27:大団円へ向けての秘密兵器
「……鬼……」
幸太くんは青ざめて呟いた。
陸先輩も乃亜も硬直し、信じられないような目で有栖先輩を見ている。
けれど、由香ちゃんの反応だけは違った。
「ああっ……」
由香ちゃんは感極まったようにふるふる震え、頬を赤く染め、顎の下で腕を組み、潤んだ目で有栖先輩を見つめた。
「さすが……さすがです先輩! たとえ本物のリスじゃないと頭では理解していても、あんなに愛らしいリスを鷲掴みにして壁に叩きつけるなんて、とても普通の人間にはできない! どうしたって良心が邪魔をする! けれど先輩はそれをやるんです! 躊躇なく! 容赦なく! なんて残酷! なんて苛烈! ああっ、それでこそ! それでこそ先輩ですっ……!」
由香ちゃんは頬を押さえて身悶えしている。
「あー……」
色々と突っ込みどころ満載だったけれど、本人が幸せそうなので放っておこう。
その一方。
「なんってことするんですか白石有栖っ!!」
床で痙攣していたリスが跳ね起き、喚き始めた。
「信じられません、あなたどうして私に魅了されないんですか!? 私を一目見た者は虜になるはずなのに! いいえ、たとえ魅了されなかったとしても、こんなに愛らしいリスを投げるなんて、あなたには動物愛護の精神がないんですかっ!? この鬼畜っ!! 悪魔っ!!」
リスが小さな両足で地団太を踏み鳴らす。
「うるさい」
ぐしゃっ。
聞いてはいけない音と共に、有栖先輩はリスを顔色一つ変えずに踏みつけ、ぐりぐりと踏みにじった。
「……………………」
誰も何も言わない。とても言えない。
もはや悪魔を超えて魔王と化した有栖先輩を前にして、無力な私たちに一体何ができるというのだろう。
魔王を崇拝しているのは由香ちゃんだけで、動物好きの陸先輩など顔を覆っている。見るに堪えないらしい。
「……あのさ、ののっち」
「すみませんごめんなさい」と部屋中にリスの悲鳴が響く中、幸太くんが暗い顔で手招きしてきた。
「何?」
有栖先輩の注意を引かないよう、音を立てずに近づくと、幸太くんは耳打ちしてきた。
「ここって乙女ゲームの世界って聞いたんだけど」
「うん」
こくりと頷く。
「有栖先輩は存在する世界を間違えたんだと思うんだ。あの人がいるべき世界は剣と魔法のファンタジーだろ。配役は魔王か邪神で確定だろ」
「ああ……それは私も思う。もし有栖先輩が魔王だったら、魔王城で呑気に勇者パーティーを待ったりせず、勇者が誕生した瞬間全力で殺しに行きそうだよね」
「たとえ相手が赤ん坊でも『それが何?』とか言いそうだよな……血も涙もねえ……見てあれ……」
「もう許してください。私が悪かったです」
幸太くんが親指で示した先で、リスは白旗を上げた。
現在リスは有栖先輩の手により再び鷲掴みにされている。
その身体には有栖先輩の靴跡がたくさんついていた。
「もう降参? 早すぎるだろ、もっと頑張れよ。俺が悪魔ならお前は何だ? 人の心を操って、散々好き放題しやがって。相応の覚悟はできてるんだろ、できてないとは言わせねえよ」
有栖先輩はリスを握る手に力を込めた。
偽りの人格は崩壊し、地金が出てしまっている。
「ああああできてませんでした謝ります嫌ですもう嫌ですごめんなさいぃぃ」
締め上げられ、リスはとうとう泣き始めた。
可愛らしいリスの泣き声を聞いても、有栖先輩は同情するどころか舌打ちした。
「……もう止めてやれ有栖。頼むから。な?」
陸先輩の精神のほうが先に参ったらしく、彼は有栖先輩の腕を掴んで止め、強引にリスをその手から奪い取った。
「陸さあああん」
リスは陸先輩の胸にしがみつき、大声で泣いた。
小さな身体が震えている。
もはやどちらが悪役かわからない状態である。
有栖先輩は忌々しそうにリスを一瞥した後、ため息をついた。
そして、床にへたり込んで震えている乃亜に目を向けた。
「で? 君はいつまでそうしてるの? そうやって震えてれば許されると思ってるんじゃないだろうね?」
「す、すみません……っ」
有栖先輩に睨まれ、乃亜は真っ青な顔で正座し、胸の前で手を組んだ。
「私が間違ってました。拓馬への洗脳は解きます。もう二度と人の心を操ったりしません。誓います。ですからどうか許してください」
乃亜は手を組んだまま、頭を下げた。
有栖先輩が皆を見回す。
どうする? とその目が問うていた。
「オレはもういいです」
幸太くんは苦笑し、両手を振った。
「俺も」
リスの背中を摩りながら、陸先輩が同意する。
「中村さんは?」
「私は……」
由香ちゃんは顔を伏せている乃亜を見てから、私を見た。
「……神さまや乃亜がしたことは酷いと思いますが、私は特に何も被害を受けてないので。ここはやっぱり、悠理ちゃんが決めるべきだと思います」
「そうだね。野々原さんが一番の被害者だ。どうするかは君に任せるよ」
有栖先輩は頷き、最終的な判断を私に委ねてくれた。
「ありがとうございます」
有栖先輩に頭を下げ、乃亜の前に立つ。
「許すには条件がある」
私は乃亜のつむじを見下ろして言った。
「まずは大福への罰を解いて」
いま一番してほしいことはこれだ。
乃亜は一瞬、上目遣いに私を強く睨んだものの、有栖先輩の不興を買うことを恐れてか、すぐに頷いた。
「……わかったわ。りっちゃん」
「はい……」
リスは陸先輩に頭を撫でられながら、ぐすん、と鼻を鳴らした。
ほぼ同時に、由香ちゃんの肩の上に見慣れた白いハムスターが現れる。
大福が反逆したせいか、額には『神』ではなく『バカ』と下手くそな文字が書かれていた。
「大福!」
「悠理!」
両腕を広げると、大福は由香ちゃんの肩を蹴って、私の胸に飛び込んできた。
ふわふわの白いハムスターをしっかりと胸に抱きしめる。
「やっとまた会えたね。由香ちゃんに聞いたよ。私が泣いてたときも、ずっと傍にいてくれたんだってね。ありがとう。気づかなくてごめんね」
万感の思いがこみ上げて、涙が零れた。
「いいや、いいや、謝るのはオイラのほうだ」
私の胸にその四肢全部を使ってしがみつき、大福は激しく首を振った。
「ごめんな悠理。オイラが最初っから味方してやればこんなことにはならなかったのに。もっと早く拓馬と結ばれることができたのに」
「ううん、大福の立場を考えれば仕方ないよ。それでも大福は神さまを裏切って、私の味方をしてくれた。そもそも大福がいなかったら拓馬が私を好きになってくれることもなかったよ。感情制限が外れたことを神さまに伏せていてくれて、私の味方になってくれて、本当にありがとう。大好きだよ大福」
「……オイラも。オイラも悠理のこと大好きだ」
私の胸に顔を埋めて、大福が泣き始めた。
大福が泣くのを見るのは初めてだ。
驚いたのは一瞬のことで、私は笑いながら大福の背中を撫でた。
由香ちゃんも有栖先輩も、他の皆も、温かく私たちを見守ってくれている。
唯一この結果に不満そうなのは乃亜だけだった。
「大福の額の文字は消して。馬鹿なんて酷い」
私が言うと、瞬時に額の文字が消えた。
一体どういう原理が働いているのだろう。謎だ。
「それじゃあ最後。拓馬の洗脳を解いて。いますぐ」
「……ええ」
乃亜は一拍の間を挟んで、頷いた。
「りっちゃん」
「はい」
リスは目を閉じて、数秒、静止した。
「……解けました。これで拓馬の心は自由です」
目を開けて、リスが頷く。
「やった……!」
これでハッピーエンドは確定も同然。
私は左手で大福を支え、右手でガッツポーズを作った。
「良かったね、悠理ちゃん」
由香ちゃんが笑う。他の皆も笑っている。
「うん!」
私は会心の笑みで応えた。
では早速確認してみよう、ということで、有栖先輩が拓馬を呼びに行ってくれた。
乃亜は項垂れ、いまにも死にそうな顔をしている。
対して私の心は晴れやかだった。
この一週間、重く深く立ち込めていた心の靄はすっかり消え去り、歌でも歌いたい気分である。
わくわくしながら待っていると、拓馬を連れて有栖先輩が戻って来た。
有栖先輩に続いて、拓馬が視聴覚室に足を踏み入れる。
「拓馬!」
私は歓喜して彼を出迎えた。
洗脳が解けた彼の第一声を心から楽しみにしていた。
それなのに。
「は? なんでお前がここにいるんだよ」
その一言で、その敵意に満ちた眼差しで、私は全てを悟った。
拓馬の洗脳は、まだ解けていない。
「呼び捨てにするなって言わなかった? 何なのお前」
期待が大きかった分、跳ね返って来る絶望もまた大きかった。
この状況は予想外だったらしく、全員が一様に戸惑いを浮かべている。
「どうして」
陸先輩の肩の上で、リスが困惑の声をあげた。
本当にリスは拓馬の洗脳を解いたらしい。
それじゃあ何故、拓馬はこんな顔で、こんな冷たい目で、私を見るんだろう。
「乃亜、なんでそんな顔してるんだ?」
拓馬が立ち尽くしている乃亜に気づき、心配そうに声をかけ、その肩を掴んで引き寄せた。
拓馬はまだ乃亜を恋人と認識しているらしい。
「まさか、またこいつに何かされたんじゃないだろうな」
「違うよ拓馬」
拓馬が暴言を吐くことを危惧してだろう、有栖先輩がやんわりと割って入ってくれた。
「野々原さんは何もしてない。ただ純粋に会話を楽しんでいただけだと僕が保証するよ。でももう話は終わったし、彼女を教室まで連れて行ってあげて」
「……わかりました」
有栖先輩が笑顔で促すと、拓馬は不審そうな顔をしながらも、乃亜を連れて部屋を出て行った。
「……どういうことだクソリス」
扉が閉まる音がした途端、有栖先輩は一転して笑顔を消し、射殺せんばかりの目でリスを睨んだ。
「ひいっ! わかりません、私にもわからないんです! でも……もしかしたら、その」
「なんだ。言え」
口ごもることを有栖先輩は許さなかった。
「……一回で済んだあなたたちとは違い、黒瀬拓馬に対しては何回も洗脳を繰り返したので、感情が洗脳状態のまま固定されてしまったのかも……」
「悠理ちゃん!」
傾きかけた私の身体を、由香ちゃんと幸太くんが支えてくれた。
「……大丈夫」
私は眩暈を堪えて足を踏ん張った。
気絶して全てがリセットできるものならそうしたい。
でも、現実はそんなに甘くはないのだ。
「……思いつく限りの罵倒を浴びせてやりたいけれど、そんなことしたって無駄だからね。具体的にどうすればいいんだ?」
苛立ちを無理に抑えつけたような声で、有栖先輩が言う。
「拓馬にかかっていた感情制限は野々原さんがバスケットボールをぶつけたことで解除されたんだよね? ならまた身体的な衝撃を与えればいいの?」
「えー、またあいつ殴られるんですか……悪いこともしてないのに」
げんなりした顔で、幸太くんがぼやく。
「それで洗脳が解けなかったら、完全に殴られ損じゃないですか。他に何か方法はないんですか。身体じゃなく、精神的な衝撃を与えるとか」
「精神的な衝撃って、たとえばどんな?」
由香ちゃんが不安そうな顔で尋ねる。
「うーん……」
皆が黙り、どうしたものか考え込んでいると。
「思いついたっ!!」
突然、私の左手の上にいた大福が後ろの二本足で立ち、大声を上げた。
「何? 大福くん」
全員の視線が白いハムスターに集中する。
「ちょっと待ってろ!」
慌てたような声で言って、大福は姿を消した。
一分ほどして、彼は床の上、私の足元に再び現れた。
ワープと同時に持ってきたらしく、その白い身体の下には一冊の本がある。
表紙に描かれた不思議の国のアリスのイラストを見て、私は極限まで目を見開いた。
「大福、それ、まさか……!」
「そうだ!」
大福は何故か得意げに胸を張った。
「これぞ秘密兵器! 拓馬への愛を赤裸々に綴った、お前の日記帳だ! これを読めば絶対、拓馬の目が覚める!!」
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