20:涙

「あれっ」

 朝のホームルーム。

 黒板の前で簡単な自己紹介を終えた乃亜は、急に驚いた。


 彼女がその大きな瞳に映しているのは拓馬だ。

 夏休み明けの席替えにより、教室の窓際の一番後ろの席となった拓馬もまた戸惑ったような顔で彼女を見返している。


「どうしたんだ、一色」

 教壇の前にいる担任教師が乃亜に尋ねた。

 私のクラス担任は眼鏡をかけた中年の男性教師で、名前は山根。数学担当。


「すみません。夏祭りのときに偶然出会った人がいたので、つい驚いて……」

「黒瀬と知り合いだったのか」

 山根先生は見つめ合っている拓馬と乃亜の顔を交互に見た。


「それなら黒瀬、放課後に学校案内してやれ」

 笑顔で何言い出すんですか山根先生!

 余計なイベントを起こさないで、と私は内心で悲鳴を上げた。


「え、おれですか」

「ああ。学級委員に頼もうと思ってたんだが、知り合いのほうが一色も緊張せずに済むだろ。ちょうどお前ら、席も隣同士になるしな。学校案内も交流の一環だ」

「……わかりました」

 空いている隣の席を一瞥し、拓馬が頷く。


「じゃあ一色、あそこに座って」

「はい」

 乃亜が通路を歩き、拓馬の隣の席に座って鞄を置く。

 よろしくね、とでも言ったのだろうか。

 乃亜が微笑み、拓馬も微笑み返している。


 転校初日の数分でこれである。

 放課後の学校案内が終わる頃になったら、拓馬の好感度ゲージはどこまで上がっているんだろう。


「…………」

 私は危機感と焦燥感に駆られ、机の下で拳を握った。



 

「まさか黒瀬くんともう一度会えるなんて思わなかったよ。アパートも机も隣同士なんて、すごい偶然だね」

「こんなことあるんだな」

「運命みたい……なんて、大げさかな」

「いやでもここまで来ると、あながち大げさとは言えないよな。本当に運命かもよ」

「えー、どうかなぁ。ふふ。でも、そうだと嬉しいな。黒瀬くんのお弁当、美味しそうだね。手作り?」

「いや、これは野々原に作ってもらってるんだよ」

「えっ、そうなんだ。二人ってやっぱり付き合ってるの?」

「違う違う」


 二回言ったな、拓馬。

 大事なことだから二回言いましたってこと?

 乃亜に誤解されたら困るって?


「あいつとおれはただのクラスメイトだから」

「でも夏祭りも一緒に行ってたし、本当は彼女なんじゃないの? 無理に隠さなくたっていいんだよ? 内緒だって言うなら誰にも言わないし、邪魔なんてしない。むしろ応援するよ」

「だから本当に違うんだって――」


「……悠理ちゃん、大丈夫? 凄い顔してるよ」

「………………」


 昼休憩。

 私は由香ちゃんと机をくっつけ、聞き耳を立てながら昼食を食べていた。

 席替えによって私の席は教室のほぼ中央、由香ちゃんの前の席になった。

 本当は私の引いたくじは窓際だったんだけど、由香ちゃんの近くに座りたかったから由香ちゃんの前の席のくじを引いた子と交換してもらったのだ。


 でも、こんなことになるならくじの交換なんてしなければ良かったかもしれない。


 拓馬と乃亜の席はここから少し離れている上に、他のクラスメイトたちの声が邪魔をするから、会話内容が聞き取りづらい。


 聞き取れなかった部分は推測で埋めている。

 盗み聞きなんて良くないとはわかっているけれど、でも、気にせずにはいられない。


 だってあの二人、仲良く一緒にご飯食べてるんだもの!

 早くも恋人同士みたいな空気を醸し出してるんですけど!?


「……悠理ちゃん」

 まずい。非常にまずい。

 でも、どうやって妨害すればいいのかわからない。

 私がいくら妨害したって、二人のアパートは隣同士。

 学校が終わればいつだって二人きりになれる環境だ。私がこれまで何度もそうしてきたように。


 しかも乃亜と私では決定的な違いがある。

 拓馬は私に対して恋愛感情を抱くことはなかったけれど、乃亜は別。

 その気になればキスとかそれ以上のことだって……


 ……ずびしっ!


「痛っ!?」

 予期せぬ頭への一撃を受けて、私は額を押さえてのけ反った。

 涙目になって見れば、私の額に手刀をお見舞いしたそのままのポーズで由香ちゃんが私を見ている。


「あ、良かった。悠理ちゃん。戻って来たね」

「う、うん」

 私は額を摩りながら、目を白黒させた。


 なんだいまの一撃は。とてもか弱い由香ちゃんが繰り出したとは思えないほど良い一撃だったんだけど。衝撃が脳天まで突き抜けて言ったんだけど。


「気持ちはわかるけど、ご飯はちゃんと食べましょう。眉間に皺を寄せて黙り込んだきり、箸が進んでないよ?」

 由香ちゃんは既に食べ終えたらしく、巾着袋の紐を綺麗に結んでいた。


「……そうだね」

 私は弁当箱を持ち上げ、おかずを口に運んだ。

 食べながら、ちらりと二人を見る。

 二人は昼食を終えても談笑していた。

 いつの間にか幸太くんまでその輪の中に加わっている。


 幸太くんは乃亜を「いっちゃん」と呼び、話題は学習進度に移っていた。

 これまで通っていた高校よりも藤美野のほうが数学の学習進度が早く、ついて行くのが大変そう、と言って乃亜が笑う。


 それならおれが教えようか、と何気に数学が得意な拓馬が提案し、いいの、と乃亜が食いついている。


 ……この分だと早速今日から放課後特別授業を始めるんだろうか。

 拓馬か、あるいは乃亜の部屋で。二人きりで。


「もう。悠理ちゃん? 昼休憩終わっちゃうよ?」

「えっ。あ」

 気づけばまた箸が止まっていた。


 由香ちゃんが私を睨んでいる。これはまずい。

 もう知らない、と言って机を離し、放置されるかも。


 私は拓馬たちの声を耳に入れないようにした。三人がどんなに楽しそうに笑っていても聞こえないふり、知らないふり。

 お茶で強引に口の中の物を飲み下し、甘い味付けの卵焼きを箸で切り裂き、口に運ぶ。


 おかかのかかった白米をまとめて箸で摘まみ、無心で食べていると、由香ちゃんがふと私の手元を見つめて笑った。


「いつも思うけど、悠理ちゃんのお弁当って本当に手が込んでるよね。手間のかかるから揚げだって手作りで、冷凍食品使ってないでしょう」

「……うん」

 私はお弁当を見つめた。


 早起きして、拓馬の分もまとめて作っているお弁当。

 色合いに気を付けて。赤・緑・黄の基本の三色は必ず入れるようにして。できれば黒と白も入れて。


 余裕があれば飾り切りやデコレーションもしている。

 そうすると拓馬が「今日の人参は花だったな」とか「うずらがヒヨコで笑ったんだけど」とか、楽しそうに報告してくれるから。


「こんなに愛情込めてるんだもん。悠理ちゃんの気持ちは、きっと黒瀬くんにも伝わってるよ」

 由香ちゃんは私を安心させるように、優しく微笑んだ。

 不安に沈んでいた心が、ほんの少し軽くなる。


「……そうかな」

 私は拓馬のほうを見た。

 変わらず拓馬は乃亜と笑っているけれど。


「……そうだといいな」

 心から呟いた。





 九月に入ってから、放課後は文化祭の準備期間にあてられている。

 私たちのクラスは講堂で白雪姫の演劇をやることになり、私は由香ちゃんと共に衣装係になった。


 王子役は拓馬だ。吉住さんに熱く推薦された拓馬は「おれは大道具係とか、目立たないやつがいいんだけど」と全く乗り気ではなかったんだけど、他の女子からもごり押しされて渋々引き受ける羽目になった。


 王子役が決定してからというもの、主役の白雪姫には十人もの女子が名乗りを上げた。

 熾烈なジャンケン戦争の果てに見事その座を勝ち取ったのは吉住さんだ。

 彼女は二学期になっても変わらず拓馬を愛している。


 でも、乃亜が拓馬と談笑してても皮肉や嫌味を言う素振りはなかったな。私にはあんなに突っかかって来たのに。


 やはり乃亜には強力なヒロイン補正がかかってるようだ。

 吉住さんにも無意識のうちに「乃亜なら仕方ない」と思わされているのかもしれない。


「どう? これ王子に見える?」

 放課後、私たちは家庭科室にいた。

 同じ衣装係の女子は肩や襟に飾りをつけ、白いたすきをかけたぶかぶかな学ランを羽織り、くるりとその場で回ってみせた。


「……まあ、王子って言えば王子だけど」

「正直、貧相だよね……学ランをちょっと装飾しただけだし……」

「サッシュと見せかけて100均のたすきだしね……」

 皆でぼそぼそと言い合う。


「言わないで。仕方ないでしょ、私だって潤沢な予算と時間があればきっちり作るわよ。ああ、せっかく黒瀬くんの王子コスプレ姿が拝めるって言うのに、こんなチンケな衣装しか作れない現実が憎い」

「自分でチンケって言っちゃったよこの子」

「こうなったら七人の小人の数を減らして、その浮いた衣装代を王子に回すしか……!」

 瞳に物騒な光を宿し、学ラン姿の女子が天井を見上げて拳を握る。


「なんか怖いこと言い出したぞー落ち着けー?」

「まあまあ。学ラン姿ってだけで貴重だよ? 着たら写真撮らせてもらおう?」

 由香ちゃんが苦笑まじりに女子の肩を叩く。

「さあ、王子の衣装は終わったし、次は魔女だね」

「頑張ろー!」

「おー!」





 気の合う友達と軽口を叩き合いながら作業に没頭している間に、下校時間となった。

 駅は私のアパートとは違う方向なので、由香ちゃんとは大通りでお別れだ。

 気を付けてね、と声をかけて、私はすっかり暗くなった夜道を歩いた。


「…………ふう」

 一人になった途端、これまで考えないようにしていた不安が頭をもたげる。

 拓馬は放課後、学校案内をしながら乃亜とどんな話をしたんだろう。


 まさかもう付き合うようになったとか……まさか。まさかね。

 転校初日でそんなこと……あり得るから恐ろしい。


「……そもそもなんで現れたのよ。意味がわからない」

 彼女の登場は半年以上も先だったはずだ。


「もう完全に私の知っている『カラフルラバーズ』の世界じゃない。大福とか、神さまとか。わからないことばっかり……そもそも神さまって何なの。乃亜の守護神? 大福はその使いだったってこと?」

 夜空に瞬く星を見上げても、答えは出ない。


「……敵とか味方とかどうでも良かったのに。傍にいてくれるだけで良かったのに……」

 額に書かれた下手くそな『神』の文字、つぶらな黒い目、細い髭、ふわふわな白い毛並み、小さな手足。


 あの愛くるしいハムスターとは、もう二度と会えないのだろうか。

 切なさがこみ上げ、泣きそうになる。


 私は手の甲で強く目を擦り、後は無心で足を動かした。

 十分ほどして、アパートの明かりが見えた。


 アパートに入り、郵便受けをチェックしてから階段を上る。

 今日も帰りが遅くなったし、急いで夕食を作らなければ。

 拓馬はもう帰っているだろうか。きっとお腹を空かせているだろう。


 乃亜と拓馬の仲が今日一日でどれほど進展したかはわからないけれど、料理は私の仕事。


 これまで積み重ねた食事の時間こそが、私と拓馬の絆だ。


 そう思うと少しだけ元気が回復した。

 鍵を玄関に差し込み、回して扉を開ける。

 その音で私の帰宅に気づいたらしく、隣の部屋――拓馬の部屋の扉が開いた。


「あ、拓馬」

 拓馬は私服に着替えていた。

 風景のイラストがプリントされた長袖のシャツに黒のズボンを履いている。

「お帰り」

「うん、ただいま」

 わざわざ挨拶してくれたのが嬉しくて、口元が綻んだ。


「ごめんね、待たせて。いまから急いで夕食作るね」

「そのことなんだけどさ」

 そのことなんだけど――大福がおもむろに切り出した別れのきっかけとなる言葉を連想し、すっと体温が冷えた。


 まさか、そんなはずはないと不吉な予感を頭から締め出し、努めて笑顔を作る。


「うん、何?」

「もうこれからご飯作ってくれなくていいから」

「…………え?」

 私は呆けて拓馬を見つめた。


 手から力が抜け、どさりと鞄が落ちる。

 拓馬は私の足元で倒れた鞄に目を走らせ、それでも続けた。


「実はおれ、乃亜と付き合うことになって」

 頭を思い切り殴られたような衝撃。

 視界がぐらりと揺れ、立っているだけで精いっぱいだ。


「乃亜が料理得意で、自分の分のついでに作ってくれるって言うんだ。いつまでもお前に甘えるのも悪いし、これからは乃亜に作ってもらうよ」


 見計らったかのようなタイミングで、扉が開く音。

 拓馬の部屋の向こう――201号室から。


「拓馬。ちょうど良かった。ご飯できたよ……あ、お話し中だったかな? ごめんね邪魔して。こんばんは、野々原さん」

 乃亜は拓馬の傍に立ち、にこっと笑って会釈した。


「拓馬から聞いたよ。これまで拓馬のご飯を作ってくれてありがとう。でも、もういいから。これからは私がいるもの。ね、拓馬。行こう?」

 乃亜が笑顔で拓馬の腕を掴み、上目遣いに見つめる。


「ああ」

 呆然とする私を置いて、拓馬は自分の部屋に鍵をかけた。


「じゃあ、そういうことで。いままでありがとうな」

 微笑んで、拓馬は乃亜と共に歩いていく。


 二人の声がする。楽しそうに笑う声が。

 耳から入って、頭の中で乱反射して――吐きそうだ。


 二人の姿が乃亜の部屋の中に消えるのを見届けて、私は震える手で鞄を拾い上げた。


 玄関の扉を開け、後ろ手に扉を閉め、ずるずると座り込む。

 視界は墨で塗り潰されたかのように真っ黒だ。


 廊下の向こう、リビングの明かりはついていない。

 私が落ち込んでいたとき、決まって「お帰り」と元気に迎えてくれた白いハムスターはどこにもいない。


 どれだけ大福が精神的な支柱になっていたかを思い知る。


「……大福」

 名前を呼んだ。返事はない。


「大福。ねえ」

 熱いものが頬を伝う。しゃくりあげる。

 涙声で名前を呼ぶ。繰り返し。何度も何度も。


「大福。大福。大福……」

 返事はない。

 どんなに呼びかけても返事はなく、私はとうとう声を上げて泣き崩れた。

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