第10話 あわや激突

 訓練の日々はまだ続いていた。

 午前中に着脱あるいは爆撃訓練を行い、食事をしながら座学、午後になったら爆撃あるいは長距離飛行の訓練という日課である。

 今日も午前中の爆撃訓練に引き続き、今度は低空飛行訓練が行われていた。

 これは魚雷による攻撃――雷撃を想定した訓練なのであるが流刑地である三番島には魚雷などという贅沢品はない。そのため超低空で海面を飛行する、いわゆる「雑巾がけ」の訓練に終始していた。

 雑巾がけと言われる通り、雷撃の際の飛行は超低空どころの話しではなく、数字にすると高度五十メートル未満での海面スレスレの飛行である。下方の見える爆撃席にいると足元直ぐ近くに海面が見え、手を伸ばせば届くのではないかと錯覚してしまう。

 高度計を見れば現在高度三十メートル。ちょっと操縦をミスすれば海面に激突するような低さである。

 しかし華香はそれで満足するつもりはないらしく、まだまだ高度を下げていく。

 高度二十メートル。高度計の針はほぼ零を差している。

「これ以上は危険です!」

 思わず糖子が送話器に叫ぶと「まだ下げます!」という華香の声が返ってきた。

「魚雷も下げていないのに泣き事を言わないでください!」

 眼下を海面が流れていく様子は見ていて気持ち良いものではないが、さりとて爆撃席から離れるなと言われているので逃げ出す事すら出来ない。

 魚雷を抱いての対艦戦闘では当然ながら目標である敵艦船からは熾烈な対空砲火が襲い掛かってくる。それを避ける為に雷撃は出来る限り低空を飛ぶ必要があった。

 それは解るのであるが、これは幾らなんでも低空過ぎである。

 高度計は既に零。脚を出したらぶつかるのではないかという程の低空であり、プロペラが海面を叩いて飛沫をまき散らしている。

 任務がなければ泡を吹いて倒れているところだが、生憎と偵察員としての任務があるのでぶっ倒れるわけにはいかない。これ以上下げないでくれ、海面に接触しないでくれと祈るばかりである。

 糖子の不安を余所に三○八号は真っ直ぐに海面スレスレを水平飛行する。

 実際に雷撃を行う場合、機体を海面と平行にして一定の速度で飛ばなければならない。敵艦に肉薄するからと言って全速を出すと投下した魚雷が破損する恐れがあるからだ。敵弾幕を受けながら全力を出せないのであるから、実戦ではさぞじれったい事だろうと糖子は漠然と考える。

 これが実戦であったならば機体は既に目標に向かっているだろうが、今日は単なる雑巾がけであるので目標と呼べるモノはない。だから一定の距離を飛んだら上昇する事と事前に決められていた。

 三○八号もそろそろ定められた距離に達しようとしている。そろそろ上昇して高度を取る頃だろう。

 不意に。

 ゾワッと背筋に悪寒が奔った。

 理由は解らない。だが反射的に送話器を掴んで「上昇を!」と怒鳴っていた。

 途端にバンッ! という凄まじい衝撃が機内に走り、固定されていなかった機材が宙を舞う。気付けば他の物同様に糖子も浮いていた。一瞬、周囲の時間が凄く遅くなったかのような錯覚を受ける。

 だがそれも刹那。背中に鋭い痛みが奔ったと思った瞬間、今度は床が迫ってきて全身を思い切り強打した。どうやら天井にぶつかった衝撃で跳ね、そのままの勢いで床に落ちたらしい。

 ガラガラガラと続くようにして浮き上がっていた機材が落ちてくる。

 何が起こったのか解らず、逆さまになったまましばらく呆然としていると操縦席の下を通って搭整がやって来た。彼も何かにぶつけたのか、痛そうに右腕を庇っている。

「大丈夫ですか」

「……耳ある?」

「あります」

「……鼻は付いてる?」

「ついてます」

「目はある?」

「あります」

「……生きてる?」

「大丈夫です、五体満足で生きてます」

 言われてようやく混乱が収まった。

 何が起きたのか解らないが、偵察窓から見てみれば機はもうだいぶ上昇しており、先ほどまで眼下にあった海面からかなり離れていた。

 とにかく爆撃照準器などが壊れていないかと調べ、周囲に散らばった航法道具なども集める。それが終わってから、ようやく糖子は操縦席の下を通って機体前部に出た。

 機体前部では華香が何処かぶつけたのか額から血を流しており、飛文がそれを手当てしている。代わりの操縦は当然ながら副操の琴音がやっていたが、彼女も何処かぶつけたのか苦悶の表情を浮かべていた。

「大丈夫?」

 糖子が訊ねると琴音は「少し痛みます」と短く答える。

「なにがあったの?」

「どうもぶつけたようです」

 顎で窓の外を指したので見てみると、なるほど、右翼の先端が哀れな事になっている。どうやら強風に吹かれて傾いた拍子に海面に激突したらしい。

「超低空だと風も命取りになりますね」

 包帯も痛々しい華香が呟く。

「それよりも黄里さん」

「はい」

「爆撃席に居たのに何で翼がぶつかるというのが解ったんですか? 言われなければもっと大参事になっていたんですが……」

 言われてみれば偵察席から翼は見えないのに何故解ったのだろう。風に揺らされたのを感じ取ったのだろうが、そんな事を考えている余裕などなかった筈だ。

「勘です」

 率直に言うと華香は「勘?」と素っ頓狂な声を出した。

「勘でぶつかると解ったんですか?」

「はぁ」

 そうとしか言いようがない。華香は少しばかり悩んでいるようであったが、少しすると「そうですね」と納得したように頷いた。

「機長、他の機が大丈夫かと聞いて来ています」

 電信席に戻った飛文がレシーバーを耳に当てながら言う。

「機内負傷者数名、基地に戻ると返答しておいてください」

「了解、基地にも電報で打っておきます」

 すぐさま電鍵を叩く音が聞こえる。

 もう基地に戻るというので糖子は爆隻席には戻らず、被害の確認をしようと後部に行く事にした。

「黄里さん」

 途中で呼び止められたので糖子は振り返る。

「なんでしょう」

「特修兵ではないんですね」

 特修兵、というのは特別な教育を受けた兵隊の事であり、腕に学んだ技能の徽章を付けるので俗に「マーク付」と呼ばれるベテランの兵隊だ。

 特修徽章は選抜された兵隊が術科学校と呼ばれる専門施設に行く事で初めて受章される代物であり、部隊内に置いてはちょっとした羨望の眼差しを受ける特別な「証」である。

 当然ながら選抜されるような優秀な兵隊でなければ術科学校には行けず、糖子のようなオトボケな兵隊などがなれる者ではない。

 何を言っているんだ、という表情で糖子が「はぁ」と返答すると、華香は二、三度頷いた。

「今度何人か術科学校に送るらしいですが」

 そう前置いてから華香は糖子の顔を見る。

「意見具申しましょうか?」

「へ?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。

 名誉といえば名誉な事であるが糖子からしたら願い下げたい事である。何しろまた内地に戻って、猛訓練をやり直さねばならない。ギンバイなどしている暇はないだろうし、今以上に自由がないのは間違いないだろう。

 そんな所にわざわざ行きたいとは思わなかった。

「いえ、結構です」

 断わったのが意外だったのか、華香は目をパチクリさせる。

「なぜですか?」

「……ご飯の量が減るんで」

 率直な理由を口にすると華香はポカンと口を開けた後に噴き出した。

「面白い事を言いますね」

「私は大まじめです」

 解りました、と華香は頷く。

「意見具申は止めておきましょう」

 余程面白かったのか華香はその後しばらく小さく笑っていた。

 失礼な、と心の中で思いながら糖子は後部に行く。

 ともかく今日で猛訓練は終わり、明日からは通常の課業に戻るという。何よりの話しである。

 機体側面のスポンソン銃座から機外を見る。

 グシャグシャに折れた翼の先端が、猛訓練の激しさを物語っていた。

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