10:魚の釣り方を教えたい
大葉と大根おろしの上にピンクの梅肉を添えたハンバーグ。
付け合わせはいまが旬のさやいんげんとベビーコーン、人参のグラッセ。
他にはひじきとオクラの和え物、味噌汁、卵焼き。
あとオプションとして沢庵と納豆も用意しました。
さあ果たして反応はどうだっ!?
私は拓馬とリビングのラグマットに座り、ハンバーグを一口食べた彼の表情の変化を固唾を飲んで見守っていた。
拓馬を招くために、リビングは徹底的に掃除し、大福の住居である衣装ケースはクローゼットの中に隠した。
異性を部屋に招くなんて、お父さんを除けば初めて。
拓馬が私の生活空間にいて、同じテーブルを囲んでいるなんて不思議だ。
しかも彼は私の手料理を食べている。
切って漬ければ終わりのレモンの蜂蜜漬けじゃなく、私が手ずから揉んでこねて成形して焼いたハンバーグ。
これを手料理と呼ばずに何という。
「……ど、どう?」
拓馬が飲み下すまで表情を一切変えないので、私は不安に駆られ、恐る恐る尋ねた。
それを待っていたかのように、拓馬は美しい顔をくしゃっと崩した。
「美味しい」
とびきりの笑顔は私の脳天を直撃した。
私だけに向けられた笑顔だと思うと堪らない。
これまでの頑張りが報われた。
身体中で喜びが弾け、「やったー!!」と山に向かって叫びたい気分である。
「凄いな、お前天才じゃねえの? おれこういうさっぱりした味付け好き。ハンバーグも噛むたびに肉汁が蕩けてめちゃくちゃ美味い」
「へっへっへー。そうでしょーそうでしょー」
私はでへへと笑った。
我ながら気持ち悪い笑い方をしてるなと思うけど、それくらい嬉しいんです。
隠し味に愛情込めたもんね!
「実はこのハンバーグ、半分が豆腐でできてるんだよー」
「え、マジで?」
「ふふふ。豆腐を使うことでカロリーは控えめ、栄養もアップ、さらにお財布にも優しいんですよ。ついでにたくさんちびハンバーグ作っといたから、お弁当に入れるね」
「ああ。楽しみにしてる。これも美味しいな」
拓馬が摘まんだのはひじきとオクラの和え物。
「それは凄く簡単だよ。ひじきとオクラを醤油と梅干で和えただけ。ひじきは食物繊維やカルシウムが豊富だし、オクラは腸の働きを整えるペクチンとか、ビタミンA、ミネラルもたっぷりだよ」
私は卵焼きを箸で切り裂いて、口の中に入れた。
「ふうん。なんか色々考えてくれてんだな」
「拓馬の食生活を支えると決めた以上は栄養バランスだって考えるよ。献立にはできるだけ旬の野菜を取り入れていきたいと思ってる。ずっと元気でいてほしいしね」
それは何の気なしの発言だったのだけれど、拓馬は何か感じたのか、私の顔をじっと見た。
「……何か?」
卵焼きを飲み下し、私は首を傾げた。
「お前ってさ」
「ん?」
「……何でもない」
拓馬は言いかけた台詞を飲み込んで、自分の分の卵焼きを一口食べた。
「卵焼きは味付けしてないんだな」
「うん。他のメニューが濃い目だったからいいかなって……味付けたほうが良かった?」
「いや」
「そう。味付けするとしたら何味がいい?」
「んー? 何でもいいけど。甘いやつ?」
「砂糖入りね。了解。甘いものは苦手なのに、卵焼きは甘めが好きなんだね?」
ハンバーグを箸で切り裂いていると、大福が視界の端に現れた。
ケースの中でおとなしくしているのは退屈になったらしく、私の傍でうずくまり、小さな耳を立てて会話を聞いている。
「母さんが作るのが甘めだったから。弁当に入ってるやつも甘かったし」
「ああ。砂糖が入れてあると腐りにくいから、お弁当向きなんだよ」
「へー、そうなんだ。知らなかった」
それきり会話が途切れ、二人で黙々と箸を動かす。
静かになるとやっぱり緊張してしまう。
自分の部屋で好きな人と二人きり。非日常の極みだ。
私はしばし、言葉を忘れて拓馬の姿を観察した。
部屋の照明を浴びて煌めく髪、扇型を描く睫毛、料理を見つめる瞳、茶碗を持つ左手、箸を動かす右手。
拓馬は丈が長めの白いTシャツの上から青いプルオーバーシャツを着て、黒のスキニーを履いていた。
プルオーバーシャツの裾から覗く白シャツがお洒落だ。
こんなに美形なら、街を出歩いててスカウトとかされないんだろうか。
私がスカウトマンなら絶対声をかけるわ。
あ、でも、拓馬が芸能人になったら嫌だな。
会える回数減るじゃない。
ファンの子が殺到したりして、このアパートから出ていくことになるかも。転校の可能性もあるな。
うん、絶対やだ。一般人のままでいて欲しい。
「何見てんの?」
空になった皿を見ていたはずの目が、急に動いて私を捉え、心臓が飛び上がった。
「へっ。あーその、ええと」
頑張れ頭、話題を捻り出せ!
「……拓馬に美味しいって言ってもらえるのは嬉しいし、作るのは全然構わないんだけどさ。拓馬自身が料理できるようになったほうがいいよね。昔の偉い人も言ってたじゃない。魚を与えるんじゃなくて、釣り方を教えなさいって。そのほうがずっと、その人にとっては有益だって」
「おい、何言い出すんだよ悠理。拓馬が料理できるようになったら、後々乃亜が困るじゃないか。拓馬が料理できないからこそ、乃亜は拓馬に手料理を振る舞い、絆を深めていくんだぞ。勝手に拓馬の特性を変えようとするな。未来がめちゃくちゃになる!」
大福が床で抗議しているけれど聞こえないふり。
拓馬に大福は見えないし、その声も聞こえない。
ここで私が会話を始めたら頭のおかしい人認定されてしまう。
「お前、おれがまともに米すら炊けないこと知ってて言ってるのか……? きっちり分量を量っても、白いスライム状の何かが出来上がるんだぞ?」
よっぽど嫌らしく、拓馬は箸を置いて非難の目で見てきた。
空気が重い。
それほど拓馬にとって料理はトラウマなのだろう。
無理もない。拓馬はみそ汁を作ろうとして鍋を爆発させる人だ。
もはや料理下手というレベルを超えている。
「拓馬の絶望的な料理スキルはわかってるつもりだよ。でも、それでもどうにかしなきゃ。ううん、どうにかするべきだよ。協力するから頑張ろうよ。たとえ台所が大爆発を起こして修繕費が嵩み、退去時の敷金が返ってくるどころかマイナスになっても私がなんとかする。両親に土下座してでも借金して、将来働いて返すから」
「……なんでそんなリスクを背負ってまでおれに料理をさせようとするんだ?」
「それが拓馬のためになるって確信してるからだよ」
拓馬の分まで料理を作るのは全く苦じゃない。
むしろ役に立てると思えて嬉しいし、食事の度に拓馬と交流できる。
こうして拓馬を部屋に招き、美味しいと喜ぶ顔を間近で見ることができる。
叶うなら、ずっと私が料理を作ってあげたい。
でも、拓馬のためを考えたら、それじゃダメなんだ。
「料理はできないよりもできたほうが良いでしょう? 誰かがこの先一生拓馬の世話を焼いてくれるなんて保証はどこにもないんだよ? いまは私がいるからいいよ。でも、私がいなくなったら困るでしょう? 私も、このままじゃもし将来拓馬が一人になったとき大丈夫かなって心配しなきゃいけなくなる」
拓馬は無言。
大福も同じだ。真っ黒な目で私を見上げている。
私は食べかけの料理を残して立ち上がり、拓馬の傍に座って右手を掴んだ。
拓馬がびっくりした顔で私を見る。
この右手はつい昨日、私の手を引いた手だ。
私はこの手に引かれて真っ白なゴールテープを切った。
夢のような記憶を、一つ一つ、ちゃんと覚えている。
「私、体育祭が大嫌いだったんだ。昨日も皆の前で恥を晒すだけ、絶対一位なんてなれないと悲観してたけど、拓馬が奇跡を起こしてくれた。私にゴールテープを切らせてくれたし、リレーでは私が落とした順位を元に戻してくれた。拓馬は嫌な思い出しかなかった体育祭の記憶を塗り替えてくれたの。だから今度は私の番。私は拓馬が料理できるようにしてみせる。必ず」
私は押し黙っている拓馬を見つめ、握る手に力を込めた。
「いますぐ上手になれなんて言わないよ。まずは簡単なアシスタントをやってもらうから。時間はたっぷりあるもの。焦らなくていいから、ちょっとずつ、一緒に頑張ろう」
拓馬の不安を払拭するように、にっこり笑う。
拓馬は眉間に皺を刻み、深く悩んでいたようだけれど、やがて、嘆息した。
「……わかった。無理だと思うけど、やれるだけやってみる」
「うん! 約束ね!」
私がぱっと表情を明るくすると、拓馬は苦笑した。
「ああ、約束するから席に戻れ。せっかくの料理が冷めるだろ」
作ってもらったんだからこれはおれの仕事だと言って、律儀に二人分の皿洗いをしてから、拓馬は自分の部屋へと戻って行った。
拓馬が帰った後も大福はぶうぶう文句を言っていたけれど、その全てを聞き流し、私は入浴を済ませてパジャマに着替え、リビングのテーブルに日記帳を置き、座った。
「何だこれは」
テーブルの上にワープしてきた大福が鼻をひくひくさせながら真新しい日記帳の匂いを嗅ぐ。
「日記帳だよ」
私は日記帳を撫でた。表紙には不思議の国のアリスをモチーフにしたメルヘンチックなイラストが描かれている。
「最近良いことばっかりだから、忘れないように日記でも書こうと思って。昨日は体育祭で一位を獲れたし、今日は『有栖のお茶会』に参加できた上に拓馬が手料理を食べてくれた。拓馬は甘い卵焼きが好きだってこともちゃんと書いておかないとね。出したもの全部食べてくれて嬉しかったなー明日のメニューはスパゲッティとかにしてみようかな。あーでもスパゲッティって付け合わせに悩むな。スパゲッティオンリーじゃ食べ盛りの男子高校生の胃袋は満たされないよね。から揚げとかコロッケがいいかな? それとも……」
「……楽しそうだな」
顎に手を当て、ぶつぶつ呟いていると、大福が言った。
「楽しいよ。何作れば喜ぶかなってわくわくする」
筆箱からシャープペンを取り出してノックする。
「それなら無理に拓馬に手伝わせなくたって……」
「ねえ大福」
台詞を遮って、私は大福に顔を向けた。
「拓馬も料理できるようになったほうがいいって私が言い出したとき、焦ってたよね? そんなことしても無駄だって言わなかったよね? ってことは、努力すれば拓馬は料理できるようになるってことだよね?」
大福はぴたと固まった。
「その反応で十分だよ、ありがと」
とどのつまり、拓馬が料理下手なのは乃亜のためというわけだ。
「ごめん。乃亜には悪いけど、私、拓馬に料理できるようになってもらうから。拓馬が料理上手だったら乃亜が手助けする余地がなくなって困るかもしれないけど、でもそれは乃亜の都合でしょ? 私には拓馬が自立するほうがずっと大事」
「……。お前は本当に拓馬のことが好きなんだな」
日記帳の日付を書いていると、耳に大福の言葉が滑り込んできて、危うくシャープペンを取り落としそうになった。
「え、いやーそれは……」
私は沈黙した後、開き直ってきっぱり言った。
照れることなく、堂々と。
「好きよ」
「いやそんな胸張って断言されても困るんだけど……まあいいや。気の済むようにしろ」
大福はテーブルにぺたんと突っ伏した。耳まで垂れている。
どうしよう、撫で回したい。
なんだこの可愛いふわふわな生き物。
テーブルに腹ばいになったその姿は、まさに大福そのものである。
「ただし拓馬の料理音痴を直すのはお前の想像以上に大変だろうから覚悟しとけよ」
「うん、頑張る」
大福を撫で回したいとうずく指先をどうにか理性で押さえつけ、私は日記帳にシャープペンを走らせた。
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