26:そして無双が始まる

 放課後。

 私と由香ちゃんは同じ衣装班の子たちに「先輩に呼び出されている」と謝って、文化祭の衣装作りに参加することなく教室を出た。


 六時間目の授業が終わった後、スマホを見ると「視聴覚室を押さえた。放課後になったらおいで」と有栖先輩から連絡が入っていた。


 幸太くんや陸先輩が正気に戻ったかどうかは書かれていなかった。

 幸太くんは昼休憩中に有栖先輩に呼び出された後、教室に戻って来ても変わらず乃亜に笑顔で話しかけ、ときには拓馬と乃亜をめぐって火花を散らしていた。

 だから、判断が難しい。


「……なんだかドキドキするね」

「うん」

 特別校舎にある視聴覚室に向かう途中、由香ちゃんと交わした言葉はそれだけだった。

 二人とも会話する余裕がないほど緊張していた。


 渡り廊下を渡って特別校舎に入り、三階の端にある部屋の前に立つ。

 何の変哲もない扉が、異様なほどの存在感を持って聳え立っているように感じた。


 由香ちゃんと顔を見合わせ、頷き合う。


「失礼します」

「どうぞ」

 有栖先輩の声を聞いて、扉を開く。


「やあ。よく来たね、二人とも」

 整然と白い長机が並ぶ教室の前方、垂れさがったスクリーンの前に、優雅に微笑む有栖先輩がいた。

 陸先輩と幸太くんも有栖先輩の近くにいる。

 会話していたらしく、ちょうど三人で三角形を描くような形だった。


「ののっち来たー!」

 三角形を崩し、幸太くんがすっ飛んできて、ぱちんと勢い良く顔の前で両手を合わせた。


「ごめん! オレののっちが挨拶してくれたとき、すげー冷たく『話しかけないで』とか言ったよな! この一週間無視しちゃったし、傷ついたよな、ほんとごめん! マジでどうかしてた!」

 幸太くんは手を合わせたまま頭を下げた。


 幸太くんに親しみを込めた愛称で呼ばれるのは一週間ぶりだ。

 というより、彼と話すこと自体が。


 乃亜は拓馬だけではなく、攻略キャラ全員の私への好感度を下げたらしく、この一週間、人が変わったように皆が私に冷たく当たり、失恋も相まって、非常に辛かった。

 でも、それは彼らのせいじゃない。


「ううん、いいよ。神さまに操られてたんだからしょうがないよ。ののっちって呼んでくれて、またこうやって話しかけてくれて、凄く嬉しい。洗脳が解けたみたいで本当に良かった」

「うん、ありがと。笑って許してくれるなんて、ののっちマジ女神だわ」


 幸太くんは私の手を取り、ぶんぶん振った。

 子犬のような笑顔につられて、私の頬も緩む。

 良かった、明るく無邪気な幸太くんに戻ってくれた。


「俺も謝らないといけない」

 幸太くんが手を離したところで、陸先輩が歩み寄って来た。

 陸先輩は四人の中で最も長身なので、傍に立たれると威圧感がある。


「三日前の朝、昇降口で挨拶されたのに、無視して悪かった」

 陸先輩は律儀に会釈した。


「いいえ、謝らないでください。陸先輩も乃亜に洗脳された被害者なんですから、悪いのは乃亜です」

 一色さん、と呼ぶのはもう止めた。

 加害者に敬称をつける義理はない。

 昼休憩以降、由香ちゃんも彼女を呼び捨てにしている。


「乃亜か……」

 陸先輩は苦々しい顔つきになった。


「おとついの茶会で、俺はパウンドケーキを作った。乃亜を喜ばせたい、その一心で作った力作だった。だが、有栖から全てを聞いたいま、もう二度とパウンドケーキは作らないと心に決めた」

「なんてことを言い出すんですか!」

 私は慌てて陸先輩の腕を掴んだ。


「陸先輩のパウンドケーキは頬っぺたが落ちるほど美味しいのに! 『ブルーベル』のパウンドケーキより、ううん、どんなお店のケーキより美味しいのに! 私、お茶会のお土産に貰った陸先輩のパウンドケーキを食べたとき、一口で泣いたんですよ!? 世の中にはこんなに美味しいパウンドケーキがあるんだなあって感動したんです!」

「……そんなに気に入ったのか?」

 陸先輩はじっと私を見つめた。


「はい!」

 陸先輩の腕をがっしと掴んだまま、大きく首を縦に二度振る。


「乃亜のせいでもう二度と作らないなんてもったいなさすぎます、どうか考え直してください!」

「……そうか」

 陸先輩は無表情で頷いて。


「お前がそう言うなら、また作ろう」

 私を見つめて、小さく口の端を上げた。


「!!!」

 凄まじい衝撃が脳天から足のつま先まで突き抜けていく。

 無表情キャラが笑顔になったときの破壊力を、私は身を持って知った。


「は、はい……掴んじゃってすみませんでした」

 私はぎくしゃくとした動きで陸先輩から離れ、頭を下げた。


「ぐらっと来たでしょう、いま」

 有栖先輩がくすくす笑っている。


「!!? いいえ、来てません!」

「隠さなくていいよ。こうやって無自覚に女の子を落とすんだよねー陸は。罪作りな奴だよ全く」

「何の話だ」

「いいや、なんでも?」

 有栖先輩は肩を竦めてから、私に向き直って苦笑した。


「僕も野々原さんには謝らないとね。冷たくしてごめんね」

「いえ、それはもういいんです。それより」

「うん」

 有栖先輩が真顔になり、和んでいた空気が引き締まる。


「中村さん、大福は呼べる?」

「はい。大福!」

 由香ちゃんが呼ぶ。

 私の目には何の変化も映らないけれど、他の四人の目にはその出現が見えたらしい。


 四人は由香ちゃんの右肩を凝視していた。

 陸先輩は目を丸くし、幸太くんは口を半開きにしている。 

 有栖先輩だけが冷静だった。

 恐らく彼は昼休憩中に大福と会話していたのだろう。


「……うわー、すげえ……ハムスターが喋ってる……」

 由香ちゃんの肩を見つめて、幸太くんが呆然と呟いた。


「大福か。ぴったりの名前だな」

 陸先輩は頷いている。

 陸先輩は動物好きだ。

 有栖先輩曰く、野良猫がいたらその場から動かなくなってしまうらしい。


「まずは神さまを無効化しなきゃいけない。僕が指示したらすぐ出現させて。……わかってる。すぐに捕まえる」

「捕まえる?」

 私の呟きが聞こえたらしく、有栖先輩がこちらを向いた。


「ああ、野々原さんには大福の声が聞こえてないのか。神さまは大福と同じくワープ能力を持つんだよ。それを封じるには十キロ以上の重りをつけてやればいい。つまり僕が捕まえておけばどこかに転移して逃げることはできないってこと」

「なるほど」

 頷いて、由香ちゃんの右肩を見る。

 どんなに目を凝らしても、やっぱり何も見えない。


 私だけ大福の声も聞けず、姿が見えないのは悲しい。

 神さまと対話する機会があれば、拓馬の洗脳を解くより先に、大福への罰を解除してもらおう――いいや、させよう。


 もしも大福が拓馬の感情制限が外れたことを神さまに報告していたなら、きっと拓馬は即座に制限をかけ直され、私を好きになることもなかったはず。

 大福は私の恩人、もとい、恩ハムスターだ。


「神さまによる洗脳は大福が防いでくれるって。でも長くはもたないから、短期決戦が望ましいと彼は言ってる。僕もそのつもりだから問題なし。この場にいない拓馬の分も込めて、生き地獄を味わわせてやろう」

「はい。是非お願いします」


 私だって乃亜には怒っている。

 これほどのことをしてくれた彼女に慈悲をかけるつもりは毛頭なかった。


「うん。頑張るよ」

 有栖先輩は微笑んで上着のポケットからスマホを取り出し、皆の顔を見回した。


「呼び出しをかければ乃亜はすぐに来るはずだ。皆、心の準備はいい?」

 皆がそれぞれ肯定を返すと、有栖先輩は文字を打ち始めた。


 幸太くんは由香ちゃんの右肩をつついて話しかけ、陸先輩も無言でハムスターを見ている。

 喋るハムスターが興味深いらしい。

 できることなら私も大福に話しかけたかった。

 彼には話したいことがいっぱいある。


「既読がついたよ。すぐに来るってさ」

 有栖先輩はスマホを上着のポケットに戻した。


 それきり、皆が口を閉ざす。

 陸先輩も幸太くんも大福と戯れたりはせず、待機の姿勢を取った。


 視聴覚室内は静かだ。

 この部屋の防音対策は完璧で、文化祭準備に勤しむ生徒たちの喧騒も聞こえない。


「有栖先輩、入りますよ」

 静寂を破ったのは、乃亜の声。


 ――きた。

 陸先輩と幸太くんと由香ちゃんは不快を露にした。

 私も多分、似たような顔をしていると思う。


「乃亜。待ってたよ」

 有栖先輩は乃亜を迎えに行き、彼女の手を優しく掴んでエスコートした。


「嬉しいです。でも、どうしたんですか。みんな……」

 有栖先輩に導かれ、室内に入って来た乃亜は、待ち受けていた私と目が合うなり顔を強張らせた。


 恨みを込めて、乃亜を厳しく睨みつける。

 大福の姿が見えなくなったのも、拓馬にフラれたのも、皆に冷たくされたのも、全てこの女のせいだ。


「……どういうことです? なんで中村さんや野々原さんまでここにいるんですか」

「この状況を見てもまだわからないの? 鈍いんだね」

 有栖先輩は乃亜と繋いでいた手を離し、乃亜を見据えた。


「洗脳が解けたってことだよ、一色乃亜。大福が洗いざらい教えてくれた。ここは乙女ゲームの世界で、君はそのヒロインなんだってね。でも僕は君がヒロインだなんて認めない。大福!」

 有栖先輩が叫ぶと、見えない『力』が迸った。


 空気が震え、由香ちゃんがいる地点から乃亜へ向かってまっすぐに不思議な力が駆け抜けていったのを確かに感じた。


 その『力』が直撃したらしく、乃亜が「きゃあ」と悲鳴を上げる。


 直後、乃亜の左肩の上に、一匹のシマリスが出現した。


「下僕め。よくも裏切りましたね」

 リスは少女のような高い声で言いながら、由香ちゃんの肩を見つめた。


「仕方ありません。相手をしてあげましょう。私が神です」

 リスは背筋を伸ばし、後ろの二本足で立った。


「…………ああ」

 幸太くんが片手で口を覆い、震えている。

 私には彼の苦悩がわかる。

 いや、私だけではなくこの場にいる全員が同じ気持ちだろう。


 思わず手触りを想像してしまうほどの、ふわふわの体毛。

 縞模様の身体に、先がくるんと丸まった尻尾。

 小さな鼻、長く伸びたヒゲ、ぴょこんと立った耳。


 極上の愛らしさを体現したリスが二本足で立ち、丸いつぶらな瞳で見てくるのだから――堪らない。


「……ああああああああ可愛いなんだこの可愛い生き物ありえねええ!!」

 幸太くんは頭を抱えて悶絶した。


「可愛い……」

 陸先輩が呟く。

 虜になっているようだ。表情に出ないのでわかりにくいけれど。


「やーん可愛い、本当に可愛い! 何あのリス! あんな可愛いリス地球上にいていいの!?」

 私は興奮のあまり、由香ちゃんの肩をばしばし叩いた。


「うん、可愛いねえ……あんな神さまなら何をされても許せちゃうねえ……」

 由香ちゃんも目をとろんとさせ、身体の前で手を組んでいる。


「うんうん、もう許すよ、なんでも許すよ!」

「神さまに会ったら一発殴ってやろうと思ってたけど無理だ! こんな可愛い生き物を殴るとか無理だ!! 人として大切な何かを失う気がする!!」

「あれを殴るなんてとても……」

 幸太くんが喚き、陸先輩も首を振っている。


「ふふん。ざまあみなさい。りっちゃんの魅力には誰も敵わないんだから!」

 乃亜が手を腰に当て、勝ち誇ったように笑っている。

 ヒロインとしての演技をすることは止めたらしいけれど、でも、乃亜の豹変なんてどうでもいい。

 とにかくリスが可愛くて仕方ない。


「ああ、もふもふしたい……思う存分撫で回したい」

「私も頬ずりしたい、ぎゅーって抱きしめたい……」


 誰もが愛らしすぎる神さまに魅了され、狂った。


 けれど、ただ一人、神さまが出現しても眉一つ動かさなかった人物がいた。


 有栖先輩だった。

 大騒ぎの中、彼は無表情で乃亜に詰め寄った。


 乃亜が反応するよりも早く、彼はリスの胴体を鷲掴みにし、壁に向かってぶん投げた。


 びたーん!! とリスが壁に叩きつけられる。


「……………………」

 誰もが口を閉ざし、水を打ったような静寂が訪れる。


 リスは身体の前面を壁に張り付かせたまま、ずるずると滑り、ぽとっと床に落ちた。


 心なしか、身体が平べったくなったような気がする。


 有栖先輩はそれを見て、つまらなさそうに鼻を鳴らした。

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