第68話

 その瞬間、満は全身がビクリと震え、意識が覚醒する。


「満くん……満くん!」

 すぐ側から、先程夢で聞いたのと同じ声が聞こえてきて満は顔を上げた。するとそこには、満を心配そうに見つめる保志香の姿があった。どうやら満の名を呼んだのは、あの影ではなく保志香だったらしい。

 満が寝ぼけ眼を擦りながら壁掛け時計を見ると、時刻は四時を指しており、図書館の中はまだ明るい。それから保志香の方を見ると、保志香は困ったような表情を浮かべながら笑っていた。


「満君、ヨダレ」

 口元を擦ると、保志香の言う通りに満の口の端からは唾液が溢れていた。満はぼんやりとしながら図書室を出ると、資料館のトイレを借り、顔を洗って図書室へと戻る。

 保志香は椅子に座り、満が先程まで読んでいた本のページをパラパラと捲っていた。


「なんかうなされてたよ。怖い夢見てたの?」

「うん。凄く怖い夢……」

「どんな夢?」

 そう問われて満は口籠る。

 夢の内容を話せば、保志香はそれにきっと食い付くだろう。そしたら今度は学校で起こった事を話す事になる。それは避けたかった。

 満は自らの身の安全のために、一連の事件について誰かに口外したくないという気持ちもあったが、それ以上に保志香をそれらの事に絶対に巻き込みたくはないのだ。内緒にして欲しいと頼めば、保志香は誰にも話を漏らす事はないだろうが、万が一という事もある。そして犯人の魔の手が保志香にまで及ぶ事があれば、満は悔やんでも悔やみきれないだろう。


「……カマキリ」

「カマキリ?」

「カマキリに追いかけられる夢だよ。この前蟷螂島って本読んだから」

 満はそう言って、カ行の本が並ぶ棚を指差した。

 すると保志香は小さく笑う。


「あはは、カマキリかぁ。で、どうなったの?」

「え? 何が?」

「夢、どうなったの? カマキリに食べられた? それとも私が起こしたから助かった?」

「あぁ、助かったよ。ギリギリのとこで」

「んふふ、感謝したまえ」

 そう言って保志香はわざとらしく胸を張った。


 無邪気。

 保志香にはその言葉がよく似合うと満は思う。


 学校に行かないという話や、手首に刻まれた傷がある事から、保志香は保志香でこれまでの人生で嫌なものを見てきて、感じてきたのであろうという事が満にもわかる。それでも保志香は極めて明るく振る舞い、無邪気さを感じさせる。それはクラスメイト達が満に見せた、自らの欲望にだけ忠実な純粋で野蛮な無邪気さとは違う、作られた無邪気さであるかもしれない。でも、満はそれが好きだった。他人を傷つける無邪気さは、邪気よりも悪になり得る事を満は思い知ったから。


 満がボーっと保志香を見つめていると、保志香も満の顔を見た。


「どうしたの? なんか、泣きそうな顔だよ」

 いつの間にか満はそんな顔をしていたらしい。

 張り詰めていた満の精神が、保志香の存在により急激に癒されていくかのようだった。真冬に指先の感覚が無くなる程に凍えた後に温かい風呂に入った時のように、満の心がチクチクと正常な感覚を取り戻してゆく。


「……何かあったの?」

 保志香は満に優しく問いかける。

 それでも満は首を横に振った。

 すると保志香は立ち上がり、おもむろに満を抱きしめた。


「大丈夫、大丈夫だよ。満君は大丈夫。何も心配しなくていいんだよ」

 何の保証もない言葉が、満の心へと染み込んでゆく。過去に辛い思いをした人間は、辛さを知っている分他人の癒し方を知るという。きっと保志香もそうなのかもしれない。

 保志香の腕に抱かれ、満の目からは涙が溢れ、喉からは嗚咽が漏れた。堪えようとしても、後から後からそれらは溢れ続ける。カッコ悪くて、惨めな気持ちだったけれど、満は涙が止まるまで泣き続け、保志香は満の背を撫で続けた。

 里中と戦う事を決意したあの日、満が敷島にそうしたように。


 しばらくした後、満は保志香から離れた。

 満の顔があった保志香の肩は、満の涙と鼻水でシットリと濡れていた。


「泣き止んだか? 少年」

 そう言って保志香は満の額にコツンと拳を当てる。


「よーし。甘えた分、気合い入れろ! 満君は男の子でしょ」

 保志香の言葉に、それまでずっと宙を彷徨っていた満の心は今、しっかりと大地を踏みしめた。

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