15:有栖先輩の独擅場
「さて」
有栖先輩はうずくまっている井田先輩の前に立ち、腰に手を当てた。
「話をしようか。二年一組、出席番号二番。藤美野西四丁目の高岡ハイツ405号室に住んでる井田正輝くん」
「な、ど、どうして住所を」
書類でも読み上げるように、すらすらと言われて、井田先輩が狼狽える。
「お望みとあれば君の家族構成、ご両親の勤め先、ご家族それぞれの略歴を述べてもいいよ? 僕は人脈の広さがささやかな自慢でね。電話一つで様々な情報を提供してくれる知人もいるんだ。恥ずかしい過去も知ってるけど、君の名誉のために言わずにおくよ」
「……なんだよ。なんでお前がしゃしゃり出てくるんだよ白石! ボクはお前が大嫌いなんだ!」
怒りを原動力にしたらしく、井田先輩は驚愕の呪縛から逃れ、憤然と立ち上がって吼えた。
「心外だね、どうして? 僕は万人に愛されるキャラクターだと思うんだけど」
不思議そうに首を傾げる有栖先輩。
「だああああ、スカしやがって! お前のそういうところがムカつくんだ!!」
顔を紅潮させて、井田先輩が荒々しく地団太を踏む。
「行く先々でいちいち巨大ハーレムを作りやがって! 知ってるか! ボクはこの前、木曜日の放課後、お前が引き連れた女子軍団に廊下を塞がれて三十分も通れなかったんだぞ! わかるか、三十分だぞ三十分!」
「そうなんだ、ごめんね? 気づかなくて。どうやら僕の目は君のことを映す価値もない塵芥だと認識したみたいだ。きっといまも映したくないんだろうけど、そこは頑張ってもらわないとね。どんなに君が見苦しくても、本当に見えなくなったら会話しづらいし」
なんて素敵な笑顔なんだろう。台詞と全くかみ合ってない。
「この野郎……!」
井田先輩が握り拳をわなわな震わせる。
「そんな口の利き方をしていいのかな? 状況わかってる?」
有栖先輩はスマホの先端を自身の顎に触れさせた。
「このスマホには君が晒した醜態が収められているんだよ? このデータ、どうしようかな?」
「ぐ……」
井田先輩が唇を噛み、有栖先輩は優雅に笑む。
「三つの選択肢を上げよう。まずはそのいち。君の自宅に行って、中学二年という多感な年頃の妹さん含め、ご家族それぞれにプレゼント」
この場にいる全員が絶句した。
井田先輩は白目を剥いている。
受けた衝撃の大きさを考えれば、立ったまま気絶していてもおかしくはない。
「あ、もちろんプライバシー保護のために、中村さんや拓馬のことは特定できないように編集してから渡すよ。安心してね」
とびきりの笑顔を見せる有栖先輩。
「いやプライバシーは大事ですけどそういう問題じゃないっすよ有栖先輩!!」
幸太くんが焦ったように一歩前に出て叫んだ。
「罰とはいえ、その仕打ちはあまりに
「やだなあ、親に見られて恥ずかしいことをするほうが悪いんだよ」
渾身の叫びも届かなかったらしく、有栖先輩の微笑は揺るぎもしない。
「に、二番目は……二番目の選択肢は……」
白目を剥いたまま、震え声で井田先輩が促す。
「二番目は放送部と新聞部の子にプレゼント。みんな娯楽に飢えてるから、頼まなくても面白おかしく脚色してくれるだろうね。公表された瞬間、君の学校生活は終わるね。ご愁傷様」
「……三番目は?」
井田先輩はもはや泣いている。
自分の言動がいかに恥ずかしいものであったか自覚はあるらしい。
「三番目は」
有栖先輩は笑みを消し、真顔で井田先輩を見つめた。
「中村さんと拓馬に心から謝罪し、今後中村さんに近づかないと誓うこと。そうすればスマホのデータは君の目の前で消してあげる」
「……本当だな? 約束だな!?」
「いいよ。中村さん、拓馬」
呼びかけに応じて、二人が進み出る。
由香ちゃんは口元を引き結んでいて、拓馬の表情は特にない。
腫れた右の頬が痛々しい。
バスケットボールをぶつけてしまった春の悪夢の再現のような有様を見て、私はそっと唇を噛んだ。
「本当に申し訳ございませんでしたっ!! ボクが間違ってました!! 二度と中村さんには近づかないと約束します!!」
井田先輩は恥も外聞もかなぐり捨て、コンクリートの床に額をくっつけんばかりの勢いで頭を下げた。
「……許します。その代わり、本当にもう近づかないでください」
苦悩の日々を思い返したのか、由香ちゃんはいったんきつく目を閉じてから、目を開けて頷いた。
「誓うとも」
井田先輩は大きく頷いて、今度は拓馬に身体を向けた。
「黒瀬くん、殴って本当に悪かった!!」
頭を下げられた拓馬は数秒黙った後、ふっと肩を落として息を吐いた。
「……殴り返して同類になるのも嫌ですし、もういいです。解決したならそれで」
「……巻き込んでごめんね、黒瀬くん」
由香ちゃんが拓馬の顔を見て、怪我の責任を感じたらしく、項垂れた。
「いいって。こうなるってわかってて挑発したのはおれだし、中村さんが気に病むことはないよ」
拓馬は由香ちゃんの後頭部を撫でた。
由香ちゃんはびっくりした顔をして、横目で私を見た。
こんな状況でも私を気遣うとは、本当に良い子である。
私は微苦笑して首を振り、気にしてないと伝えた。
「……これでいいんだよ、な?」
井田先輩が立ち上がり、上目遣いに顔色を窺いながら、有栖先輩に歩み寄る。
「それ以上近づかないでくれる。汗くさい人嫌いなんだ」
有栖先輩は零下の眼差しを井田先輩に突き刺した。
「す、すまない」
素直に井田先輩が下がる。もはや逆らう気も起こらないらしい。
「それじゃ消すよ。はい」
私からは見えないけれど、井田先輩は動画が消えるのを見届けようだ。
彼はあからさまにほっとした後、鬼の形相に変わった。
「白石。よくもボクをコケに――」
「勘違いしないでね。僕はバックアップがないとは一言も言ってないよ?」
掴みかからんばかりの怒気を放っていた井田先輩は、被せるような有栖先輩の一言に震えた。
「……本当に?」
井田先輩の頰に新しい汗が生まれる。
「さあ。嘘かな? 本当かな? 僕が何と答えようと意味はないよね。だって君は信じられないもの。信じられる根拠が何一つないんだもの。君は永遠に僕を疑い、僕の気まぐれに怯え続けることになるんだ。残念だな。君が改心したならこの件は水に流そうと思ってたのに」
敵意が膨れ上がった。
有栖先輩の視線が刃物の鋭さを帯びる。
「井田正輝。君は僕を敵に回す覚悟があるんだね?」
聞く者の心臓を鷲掴みにする声だった。
射殺すような目で見据えられ、井田先輩が声も出せずに後ずさる。
その顔色は青く、頰は引き攣り、足は震えていた。
もはや井田先輩の命運は有栖先輩の手に握られたも同然。
その気になれば、有栖先輩はいつでも井田先輩を破滅させることができるのだから。
――寒い。
体感温度が急激に下がったような気がして、私は腕を摩った。
「……な、ない」
井田先輩はついに膝を屈し、へたり込んでガタガタ震えた。
「ボクが悪かった……もう二度と中村さんには近づかないし、他人に暴力を振るったりもしない。悔い改めると誓う。だからどうか許してくれ。頼むよ白石くん……」
井田先輩は泣きながら手を組み、哀願した。
「……執行猶予をあげよう」
しばらく無言で井田先輩を見ていた有栖先輩は、不意に殺気を収めた。
凍てつくような冷気が消え去り、夏の暑さが戻って来る。
「あ、ありがとう……!」
井田先輩の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「あくまで猶予ってことを忘れないでね。わかったら話は終わりだ。帰っていいよ」
有栖先輩が親指で屋上の出入り口を示すと、井田先輩は脱兎の勢いで逃げた。
すぐにその足音は遠ざかり、聞こえなくなった。
生温い風が吹いて、有栖先輩の艶やかな髪が揺れる。
「こんなものでどうかな? 甘かった?」
事件の終焉を告げるような風を受けながら、棒立ちしていた私たちを見て、口角を上げる有栖先輩。
その笑顔はいつもの――私の知っている、優しくて穏やかな有栖先輩のものだ。
「いえもう十分でしょう……むしろ十分すぎておつりが来ますよ」
拓馬が苦笑いする。
私も全くの同感だ。
あの怯えようからして、井田先輩はもう二度と由香ちゃんに近づくことはないだろう。
「あ、あの、ありがとうございました、白石先輩! 助かりました、本当に……!!」
由香ちゃんは深々と頭を下げた。
「いえいえ、どういたしまして。お礼なら拓馬に言って。今回の功労者は間違いなく彼だからね」
有栖先輩が手を振って微笑む。
「はい。ありがとう、黒瀬くん。本当にありがとう。それから、本当にごめんね。私のせいで」
「もういいって」
「いやいや、良くないよ。顔腫れてるよ。保健室行こう」
私は拓馬の手を引っ張り、歩き出した。
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