18:夏祭りの邂逅

 夏祭り当日の昼食は鶏のささみにネギと梅を添え、千切りにした大葉を混ぜ合わせた素麺そうめんにした。


「わー、美味そう」

 ボーダーの入ったシャツにジーパン姿の拓馬は食卓を見るなりそう言った。

 玩具をプレゼントされた子どもみたいに目がキラキラ輝いている。


「ふふ」

「なんで笑うんだよ」

「想像通りの反応だったから。料理で拓馬を喜ばそうと思ったら、梅を使えば外れがないの。逆に悲しませようと思ったら椎茸とゴーヤ。あとレバー。当たってるでしょ?」

「……まあ」

 認めるのが悔しいのか、拓馬は拗ねたような顔をして向かいに座った。

 くすくす笑いながらガラスコップにお茶を淹れ、拓馬の席に置く。


「ありがと」

「いいえ、どういたしまして」

 もう何度も繰り返していることだけれど、こうしてると夫婦みたいだな、なんて馬鹿なことを思ってしまう。


 大福に言ったら「拓馬と結ばれるのは乃亜だ」って怒られるんだろうな。

 でも乃亜が拓馬を選ぶとは決まってないし。

 たとえもしそうでも、そう簡単に諦めるなんてできるわけがない。

「いただきます」

「……どう?」

「うん。美味しい」

 このさっぱりした味付けは大変気に入ったらしく、拓馬は黙々と箸を進めた。


 真夏の台所で素麺を茹でたときは汗だくになった。

 でも、そんな苦労は拓馬の美味しいという一言と、嬉しそうな表情で報われる。

 恋人にはなれないとはいえ、すぐ近くで拓馬のこんな顔が見られるんだから、私は十分幸せ者だと思う。


「今日は晴れて良かったね。由香ちゃんは家族と一緒に行くって言ってたけど、幸太くんもそうなのかな?」

「いや。幸太は友達と行くって言ってた」


「そうなんだ。有栖先輩と陸先輩は今頃モルディブで楽しく過ごしてるかな」

「有栖先輩は満喫してても陸先輩は苦労してるだろうな……帰ってきたら愚痴聞いてあげよう」 

 その方角にモルディブがあるかどうかは知らないけれど、私と拓馬は揃って遮光カーテンが引かれた窓の外を見た。

 心の中で陸先輩を思い、合掌する。


「ところで拓馬さん。質問があるんですが」

 しばらく黙って素麺を食べていた私は、不意に箸を置き、まっすぐ背筋を伸ばして真面目な顔つきを作った。


「なんだよ改まって」

 素麺を啜る手を止めて、拓馬が首を傾げる。


「一年に一度しかない貴重な夏祭りで私の浴衣姿を見ることと、近所の洋菓子店『ブルーベル』で人気沸騰中の高級プリンを食べることではどちらに興味がありますか」

「断然プリン」

「だよね。私も花より団子。色気より食い気」

 私は大きく顎を縦に振り、再び箸を手に取った。


「じゃあこの前のロールケーキのお返しに買うから、今度一緒に食べようね」

「ああ」

 拓馬と食べれば、プリンの美味しさも倍増間違いなしだ。





 午後六時過ぎ。

 私は腰でリボンを結ぶタータンチェックのワンピースを着て、祭囃子が流れる川沿いの道を歩いていた。


 道の両脇にはたくさんの屋台が出ていて、結構な人ごみだ。

 浴衣姿の女性や甚平姿の男性、カップルにお一人様、家族連れ。

 中には犬を抱いて歩いている人もいるし、クレープやたこ焼きを食べながら歩いている人もいる。


「ちょっと待って、拓馬」

 人波に流され、先を行く拓馬とはぐれてしまいそうになり、私は焦った。

 拓馬が私の声に気づいて振り返り、クレープの屋台の傍で止まる。


 祭りに備えておめかしした私と違い、彼の服は昼間見たそのままだ。

 Tシャツにジーパンという味気ない姿。

 それでも溢れ出るオーラは隠せず、これまで多くの女性の目を惹きつけていた。


「早かった?」

「早かった。もうちょっとゆっくりでお願いします」

 食欲をそそるクレープの甘い匂いに包まれながら、私は拓馬の前に立った。


「ああ、ごめん。気づかなくて。お前足遅いもんな。運動神経もないし」

「歩く速度に運動神経は関係ないと思う……」

 運動神経のことを話題に出されると辛い。


「ねえ、あの人格好良くない?」

「モデルかな」

 ええ、道行く女性の目を釘付けにするこの美しい顔面にバスケットボールを投げつけたのは私です。

 思い出すと胃がしくしくしてきて、私はワンピースの上からお腹を摩った。


「そうかなあ?」

 わざとらしく語尾を伸ばし、笑って私を見つめる拓馬。

 橙色の光に照らされたその顔を見る限り、どうやらからかわれているらしい。


「……大体、足が遅いって。そもそもコンパスの長さが違うんだからしょうがないでしょ」

 私が158、拓馬が177だから、20センチ近く身長差があるんだぞ!

 ちなみに乃亜の身長は162センチ。

 多くの乙女ゲームの主人公の例に漏れず、すらっとした細身の美少女ですとも。


「そうか。つまりおれが高身長なイケメンだから仕方ねえってことだな」

 顎に手を当てて呟く拓馬。

「イケメンはいま無関係じゃ……?」

 激しく突っ込みたいけれど、本当に文句のつけようのないイケメンだから困る。

 通りすがりの中年女性グループまでが「まあイケメン」とか言ってるしな。

 しかも頬を染めて。うっとりしながら。


「イケメンはイケメンらしく振る舞わないとな。てわけで、行くぞ」 

 拓馬が私の左手を掴み、歩き出した。

 当たり前のように手を繋がれたから、驚いた。

 体育祭の借り物競争のことを思い出す。

 あのときも彼は「行くぞ」と言って私の左手を掴んだ。


「なんだ、彼女持ちか」

 どこからか、残念そうな声が聞こえた。

 違う。私は拓馬の彼女じゃない。ただのクラスメイト。


 でも、世界一幸せなクラスメイトだ。


「花火までまだ時間あるし、何か食う?」

「焼きそばが食べたい」

「昼素麺だったのにまた麺食うの?」

 私の手を引きながら、拓馬が笑う。

 夢のようだ。

 拓馬と手を繋いでお祭りを見て回れるなんて。


「いいの。屋台で食べる焼きそばは格別だから」

「まあな。美味しいよな」

 拓馬の手は温かい。

 ドキドキしながら、ちょっとだけ繋いだ手に力を込めると、拓馬も同じ強さで握り返してくれた。


「――――!」

 心臓がぎゅっと縮む。


「じゃあ焼きそばの屋台探すか。その後もなんか食う?」

「りんご飴。私の家ではお祭りといえばりんご飴なの。これを食べないことには終われないの」

「ふーん。おれの家にはそういうのないな。その時々に応じて気が向いたのを食べるって感じ。あ、あった」

 拓馬が焼きそばの屋台を指さし、こちらを振り返ったとき。


 子どもが凄い勢いで前方を横切った。


「あっ」

 不運なことに、子どもの進路上には紙コップを持った女性がいた。

 子どもに体当たりされた女性はよろけて拓馬にぶつかり、中身のジュースが拓馬のズボンに飛び散った。


 左の太ももに当たる部分が濃く変色していく。色と匂いからしてコーラだろう。

 驚いたように拓馬が私と繋いでいた手を離し、前方に向き直る。


「すみませんっ。ああ、大変! ズボンが!」

 髪をポニーテイルにした女性が慌てて身を引いた。


 拓馬から離れたことで、その顔がちゃんと見えるようになる。


「――え」

 女性の顔を認識した瞬間、世界が止まった。

 祭囃子の音楽も、人々の喧騒も、何もかもが消え去る。


 心臓が早鐘を打ち始めた。

 冷や汗が噴き出て、全身を濡らしていく。

 目の前が真っ白に染まる。


 どういうこと? 嘘でしょう? 何かの間違いでしょう?

 誰かにそう訊きたいけれど、声が出ない。


 その女性は少女だった。


 年齢は私たちと変わらない。同学年。高校一年生だ。

 腰まで届く髪、ぱっちりとした大きな二重。

 シフォン素材の白いブラウスと水色のスカートを着ている。


 斜め掛けにした鞄には可愛らしいリスのマスコットキーチェーンが下げられていた。藤美野学園に通うとき、いつも鞄に下げていたお気に入り。


 そう――私は彼女を知っている。


「大丈夫?」

 拓馬の一言が、止まっていた時間を動かした。

 自分が被害者だというのに、拓馬はぶつかってきた彼女の安否を確認した。


 それが意外だったらしく、少女はきょとんとして、

「はい。私は大丈夫です。ご心配ありがとうございます。でも、あなたのズボンが……本当にすみません」

 彼女は頭を下げた。ポニーテイルが肩に落ちて流れる。


「いいよ。このズボンもう古いし、ちょうど捨てようと思ってたところだったんだ。だから気にしないで」

「そうなんですか?」

 ほっとしたように少女は笑ったものの、すぐにそれが優しい嘘である可能性に思い当たったらしく、表情を翳らせた。


「でも……」

 少女はそこで言葉を切り、私と拓馬を交互に見て、困ったように笑った。


「……お詫びしたいんですが、あんまりしつこいとデートの邪魔になってしまいますよね」

「いや、デートじゃないけど」

「そうなんですか?」

 少女は目をぱちくりさせて私を見た。


「…………」

「……あ。えーと」

 私が肯定も否定もしなかった――とても何か言える状態ではなかった――ことで何かを悟ったらしく、少女は焦ったように手を振り、言葉を紡いだ。


「やっぱりお邪魔のような気がしますし。私はこれで失礼しますね。本当にすみませんでした」

 丁寧に頭を下げて、少女は踵を返した。


 拓馬は動かない。

 ただ黙って遠ざかる少女の背中を見ている。

 止めて。そんな目で見ないで――蜂の巣をつついたように胸がざわざわする。

 心が不安で押し潰されそうだ。


 左手に感じていたはずの拓馬の温もりが、いまはもうない。

 繋いでいた手は彼女の登場によって離されてしまった。

 幸福の絶頂にいたのに、一転して地獄へ突き落とされた気分。


「なあ、いまの子可愛くなかった?」

 拓馬は笑って私を見――ぎょっとしたように目を剥いた。


「どうしたんだよ。顔色が真っ青だぞ。具合が悪いのか? どこかで休む? それとも帰るか?」

「ううん。大丈夫……」

 笑わなければ。笑え。そう命じるのに、頬が引き攣って、出来損ないの笑顔しか作れなかった。


 右の二の腕に左手をかけ、ぎゅっと掴む。

 いくら抑えようとしても、身体の震えが止まらない。


 いまの子可愛くなかった――拓馬はそう言った。

 私は心を開いてもらうまであんなに苦労したのに、彼女はただ一度の邂逅で拓馬を魅了してしまったらしい。


 それもそのはず。


 彼女の名前は一色乃亜。

 本来半年後に現れるべき拓馬の運命の相手、この世界のヒロインだった。

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