第3話 ギンバイ料理

 ザーッという凄まじい雨音が響いていた。

 ハシヤマ分遣隊の駐屯地である三番島は赤道より南方に位置している孤島であり、日に一度は必ず凄まじいスコールが降る。

 おかげで島に湧水が無くても生活用水には困らず、またドラム缶風呂にすら入れない下っ端兵隊にとっては大自然のシャワーとして大変有難い文字通り恵の雨であり、この隙に男女構わず石鹸と手拭い片手に飛び出して身体の垢を落とす事を常としていた。

 例によって今日も「スコール接近」の報告があったので全員急いで素っ裸で石鹸と手拭いを持って宿舎から飛び出す。もちろん糖子も石鹸と手拭い片手に飛び出している。

 スコールは長くて十分程度しか降らない。そのため降り始めたら手早く石鹸を塗って身体を洗う必要がある。中にはその数分の間に身体だけでなく手拭いまで洗うような要領の良い猛者もいるが、生憎と糖子にはそんな器用な真似は出来ない。むしろ石鹸を塗っている間に通し過ぎるなんて事はザラなので降る前に石鹸を塗って待っていた。

 そして少し待っていると凄まじい大雨がやってくる。身体に付いていた石鹸を手拭いで全て洗い落とし、虱の気配すらある頭髪も綺麗に洗い流す。

 十分もしない間にスコールは通り過ぎ、濡れ鼠になった搭乗員たちは「やれやれ」と全裸のまま宿舎に戻っていった。

 この宿舎に戻るまでの間が曲者で、男性兵たちのスケベな視線が女性兵の膨らみにズケズケと突き刺さってくる。スコールが降るまでは急いでいるので互いに気にしないが、スコールが去った後はゆっくり出来るのでお構いなしに見て来るのだ。

 もう慣れたものだと堂々と歩く猛者もいるが、糖子のように慣れない者もいる。そして視線の大半はそうした慣れていない「初心な反応」をする者に向けられるのだ。

 だから糖子はスコールの後の宿舎に戻るまでの時間が好きではなかった。

 もっとも対処法がないわけではない。

 糖子は周囲を見渡し、目当ての人物を見掛けると駆け寄った。

琴音ことね

 手拭いを肩に掛けて堂々と歩く少女に声を掛けると、その少女は不機嫌そうな顔をして振り返った。まるで話し掛けられたのが不快とでも言うような表情であるが糖子は気にしない。そもそも彼女――青狭間あおざま琴音は普段からこういう仏頂面なのだ。

 琴音の目付きは鋭く恐ろしい。練習生時代、怒鳴る教班長をジッと見つめただけで教班長は半べそで逃げてしまったという逸話もあるくらいだ。

 ちなみに当人は反省の意を示しただけなのでわりとショックだったらしい。

 糖子が駆け寄った事で状況を察した琴音が男性兵たちをギロリと睨むと、今まで鼻の下を伸ばして糖子を見ていた男性兵たちは途端に顔を青くして逃げるように自分たちの宿舎に戻っていった。

「根性なしですね」

 鋭い目つきとは対照的な丁寧な口調で琴音は侮蔑の言葉を吐く。

「アナタも嫌なら物陰に隠れるとかすればいいのに」

「スケベの為に自分が不自由するのって負けた気分じゃない」

 膨れっ面で糖子が言うと、琴音は呆れたように「それもそうですが」と口をへの字に曲げた。

「琴音は気にならないの?」

「別に。減るものでもないですし」

 微塵も気にしていない、という表情で琴音は言う。

 本当に気にしていないのだろう。先ほどから通りすがりの陸戦隊の兵士が興味津々で見て来ているが、琴音は隠してもせずに堂々と歩いていた。

 二人で宿舎に戻り、半袖短パンスタイルの防暑衣袴を着る。この頃にはもう先ほどのスコールが嘘のように晴れ、突き刺すような暑さに戻っていた。

「そういえば妙な噂を聞いたのですが」

「妙な噂?」

 興味津々で糖子は聞き返す。

 何しろ三番島には興味をそそる様な噂が流れるのは極めて珍しい。ラジオはおろか新聞も来ないような情報過疎地であるのだから当然なのであるが、だからこそ「噂話」というのは搭乗員たちにとって数少ない情報源の一つであった。

「南進作戦についてです」

「なんしん?」

 糖子は首を傾げた。

「大陸での作戦が膠着状態になっているので、南の海洋地帯に進出して北中支の資源地帯を確保するという案が出ているそうです」

 琴音の「噂話」に糖子は少なからず落胆した。

 糖子の興味が湧くような内容ではなかったし、ほぼ在り得ない話であったからだ。

「南に進むわけないじゃない。大陸だって手を焼いているんだから」

 民間には連戦連勝を報じている帝國軍であるが、実態はそこまで順調ではない。勝ち続けているとはいえ北中支は大国だ。帝國軍が勝っても勝っても北中支にはなお余力があり、未だに「参った」と両手を挙げる様子は微塵もなかった。

 その程度の事は糖子のような下っ端の兵隊であっても知っている。だから軍が南に進んで、わざわざ戦線を拡大させようという噂など与太話の類にしか聞こえなかった。

「それよりさ、頼みたい事があるんだけど」

「なんでしょう」

「ちょっと昨日ギンバイしてきた缶詰なんだけどさ……」

 言いながら糖子は自分の寝台の下の床板を外す。

 この床下はギンバイしてきた物や食べ終わった空き缶などを隠しておく定番の場所であり、この中には主計科が紛失した食糧の七割が残骸となって隠されていると搭乗員たちの間で実しやかに囁かれている。

 糖子はその床下から幾つかの缶詰を取り出して机の上に置いた。

「昨日苦労してギンバイしてきたんだけれど」

 昨晩のことだ。

 主計科の人間が何やらコソコソしているので「これは何か貴重な缶詰か何かが来るに違いない」と察した糖子は、なんとか手に入れられないかと考えていた。

 そんな時、たまたま食糧庫に木箱を運んでいっている主計兵を見付けたので密かに付いていってみると、なんと彼は缶詰を数個落とした上に気付かずにそのまま置いていってしまったのだ。

 当然ながら見逃す糖子ではない。これはご馳走を手に入れた、とウキウキして開けてみたのであるが、しかし中に入っていたのは筍のような物の水煮であり、そのまま食べて美味しい物ではなかった。

「というわけで料理を頼みたいのでありますが」

 わざとらしい敬語を使いながら糖子が頼むと、琴音はいつも通りの表情で「それは構いませんが」と了承をした上で付け加えた。

「その筍のような物っていうのは何ですか?」

「なんて書いてあるか解らないんだよね」

 言いながら糖子は缶詰を琴音に手渡す。

 缶詰には当然ながら中身の表記がされているのであるが、難読過ぎてどうしても糖子には読めない。だから昨日は開けてみたのだがそれでも「筍っぽい何か」という事しか解らなかった。

「アスパラガスですね」

「あすぱらがす?」

 聞き馴染みのない名前に糖子は首を傾げた。

「西邦の植物ですよ。ハイカラですね。士官用でしょう」

 興味深そうに琴音は缶詰を見ていたが、しかし途中で眉間に皺を寄せて糖子に缶詰を返した。

「残念ですが私は料理で扱った事がないので、これを使って何かは作れません」

「えー」

 不服だ、という顔をしながら糖子は缶詰を元の場所に戻した。

「でも何かで使えるから良いか」

 食べられないから要らないという事はない。缶詰類であれば何かと物々交換できる事もあるだろう。少なくとも無駄になる事は無い筈だ。

 さて、これで料理してもらう物は手持ちにはなくなったのであるが、しかし久しぶりに琴音の手料理は食べたい。

「材料確保してくるから何か作ってくれない?」

「良いですよ。なに作りますか」

「うーん。とりあえず夕飯までには考えておくよ」

「解りました」

 了承はとった。

 あとは何をギンバイして来るか、である。


   ※


 夜。

 ハシヤマ分遣隊の飛行兵の食事を作る烹炊所は、飛行兵たちの宿舎からそう離れていない場所に置かれている。

 忙しい夕食の時間が終わり、食器類の片付けも終わって主計科にも平穏な時間が訪れていた。

 しかし一日の仕事を終えて静かになっても、明日の準備をしなければならないのが下っ端の主計兵の哀しいところである。古兵がいなくなっても、下っ端主計兵は明日の朝食の仕込みをヒッソリと行っていた。

「こんばんは」

 そんなところに糖子がひょっこりと現れると、主計兵達が「何しに来やがった」という視線を糖子へと投げつけて来る。彼らからしたら糖子は様々な問題の元凶なのであるから当然だ。

「もう片付けてしまったからギンバイする物はありませんよ」

 目も向けずに主計兵は忌々しげに言う。

「いやぁ、実は落し物を返そうと思って」

 言いながら糖子は昼間のアスパラガスの缶詰を取り出した。

「え? あっ! それは……!」

 主計兵は思わず大きな声を出してしまった。

 ギンバイなどされていないと思い込んでいたのだから当然だ。

 食糧庫に持って行く最中、つまり持ち込まれた数を確認する前に落とした物であるから紛失はないと判断されていたのである。そんな「紛失していない筈の物」がいきなり目の前にだされたら驚くのも無理はない。

「なんでソレを……ってギンバイしたからですよね」

「いやいや、私は拾った物を返しに来ただけです」

 主計兵は唸った。

 このアスパラガスの缶詰は琴音の言っていたように士官用に持ち込まれた物だ。当然ながら落としたと古兵たちに知られれば管理側もタダでは済まない。だから無事に返ってきたのは至極有難がったが、しかし糖子がすんなりと食べ物を返してくるとは主計兵には考えられなかった。

「……目的はなんですかね」

 観念した様子で主計兵が言うと、糖子はパッと満面の笑顔になった。

「焼き飯を作ろうと思っているんだけど……何かある?」

「焼き飯ですか」

 少し考えた後に主計兵は棚の中から肉の缶詰を一個取り出した。

「これでどうですか……というかこれしか出せないです」

「問題なし」

 ニコリと糖子は微笑んだ。

 ギンバイは食糧を盗む事の隠語と前に述べたが「食糧を盗む」というのは何も掠め奪い取るだけではない。駆け引きなどあらゆるものを使って食糧を手に入れる事を言うのである。

「一個、二個、三個……はい、オマケ」

 言いながら糖子はアスパラガスの缶詰と、煙草をポンポンと並べていく。

 搭乗員は食糧だけでなく嗜好品なども優先的に良い物が支給される。煙草も普通の兵隊に支給されるような安煙草ではなく、一般部隊では士官が吸うような物まで支給される時も少なくない。今まさに台に並べられているのも、そういった下っ端の主計兵が手に入れるのが難しい類の煙草であった。

「じゃあ、缶詰貰ってくよー」

 ありがとうね、とお礼を言いながら糖子は烹炊所から出て行く。

 その姿を見送り、台の上に並べられた煙草を手に取りながら主計兵はポツリと呟いた。

「こういう事をするから、あの人は憎めないんだよな」



「お肉の缶詰貰ったよ」

 宿舎では既に琴音がランプを改造したコンロと即席のフライパンを用意しており、糖子が帰って来るのを今か今かと待っていた。

「殊勲甲ですね」

 珍しく嬉しそうにしながら、しかし不機嫌そうな顔で琴音は言う。即座に二人で材料をみじん切りにし、夕食の残った白米に混ぜた。

 コンロに火を入れてフライパンを温める。このフライパンは事故で墜落した飛行機のフレームを加工した物であり、度々ギンバイ料理に活躍していた。

 十分にフライパンが温まると琴音がサイダー瓶に入った油を降り掛け、すかさずソコに糖子が笊の米と具材を入れる。

 サーッと琴音はソレを混ぜ合わせ、以前にギンバイしてきていた醤油で味付けをした。鮮やかな手並みである。

「……美味しそうな匂いがするね」

 そう言いながらソッと一人の搭乗員が顔を出した。どうやら焼き飯の匂いに釣られてやってきたらしい。

 少年のような顔つきをした小柄な搭乗員である。糖子たちと同じ三○八号に搭乗する年少兵で、名前を赤銅せきどう飛文ひふみという。

「自分は働いていないくせに飯だけありつこうとは不逞な輩ですね」

「盗んできた物を食べようとしている人間に不逞とは言われたくないね」

 憎まれ口の応酬をする琴音と飛文であるが、しかし糖子は全く気にはしなかった。

 元より海兵団時代からの腐れ縁である二人であるから、こういう憎まれ口の叩き合いは予定調和のようなものだ。組んで当初はハラハラしていたが今では微笑ましいくらいである。

 そもそもギンバイ料理の量も二人では食べきれず、概ね三人分ほど出来ている。飛文がヒョッコリと食べに来るのは毎回解っている事なのだ。

「文句があるなら食べないで良いです」

 そう言いながら琴音は皿に焼き飯を盛り付けていった。言葉とは裏腹に皿はキチンと三つ並んでいる。

「食べるとは言ってないのに盛ってくれるんだ」

「食べないんですか?」

「食べないとは言ってないよ」

「減らず口を」

 心底不快だという顔を琴音はする。

 このまま延々と罵り合いを始めるのは日常茶判事だったので、糖子は即座に「熱いうちに食べようよ」と二人に提案をした。

「そうですね」

「そうそう」

 糖子に二人とも賛同して箸を取った。

 美味しい物を、仲の良い友人たちと一緒に食べる。毎日のように続く日常であったが、糖子には南進の噂なんかよりもコチラの方が重要なのであった。

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