レリジョンドール-3
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「おつかれー!」
「乾杯!」
プロジェクト終了後の飲み会。盛り上がる上司の人たちをやり過ごしながら、座敷の隅の方へ寄る。ワイワイと盛り上がるのは好きだけど、大人数はあまり好きじゃない。大人数の中に自分まで溶けて消えてしまいそうで、怖くなる。
ともかく無事にプロジェクトが終わってくれてよかった、と心で息を吐きつつ、グラスを傾けた。
トン。
ふと、すぐ隣から聞こえる、グラスを置く音。顔を向けて、一回逸らせてしまう。
少し、気まずい。あんなことを先輩たちに言ったものの、直接の対象でなくとも噂の一部という事実は相手に伝わる。だから、会議で顔を合わせても私からは話しかけられずにいた。
もしも、彼に噂が伝わっていたら?もしも、彼がその噂を信じてしまったら?はじめに私を気遣ってくれたのだって、もしかしたら噂を知らなかったからかもしれない。だとしたら、知ってしまったら彼はそれを信じてしまうのではないか。
小さく首を振る。どうでもいいじゃない、そんなこと。どうせ伝わってしまっている。私が同じ部署でどう思われているのか。彼の彼女に関して私がなんと言ったのか。それでもいいと、そう思ったのは私自身だ。
「お疲れ様です」
笑顔を向ける。空になったグラスにビールを注ぎ足し、それにカツンと自分のグラスをぶつける。
「お疲れさま」
向けられたのは、優しい笑顔。
あぁ。心の奥がブワッと熱くなって、それと呼応するように顔にまで血が巡って。一気にグラスを煽る。赤くなっているであろう顔を、アルコールのせいにしたかった。
それから色々なことを話した。彼の部署のこと、私の部署のこと。学生時代の話、家族の話。それから、彼女の話。
「誰にも言わないでね」
恥ずかしいからと笑う彼はすごく優しそうで、間違っていなかったと、そう安心した。
「千夏さんは?あるでしょ?僕の同期も騒いでるし」
「からかわれてるだけですよ」
「そうなの?……もったいない」
「あはは」
細められた目に、ゾクリとする。何かを、見たような気がした。一瞬で消えたそれを探しつつ、軽い笑顔を浮かべる。
彼は、優しい。彼女を想う気持ちだって、すごく綺麗だ。私は間違っていなかった。それなら、もう戻れないよう、自分に言い聞かせなくちゃ。
「じゃあ今度、お茶でも行きません?」
明らかにそう聞こえる言葉を、言い方を、表情を選んだ。
ごめんね、彼女いるから。みんなで行こうか。幾通りも考えた返答。きっと返事はそのどれかで、どれであったとしても私の言葉は否定されるんだろう。
それでいい。私の印象を刻みつけると同時に、私の中にも自分の役割を刻み込む。もう、戻れないんだから。
目を瞑る。息を吸い込んで、彼からの言葉を待つ。
「……いいよ」
目を見開いた。
「僕なんかで良ければ。デートの下見なんてしたことないし、役に立つか分かんないけど」
あぁ。息を吐く。そういうことか。ホッと息を漏らしながら視線を上げる。
上げた先で、動けなくなった。
絡め取られる。巻きついて、離れない。あれ、こんな顔をする人だっけ。こんな目をする人だっけ。知らない。
この人は、誰だろう。
「葉、月さん」
掠れた声が漏れる。
「千夏さん、この後ちょっと付き合ってくれないかな」
「何に、ですか?」
「今度彼女との記念日なんだ。だからプレゼントの相談に乗ってもらいたくて」
スッと、彼の瞳から熱が引いていく。何度か見た、優しい視線。さっきのも、見間違え、だろうか。でも、あんなに優しい人が。みんなに認められているような人が。さっきまで手放しで彼女の話をしていた人が。きっと、そうだ。見間違えだ。そう信じなければ。信じたい。信じさせてくれないかな。
だから私はまた、小さな小さな罠を張る。
「いいですよ。それじゃあその後、私の我儘にも付き合ってください」
今が飲み会で、その後に相談に乗って、さらにその後。そうそう健全な時間でないことは、明らかだ。
危なっかしい綱渡り。
それに乗って欲しくなくて、乗らないことを確かめたくて、紡いだ言葉を追って私は彼を盗み見る。
「じゃあ、それでお互い様だね」
否定をしないその優しげな顔にはその言葉以上の何も浮かんでいなくて、私は余計に分からなくなった。
「おまえら、そんなとこでちびちび飲んでねぇで、こっち来て一緒に飲めよ」
「あ、はーい、今行きます。……じゃあね、千夏さん。また後で」
分からないまま、彼は立ち上がって隣を抜け出してしまう。その後ろ姿を見送りながら、さっきの会話を思い返した。さっきの瞳を思い出した。
分からない。彼は、何を考えているんだろう。
彼は、頭が良い人だ。成績優秀とか、いい大学出身とか、そういう意味じゃなくてきっと、生きていく上ですごく賢くて、うまく周りを操る人だ。
グラスの周りの水滴を、指で拭う。ひんやりとした感覚に指が濡れる。
優しくて賢い人がわざわざ、大切な彼女を悲しませるようなことをするだろうか。自分を貶める可能性のあることに手を伸ばすだろうか。
「千夏ちゃんも一緒に飲もうよー。ほら、こっち座って」
不意に、腕を引かれる。バランスを崩しかけて慌てて立て直し、愛想笑いを浮かべて呼ばれたテーブルに紛れ込む。
あぁそうか。ふと気付いた。
彼はきっと、私とどこか似ている。
次の日、瞼を開いた私の目には、見慣れない天井が映っていた。
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