしまった。
やっぱり、きちんと約束させた上で笠原を追いかけた方がよかったかと……。
チラリと振り返り、
「……ッ!?」
少し息を呑んでしまった。
篠塚芽衣子が、無表情で俺の顔を見ていたからだ。
焦りも不安もない、たった今みせたうろたえ具合も皆無。
ただ、静かに俺の顔を覗き込んでいた。
俺は何かそこに得体の知れない感触を覚え、逃げ出すようにその場を後にした。
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