第67話

 夢を見ている。

 満はそう感じていた。


 満は時折明晰夢を見る事があった。

 それは疲れている時や、友達や母親と喧嘩をしたりして、何か悩みを抱えている時によく起こる事だった。そして残念な事に、それは大抵楽しい夢ではなかった。明晰夢を見る時は、決まって何かに追いかけられる夢や、どこかに閉じ込められる恐ろしい夢を見るのだ。更に明晰夢の中では、満の体は思うように動かずにゆっくりとしか動けなかったり、手に力が入らなかったりするのだ。

 意識ははっきりとしているのに、現実にはあり得ぬ恐ろしい状況に置かれるという恐怖は筆舌に尽くし難い。しかし、今見ている夢はそんなに怖くはなかった。


 今、満は夕暮れの五年一組の教室の中におり、自分の席に座っていた。

 教室内には満以外に人の姿はない。代わりに、何故か脱ぎ捨てられた衣類があちこちに散らばっていた。それは、先日大島達が楠原達に裸にされたところを目撃した時の記憶から来たイメージだという事が満にはわかった。

 席を離れて窓から外を見ると、いつも教室から見える景色とは少し違っている。遠くに見える山々が、いつもよりずっと大きく見えるのだ。そして、町のあちこちからは火の手が上がっており、景色は煙でボヤけていた。それは西之原の家での放火事件から来たイメージだろう。


 不気味な情景であるが、普段明晰夢を見る時よりも、今の満はなぜかずっと冷静だった。ここ数週間で様々な事があり、満のメンタルが鍛えられたのか、もしくはテンションがずっと低かったからかもしれない。谷底を歩く時、谷底に落ちる事を恐れる事はないのだ。


 満が廊下に出ると、そこにも人の姿はなかった。

 そのまま階段の方へと歩いて行くと、階段へと続く曲がり角を曲がった所で、誰かの後ろ姿を見つけた。

 赤いランドセルに、大人びたサイドバッグ。それらにジャラジャラと付けられたキーホルダーの束と防犯ブザー。そして小洒落た洋服からスラリと伸びた長い手足と、高い身長。ストレートパーマを当てている艶やかで長い黒髪。それが楠原である事が満にはわかった。


 楠原は階段に向かってゆっくりと歩いてゆく。

 満はこれから何が起こるのかを察して、楠原を呼び止めようとした。しかし、満の喉からは声が出ず、直接引き止めようにも、例によって体はゆっくりとしか動かない。

 すると、満と楠原の間に何か黒い影のようなものが割って入った。影は階段へと向かう楠原の背後に音もなく忍び寄る。


「やめて!」

 満のその叫びも、声にはならなかった。

 影は階段へと辿り着いた楠原の背に手を伸ばし、力強く突き飛ばす。そこからの映像はスローモーションであった。

 楠原が驚いたのがランドセル越しに満へと伝わる。

 階段へと踏み出そうとしていた楠原の右足が空を切り。前のめりに倒れた楠原は、顔を庇おうとしたのか右手を前に突き出した。倒れ込んだ楠原の右手はそのまま段差触れ、右手から伸びる腕は楠原の全体重を受けてあらぬ方向に曲がり、メキリと小気味良い音を奏でで折れると、上方から更に加えられた体重によって皮膚を突き破る。腕の支えを失った楠原の体は前方へと転がり、額は段差の角に打ち付けられて出血した。そして楠原は頭を中心に一回転すると、背中全体を段差に打ち付けて、小さく跳ねる。そして更に前方に半回転すると、顔面から全身を踊り場の床に叩きつけられた。


 すると、それを階段の上から見ていた満の視点が一瞬にして切り替わり、目の前に床に伏して痙攣する楠原の体が現れた。満はまるでワープしたかのように、あの日と同じ階段の踊り場へと移動していたのだ。

 満は視線を階段の上へと向ける。

 そこには先程見たのと同じ黒い影がいて、満の方を見下ろしていた。そしてあの時とは違い、今度は「次はお前だ」と言わんばかりにゆっくりと階段を下りてくる。

 満は逃げるために踊り場から二階へと下りようとした。しかし、いつのまにか階段の下は火の海になっており、更に体はゆっくりとしか動かない。

 階段を下りた影は、恐怖に震える満にそのまま歩み寄ると、耳元で一言囁いた。


「満くん」


 と。

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