19:世界の反転を始めます

 時間が経つにつれて動揺の波は徐々に引いていったけれど、それでも不安は消えることなく、大勢の見物客に混じって拓馬と美しい花火を見ても、談笑しながら帰路についても、いつだって心の中に重く沈殿していた。


 だから私は拓馬と「じゃあまた明日」と微笑んで別れ、玄関の扉の鍵を閉めたその瞬間、


「大福ーっ!!」

 叫んで廊下を突進し、リビングと台所を仕切る扉を勢い良く開けた。


 たちまちひんやりとした風が身体に触れた。

 うちには大福がいるので、私が不在だろうとエアコンは常時稼働したままだ。

 夏の電気代がいくらになるかは考えてはいけない。


 ともあれ――


「西園寺タカシと御手洗キョーコ、離婚したかあ。やっぱりな。絶対すぐ離婚すると思った」


 涼しい楽園のようなリビングでは、白い大福餅――もとい、白いハムスターが床のラグマットに寝転がっていた。


「キョーコも見る目がないよなー」

 勝手に録画していたらしい昼間の芸能ニュースを流しながら、彼はスナック菓子のミニ袋を広げ、小さなスナック菓子を右の前足で摘まみ、四本の前歯でパリパリ音を立てて齧っていた。


 テレビの上部には『フラッシュの点滅にご注意ください』のテロップが表示され、タレントの御手洗キョーコが涙を流して記者の質問に答えている。


「いくらイケメンって言ったって、タカシは付き合ってたときから浮気ばっかりしてたって言うじゃんか。結婚したからって人間の本質が変わるわけないのに、なんで紙切れ一枚にサインした程度で変わると思うかねえ――」

「西園寺タカシと御手洗キョーコの離婚についてはどうでもいいのっ!!」

 この緊急事態に何を呑気な、という八つ当たりも込めてリモコンを取り上げ、テレビを消す。


「あれっ。なんだよ悠理、いつの間に帰ってきたんだ? まあいいや、とにかくお帰りー」

 食べかけのスナック菓子をまとめて頬袋に入れ、大福は起き上がって私を見つめた。


「くっ……」

 ぱんぱんに膨れた頬袋が可愛い。

 なんと愛らしい生き物か。こんなに可憐な生き物がいていいのか。

 私は唇を噛み締めてかぶりを振り、どうにか煩悩に打ち勝った。

 いまは己の爛れた欲望に身を任せ、大福を撫で回している場合じゃない!


「うん、ただいま。それより大変なの大福」

 テレビと大福の間に跪き、肩にかけていた鞄を置く。


 年に一度の貴重な花火大会を拓馬と二人きりで心置きなく楽しみたいからと、私は大福を拝み倒して今日一日だけ監視を解いてもらう約束を取り付け、おとなしく留守番してもらっていた。


 寝転がってテレビ鑑賞しつつスナック菓子を食べているとは予想だにしなかったけれど、それはまあどうでもいい。


 戸棚に入れてあるミニスナック菓子は大福専用で、自由に食べて良いと言っているし、彼がワープの際に接触していたある程度の重さ(大体一キロくらい)の物を自分と同時にワープさせることができるのも知っている。

 だからスナック菓子がここにあるのも驚くことじゃない。


「花火大会の会場に乃亜が現れたの」

 言い終わって、私は大福の一挙手一投足を見逃すまいと目を凝らした。

 神の使いを名乗り、乃亜の味方を公言している彼が乃亜と裏で繋がっているなら、当然乃亜の登場を知っていたはずだ。


 けれど。


「………………えっ?」

 大福は耳を立て、目を真ん丸にして固まった。


 その様は到底、演技には見えない。

 でも、驚いているフリをしているだけかもしれない。わからない。


「乃亜が? 嘘だろ!? なんでだっ!? 藤美野の夏祭りに来るなんて、オイラ聞いてないぞ!?」

 大福は大慌てで両前足を振った。


「でも本当にいたんだよ! この目で見たもん!」

 私は前屈みになり、ハムスターに顔を近づけた。


「屋台が出てる川沿いの道を拓馬と歩いてたら、乃亜が飛び出してきた子どもにぶつかって、拓馬のズボンにジュースをかけちゃったの!」

「……上着じゃなくてズボンか。場所によったら漏らしたと周囲に誤解されそうだけど、大丈夫だったのか?」

 大福は急に声のトーンを落とし、さも心配そうに言った。


「何を心配してるのっ!? いや大丈夫だったよ、ジュースがかかったのはズボンの片側だったから!」

「そうは言うけどお前、多感な思春期に漏らしたと誤解されたら悲惨だぞ?」

「もー、そこはいいから!」

 ばんっと床を叩き、話題の軌道修正にかかる。


「とにかく乃亜はほんのちょっとの交流だけで拓馬を魅了してた! 拓馬、あの子可愛いねって言ったんだよ!? 私と全然態度が違うんですけど! 私は目の前で扉を締められたんですけど!」

「そりゃお前がモブで乃亜がヒロインだからだよ。初めから好感度の高さが違うんだよ」

「ズルくない!? やっぱり乙女ゲームのシステムってズルくない!? 戦うとは決めたけど、最初から思いっきり不利なんですけど!?」


「仕方ないだろ、全てはヒロインのために存在するんだよ。拓馬も幸太も、有栖も陸も聖一せいいちもな……ていうかいまはモブとヒロインの待遇格差について議論してる場合じゃないだろが!」

 はたと我に返ったらしく、大福は大きな声を出して両手を振った。


「何がどうなってるのか神さまに直接聞いてくる!」

「えっ。ちょっと、大福?」

 大福の姿が消え、ラグマットには食べかけのスナック菓子だけが残された。

 エアコンの稼働音が虚しく部屋に響いている。


「……行っちゃった」

 スナック菓子の袋をそのままテーブルの上に移動させ、テレビをつける。

 テレビを見ながら大福の帰りを待つ。

 三十分もすれば戻って来るだろうと思っていた。


 でも、一時間しても大福が戻って来る気配はなく、結局その日私が眠りに落ちるまで、大福が帰ることはなかった。





「悠理。悠理」

 大福の声で目を覚ました。

 リビングは真っ暗だった。まだ眠り始めてそれほど時間は経っていない、と直感で判断する。この静けさ、恐らくは深夜だ。


「大福。帰って来たんだ、お帰り」

 枕元、顔のすぐ傍にハムスターを見つけて、心底ほっとした。大福は白いから闇の中でも見つけやすい。


「いつまで待っても帰ってこないから心配したよ。てっきりもう今日は帰ってこないんだと思って、寝ちゃったじゃない……」

 目を擦りながら言う。


「……そのことなんだけど。お別れを言いに来たんだ。オイラはもう悠理の傍にはいられない」

「えっ?」

 半分眠っていた脳が覚醒した。

 身体にかかっていた布団を跳ね飛ばす勢いで起き上がり、手をついて上体をねじる。


「なんで?」

 ベッドに正座し、私は混乱して尋ねた。


「……。乃亜が本来の予定より早く藤美野学園に転入することになった」

 私の質問に答えることなく、大福は俯き加減に言った。


「夏休み明けか、少なくとも十月の文化祭までには転入して来ると思う。そしたらきっとお前は泣くことになると思うから……いまのうちに覚悟しておけよ」

 大福は顔を上げて、私をそのつぶらな目で見つめた。


「これが最後の忠告だ。もう拓馬のことは諦めたほうがいい」

「……。乃亜は拓馬を選んだってことね?」

 大福は何も言わない。

 初めて表情豊かな人ではなく、ハムスターの形をしていることが悔しいと思った。

 ハムスターの顔から表情を読み取るなんて不可能だ。


 でも、大福の耳が垂れていることはわかった。

 多分、大福はいま、悲しんでいる。

 私との別離か。乃亜が拓馬を選んだことか。恐らくは両方だろう。

 前に大福は「乃亜が拓馬じゃなくて、他の相手を選べばいいと思ってる」と言ってくれた。私の気持ちを汲んでくれた。


 たとえ敵だとしても、彼は優しいハムスターだ。


「……そんな顔しなくても大丈夫だよ、大福」

 私は微笑み、大福の頭を人差し指と中指で撫でた。

 大福は抵抗しない。

 されるがまま、小さく身体を左右に揺らしている。


「心配してくれてありがとう。でも、諦めるなんて無理だよ。だって拓馬のこと大好きだもん。大福だって、私の気持ちは本物だと認めてくれたでしょう?」

「…………」

「私は自分の気持ちに嘘をつきたくない。たとえ可能性がどんなに低くても、情けなくっても、拓馬にきっぱりフラれるまで足掻いてみたいの――」

「違う。足掻いたって、何をしたって無駄なんだよ」

 大福は私の台詞を遮り、ぼそぼそと暗い声で言う。


「モブはヒロインには勝てない。それが絶対のルールだ。乃亜の傍にはオイラよりずっと強い力を持った、運命を強要する神さまがいる。オイラは神さまには勝てない。悠理の味方をしてやりたくても無理なんだ」

「…………」

 どう答えたものか。

 悩んでいる間に、大福が二本の足で立ち、顔を上げて背筋を伸ばした。


「ごめん」

 真摯に頭を下げて。

 そして、大福が消えた。


 まるで元からいなかったかのように、枕元にはもう、何もいない。


「……大福?」

 私はその姿を探した。

 暗闇に向かって、何度も何度もその名前を呼んだ。


 それでも大福が現れることはなかった。

 何日も過ぎて、夏休みが終わっても。

 八月が終わって、九月が始まっても。


 ――そして、九月九日、月曜日。


「神奈川から転校してきました。一色乃亜です。よろしくお願いします」

 大福を失った私の前に、その少女は再び現れた。

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