16:危険な魅力に気をつけて
ふわとろな卵を乗せたオムライス、から揚げ、マグロとサーモンのカルパッチョ、グラタン、わかめスープ。
野菜が少ないけど、今日は特別。栄養バランスも予算も度外視だ。
「今日の夕食すげえ豪華じゃね? おれの好きなのばっか」
午後七時過ぎ。
今日も今日とてご飯を食べにやって来た拓馬は大皿に乗ったから揚げを摘み、嬉しそうにそう言った。
その右頬はガーゼで覆われている。
大げさだと本人は言ったけれど、外すと青あざが痛々しく、とても直視できない。
少なくとも目立たなくなるまで、私の前では外さないで欲しいとお願いした。
「喜んでくれたなら嬉しいよ。今日は本当に大変だったと思うし……」
目を伏せて、言い淀む。
親友のために身体を張ってまで尽くしてくれた拓馬に何と言えばいいんだろう。
ありがとう? ごめんなさい?
「……ありがとうとごめんなさいの気持ちを込めて」
迷った末、私は両方の言葉を口にした。
「なんでお前が謝るんだよ」
カルパッチョを飲み下してから、拓馬が言う。
さらに、言い終わった後も彼は新たなサーモンを箸で摘まみ、食べた。
拓馬は酸っぱい味付けが好きだ。
これだけ喜んでくれると作り甲斐がある。
「だって。私が拓馬に彼氏役なんて頼んだからこんなことになったんだし……責任感じずにはいられないよ」
私は拓馬の右頬のガーゼを見た。
私があんなことを言い出さなければ拓馬が殴られることはなかったかもしれないと思うと死にたくなる。
大福にも「大福なら拓馬が怪我をする前になんとかできなかった」と聞いて怒らせてしまった。
彼はクロゼットのケースの中で拗ねている。
後でもう一度ちゃんと謝って、仲直りしよう。
「何言ってんだか。危険を承知で井田を挑発したのはおれだ。悠理が後悔することなんて何もない」
「でも……」
なおも言いかけた私を、強い眼差しで拓馬は強制的に黙らせた。
それからまた、ご飯を食べ始める。
私は押し黙り、箸を進めるしかなくなってしまった。
「このドレッシングって市販のやつ?」
不意をつくタイミングで、拓馬が薄く切った玉ねぎとサーモンをまとめて箸で摘まみ、聞いてきた。
「え。ううん。手作り。オリーブオイルとレモン汁と醤油と、酢と塩こしょうも少し入れて……」
「ふうん。市販のやつより美味いな」
拓馬は微笑んだ。
「…………」
じんわりと目の奥が熱くなる。
ずるい、と思う。
拓馬はいつもそうやって、大したことじゃないって笑い飛ばして、私の苦悩を魔法のように和らげてしまう。
大したことなのに。
何も悪いことをしていないのに殴られて、痛かったはずなのに。
「……なんであそこまでしてくれたの」
私は目線を落とし、左手に持ったわかめスープを見つめながら尋ねた。
いま拓馬の顔を見たら泣いてしまいそうだった。
いくらクラスメイトのためで、アパートの隣人から頼まれたからといって、あの献身はそうそうできることじゃない。
「決まってんじゃん。そうさせたのはお前だよ」
テレビもつけていないので部屋は静かだ。
大通りで車が走る音が聞こえる。誰かの話し声も。笑い声も。
けれど、もちろん、私の耳にもっともよく聞こえるのは、真正面にいる拓馬の声だ。
彼の低く透き通った、前世から大好きだった声だ。
前世の私は日々の仕事で心身ともに疲れ切っていたから、イヤホンをつけてオートで会話を流しながら、そのまま眠ってしまうこともよくあった。
子守歌のように彼の声を聞いていた。
「私?」
「ああ」
私のせいだと糾弾するには、拓馬の眼差しはあまりにもまっすぐで、敵意も悪意も見当たらなかった。
「親友がストーカーされて困ってるって知ったとき、真っ先におれに『彼氏のフリをしてくれ』って頼んだだろ。隣に幸太もいたのにさ。幸太のことなんか目に入ってないって感じで――頼れるのはおれしかいないって感じで」
全くその通りだ。
あのとき私は彼以外の人に頼ることなど思いつきもしなかった。
誰よりも先に、拓馬の顔が思い浮かんだ。
「真剣そのものの目で見つめられて、安心して任せられるのはおれしかいない、なんて言われたらさ。張り切るだろ。やっぱ。できる限りのことはしてやりたいと思うじゃん」
左頬を人差し指で掻いて、拓馬は目を逸らした。
「お前に頼りにされるのは、まあ……悪い気はしねえし」
「………………」
「だからって調子乗っていっつも頼ろうとか思うなよ? あくまで今回は特別だからな。おれだってこれ以上痛い思いをするのは勘弁だ。身の周りのことは極力自分で解決しろよ」
照れ隠しのように、拓馬は早口でまくし立てた。
「……自分じゃ解決できないときは頼っていいの?」
天井を見上げ、溢れそうになった涙を堪え、笑みを作る。
「仕方ないからな」
拓馬が頷いて、グラタンにスプーンを入れる。
少しの沈黙。
「……今日はデザートに桃もあるよ」
顔を伏せたまま言う。
「マジか。やった」
「ふふ」
私は指で目を拭い、幸福な気持ちで温かいオムライスを口に運んだ。
「あの、皆さん、この度は本当にありがとうございました!」
「いいってば。謝罪も感謝も。もう何回も聞いたよ」
「耳にタコができそうだよね」
「そ、そうですか……でも。うう」
「中村さん、これから『ありがとう』も『ごめんなさい』も禁止ねー言ったら罰金」
「ええっ!?」
「あはは。さ、由香ちゃん、グラス持って」
「う、うん」
「それじゃー夏休み突入と拓馬の全治を祝ってー」
『かんぱーい!』
幸太くんの乾杯の音頭に合わせ、皆でグラスをぶつけ合う。
日曜日、私は有栖先輩のマンションにいた。
いつものメンバーに加えて、今日はなんと由香ちゃんもいる。
由香ちゃんは私の隣に座り、緊張しきった様子でグラスに入ったオレンジジュースを飲んでいる。
それぞれの席の前にはチョコレートのパウンドケーキが用意されていた。
このケーキを作ったのは陸先輩だ。
彼がお菓子作りの名人で、お茶会で提供されるお菓子が全て彼のお手製であることは『カラフルラバーズ』で知っていたけれど、正直、いまでも信じがたい。
無口な彼がエプロンつけて、いそいそお菓子を作ってる姿なんて想像つかない。
難易度の高いシュークリームだってお手の物だし。
もし陸先輩のルートに入っていたら、彼とお菓子を作るイベントが起きたりしたんだろうなぁ。
「……ねえ悠理ちゃん。私、本当にここにいていいのかなぁ……メンバーも場所も豪華すぎて、ここにいるのが申し訳ないんだけど……」
これだけの面積があるというのに、しっかりクーラーの効いた涼しいリビング。
その高級ソファに座り、由香ちゃんは不安そうだ。
「わかるわかる。まさに藤美野のイケメン大集合だもんね」
テーブルを囲っているメンバー全員が眩しいくらいのイケメン。
私もこの環境に慣れるまで時間がかかった。
花瓶にはいつも季節の花が活けられているし。
今日飾られているのは向日葵と白いカラーだ。
「でも、いいに決まってるよ。主催者の有栖先輩直々に招待されたんだから、胸を張って」
「そうだよ、中村さん」
聞いていたらしく、有栖先輩に微笑まれ、由香ちゃんはびくっと身体を跳ねさせた。
「あ、ありがとうございます……」
テーブルにグラスを置いて、由香ちゃんが頭を下げる。
「……どうも中村さんは過剰に僕を恐れてる節があるよね? そんなに怖かったかな? あれでも随分抑えたつもりなんだけど」
有栖先輩が微苦笑する。
あれで抑えた?
しかも『随分』……?
彼の本当の一人称が『俺』だってことは知ってるけど、本気で怒ったらどうなっていたんだろう。
いや、考えるのは止めよう。止めるべきだと本能が言っている。
わざわざ藪をつつく真似はすまい。
この分だと出てくるのは蛇じゃなくて人喰い虎だ。
君子危うきに近寄らず!
「怖がらせちゃったね、ごめんね」
「そんな! 誤解です! 私、白石先輩には本当に感謝してますし、尊敬してます!」
由香ちゃんは大きくかぶりを振り、何やら妙に熱っぽい目で有栖先輩を見つめ、手を組んだ。
もしかして由香ちゃん、有栖先輩に惚れたのかな?
あれから井田先輩が由香ちゃんの前に現れることはない。
一度だけ有栖先輩と井田先輩が学校内で鉢合わせしたことがあるそうだけれど、井田先輩は顔を真っ青にして背筋をぴんと伸ばし、「おはようございます!」と最敬礼したそうだ。
話を聞く限り、もう二度と馬鹿な真似はしないだろう。
「いえ、確かに怖かったんですけれど……正直に言うと、あのとき私、先輩に見惚れてしまったんです。井田先輩をこれ以上ないほどの冷たい目で蔑み、見下した姿。痺れました……」
由香ちゃんは頬をほんのり赤らめ、視線を落とし、ほうっと熱い息を吐いた。
……あれ? なんかちょっと雲行きが怪しくない?
やり取りを見ていた拓馬と幸太くんの表情も微妙なものへと変わっている。
「僕を敵に回す覚悟があるんだねっていう台詞、最高に格好良かったです」
握り拳を顎に当て、恥じらう由香ちゃん。
傍から見れば完全に恋する乙女だ……乙女だけれど。
「私も一度でいいから言われてみたい、氷のような眼差しで冷たく見下されたい、なんて思うのは気の迷いでしょうか――」
「気の迷いだよ気の迷い!」
「そうだ、ちょっと落ち着こうぜ中村さん! 有栖先輩に調教されたら戻れなくなるぞ!? 嬉々として自ら奴隷を名乗るようになっちまう!」
拓馬たちが慌てふためき、口々に叫ぶ。
「え、そんな人がいたの?」
「人じゃない。人たちだ。オレが知ってるだけでも二十人はいる」
苦悩の皺を眉間に刻み、重々しく頷く幸太くん。
「二十人もっ!?」
「うん。ある男は彼女を取られたから」
「ちなみに先輩が直接何かしたわけじゃなく、勝手に女が先輩に惚れて心変わりしただけ」
横から拓馬が説明を挟む。
「ある男は成績で勝てないから。ある男はその絶大な人気に嫉妬したから。動機は様々だけど、徒党を組んで有栖先輩を襲撃しようとした奴らは陸先輩に返り討ちにされた。そして洗脳されたんだよ……いまでも彼らは有栖先輩の奴隷だ……きっと死ぬまでな……」
沈痛な面持ちで、幸太くんが首を振る。
「これ以上犠牲者を増やすわけにはいかない! なんとしてでも中村さんの目を覚まさせるんだ、ののっち! 親友を救えるのは君しかいない!!」
幸太くんは舞台役者のように、大げさな動作で私を手のひらで示した。
「責任は重大ね……!!」
私は拳を強く握り、真顔で顎を引いてから、改めて由香ちゃんに向き直った。
「ストーカーによる過度のストレスでおかしくなっちゃったのね由香ちゃん! しっかりして! 有栖先輩の危険な魅力に惹かれてはダメ! それは毒よ! 魅入ったが最後、二度と引き返せなくなるわ! お願い、目を覚まして!!」
ありったけの思いを込めて親友の肩を掴み、激しく揺さぶる行為には確かな効果があったらしく、
「……はっ。私は何を?」
由香ちゃんは夢から覚めたように瞬きした。
「正気に戻ったのね!?」
「うん。ごめんね、心配かけて。もう大丈夫」
「ああ、良かった……戻ってきたわ!」
「どうやらこれ以上の奴隷の増殖は防げたようだな」
「ふう」
私が胸を押さえ、拓馬が頷き、幸太くんが額の汗を拭う真似をしていると、ことん、という音がした。
騒動を華麗に無視し、マイペースにオレンジジュースを飲んでいた有栖先輩がテーブルにグラスを置いた音だった。
グラスの中身は既に空だ。
「ねえ陸、オレンジ飽きた。コーヒー持ってきて」
陸先輩が無言で立ち上がり、台所へ向かっていく。
その背中には哀愁が漂っているような気がした。
我儘王子の相手は疲れる、とでも言いたげな。
その背中を見つめて私は思った。
有栖先輩って、あらゆる意味で怖いな、と。
けれど何より怖いのは。
親友が有栖先輩を見つめる眼差しに、新しい扉への未練がまだあるような気がすることだった。
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