05:レモンの蜂蜜漬け
体育祭。
それは自他共に認める運動音痴の私にとって、五月末に行われた中間テストよりもよほど恐ろしく、忌むべき行事である。
私は前日にてるてる坊主を10個も作り、逆さまにして窓辺に吊るし、ついでにネットで見つけた雨乞いのダンスなるものを一心不乱に踊り、大福に「うわあ……」という顔で見られた。
そんな努力も虚しく、六月上旬の体育祭当日はいっそ清々しいほどの快晴だった。
テレビでもネットでも梅雨入りしたって言ってたのに、誤情報なんじゃなかろうか。
私は窓の外に広がる青空を呪った後、プラスチックの衣装ケースの中の巣箱で頭を掻いていた大福に「神さまの使いなら天候くらい操れない?」と猫なで声で聞いてみたけれど、「そんな力なんてないし、個人の感情でほいほい天気を変えられてたまるか馬鹿」と一喝された。
ハムスターに怒られた私はいよいよ観念し、いつもよりずっと早めにアパートを出た。
というのも、私は体育祭実行委員なので他のメンバーたちと準備をしなきゃいけないのだ。
なんで体育祭実行委員になったかといえば、ひとえに「体育祭実行委員は体育祭準備と当日の進行役をしなければならないため、出場する競技が少なくて済む」というメリットによる。
それと、体育祭実行委員決めの際に吉住さんから「運動能力ゼロの足手まといは、せめてサポート面でクラスの役に立ったらどう?」という嫌味を浴びせられたから。
拓馬の怪我が完治した後も、彼女は事あるごとにネチネチ言ってくる。
拓馬に怒られることを危惧してか、虐めというほど大げさなものじゃないけれど、私は彼女たちのグループから嫌われていた。
「俺より親が張り切っちゃってさあ。弁当が豪華版になったよ」
設営が終わり、私はグラウンドの一角に設けられている一組の応援席に座っていた。
時間が早いので、一組の生徒は同じ体育祭実行委員の田中くん以外、まだ誰も登校していない。
「いいなあ。お弁当は一番の楽しみだもんねえ」
田中くんと雑談しながら、ふと拓馬のことを考える。
体育祭という特別なイベントの日でも、彼は味気ないコンビニ弁当なんだろうか。
実は私のお弁当は特別仕様にしていて、拓馬が摘まんでも大丈夫なように量も多めにし、疲労回復効果のあるレモンの蜂蜜漬けまで作って来た。
手料理が大嫌いな彼のことだから、食べてはくれないと思うけど……一応、何があってもいいように準備はしておきました。
「野々原は一人暮らしだっけ。今日の弁当は体育祭仕様?」
「うん、から揚げ二個も入れちゃった。あとだし巻き卵とーウィンナーとーミニトマトとーアスパラのベーコン巻きとーポテトサラダとーかぼちゃの胡麻和えとー鮭とー」
他愛ない話をしている間に、生徒たちが次々グラウンドに集まって来た。
和気藹々と喋っているクラスメイトたちの様子を見る限り、士気はそこまで低くないようだ。
藤美野学園の体育祭はクラス別対抗。
総合一位に輝いたクラスにはトロフィーと共に学食&購買の割引券が与えられる。
でも、うちのクラスに「絶対一位になろう!」という気概と団結力はない。
他のクラス同様、程々に、それなりに楽しめればいいやという考えの人が大半を占めている。
「よう緑地、黒瀬。今日は期待してるぜー」
そんな声が聞こえて、私は右手を見た。
緑地くんと拓馬が歩いてくる。
緑地くんは気合十分らしく、頭に水色の鉢巻きを巻いていた。
「おう、任せとけ。体調もばっちりだし、二組の加藤だって抜いてみせるぜ」
白い歯を覗かせて、快活に緑地くんが笑う。
拓馬も緑地くんも運動神経がいい。
特に緑地くんは中学の体育祭の選抜リレーでアンカーを任され、バトンを渡されたときは最下位だったにも関わらず、他の選手をごぼう抜きにして一位を取り、胴上げされたことがあるそうだ。
素直に尊敬する。
前世から現世に至るまで、私は運動能力を試されるあらゆる種目において一位を取ったことがない。
最高記録は小学校での障害物競走での三位。
私の成績はほぼビリなので、三位で十分に快挙である。
一位かぁ。
白いゴールテープを切るのって、さぞかし爽快なんだろうな。
人生で一度だけでもその爽快感を味わってみたいけれど、自分の絶望的な運動能力を鑑みれば、それが夢物語であることくらいわかっていた。
エール交換、100メートル走、綱引き、騎馬戦、1500メートル走。
汗水流して走り、奮闘する生徒たちを見ていると、目立たない裏方で本当に良かったと思う。
「次は障害物競争だから、あなたはハードルを既定の場所に並べていって」
「はい」
私は他のメンバーと共に、せっせとコースにハードルを並べて行った。
額の汗を拭いつつ、一組の応援席を見れば、拓馬が吉住さんたちから話しかけられていた。
連続出場を労われているのだろう。
拓馬は運動神経が良いために、半ば強制的にほとんどの競技に出場させられている。
拓馬は吉住さんたちと何か話した後、席を立って校舎に向かった。
トイレかな。
いや、そう見せかけて、こっそりどこかで休憩するのかも。
「そこ、準備できたなら早くコースから出て! 進行が遅れるでしょう!」
「すみません!」
艶やかな黒髪をポニーテールにした美人の上級生から叱責を受け、私は急いでコースを出て、拓馬を探した。
校舎のあちこちを見て回り、三階の教室で足を止める。
「黒瀬くん」
頭の鉢巻きを外し、自分の席でぼうっとしていた拓馬が呼びかけに応じてこちらを向く。
がらんとした教室と、体操着にジャージ姿の拓馬はなんだかアンバランスだ。
教室で体操着姿で過ごすことなんてないもんね。
「何でここに。仕事は終わったの」
「うん。障害物競走の後片付けは他の子の仕事だから。昼休憩が終わるまでは自由だよ」
「ふうん」
拓馬は気のない返事を寄越し、また窓の外を見た。
酷く疲れているようだ。無理もない。
1500メートルも走れば誰だって疲れるだろう。
数カ月、まともな食生活を送っていないならなおさらだ。
そのとき、視界の端で何か、白いものが動いた。
反射的にそちらを見れば、開いたままの扉の陰から、一匹のハムスターがこちらを見ている。
私の監視役を自称している大福は神出鬼没だ。
他人にその姿は見えず、意思疎通ができるのは私だけ。
摩訶不思議な存在だけど、でも、悪いハムスターではなさそうだというのが私の判断。
アパートではテレビの感想を言い合ったり、学校の愚痴を聞いてもらったり、新作の料理の感想を貰ったりしてるしね。
いつの間にかそこにいる不気味さはなんとかしてほしいけれど、害はないんだから放っておこう。
それが彼の使命だというなら文句を言ったところで仕方ない。
要は慣れだ、慣れ。
「……あ、あのさ」
私は大福を無視し、頭の鉢巻きを外して短パンのポケットに入れながら言った。
「何」
返事はしてくれたものの、拓馬はこちらを見ない。
態度で私を拒絶している。
グラウンドからひときわ大きな歓声が聞こえた。
応援する声、笑い声。
本来私たちもその場にいなければならないけれど、私は引き続き拓馬と二人だけの教室にいることを選択した。
「レモンの蜂蜜漬け作ったんだけど、食べない?」
私は鞄を漁り、小さなタッパーを取り出して、拓馬の前まで運んだ。
ぱこっと音を立ててタッパーの蓋を開けると、たちまち蜂蜜とレモンの香りが広がった。
「………………」
拓馬は地球を侵略しに来た宇宙人でも見るような目で私を見た。
あ、この反応はやばいかも。
「防腐剤とかは入ってないよ。国産でオーガニックの、皮ごと食べられるレモンだよ」
私は急いでプラスチックのフォークを手に取り、レモンを突き刺して口に運んだ。
これ見よがしに咀嚼し、毒は入ってませんアピールをする。
「………………」
拓馬はじっと私の目を見つめ、私は目を逸らさない。
ややあって、拓馬は視線を落とし、黄金色の液体を纏ったレモンを見た。
拓馬はレモンを見つめたまま動かない。
食べるか止めるか葛藤しているようだ。
迷うならばまだ望みがある。
「はい」
私はもう一つ用意していたフォークにレモンを突き刺し、拓馬の手を掴んで握らせた。
怒って突き返されるのも覚悟の上だったけれど、拓馬は唇を引き結んでいる。
祈るような心地で待つ。
やがて、拓馬は爆弾でも扱うような慎重さでフォークを引き寄せ、口を開き――食べた!
「…………」
私は固唾を飲んで経過を見守った。
過去のトラウマを思えば拓馬が顔色を変えて吐き出してもおかしくないのに、私は強引に無理を押し通した。
たとえこの先どうなっても責任を取らなければならない。
「…………どう?」
拓馬が嚥下するのを見届けてから、恐る恐る尋ねる。
「……。美味しい」
「本当っ!? やったぁ!」
私は手を叩いて大喜び。
やった、私はついに拓馬に手料理を食べてもらうことに成功した……!!
いやまあ、手料理って言って良いのか微妙なラインだけど。
この日のために数週間前から作っていたとはいえ、瓶に切ったレモンを入れて蜂蜜に浸しただけだし。
蜂蜜が馴染むように適度にひっくり返してきたけど、そんなの手間とは言えないよね?
「……大げさじゃね?」
両手を握り締め、天井を仰いで涙している私を見上げ、拓馬が呆れたような声を出す。
「大げさじゃないよ! 私、拓馬がリバースしても責任取って掃除しようと思ってたもん!」
「意地とプライドにかけてリバースなんてしてたまるか。てか、拓馬って。何さらっと呼び捨てにしてんだよ」
「あっ!」
私は口を覆った。
冷や汗が流れる。
けれど、時間を巻き戻せはしないのだ。誰にだって。
「ご、ごめん、つい」
「つい? 表向きは『黒瀬くん』なんて言いながら、ずっと心の中では呼び捨てにしてたってこと?」
拓馬は頬杖をついて、目を細めた。
「あああああ。いやそれはあの、…………。……ごめんなさい」
上手な言い訳が思い浮かばず、私は腰を曲げて頭を下げた。
拓馬が鼻を鳴らし、頬杖を解く。
「別にいいけど。一方的に呼び捨てにされるってのもなんか癪だし、これからはおれも悠理って呼ぶからな」
「…………へ」
私は目をぱちくりさせた。
「なんだよ」
「いや、私の名前、覚えててくれたんだなーって。感動したというか」
「覚えてるだろ。お前の友達の名前は知らないけど。そういえば吉住の下の名前も知らねえな。考えてみれば女子で下の名前知ってるのってお前だけだな」
拓馬がタッパーに目を落とし、なんでもないことのように言う。
「……そうなんだ」
平静を装って相槌を打ちながらも、内心では頭を抱えて悶絶していた。
私だけとか止めてくれ! 喜ぶから!!
「なあ、これ、全部食べていいの」
「え、ああ、もちろんどうぞ。元々あなたのために作ったものですから。家にまだ残りがあるし、遠慮しなくていいよ」
「……ふーん」
拓馬が二つ目のレモンを食べ始めたのを確認して、大福に視線を走らせる。
邪魔しに来るんじゃないかと思ったけれど、大福はただおとなしくそこにいた。
つぶらな黒い目で私を見返した大福は、ふっと姿を消した。
好きにしろ、ということだろうか。
モブが何をしたってどうせ無駄だから、邪魔をする意味もない、とか?
「気に入ったの?」
不安を押し込めて、私は拓馬の前の席の椅子を拝借し、座った。
「うん。炭酸水とか入れたら美味しそう」
「ああ、炭酸水で割ったらレモンスカッシュになるよ。作ったら飲む?」
「うん」
「じゃあ今度、作って持っていくね」
「…………た」
拓馬は半端な一音を発したきり、急に顔を背けてしまった。
「た?」
私は首を傾げた。
腰を浮かせて覗き込めば、拓馬は額を片手で覆い、言うんじゃなかったっていう顔をしている。
心なしか頬が赤くなっているような。
一体どういうことだろう。
『た』の続きは何だろう。
何が言いたかったんだろう。
「ねえ。何て言いかけたの?」
どうしても気になって、私は追及した。
「……楽しみにしてる」
拓馬は額を覆ったまま、小さな声でそう言った。
視線も上げず、照れくさそうに。
そして、恥ずかしさに耐えられなくなったらしく、机に突っ伏した。
「………………」
この反応は反則だ。
私の頬の温度までつられたように上昇し、頰が緩むのを止められない。
「明日にでも持ってくね」
にこにこしながら言う。
「……ああ」
消え入りそうな声が返ってくる。
グラウンドでまた、大きな歓声が上がった。
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