第6話 出逢い

 ハエバル飛行場は赤道直下の島にある大きな飛行場である。

 飛行場のある南領諸島は三番島よりは北にある島々だとはいえ、やはり熱帯地域である事に変わりはない。しかし未開の地である三番島とは違って、元々は南方資源の産地でもあるので開発は比べ物にならないほど進んでいた。

「分隊士は病気のため、軍病院に移動する。ここまで有難う」

 涙を浮かべながら、元分隊士の少尉は糖子と握手を交わす。

「今日の分隊士、随分とまともですね」

「日に三度ね。飯食って腹いっぱいになるとまともになるんだってさ」

 琴音と飛文の会話を流し聞きしながら糖子は指揮所へと向かった。下っ端下士官の糖子であるが今回は空中指揮官である。他の搭乗員のように気楽にしているわけにはいかない。

「君たちの出発だが、明日の昼ごろになると思う」

 基地付きの士官は難しい顔をしながら糖子に言う。

 本来ならば明朝出発予定だったのだが、タレンザカンに向かう参謀の一団を乗せたいという事で出発を延期して欲しいとの事である。

 形としては要請だが相手は士官様だ。である以上、これは命令なのと同義である。

 もっとも糖子もしても直ぐには帰らず、なるべく長く南領諸島に居たかったので二つ返事で了解した。

「その代わり、上陸の許可を頂きたいのですが」

 糖子が意見具申をすると基地付きの士官も予想をしていたのか、軽い調子で「良いよ」と頷いた。

「では明日の朝に戻ってきます」

「ん。時間に遅れないように」

 敬礼をして、糖子は指揮所を出る。

 待っていた搭乗員たちに予定を伝えると、上陸出来ると聞いた搭乗員たちはワッと歓声を上げた。ちなみに上陸というのは海軍用語で「外出」の事である。

「明日の昼に出発予定だけれど、打ち合わせなどがあるから一一〇〇時(十一時)には帰隊していること。質問は? ……なければ解散!」

 みんな蜘蛛の子を散らしたように駆けて行く。

 残っているのはいつも糖子と行動を共にする琴音だけだ。糖子は半袖短パンの現場スタイルだと言うのに、彼女はちゃっかり白色詰襟の軍服を着ている。

「どうしたのそれ」

「上陸出来るかもと思いまして、持って来ました」

「うわっ、用意良いね」

「糖子の物を持って来てますよ」

 言いながら鞄を見せる。

「勝手に……というか投棄の時に棄てなかったんだ」

「大丈夫だと思いまして」

 シレッとした顔で琴音は言う。

 みんな糖子の事ばかり豪胆だの呑気だの言うが、琴音だって人の事を言えない。しかし彼女の場合は要領が良いので話題には上がらないのだ。こういう時ばかりは自身の要領の無さを呪いたくなる。

 もっとも汚い服装で街を出歩くのは嫌なので、持って来てくれたのは素直に有難い。礼を言って、他愛のない事を喋りながら二人は街へと繰り出した。

 南領諸島は前述したように戦前より民間の会社が進出しており、砂糖などの南方資源の産地として知られている。そのため近代的な都市も建設されており、軍施設が近くにあるという事で軍人用の娯楽施設も多数あった。

 そんな中で嬉しいのは「買い物」が出来るという事だ。

 何しろ三番島は軍隊しかいないので手に入る物はほとんどが官給品であり、食糧も支給品か盗んできた物という文明とは程遠い状態にある。しかし南領諸島は民間業者が多数進出しているのでお金さえ払えば自分の望んだ物が手に入るという「文明的行為」が当然ながら行われていた。

 野蛮な三番島で半ば猿になりかけていた糖子たちであるが、一気に文明人に戻ったような気分である。

 使っていなかった分、持ち金だけは有り余っているので、とにかく何か美味しい物を……と言いたい所であるが、その前にまずは日頃の垢を落としたい。

 何しろ三番島ではたまにドラム缶風呂で基本的にはスコールしか浴びていないのだ。たまにはゆっくりと湯船の中で足を伸ばしたい。

 流石は近隣に基地のある街だけあって銭湯は直ぐに見つかった。軍ではゆっくり風呂に浸かれないので、こういった軍施設に近い街では軍人御用達の銭湯が幾つもあって、ありがたい事に兵隊割引が成されていた。

 さっそく銭湯に突入し、久方ぶりの熱いお湯を堪能すべく服を棚の中に放り込む。

 すぐさま湯船に吶喊したいところであるが先ずは身体を流すのが先である。それがエチケットであるし、そもそもあまりにも汚いのでそのまま湯船に突入すれば周囲が重油のように汚れかねない。

 石鹸を大量に付け、垢すりでゴリゴリと擦ると、誠に汚い話で恐縮であるが消しゴムで紙を擦ったかのような簡単さで垢が落ちていく。

「皮一枚剥けるみたいだねー」

 擦りながら言うと、琴音が心底嫌そうな顔をする。

「一緒の湯船に入っているの嫌になるので、そういう事は言わないでください」

「何を今さら」

 三番島では古参下士官たちが入浴した後のドロリとしたお湯のドラム缶風呂に入っていたのだ。もはやちょっとぐらいでは汚いとは思わない。

 続いて油と砂塵で塗れた頭を洗い流すと、それだけで髪の色が変わったかのようにすら思えた。

 身体が綺麗になったので湯船に突撃する。

 洗ったばかりの身体に湯が染み込むようで思わずこの世にこんな極楽があったのかと感激してしまった。そして同時に風呂だけでこれだけ感激出来るのだから改めて軍隊というのは不健全な場所であると再認識した。

「極楽極楽……」

「オッサン臭いですよ」

 琴音に咎められたが、すっぽんぽんで気を張ったところで良い事などない。デカい湯船というのは良い物だ、と縁に頭を預けて全身の力を抜いた。

「三番島にも温泉あれば良いんだけどねー」

「……あるにはありますよ」

「え、初めて聞いた」

「教えていませんから。今度連れていきますよ」

 他愛のない話しをしながらお湯を堪能する。気持ち良過ぎて寝てしまいたいくらいであるが、あんまり浸かり過ぎても毒だし、そもそも休暇は有限なので全身が程よく温まってから湯船から上がった。

 普段着ている作業服や飛行服は酷い汚れであるが、琴音が持って来てくれた海軍の夏服は清潔である。衣嚢に突っ込んだままであったので些か黴臭いが、それでも砂と油に塗れた飛行服に比べればマシだ。四の五の言わずに着替える。

 帝國海軍の夏服は白地の綿で出来ており、糖子たち下士官が着るのは詰襟の、ちょうど一般人が「海軍」と聞いて想像するようなスマートな軍服である。同じ綿でも良い生地を使っている士官の物に比べると見劣りはするが、それでも「格好良い」海軍を連想される代物だ。この服に軍帽なんか被ったりしてしまうと、もう格好良過ぎて惚れ惚れするくらいである。

 もっとも糖子が着るとモッサリと残念に見えてしまうので猫に小判、月とすっぱん、豚に真珠であった。

 反対に琴音はスラッとしていて如何にも「海軍軍人」といった外見になる。同じ年齢、同じ階級であるとは到底見えないだろう。

 とはいえ、糖子はそんな自分の格好など全く気にしていない。どうせ何を着て威張ってみたところで、所詮は下っ端の下士官なのである。

 それより彼女の興味関心は街の至る所に見られる飲食店、屋台などであり、さて何処に入ろうか、何を食べようかと獲物を狙う獣のような目で店々を眺めていた。

「何食べよう」

「結局それですか」

「琴音は違うの?」

「まぁ、そうですが」

 並びながら通りを歩く。流石に海軍の街だけあって通りにも軍人が多い。階級が上の人に敬礼し、下の者が敬礼して来るので答礼をしてと手を下げる暇がないくらいである。

「軍人が多いですね」

 敬礼を繰り返しながら琴音が言う。

「海軍の街だしね」

「それにしても多過ぎじゃないですかね」

 敬礼、敬礼、敬礼。

 いちいち手を上げるのが面倒くさくなったので、もう手っ取り早く何処でも良いから入ろうと手近な食堂に入った。

 例によって軍人御用達の店らしく店内には兵隊しかいない。それでも店内は外と違って敬礼をせずに済むのであるから気は楽だ。

「えっとオムレツとカツレツとハヤシライスと……」

 お品書きを読み上げるようにして糖子が注文の品を言っていくと、琴音が呆れた顔をした。

「そんなに食べるんですか?」

「良いじゃない。たまには」

 やれやれ、と苦笑して琴音はハヤシライスを頼んだ。

「あ、それとココアもください!」

「この組み合わせでココアですか」

 再び琴音は苦笑した。

 注文を終え、改めて店内を見回すと本当に兵隊しかいない。せっかく娑婆に出たというのに些か残念ではある。

 それは琴音も同じなのか、店内を神妙な顔持ちで眺めていた。

 糖子もそれに倣ってしばらく店内を見ていたが、唐突に琴音が噴き出したので我に還った。

「なに?」

「いや、真面目な顔をしているのが面白くて」

「失礼な」

 ふざけた顔をしているならまだしも、真面目な顔をしているのを笑われる筋合いはない。もっと抗議してやろうと思った矢先に「お待ちどうさま」と注文した物がやって来たので止めた。

「うわぁ、凄い事になっちゃったぞ」

 テーブルに並べられた料理の数々を見て、糖子は思わずそう呟いた。

「だから頼み過ぎだって言ったんですよ」

 呆れ顔で琴音は言う。周囲からもクスクスという笑い声や「あんな食うのか」という怪訝そうな視線が向けられてくる。

 もっとも、だからどうしたという話だ。

 今まで未開の地にいたのだから、今はとにかく沢山娑婆の物を食べたいのである。

「いただきます!」

 料理の前で手を合わせて吶喊。

 まずはオムレツを食べる。分遣隊の主計科は出汁巻卵を得意とするが、こういった洋食についてはからっきしだ。そのため洋食の卵料理を口にするのは至極久しぶりであった。

 続いて手を伸ばすのはカツレツである。

 何しろ三番島には牛などいない。当然ながら牛肉を使った料理など出て来る筈もなく、肉といえば専ら魚肉か缶詰肉ばかりだったので、やはり牛肉も久方ぶりに口にした。

 他にも娑婆でしか食べられない料理ばかりなので食べる手も止まる筈がない。一つ、また一つと料理の乗った皿が消えていく。

「ちょっとは落ち着いたらどうですか」

 呆れたように琴音は言うが、そんな事はどうでも良い。とにかく食べたいのである。

「上官!」

 唐突に声がして店内の全員が立ち上がる。

 しかし糖子にとっては埒外の事であり、それよりも如何にしていま目の前に並んでいるご馳走を平らげるかの方が重要であった。

 箸を動かし、スプーンで掬った物を口に入れ、スープを啜る。そんな単純作業を何度も繰り返し、皿に乗っている料理を平らげていく。

「おい」

 声を掛けられたような気がするが、今はそれどころではない。そもそも食事に夢中な糖子に話し掛けたところで右から左に通り抜けるだけだ。

「おい!」

 ガッと襟を掴まれて立たされた。

 ブフッと今しがた口に入れたスープを吹き出す。

「貴様上官の前だぞ!」

 顔も見た事のない一等兵曹に言われて、初めて店に士官が入って来ていたのに気が付いた。兵隊の入り浸る店に士官が入って来る事など滅多にないので完全な油断である。

 慌てて口の中に物が入ったまま敬礼、謝罪の言葉を口にしたが物が入っているので「フガフガ」という意味のない音が出ただけだった。

「貴様ふざけて……」

「もういいよ」

 殴ろうと手を上げた兵曹を士官が制止する。

「食事中に入って来た私が悪かった」

「しかし……」

「私が良いと言ったんだから良いんだ」

 それで兵曹は渋々と引き下がった。

「良い食べっぷりですね」

 テーブルで山になっている皿を見ながら士官がニコリと笑う。

 顔立ちの整った女性士官だった。階級は少尉。但し学徒出身なのか予備士官の徽章は付いている。

 ウェーブの掛かった長髪に少し蠱惑的なツリ目。身体は凹凸のはっきりした女性らしい物で、とても海軍士官であるようには見えなかった。

「名前は」

「黄里糖子二等飛行兵曹です」

 士官は「そうですか」と頷く。

「面白いものを見せてもらいました」

 言いながら士官はわざとらしく敬礼をしたので慌てて糖子も答礼をする。

「お邪魔しました」

 周囲の兵隊に軽く謝りながら士官は店から出て行った。途端に店内は入ってくる前と同じような喧騒に戻る。

「……何しに来たの、あの人」

「さぁ?」

 言ってから琴音は改めて糖子の顔を見た。

「気を緩め過ぎです」

「はい、すいません」

 グウの音も出ない。食事に夢中であったとはいえ、流石に士官の入店に気付かなかったのは拙かった。

 しかし兵隊の飯処に入って来るとは無粋な士官である。しかも何もせずに出て行った。

「店を間違えたのかもしれないですね」

 琴音はそう言ったが、しかしもう糖子の耳には届いていなかった。

 何しろ食事を再開したから。何はともあれ、今は食べる事の方が重要なのである。

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