第21話 たった一機の爆撃隊
静かな飛行だった。
誰も彼も無言で、聞こえるのはエンジンだけという静寂そのものの飛行だ。
敵に見付からないように全ての灯りを消しているので機内はほとんど暗闇同然である。機内だけではなく翼端灯まで消し、エンジンも絞って排気炎も出ないようにしているので僚機の姿も暗闇を凝視しなければ見えない程だった。
ボンヤリと浮かぶように蛍光塗料の塗られた計器類が光っているが、その程度の光すらも反射するのを忌避して馬糞紙で覆って光が漏れないように工夫されている。光も音もない、目耳ともに静かな飛行であった。
そんな暗闇の中で、糖子はチューブの羊羹を食べながら双眼鏡で海を見下ろしていた。
先ほどから必死になって眼下を見下ろしているが、見えるのは墨汁のような黒い海だけでたまに白い波頭が見える以外には何もない。
これでは敵艦隊発見どころか、自分たちの機位すら見失う可能性すらある。
だが華香は帰るという選択肢はないかのように、黙って操縦をしており、糖子もそれに従って黙々と航法を行っていた。
視界が極めて不良だ。出来れば雲上に出たいところであるが、そうすると敵艦隊を発見出来ない。結果として黙々と暗闇の空を飛び続けるしかなかった。
前回の敵艦隊攻撃の時と同様、生きて還れる可能性は極めて低い出撃なのだが、不思議と前回の時と比べて不安や緊張感が薄い。慣れてしまったのか、それとも華香が皺一つ寄せずに余裕の表情を浮かべているからか。
どちらかは解らないが、とにかく糖子自身にも多少の余裕があるのは間違いなかった。
「全員、居眠り防止食を」
華香からの命令で、全員予め支給されていた居眠り防止食を口に放り込む。
緑茶の粉末を甘味で十円玉くらいの大きさに固めた物であり、はたしてどれほどの効果があるのか解らない代物である。もっとも、今は効果の有無など関係なく、そもそも誰も睡魔にやられるような精神状況ではないのは確かだ。
ただ口の中に物を含むという事はそれだけで何もしていないよりは余裕が出る。華香が指示を出したのも、眠気予防というよりも緊張を緩和させる為のようであった。
「時化って来ましたね」
琴音が忌々しげに呟く。彼女の言う通り、雨粒がポツポツと風防に当たっている。この調子だと二、三分しない間に本降りになってしまうだろう。
「引き返しますか」
「いえ、続行します」
即答する華香。やはり帰るという選択肢は彼女にはないらしい。
ただ以前のような「死にたがり」ではないというのは何となく察せられた。
出撃前の会話もそうだが、伝声管越しに聞こえる彼女の声には余裕のような柔らかさが感じられる。少なくとも死のうと思っている人間の喋り方ではない。
どちらにせよ、糖子には華香が死のうとしているわけではないのだと信じるしかなく、そして実際に死なないであろうと確信を持っていた。
「いよいよ降って来たな」
飛文の声。
肯定するかのように風防に雨粒が大量に襲い掛かって来て、機内に不気味な音を響かせる。
視界の不良、ここに極まる。
偵察席から見下ろしても低い雨雲が海面を隠すように飛んでおり、見える範囲はおそろしく狭い。
こんな状態で本当に爆撃が出来るのだろうか。
以前、積乱雲に突入した時のように機外は真っ黒に染まりあがって何も見えない。目隠しされて飛んでいるような気分である。
何とか海を見ようと目を凝らしていると、直ぐそばを飛んでいる筈の二番機から連絡が入った。
「続行不可能、離脱する」
それだけを言い残して、指示を待たずに二番機は引き返していってしまった。
この暗闇の中を飛ぶのが怖いというのは解るし、無謀だというのも理解できる。だが未だ敵も見ていないのに引き返すというのは些か情けないのではないか。
文句も浮かんだが、しかし今は余計な事を考えない方が良いと思い直して糖子は再び海面を見下ろした。
見えるものといえば白い波頭だけである。この状況では時おり入ってくる潜水艦からの情報だけが頼りだ。
ただ黙々と飛び続ける。
それ以外にやるべき事はなく、ただ目標に辿りついてくれる事だけを祈るばかりだ。
――――カツレツ食べたい。
唐突に脳裏に場違いな事が思い浮かぶ。
カツレツが食べたい。薄い肉を卵に浸し、パン粉を付けて揚げた物であるから、卵もパン粉も貴重品な孤島ではなかなか食べる事が出来ない。というよりも三番島で食べた事がない。
ハエバル飛行場に行った際に食べたカツレツは美味しかった。またあの食堂に行って腹が一杯になるまで食べたい。
モヤモヤっと脳内にカツレツが浮かんでは消える。
これから死ぬかもしれないというのに飯の幻影とは、我が事ながら食い意地の張った話だ。自身に呆れて乾いた笑いが漏れる。
その時、ふと視界の端に何か違和感を覚えた。月光だ。雲の切れ間より美しい月の光が海面を照らしている。
そして黒い墨汁のような海に、小さな点々が浮かんでいるのが目視できた。
大慌てて双眼鏡を覗き、その物体が何であるのかの確認を行う。
「左前方、敵船団らしきものです」
操縦席の間から顔を出して糖子が指を差す。
「本当ですかね。少し上手く出来過ぎな気が……」
凝視していた琴音がそこまで言った時、不意に二機の焔雲の近くで砲弾が炸裂した。
途端に機内が大きく揺れ動く。反射的に偵察机にしがみ付いたので糖子は転倒するのを免れたが、しかし安堵の溜息を吐いている暇はなかった。
周囲を何度も眩い光が覆い、その度に機内に衝撃が襲い掛かる。遠くに見えていた米粒のようだった点々が何度も発光し、その次の瞬間には機体の直ぐ傍で爆炎と爆発音が響いた。
ここまでくれば間違いない。敵艦隊による対空砲撃である。
連続する爆発音の中、短く「電信」という華香の声が機内に響き渡った。
「我、敵艦隊を発見」
それから現在位置を伝え、最後にこう付け加える。
「天候不良、敵対空砲火熾烈。本日、爆撃日和也」
爆撃日和也。
その言葉の意図は糖子には解らない。
華香なりの冗談だったのかもしれないし、あるいは決意の表明だったのかもしれない。
しかし生真面目な華香らしからぬ報告に思わず糖子は笑みを溢した。それだけで恐怖が薄れたのであるから不思議である。
そう、もはや恐怖はない。
「爆撃席に降ります」
そう断わってから糖子は操縦席の下を潜る。その直前、華香が「頼みます」と言ったのを糖子は聞き逃さなかった。
爆撃席に出る。何しろ機首にある席なので敵の対空砲火がよく見えた。
青、赤、緑などの色とりどりな銃弾が殺意を持ってたった二機しかいない焔雲に襲い掛かる。まるで銃弾のスコールだ。これだけ撃って来ているのに、何故か当たらないという不思議な確信があった。
だがそれは錯覚だったのだろう。
不意に横を飛んでいた僚機が火を噴き出す。それを合図にするように敵の対空砲火が僚機に集中し、あっという間に僚機は火達磨になった。
真っ赤に燃え上った僚機は徐々に高度を落としていく。それから先の事は解らない。何しろ後方に行ってしまったので糖子からは見えないからだ。しかしそれでももう助からないという事だけは解ってしまった。
三機いた編隊はこれで三○八号一機のみ。
当然ながら敵の対空砲も三○八号に集中するかと思ったが、しかしどうも明後日の方向にも弾が飛んでいっている。どうやらまだ精確にこちらの数を捉えていないらしい。
「緩降下爆撃を行います」
伝声管に糖子は叫ぶ。
一機のみでの水平爆撃で命中弾を出すのは厳しい。こうなれば多少危険でも緩降下での爆撃で命中率を上げる他になかった。
爆撃照準器と管制器を操作して即座に爆撃出来るように準備する。あまりの弾幕のせいで風向、風速などは計りかねるが仕方がない。とにかく今は爆弾を落とす事が重要なのだ。
意を決し、糖子は爆撃照準器を覗きこむ。
瞬間、艦艇に装備されている
対空射撃はいよいよ厳しくなってきた。
あまりにも凄まじい弾幕のせいで天地の区別が付かなくなる。探照灯が眩しいせいで敵の艦影も把握しに難い。どれが何の船なのかサッパリ見当もつかなかった。
ツンッと火薬の臭いが鼻を突く。どうやら何処かに被弾したらしい。これだけ撃たれているのに、翼やエンジンに致命的ダメージを負っていないのが不思議である。
敵の船団は回避行動の為に左右に動き始めた。ますますもって敵の位置を把握し辛いが、しかし天運か月光が照らしているおかげで見失う事はなかった。
瞬間。
バンッと凄まじい衝撃と音がしたと思ったのと同時に目の前で何かが砕け散った。破片が一斉に糖子に襲い掛かり、左頬をズバリッと切り裂いて耳たぶを吹き飛ばす。千切れた耳たぶと飛行帽の一部はそのまま後方に飛んでいって壁に突き刺さった。
途端に真っ赤な鮮血が流れ出し、垂れた血が左肩に落ちて周辺を真っ赤に染め上げていく。
不思議と痛みはない。興奮と恐怖で麻痺しているのだろうか。いずれにせよ、放置していいような傷ではない筈だが、しかし今は手当てしているような余裕は一ミリもない。
ふと風防を見ると、装着されている機銃が吹き飛んでいた。いま砕け散った物体はどうやらこの機銃だったらしい。弾薬が暴発しなかっただけ幸運だった。
風防が割れた事により凄まじい風が入り込んできて目も開けていられない。
軍観ではなく、屋形船のような形をしている奇妙な船だ。直感でそれが空母であると把握した。
即座に伝声管に怒鳴って目標を知らせる。
「針路右十度、距離二〇〇〇!」
凄まじい風のせいで自分の声すら聞こえない。はたして華香に伝わっているのか怪しかったが、しかし機体は確かに糖子の指示どおりの針路に機首を向けた。
急いで爆撃照準器を覗く。
「ヨーソロー! ヨーソロー! ちょいヒダーリ!」
伝声管に怒鳴って指示を出す。
対空砲火はいよいよ激しい。敵空母も自分が狙われていると気付いたのか、左右に大きく動き始めた。
だが遅い。
この程度の動きであれば当てられる。少なくとも華香と糖子の腕が合わされば不可能ではなかった。
「ヨーソロー! チョイみぎー! ヨーソロー!」
機体は指示通りに針路を変更する。
機体が緩やかに降下していっているから身体に負荷が掛かる。強風で身体が吹き飛ばされそうだ。
しかし糖子は必死に照準器に縋りついて照準を続けた。
「ヨーソロー! ヨーソロー……時計発動!」
機体は真っ直ぐに進む。糖子の指示は終わった。あとはもう華香の操縦に全てを委ねるのみである。
機体が何度も揺れ動く。
対空砲火のせいだ。爆発のために機体が上下に揺れ動いてしまう。しかし機体は不思議なほど真っ直ぐに飛び続けていた。
そして照準は確実に空母を捉えたままである。
「ヨーイッ!」
糖子が大声で伝声管に怒鳴り、続けてさらに大きな声で号令を下した。
「テーッ!」
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