レリジョンドール-4

**


 ポケットの中の携帯が震えた。取り出して、包み込んでいた手のひらに残る跡に合わせて握り込む。スライドしてメッセージを開けば、待ち望んでいた彼からの文字が並ぶ。

『最近連絡出来なくてごめん』

『ようやく少し落ち着いたけど、ご飯でも行かない?』

 思わず口角が上がる。すぐに肯定のメッセージを打ち、待ち合わせ場所を決める。彼が行きたいという少し地元染みた居酒屋の場所をネットでチェックして、再びポケットにしまう。どうしたってにやけてしまう口元を隠そうと、マフラーに顔を埋めた。

 彼との関係は、あの一晩で変わってしまった。私にとって唯一の理解者だという認識は一瞬で壊れて、それでも彼と私は共犯者になった。

 あの夜、飲み会の時に約束した通りに相談に乗り、乗ってもらった後。当然のようにホテルに入った。どちらが誘ったわけでもない。ただ当然の結果として、そうなってしまった。

 彼女さんはどうしたんだろう、とか、信じたかったのを裏切られた、とか。いろんなことを思ったけれど、それはすぐに彼に対する確信で掻き消された。

「なんで、断らなかったんですか?」

「どうしてだと思う?」

「私が聞いてるんです」

 ベッドに腰掛け、尋ねた。はぐらかそうとする彼に少しキツめに言葉を投げれば、困ったように笑う。

「ははっ。なんでだろうね。何て答えれば納得する?」

「何を言われても納得はしないと思います」

「そうかもな」

 話を断ち切るように、唇が重なる。その後は、雪崩れ込むようにしてセックスをした。

 呼吸の合間合間に盗み見た彼は私の知っている彼ではなくて、何度か見えてしまったあの違和感。

 彼の背中に手を回して爪を立てながら、何度も心の中で問いかける。あなたは、誰?どんな人?どうしてこんなことをするの?どうして、

「どうして、私だったんですか」

思わず漏れてしまった疑問に、彼の動きが止まる。ぶつかった視線で、彼が笑う。

 あぁ、やっぱり。心の中で吐息を漏らす。

「千夏さんが、嫌われていたから」

 この人は、優しくなんてない。綺麗なんかじゃない。周りの評価を常に意識しながらそれを絶対に落とさないよう、巻き込む人間だって選ぶ。すごく、頭のいい人。

 彼は初めから、私の噂を知っていた。他の人から私が何て言われているか、ちゃんと知っていた。何を言われたら私が喜ぶか、崩れるか、絆されるか。分かった上で声をかけて、共犯者に。そしてその噂があるから、その噂の上で私が自分の立ち位置を決めたから、彼の立場は揺るがない。

「……怖い人ですね」

「じゃあ、逃げてもいいよ」

 噛みつくようにキスをする。

 今更、何だと言うんだ。悪意だらけの私の噂がある中で、私の言い訳は一ミリも通用しないというのに。

 黙らせるように唇を貪り、言葉を奪う。

 恋愛なんかじゃなかった。愛情なんかじゃなかった。そんな、綺麗な名前の感情はなかった。

「彼女さんは、どうするんですか」

「どうもしないよ」

「さいってー」

 吐き捨てれば、そっと頭を撫でて宥められる。

「騙されませんよ」

「騙されてよ」

 頭に乗ったままの手を掴み、重ねる。少し低めの体温。大人しいけれど整った顔立ち。珍しくそこにある眼鏡を外し、戯れに掛けてみる。

「……彼女はさ」

 ポツリ。落ちてきた言葉に、いつもより視力の上がった視線を向ける。似合っているのかいないのか、クスリと笑われて、それからまた真面目な顔に戻った。

「彼女は、僕の理想なんだ」

 理想。口の中で転がす。甘やかで、でもどこか遠い言葉。

「正直に言うと、すごく大切だよ。大切だから、誰よりも優先するし、幸せにもしたいと思う」

「なら、どうして」

 どうして、わざわざ悲しませるようなことを。どうして、裏切るような真似を。浮かんだ言葉を口に出そうとして、慌てて飲み込む。彼の表情をじっと見つめた。

「騙されないです、私は」

 絶対に。

 さっきよりも強い言葉で伝えれば、困ったように笑う。

「千夏さん、頭いいんだね」

「お互い様です」

 もう一度、唇が重なる。たった一度だけ。重なるだけ。スッと離れ、同時に熱も引いていく。その後は背中を向け合って眠った。


**


 それから何度も食事に行った。その帰りに彼の部屋に寄った。何度もセックスをした。その度に私は彼に尋ねる。

 どうして?いつまで?何のために?終わりはあるの?その言葉を簡単にはぐらかし、彼はいつも笑ってこう言う。

「千夏さん、愛してるよ」

 優しい、はぐらかすための笑顔の下の瞳は、真面目な色をしている。間違いなく、その言葉は嘘だ。だけどたぶん、その言葉を本当にしたいと思っている。私と向き合おうとしている。

 恋愛なんかじゃなかった。愛情なんかじゃなかった。そんな綺麗な名前の感情は、私たちの間にはなかった。

 だからこそ私たちは依存し合った。優しくて軽い言葉を掛け合って、他の人には言えないことを打ち明けてセックスをして。そして最後は背を向けて眠る。

 彼は優しい人じゃない。綺麗なんかじゃない。頭が良くて、ズルい人だ。

 だけども。

 彼は確かに優しさを持っていて、その優しさはたった一人に向けられている。

 依存すればするほど、彼は私の欲しい言葉をくれる。それはとても心地いいし、その言葉が欲しくて彼との関係を続けるけれど。それと同時に、彼の心の中のたった一人の存在が大きくて大きくて、押し潰されそうになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る