04:神の使いを名乗るのは
話したいことがある。
思い詰めたような表情の由香ちゃんからそう言われて、私は放課後、学校近くの喫茶店『レインボウ』にいた。
「ごめんね、悠理ちゃん。体育の授業の後のこと。私、悠理ちゃんが吉住さんたちに責められてるのをただ黙って見てるだけで、何もできなくて。こんなんじゃ友達失格だよね」
外が雨ということも手伝ってか、満員御礼状態の店内の一角。
髪を紺色のゴムでお下げにした由香ちゃんは、雨粒が流れる大きな窓を背に、悄然とした様子で真摯に頭を下げた。
「いやいや、なんで由香ちゃんが謝るの。吉住さんたちの剣幕は私でも怖かったもん、何もできなくて当然だよ。あそこで出てきたら、何も悪いことしてない由香ちゃんまで攻撃されてたよ。由香ちゃんの対応は間違ってなんかないよ、謝る必要なんてないない」
私はコーヒーの入ったカップを前に、台詞に合わせて二度手を振った。
由香ちゃんは小柄で、ウサギみたいに可憐な子だ。
温和でおとなしい彼女が気の強い吉住さんたちグループに歯向かうなんてできるわけがない。
吉住さんに睨まれただけで泣いてしまいかねない。
「本当に気にしないで、ね? 私のことを心配してくれただけで十分嬉しいよ、ありがとう。だから顔を上げて、お願い」
「……でも、私、悔しい。友達が困ってるのに、助けられなかった自分が情けない」
由香ちゃんは俯いたまま、きゅっと唇を噛んだ。
「由香ちゃん……」
私がどれだけ言葉を重ねても、由香ちゃんは決して納得しないだろう。
彼女を責め苛んでいるのは彼女自身なのだから。
どうしたものか悩んでいると、由香ちゃんが不意に顔を上げた。
「……もし次に同じようなことがあれば、今度はちゃんと勇気を出すよ。友達の力になれるような、強い自分になってみせる」
一大決心を告げるように、由香ちゃんは大真面目な顔で言った。
「……ありがとう。心強いよ」
由香ちゃんの想いが伝わってきて、胸の中が温かくなる。
蝋燭の火を灯したような、ほっとする温かさ。
「まあでも、次なんてないほうがいいけどね」
私はおどけたように笑った。
「うん、確かに。黒瀬くん、痛そうだったし」
「う……」
何気なく発したのであろう由香ちゃんの言葉は的確に私の心臓を抉った。
気絶したときの拓馬の姿が脳裏に浮かび、罪悪感が胸を締めあげる。
「あ、ごめん! そういうつもりじゃなくて、あの、ええと」
失言を悟ったらしく、由香ちゃんは青くなっておろおろした。
「ううん、由香ちゃんは事実を言っただけなんだから謝ることないよ……本当に黒瀬くんには悪いことしちゃった。もしこの後アパートで顔を合わせることがあれば、しつこいと怒られること覚悟で、もう一度謝っておくよ……」
「え、ええと、でもさ。黒瀬くん、凄かったよね!」
由香ちゃんは酷く焦りながら、早口で言った。
「吉住さんを正論で打ち負かして、皆の前で堂々と悠理ちゃんを庇った姿、本当に格好良かった。黒瀬くんのファンは多いから、これから悠理ちゃんがその子たちに虐められるんじゃないかって心配したけど、その心配は黒瀬くん自身が解消してくれた。私、見てて感動しちゃったよ。悠理ちゃん、黒瀬くんのこと好きになったんじゃない?」
「へっ?」
私が目を丸くすると、由香ちゃんは微笑んだ。
「だって、恋人にするみたいに肩を掴んで抱き寄せられたんだよ? 誰だって惚れちゃうよ、あんなことされたら」
「いやいや、そんなことないよ。びっくりしたし、思い返す度に心臓が爆発しそうだけど、惚れてはない! 誓って惚れてなんかないから!」
「でも、思い返す度に心臓が爆発しそうになってる時点で――」
「ないから! 違うから! 私はモブだから! 彼の運命の相手は別にいるから!」
私はテーブルに手をついて身を乗り出し、熱弁した。
「え? 何言ってるの、悠理ちゃん」
由香ちゃんは面食らったように目を瞬いた。
「あ……いや、その。ええと」
私は浮かせていた腰を椅子に落とし、視線を泳がせた。
由香ちゃんにとってこの世界は紛れもない現実だ。
別世界から転生してきた私にとっては乙女ゲームの世界だなんて言っても到底理解できないだろう。
由香ちゃんなら決して馬鹿にしたりせず、理解する努力はしてくれそうだけれど、彼女を混乱させるのは私の望みじゃない。
「どういうことなの? 黒瀬くんの運命の相手が別にいるって」
由香ちゃんは不思議そうに首を傾げている。
「いや、気にしないで。ただの戯言だと思って忘れて。疲れてるのかなー、私、あはは……あっそうだ、せっかくだし課題のプリント一緒にやろうよ!」
湿り気を帯びた風が私の髪を揺らす。
喫茶店で由香ちゃんと課題をこなしている間に雨は止み、木の枝葉から滴り落ちた水が地面の水たまりに波紋を作っていた。
分厚い雲が浮かぶ空の下、私は近所の小さな神社に立ち寄っていた。
立ち寄ったことに特に理由はない。
ただ、なんとなく気が向いた。
大きな欅が植えられた神社の境内に参拝客の姿はなかった。
ときおり風が通るだけで、しんと静まり返っている。
通りを歩く人の声と車を走る音が聞こえるばかり。
せっかく神社に来たのだからお参りくらいはしておくべきだろう。
私は鞄を肩にかけ直し、左手に持っていた傘を腕にかけた。
財布から五円玉を取り出して賽銭箱の中に入れ、手を合わせて目を閉じる。
「神さま、今日は良いことがありました。拓馬にとっては災難だったと思うんですけど、でも、そのおかげで色々話すことができたんです。その後は緑地くんともお喋りできたし。これは幸先が良いかもしれません。願わくば、拓馬たちとの縁がこれからもずっと続きますように。拓馬が私の手料理を食べてくれるようになりますように!」
周囲に誰もいないのをいいことに、私は声に出して神さまに語り掛け、祈った。
これはただの独り言、当然返事などあるわけがないと思っていたのに――
「いやいや、たとえ手料理を食べるようになったとしても、黒瀬拓馬がお前を好きになることなんてないからな? だってお前、しょせんモブだもん」
「…………は?」
私は唖然として謎の声の主を探した。
「はあ、全く、なんてことしてくれたんだよ。偶然とはいえ、力技で黒瀬拓馬の感情制限を外すとは思わなかったわ」
見回すまでもなく、声の主はすぐ目の前にいた。
いつの間にか賽銭箱の上に、一匹のハムスターが乗っている。
前世の私が孤独を埋めるために飼っていた白いジャンガリアンハムスター『きな子』そっくりだった。
10センチ程度の小さな身体。
くりっとしたつぶらな黒瞳。
けれど何より注目すべきは、その額に書いてある『神』という文字だろう。
お世辞にも上手な字ではない。
子どもに油性マジックで悪戯されたのだろうか。
「きな子っ!?」
「違う。オイラは神だ」
ハムスターは後ろ足で立ち、偉そうに言った。
「………………」
神と名乗るハムスターとの遭遇に、私は頬をつねった。
今度こそ夢オチだと思ったのに、やっぱり痛い。
『カラフルラバーズ』に喋る動物なんて出てこないはずなのに、一体どうなってるんだ……。
呆然としている私の気持ちなんてお構いなしに、ハムスターは喋り続けた。
「正確には神の使い。神が紡いだ運命の守り手、因果律の調整者だ」
「はあ?」
得意げにハムスターは顎を逸らしているけれど、全然わからない。
「野々原悠理。お前はそもそもこの世界の住人じゃないだろう」
「!?」
そのものずばりを言い当てられ、私はぎょっとしてハムスターを凝視した。
「何かの事故か、他の神の手違いでお前はこの世界に生まれてしまった。神はお前を警戒し、オイラに監視役を命じていたんだけど、今日とうとう恐れていたことが起きた。お前は黒瀬拓馬の顔面にボールをぶつけ、その衝撃で拓馬の感情制限を外しちまったんだ」
「感情制限って何? どういうこと?」
私はハムスターに詰め寄った。
目の前に立たれても動じることなく、ハムスターは私を見上げて答えた。
「黒瀬拓馬には一色乃亜という運命の相手がいる。拓馬には乃亜に出会うまで他の人間に心を奪われたりしないよう感情制限がかかってたんだ。わかりやすく言うと、どんな女子に対しても塩対応を貫くようになってたわけだな」
「ああーっ! じゃあいままで拓馬が冷たかったのは神さまのせいなの!?」
ボールをぶつける前と後じゃ、拓馬の態度が全然違った。
『悪かったな』って言われたときは、思わず耳を疑うほど驚いたもの!
「責められても困る。運命の相手であるヒロインとその他のモブじゃ扱いに明確な差があって当然だろ」
「でもそれって酷くない!? いくら神さまだろうと、感情を制限するなんて、拓馬の意思を完全に無視してる! 人権侵害だわ!」
「酷いと言われても。拓馬は乃亜と出会って恋に落ちる、それが神によって定められた運命なんだ。オイラは神の使いとして運命を守り、見届ける義務がある。障害は排除しなければならない」
つぶらな黒い瞳で見据えられて、私は後ずさった。
「排除って……私を殺すの? 私、神社でハムスターに殺された悲劇の美少女Yとして明日の朝の新聞の見出しを飾ることになるの?」
「美少女ってお前……そんな冗談が言えるとは、随分と余裕があるじゃないか」
「死ぬときくらいは多少盛っても許されると思うの」
「多少どころかメガ盛りだぞ」
呆れたように言って、ハムスターは前脚で頭を掻いた。
小憎らしい発言はともかく、仕草は大変愛らしい。
きな子を思い出してしんみりしてしまう。
きな子は私が死ぬ半年前に死んでしまったけれど、死後の世界で同じハムスターたちと楽しく暮らしているだろうか。
「ともあれ、心配することはないよ。排除ったって、殺人なんて野蛮なことはしない。記憶を消したり弄ったりするだけだ」
「十分怖いよ」
「それに何より」
ハムスターは私の突っ込みを黙殺した。
「いまのお前にそこまでする価値はない。お前と拓馬の間に結ばれた縁は乃亜に比べてずっと薄い。しょせんお前は乃亜が現れるまでの繋ぎ。この先どんなに頑張っても拓馬の恋人にはなれないよ。ほんのわずかにでも期待してるなら諦めたほうがいい」
その言葉は、まるで不吉な予言のようだった。
心の一番奥を冷たい手で鷲掴みにされたような錯覚に襲われた。
体温がすうっと下がる。
別に拓馬の恋人になりたいわけじゃない、ときっぱり言ってやろうとしたのに、初めて見た拓馬の笑顔や、私の肩を掴んだ手の感触を思い出すと、言葉が喉につっかえた。
どんなに頑張っても、それ以上出ようとしない。
私は喘ぐように口を開閉し、それでも声にはならず、諦めて別の言葉を口にした。
「……。わかってるよ」
拗ねたような言い方になってしまった。
「でもさ」
咳払いして、仕切り直す。
「乃亜の運命の相手って、拓馬で確定なの? 他にも可能性がある人がいるんじゃないの?」
攻略対象キャラは拓馬だけじゃなく、他にも四人いるはずだ。
緑地くんとか、二年の
一年後輩の
「そうだな。乃亜の運命の相手は五人いる。でも、誰と結ばれるかは乃亜次第だ」
乃亜は五人の美男子から気の向くままに運命の相手を選べるというわけだ。
改めて考えると、乙女ゲームのシステムって贅沢すぎるな。
「じゃあ拓馬は乃亜が運命の相手だと確定してるわけでもないのに、乃亜の『もし』のために恋人の座を開けておかなきゃいけないってことなのね……」
私は顎に手を当てて呟き、ふと顔を上げた。
「あ、じゃあさ。私の運命の相手もどこかにいたりするの?」
それはとっても気になることだ。
「いや、お前はイレギュラーなモブだからいない」
断言された。
「……ずるい。乃亜の左手の小指には赤い糸が五本も結われているのに」
唇を尖らせたけれど、ハムスターは私の抗議を無視して賽銭箱から飛び降りた。
小さなハムスターにとっては地面までかなりの距離がある。
怪我をしたんじゃないかと慌てたけれど、ハムスターは平気な顔で四本の足を動かし、私の足元に寄って来た。
その途中で急に足を止め、ハムスターは曇天を見上げた。
何を見ているのだろう、と訝って、気づいた。
一粒の滴が視界の端にある地面の水たまりを揺らした。
再び雨が降り出したのだ。
「……ねえ。あなた、名前はあるの」
私は鞄をかけ直し、ハムスターに歩み寄って屈んだ。
「特にない。好きに呼ぶといい」
「じゃあ今日から大福ね」
私は傘を地面に置き、ひょいとハムスターを両手ですくい上げるようにして持ち上げた。
「大福……」
お気に召さなかったらしく、ハムスターは私の手の上で、不満げに唸った。
「好きに呼べって言ったのはあなたでしょ? 家はあるの?」
「ないけど」
「じゃあうちに来る? 回し車とか買ってあげるよ」
「……なんで?」
大福は私を見上げている。心なしか、怪訝そうにも見えた。
「だって、濡れ鼠になったハムスターなんて見たくないし」
たとえ本物のハムスターではないとしても、大福の姿はまるっきりハムスターにしか見えない。
元ハムスター飼いとして、家のないハムスターを放っておくことなどできるわけがなかった。
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