03:雨降って地固まる
入学式も終わり、華の女子高生生活が始まって二週間が経った。
二週間。半月である。
半月もあれば、ヒロインなら目当ての攻略キャラといくつかのイベントを終えて友達以上恋人未満の関係になり、甘酸っぱい青春を謳歌しているはずなのに、私に限っては何のイベントも起こらなかった。
せっかく拓馬や拓馬の友達であり、攻略対象キャラの一人、
一度だけ勇気を出して拓馬に「おはよう」と朝の挨拶をしてみたけれど、「おはよう」とテンション低めの声で返されて終わった。
いや、私としては終わらせたくなかったんだけど、拓馬から寄るな触るなオーラがこれでもかと放出されているので引くしかないのだ。
つれないのは拓馬だけではなく、緑地くんも私の存在を空気のように無視している。
もはや目に映っているかどうかすら怪しい。
モブに厳しすぎませんかね、この世界。
いや、それが普通なのか。
所詮、モブはモブでしかないのか……。
ため息をつく毎日だったけれど、ある四月下旬の雨の日、事件は起こった。
「野々原って、何かおれに恨みでもあるの」
五時間目の体育が終わった直後、短い休憩時間中。
右の頬をガーゼで覆った拓馬はジャージ姿で保健室のベッドに座っていた。しかめっ面で。
「いいえ、そんなまさか。滅相もございません」
私はベッドの脇の椅子に座り、ひたすら身を小さくしていた。
事の起こりは少し前。
天候が雨だったため、今日の体育は男女ともに体育館でバスケットボールになった。
最初は男女別だったけれど、後半は男女混合になり、試合も行われた。
高校に入学して始めてとなる男女混合のバスケットボールに、ほとんどの生徒は浮かれていた。
気になるあの子に良いところを見せようと張り切る男子、彼氏に声援を送る女子。試合は常にはない盛り上がりを見せていた。
私もチームの皆に迷惑をかけるわけにはいかないと、身を引き締めて臨んだ。
男子から緩いパスを受け取ったときも、張り切ってゴール下にいた味方にパスを繋ごうとした……のだけれど。
ここで問題がひとつ。
私は酷い運動音痴だった。
味方に向かって全力投球されたはずのボールは全く見当違いの方向へ飛び、コート外で応援していた生徒へ襲い掛かった。
近くの生徒はとっさに避けてくれた。
しかし、ボールの軌道上にいた拓馬は間の悪いことに、体育館の時計を見ていた。
授業終了間際だったので、あと何分か確かめようとしたのだろう。
結果、ボールは半分顔を背けていた拓馬の頰を直撃。
拓馬は卒倒――打ち所が悪かったらしい。
大騒ぎの末、拓馬は緑地くんにお姫様抱っこされて保健室へと運ばれていった。
授業が終わるや否や、私は速攻で着替えてお見舞いに駆けつけ……いまに至るというわけである。
拓馬がすぐ意識を回復し、軽い脳震盪で済んだことは本当に良かったけれど、端正な顔立ちを覆う白いガーゼは目に眩しく、また、この後彼が教室でどんな憂き目に遭うか想像するだけで胃がきりきりする。
拓馬が緑地くんにお姫様抱っこされた際、クラスメイトのお調子者たちは「姫だ」「黒瀬が姫だ」と騒いでいた。
彼が教室に戻れば「姫が帰って来たぞ」とか言われるのだろう。
しばらくはからかわれるに違いない。私のせいで。
「一応聞くけど、わざとじゃないんだよな?」
「はい……」
「素であれなのかよ……悪いことは言わないから、これ以上の犠牲者を出さないためにも、今後の体育は見学したほうがいいんじゃないか」
拓馬は私の運動音痴ぶりにドン引きしているらしく、真面目な口調でそう言った。
「それが許されるならそうしたいところなんですけど……本当にごめんなさい……」
私はただただ謝罪することしかできない。
そして同時に、自分の運動音痴ぶりを心の底から呪った。
なんでよりによって拓馬にぶつけちゃうんだよ!
いや、誰にぶつけても良くないに決まってるけど!
ああもう、本当に、どうしたらいいんだろう。
「私にできる償いなら何でもする。してほしいことがあれば言って。黒瀬くんの気が済むんだったら一発殴ってくれても構わない。ううん、それでチャラに出来るんなら望むところ」
私は覚悟を決めて、ぎゅっと目を閉じた。
「どうぞっ」
バスケットボールを顔面にぶつけられた報復として殴られるんだったら、凄く痛いんだろうな。
戦々恐々としながら、身を固くして衝撃を待ち構える。
軽い音と衝撃が額に走った。
額を指で弾かれたのだ。
「!?」
びっくりして目を開けると、拓馬の顔がすぐ目の前にあって、心臓が大きく跳ねた。
「もういいよ、これで。謝ってもらったし、終わり」
身を引いて、拓馬はそう言った。
「え」
私は額を押さえた。
弾かれたといっても、本当に軽くて、痛みなんてほとんどなかったぞ?
これがバスケットボールで不意打ちを喰らった代償なんて軽すぎる!
「そんなの悪いよ。もっと他に――」
「被害者がいいって言ってるんだからいいんだよ。しつこい」
「………………」
そう言われては黙るしかなく、私は申し訳なさを抱えたまま言葉を飲み込んだ。
しばらくの沈黙。
雨の音が聞こえる。
保健の先生が棚の整理でもしているのか、部屋を仕切ったカーテンの向こうでカチャカチャという音がする。
俯いて、何を言おうか迷っていると、拓馬が口を開いた。
「……考えてみれば」
「?」
私は顔を上げ、拓馬の言葉に耳を傾けた。
「野々原とまともに話すのって初めてだな。アパートでも何度か顔を合わせたりしてるのに」
「……うん。そうだね」
これまでは一方的にあなたに避けられてきましたから、などという余計なことは言わずにおく。
「悪かったな」
「えっ」
まさか謝罪されるとは思わず、私は目をぱちくりさせた。
「いや、なんていうか。野々原って、馬鹿正直だし。これまでの対応を見る限り、悪い奴じゃなさそうだなと思って」
気まずさをごまかすように、拓馬は頬を掻いた。
「おれさ。他人が作った飲食物って苦手なんだ。何入ってるかわからねえし」
「何か入ってたことあるの?」
尋ねると、拓馬は口をへの字に曲げてから手を下ろした。
「……おれって格好良いだろ?」
「うん。モテそう」
というか、現在進行形でモテている。
「モテたよ。幼稚園児の頃からモテた。女子からは色々もらった。で、小学生のとき、バレンタインデーにもらったチョコに髪の毛が入ってた」
「うえ……」
想像して、私は呻いた。
「その半年後には、女子からもらったジュースで腹を壊した。ネットで見た惚れ薬だかなんだかを調合して混ぜたらしい。凄い味だった。ザラザラした謎の粒みたいなのも入ってたし、あれはもはや劇薬だったな。丸一日寝込む羽目になった。あのときのことは思い出したくない」
拓馬は苦虫でも噛み潰したような顔をした。
「うわあ……」
手料理が苦手になるわけだ……。
そういえば乃亜が初めて拓馬に差し入れをしたとき、微妙な反応をしていたような気がする。
あれはそういう過去があったからなんだ。
「だから、他人の、特に女子の手料理は信用できない。それが見知らぬ相手となればなおさら、毒でも入ってんじゃないかって思えて……とにかく嫌いなんだ」
「うん。わかった。もう手料理が余っても持って行ったりしないよ」
となると、私の存在意義が失われてしまうんじゃないかと不安だけれど。
差し入れはもう少し交流を深めてから、様子を見ることにしよう。
乃亜みたいに信頼されたなら、いつか食べてくれるよね?
「でも、信じて欲しい。私は毒なんて入れてないし、この先一生、黒瀬くんを害するつもりはない」
拓馬は皮肉めいた笑みを浮かべ、とんとん、と人差し指で頬のガーゼを叩いた。
言動が矛盾してると言いたいようだ。
「……あー。暴投の件に関しましてはその、申し開きのしようもございませ」
頭を下げようとしたとき、拓馬が小さく噴き出した。
驚いて見れば、拓馬は笑っている。
「アパートで初めて挨拶したときも思ってたんだけど、野々原って大人びた言葉遣いするよな。実は人生二週目とかだったりして」
「!!!? ま、まさかあ!」
私はひっくり返った声で否定した。
何なのこの人、鋭すぎる!
「何動揺してんの、冗談だよ。そろそろ行こう。着替えなきゃいけないし、休憩時間終わる」
「うん。あ、黒瀬くんの服は教室にあるよ。緑地くんが運んでおいてくれたから」
「わかった」
私は部屋を仕切っていたカーテンを開け、そこにいた先生に断って、拓馬と一緒に保健室を出た。
保健室に来たときとは全く逆の、軽やかな足取りで。
頰にガーゼを貼り、ジャージ姿で階段を上る拓馬には、通りすがりの生徒たちから好奇の視線が注がれた。
好奇に混じって熱烈な視線もある。
見目美しい拓馬は多くの女子生徒を虜にしていた。
やがて教室に戻ると、誰よりも拓馬のファンであるクラスメイトの
「黒瀬くん! 大丈夫だった!? 怪我の具合はどう!? なんて痛々しい姿になって……!」
ばっちりカールした睫毛に守られた目を大いに潤ませながら、吉住さんは拓馬の頬のガーゼを撫でた。
吉住さんの取り巻き二人もまた、駆け寄って拓馬の周りを固める。
「お、姫だ」
「姫が帰って来たぞ」
数人の男子生徒が拓馬を見て軽口を叩いた。
教室にいるほとんどの生徒たちは談笑に興じているけれど、何人かは拓馬たちの様子を遠巻きに眺めている。
私の友達の
「うん、大丈夫」
やんわりと吉住さんの手を払いながら、拓馬が答えた。
「腫れてるから一応湿布してガーゼしてるだけで――」
「まああ、腫れてるですって、大変! その美しい顔が腫れるだなんて、人類の損失だわ! それというのも……!」
吉住さんたちから一斉に睨まれて、私はびくりと身を揺らした。
「野々原さん、あなた、自分が何をしたのか自覚はあるんでしょうね! あなたのせいで黒瀬くんは大怪我を負い、私たちだって授業どころじゃなくなったわ!」
「……ごめんなさい」
私は頭を下げたけれど、その程度のことでは彼女たちの怒りは解けなかった。
「まあ、白々しい! 本当に悪いと思っているならちゃんと皆の前で謝りなさいよ! 誠意を見せなさい!」
「そうよ、土下座でもしたらどう?」
「黒瀬くんの顔を傷つけたんだもの、それくらいして当然――」
「おい」
容赦のない糾弾をただ一言で止めたのは、他ならぬ拓馬当人だった。
「黙って聞いてれば、部外者が勝手なこと言ってんじゃねえよ。野々原は授業が終わった後、保健室にすっ飛んできておれに謝罪した。誠心誠意謝られたからこそ、おれも許した。それで解決したっていうのに、なんでお前らがぎゃあぎゃあ騒いでるわけ? 一体何の権利があって野々原に謝罪を要求してるんだ? なあ、何様のつもりなんだよ」
拓馬は強烈な怒気のこもった眼差しで吉住さんたちを怯ませた。
「授業を中断させたから見世物みたいに皆の前で土下座しろって? 馬鹿馬鹿しい、小学生でも言わねえよそんなこと」
拓馬は鼻を鳴らして、私に歩み寄り、ぐいっと肩を掴んで引き寄せてきた。
え、えっ?
動揺している間に、拓馬は宣言するような強い口調で釘を刺した。
「もう一度言っとくけど、おれは野々原を許した。被害者が加害者を許したんだ。この件に関して野々原をどうこう言う奴がいればおれが許さないからな」
意中の人に睥睨され、吉住さんたちは青くなって立ち尽くしている。
私は拓馬が庇ってくれたことに、強い意志を感じる拓馬の手の感触に、ただ呆けていた。
「まあまあ」
と、凍り付いた空気を溶かすように、緑地くんが割って入ってきた。
彼は拓馬の幼馴染で親友。
明るい茶髪に、笑ったときに覗く八重歯がチャームポイント。
社交的な爽やか系イケメンだ。
「その辺で許してやれよ拓馬。そこまで言えば十分だって。吉住さんたちもわかったよな?」
緑地くんに笑いかけられ、吉住さんは泣きそうな顔で何度も頷いた。
「ほら、わかったってよ。急がないと次の授業始まるぞ。着替えて来いよ」
緑地くんが持っていた拓馬の制服を差し出す。
「ああ、ありがとな幸太。で、おれ、お前に言いたいことがあるんだけど」
拓馬は受け取った制服を、何故かそっくりそのまま、流れ作業のような自然な動作で私の手に押しつけてきた。
これは一体どういうことなんだろう。
戸惑いながらも、私は拓馬の制服を両手で持った。
「うん、何?」
感謝の言葉を予想しているらしく、笑顔で緑地くんが促す。
「おれは誰よりお前に怒ってんだよ!!」
「ギャーッ!?」
こめかみを拳でぐりぐりされて、緑地くんが悲鳴をあげる。
「な・ん・でよりにもよって姫抱っこなんかしやがったんだ!? 気絶したならその場で叩き起こしてくれれば良かっただろ、口さがない連中に格好のネタを提供するような真似しやがって、おかげでこの先おれの陰口は姫で確定だ! どうしてくれるんだこの馬鹿!!」
「いやだって、人を運ぶなら姫抱っこが一番楽じゃん、オレだってお前が倒れてパニくってたんだよ、暴力反対! 野々原さん助けて!」
緑地くんは拓馬の手から逃れ、さっと私の背後に隠れて両肩を掴んだ。
臆病な小動物のように震えているのが手のひらを通じて伝わって来る。
「待って黒瀬くん、元はと言えば私のせいなんだから! 緑地くんを責めるのは筋違いだよ!」
私は緑地くんに両肩を掴まれたまま手を振り、無言でこちらに距離を詰めようとしていた拓馬の進行を食い止めた。
「ほら、着替えないと! あと三分で次の授業始まるよ!? はい!」
有無を言わさず制服を押しつける。
拓馬は不満げな顔をしつつも、制服を持って教室を後にした。
拓馬の姿が見えなくなったタイミングで、ほっと安堵の息をつくと、その吐息はぴったり緑地くんのものと重なった。
私たちはきょとんして顔を見合わせ、それから笑った。
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