道化師の憂鬱-3
「葉月―。俺帰るけど、鍵どうすればいい?」
携帯を置き、服を着る。机の上に散乱していたビールの缶を適当にゴミ袋に詰め、見苦しくない程度に整える。冷たいシャワーにあたったせいで完全に酔いから醒めた頭で身支度し、寝室を覗いて声をかけた。眠りが浅かったのか、すぐに返事が返ってきてドキリとした。
「笹本、帰れるのか?」
「まだそんな遅い時間じゃねぇし。じゃなくて、鍵どうすんだって。葉月玄関まで来れる?」
「あー、そこの引き出し」
ベッドのすぐ隣に置かれたミニデスクの引き出しを指さされる。素直に従って開ければ、銀色のそれが目に入った。
「これ使えって?」
「当分誰かに渡す予定もないし。笹本、次会うとき返して」
「……了解」
おそらく真弥から返されたのであろう合鍵を握り締め、緩く唇が弧を描く。あぁ、なんだ。馬鹿らしい。
「んじゃあな」
「あぁ。……笹本」
「ん?」
「さんきゅーな」
「二日酔いで苦しめ」
ふふ、という笑い声を背中に聞きながら、彼の部屋を後にする。
マンションから一歩踏み出せば、冷たい風があっという間に熱を奪っていく。マフラーに顔を埋め、僅かに高揚する気持ちを、合鍵を強く握り締めることで押し殺した。
葉月が失った相手。俺がまだまだ手に入れられない相手。葉月は合鍵を彼女に渡すことはできないし、だけど俺はこれからも彼女とデートの約束ができる。
なんだ。俺も葉月も、立っているのは同じラインじゃないか。いつまで俺は、彼女の中の葉月に遠慮しなくちゃいけない。
俺は自分でも吐き気がするくらいに嘘つきで、最低で、ずるい人間だ。葉月を励ます口で何度でも真弥を口説くし、場合によってはそれ以上だってする。罪悪感はある。気まずさもある。それらを感じないほど神経が図太いわけではないけれど、それでも。
もう、遠慮するのは終わりだ。
『ーー駅、ーー駅です。お降りの際は……』
電車を降りて改札を抜ければ、大切な人の背中。近づいて、肩にそっと手を乗せる。パッと弾かれたように振り返った彼女に、優しく声をかける。
「真弥。お待たせ」
ぶつかった視線が、少しだけ不安げに揺れる。その瞳を捉えたまま、にっこりと笑ってみせる。大丈夫、大丈夫。そう言い聞かせるように。
悩んでいるのは知っていた。揺れているのも知っていた。葉月との関係に傷つきながらこっちに傾きつつあることも。俺の言葉に黙って騙されつつ、それでも苦しんでいることも。全部全部分かっていた。
こんな俺は、きっと最低な人間なんだ。そう、ずっと思ってきたけれど。
「・・・・・・行こうか」
手を差し出す。一瞬の迷い。すぐに灯る、手のひらの熱。
真弥を抱いたのは、あの夜が最初で最後だ。もう限界だ、疲れてしまった。そう言って縋ってきた真弥を、励ますためだと正当化して抱いた。
幸せだった。それで彼女が苦しもうと、悩もうと、揺れようと。その度に自分が彼女の中に刻まれるような気がした。
そんな幸せは、一度きりだった。
彼女は俺のことで悩んで、悩んで。俺のことを考えて、それと同じくらい葉月に縛られて。揺れるたびに彼女の中の葉月がどんどん大きくなる。どんなに弄りまわしたって、葉月のつけた傷は葉月の形でしかない。何度も何度も、もう一度と彼女に手を伸ばそうとして、だけどもう一度でも抱いたら、彼女の中の葉月の幻影に押し潰されそうで怖くなった。
「笹本さん?」
不意に、不思議そうな彼女の声が聞こえた。ぼうっとしていたらしい。覗き込んでくる瞳に笑いかけ、唇を開く。
「真弥。俺、頑張るから」
「何の話?」
「んーん、何でもない」
彼女の中に葉月がいるのなら、彼女の中の俺をもっと大きな存在にしてしまえばいい。葉月型の傷の形が変わらないのなら、それを俺が覆い隠してしまえばいい。
「真弥」
首を傾げる彼女に、一言。
俺を好きになってよ。
Fourth cut. 道化師の憂鬱
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