木製の自尊心-3

 その日最後の授業を終えて、クラスメイトと連れ立って教室を出る。どこのカラオケがいいか、とか、最近の流行りの曲は何だ、とか。そんなことを話しながら、大通りを歩く。

「そういえば、葉月って何歌うの?」

「何って、別に普通だよ」

 流行の歌なら一通りは歌える。そういう意味で誤魔化そうとすれば、ポケットからはみ出していたイヤホンを目敏く見つけられた。取り返す間も無くプレイヤーを奪われる。今日これ、何回目だよ。苦笑いを零す。

「って、あれ?クラシックばっか?俺がこないだ貸したCDは?」

「それ、クラシック用のプレイヤー。CDの方は別のに入ってる」

「あ、そういうこと」

 何の危うさもなく誤魔化し、再び雑談に戻る。

 そんなものだ。人は執着しないものに対して酷く淡白で、それに対する情報を得ようとしない。それで良いのかと。気付けなくて良いのかと。それは不安にはならないのかと。僕は不思議で仕方がない。

「次、葉月入れろよ」

「さんきゅー」

 五分ほどの議論を経て入ったカラオケで、マイクを回される。その場の流れで三、四曲歌う。

 ほら。別に興味のある人とでなくたって、無事に遊ぶことはできる。楽しむことはできる。そうだろう?

「葉月って歌上手いのな」

「そうかな。自分だとよく分かんないんだけど」

「上手いよ。もっと難しい曲とか歌えばいいのに」

「難しい曲?」

 ……そうだろう?

 カラオケでの雑談。ただ単純に、例えを尋ねるつもりで聞き返した。

「そ。なんか葉月いつも無難な曲ばっか歌うからさ」

 何故か。本当に何故か。言葉がやけに耳に残った。

「上手く言えないけど。葉月ってどこか遠い気がする」


***


「なぁ、僕って遠いかな」

「は?挨拶も無しにいきなり、何?」

「や、別に。昨日カラオケであいつらに言われたから」

 あいつら、と昨日のクラスメイトを指差せば、クラス委員が小さく笑った。

「へぇ。良いこと言うのな」

「良いことって」

 何となく気になってクラス委員に尋ねてみれば、はぐらかすように笑われる。これなら聞かなければよかったと唇を尖らせたあたりで、クラス委員の口が動いた。

「遠いって、物理的に遠いわけじゃねぇよ」

「知ってる」

 また、笑われる。

「今の、いつものあんたの真似」

「は?」

 聞き返してから気付く。

 昨日、CDを借りた時に僕がしたことか。相手のことを落ち込ませてから、ギリギリで機嫌を取り戻させる。相手の感情を自分が動かしているっていう確認。

 それはつまり、僕が他の人たちを見下しているということ。

 どうしていろんなものに触れようとしないのか。どうしてひと所に留まろうとするのか。自分みたいにこうやって自由でいられない人間は、縛られてしまうことには、何の意味も感じられない。勿体無いと思う。自分を過大評価しているわけではないけれど、そんな人たちよりは、自分の方がマシだと思う。

 そんな考え方をする自分は、可哀相なんだろうか。

「あんた今、イラッとした?」

「え、別に」

「そんなもんだよな」

「何が?」

「あんたがいつも人にやってることなんて、それくらいってこと」

「……意味がわからない」

 嘘。分かる。

 クラス委員が言いたいのは、誰も僕を可哀相に思わないということ。そんなに深く考える人はいないということ。だからこそ、気付かない人を勿体無いと蔑むことも意味がない。そんなことを、薄っすらと、なんでもないことのように言われる。

 クラス委員は、他のクラスメイトよりも賢い。そして同情の目を向けもしない。

「俺は昨日から読んでる漫画、好きだよ。あんたに勧めた五曲目も気に入ってる」

 人は皆、好きだと思う気持ちを大切にする。好きなものを宝物のように扱い、壊れないように見張り、それに心を囚われる。そんな物があるのは、確かに蔑む理由にはならないかもしれない。

 じゃあ逆に、そんな物にどんな意味があるだろう。

 それを、その質問を、この人にぶつけたら、どんな答えが返ってくるだろう。どんな言葉を突きつけてくれるだろう。執着できないことはマイナスだと。そう言われてきた僕に、どんな言葉を。どんな感情を。どんな正解を。

 問い掛けた疑問には、やはりあっさりとした答えが返ってくる。

「大したことじゃないだろ。俺はさ、人間て好きなものの組み合わせで成り立ってると思うわけよ」

 好きな映画、好きな小説、好きな番組、好きな音楽。好きな食べ物、好きな言葉、好きな人。

「そういうものが組み合わさって、その人っていう人格ができてる、なんて」

「うん、それで?」

「じゃあ、あんたは何だろうって」

 葉月。あんたの好きなものは何だ?

「あんたという人格を作り上げているものは、その自尊心しかないのか?」

 自尊心。はっきりと言葉を当てられた僕の心の一部が、ドクリと嫌な音を立てる。

 そうだ。自尊心だ。自分だけが特別でありたいという、自尊心。そのためには、他のみんなと同じように何かに執着してはいけない。群れてもいけない。自由に、そして群れる他の人たちを見下して。

 でも、そんな自尊心にはどんな力がある?そもそも、自尊心は機能しているのか?

「鋭いな」

「誰もあんたには何も言わないだろうから」

「みんな分かってるってこと?」

「ちげぇよ。あんたは、少し遠いから」

 また、言いたいことが分かる。

 僕が他の人から遠くても、クラス委員には分かる。それは、クラス委員が他のクラスメイトより少しだけ、僕に近いから。

 だけど彼は僕よりずっと上手く『好きなもの』を手に入れる。僕が僕を保つために必要だった、周りを見下すということ。そのためにさらに必要だった事柄の数々。例えば成績。クラスの中での立ち位置。自由さ。そういうものを全て、彼は手に入れているんだ。

 自尊心という名前の心が、キリキリと音を立てる。

 僕は彼に、いろいろなもので勝てない。自由というレッテルに囚われる。

「近づいた方がいいのかな」

 キリキリと音を立てるそこが、締め付けられて、押さえ付けられて、痛い。

 尋ねた言葉は、肯定を望む。

 そうだな。近づいた方がいいかもな。あんただって好きなもの持っていいんだから。好きなものを持つことは蔑まれることじゃないんだから。だからあんたがそうなったって誰も蔑まない。そう言って、肯定したがっている僕自身の背中を押してほしい。そのための、言葉だ。

 だけどたぶん、彼は分からないだろう。僕に近いだけで、僕と同じ場所にはいないから。

 キリキリと、痛い。締め付けられる。

「どっちでもいんじゃねーの」

 あぁ、痛い。この人には勝てない。僕はこの人と同じ場所には立てない。背中を押してくれない。それは、僕の意図を読んだことではなくて、読もうとも思っていないからで。読もうともしないことをマイナスだとも思っていない。そんな人と向き合うための、そんな人より上位に立つための手段を、僕は持ち合わせていない。

「冷たいな、笹本は」

「そうでもねーよ」

 クラス委員の目の前で、僕の自尊心は簡単に砕け散った。

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