道化師の憂鬱-2

***


「おい、葉月。寝るならベッド行けよ」

 床にあぐらをかき、机に突っ伏す葉月の背中を軽く叩く。面倒くさそうに持ち上がった視線が俺の顔を捉え、申し訳なさげに歪んだ。

「あー、ごめん。そうする」

「そうしろ」

 ゆっくりと立ち上がったその手に水の入ったペットボトルを渡せば素直に唇をつけ、手のひらで拭ってから寝室へ向かう。その背中に問いかける。

「葉月。シャワー借りてい?」

「いいけど、笹本、今日どうすんの?泊まる?」

「いや、帰るよ。明日仕事早いしな」

「そっか。悪かったな、急に呼んだりして。ちょっと、楽になった」

「いーえ、そんなん今更だろ」

 ふふ、と笑って寝室へ消える。それを見送ってから携帯を掴んだ。

 勝手知ったるマンションの一室。決して広くもなく、綺麗でもない、どこにでもあるような部屋。迷いもせずに洗面所の扉を開け、ため息を漏らす。

「何が」

 何が、フラレた、だよ。

 勢いよく蛇口を捻れば、冷たい水滴が降ってくる。暖房の効き過ぎとアルコールで高くなった体温に触れ、背中を流れ落ちていく。苛立ちとともに吐き出した吐息の酒臭さに思わず顔を顰めた。

 普段は酒を飲まない葉月のペースはいつもよりかなり早くて、目に見えて酔っていくのが分かった。ポツリ、ポツリと。零すように告げられた、真弥とのこと。いつも話していたこと、一緒に行った場所、思い出話。溢れ出たそれの後に、別れの言葉が続く。

 適当に相槌を打っていれば、しばらくしてすぐに酔いつぶれて静かになった。

 顔を真っ赤にしつつ寝息を立てる葉月を、無表情に見つめた。一見大人しくも見えるその顔立ちは確かに整っていて、そこに浮かんでいた優しげな表情も、記憶に新しい。

 だけどさ、葉月。最後にその表情を向けたのはいつだ?その表情で、優しい声で、優しい言葉で。自分を見せたのは。

 最近コンタクトに変えたのだというその瞳には、今コンタクトは入っていなくて、今まで使っていたはずの眼鏡が彼の手に握られている。首元に顔を寄せれば、アルコール特有の匂いとともに漂う、甘い香り。

 今更、どんなに彼女を想っていたと聞かされたところで、何も心は動かない。

「何が、フラレた、だっつーの」

 背中を流れ落ちる水の冷たさに、いい加減体が冷えてきた。シャワーをお湯に切り替え、鳥肌を払うように腕をこすりつける。

 吐き気がする。

 洗面所の床に落ちていた長い髪に。真弥が来ていないにも関わらず散らからない部屋に。それなのに如何にも傷ついたふうに酔っ払う葉月に。

 真弥が苦しんでいるその間、あんたは何回他の誰かを部屋に上げた?その相手と、あんたは何をした?

 決して綺麗ではない、どこにでもある部屋。そこには葉月と他の誰かの色が濃厚に残っていて、だからこそ、葉月と真弥の関係まで生々しく感じてしまう。葉月はきっと、ここで真弥じゃない誰かを抱いて、それと同じように真弥を抱いたこともあって。

 吐き気がする。

 羨ましい。そう思ってしまった自分に。

 真弥以外の誰かを抱きながら、真弥を傷つけながら、それでも真弥は葉月を想う。どうして俺は、そんなあんたと比べられないといけない。どうして俺は、そんなあんたを越えられない。

 笹本さん、やっぱり筋肉あるね。葉月くんよりずっと硬い。

 初めて真弥を抱いた日、真弥に言われた言葉が耳から離れない。俺の腕の中にいて、俺の背中に手を回しつつ、それでも彼女が比べる対象はあんたなんだ。無条件に彼女の頭の中に居座ることができるあんたが、彼女の中のすべての基準となれるあんたが、俺は羨ましくてたまらない。

 無造作に髪を掻き上げ、勝手に棚から取り出したタオルで顔を拭う。鏡に映る、自分の顔。一般受けするその顔立ちだって、今は少しもありがたくない。どんな顔つきだろうと、彼女は葉月との比較でしか認識をしないから。

 吐き気がする。

 そうして全てを葉月のせいにする自分に。浮かぶ嘲笑。

「俺は」

 携帯に手を伸ばし、番号を探す。もう手に染み付いた操作で彼女に電話をかける。どうしても、声が聴きたくなった。

『……もしもし、笹本さん?』

「真弥」

 ツーコールで途切れた機械音の代わりに響いた声に、息を吐き出す。思いがけず掠れた声が出て、真弥が不審げに疑問を漏らす。

「あのさ、真弥」

 今、葉月んちにいる。

 短く答えれば、受話器越しに息を呑むのが分かった。

『なんで?』

「ごめん、どうしても声が聴きたくなって」

『葉月くん、は?』

「飲みすぎて寝てる」

『そう……』

 真弥の声に、切なさが滲む。俺はそっと、息を吸い込む。

「真弥。これからどっかで会えない?」

『え?』

 戸惑い。軽く笑って、なんでもないことのように続ける。

「いや、葉月寝ちゃったしさ。俺的には飲み足りないんだけど一人で飲むのも寂しいっていうか。真弥、付き合ってよ」

『え、でも、今から?』

「大丈夫。ちゃんと帰りは送るし。俺、そこんとこはしっかりしてるから」

『でも』

「いいじゃん。オススメの飲み屋あるんだ」

 強く押せば彼女は決して断らない。わかっているから言葉を羅列する。案の定断りきれなかった真弥の肯定を聞いて、再び鏡に浮かぶ嘲笑を見つめた。

「ありがとう。最寄駅で待ってて?迎えに行くから」

『分かった。待ってるね』

 あんた、これからどうするつもりだよ。最悪なのはあんただろうが。

 鏡の中の自分は何も答えない。ただ、口元に浮かんでいたはずの嘲笑は確かに喜びを含むものになっていて、余計に心が重たくなった。

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