迷い線のデッサン-3

 あの人の後ろ姿を見送って、自分の携帯を開く。九時、と表示された時計の下に、メッセージが届いていた。

『さっき言いそびれたけど、前髪切ったんだね』

 笹本さんだ。

『爪、綺麗な色だったけど、会社では落としちゃうの?』

 彼はいつも、私の欲しい言葉を欲しい時にくれる。じわ、やっぱりどこかが温まる。

 うん、前髪切ったんだよ。でもね、マニキュアは落としちゃう。だって葉月くんに見せたかったんだもん。

『今度俺にも付き合って?オススメのお店があるんだ』

 うん、ありがとう。そうやって、私も葉月くんの好きを知りたい。

『次は葉月を連れてってやれよ』

 だからね、それじゃ意味ないんだ。葉月くんが連れて行ってくれなくちゃ。

『俺の魔法は効いた?』

 笹本くんの魔法は、効かなかったよ。

 思った瞬間、目が熱くなった。

 そうだ。あの人はいつも、理想の彼氏を演じてくれる。私が望む彼氏でいてくれる。

 だから私は辛くなる。私もあの人の望む彼女になろうと、演じようと。もがいてもがいてもがいて、それでもあの人みたいに上手くは出来なくて。苦しくて、辛くなる。

 目の奥が熱い。鼻がツンとしてくる。

 気持ちが離れていくのだって、知っていた。私以外の誰かを大切に思っていることだって、知っていた。なんてことないはずだった。今までだって、あの人はずっと理想の彼氏で、これからだってきっとそうで。今更、なんとも思わないはずだった。

 なのに、なんで、今。

 ……プルルル、プルルル。電話が鳴った。

 柄にもなく、葉月くんであって欲しいと思った。それと同時に、違って欲しいと思った。今葉月くんと話したら、みっともないことを言ってしまいそうだ。

「もしもし」

 涙を抑え電話に出る。声が少しだけひしゃげた。電話の向こう、息を呑むような間。数秒経って、声が聞こえた。

『橘さん、泣いてるの?』

 もう、ダメだった。

 理由は分からない。きっかけも分からない。涙が零れて、喉がヒクヒク嗚咽を漏らす。

「笹本、さんっ……」

『橘さん、どうしたの』

 何も変わらないはずだった。今までも、これからも。あの人はずっと変わらない。それなのに、なんで、今。

 止まれ、止まれ。こんなの笹本さんを困らせるだけだ。

 止まれ、止まれ。ほら、笑って、なんでもないよって。

「笹、本さん」

『どうしたんだってー。……真弥』

「……っ!」

 違う、違う。違うんだ。今までもこれからも変わらなくって、だからこのままでよかったんじゃなくて。そうじゃなくて、辛くて苦しくて悲しくて羨ましくて惨めで。

 もう。

「疲れちゃった」

 あの人の理想になろうと演じるのも、私を優先するあの人を見て見ぬ振りするのも、知らない誰かに惹かれるあの人を手放さないように握りしめるのも、全部。疲れちゃった。

『橘さん、今どこにいるの?』

「駅前」

『橘さんの最寄り?』

「……うん」

 もう訳がわからなくて、どうしようもなくて、涙が止まらない。グズグズと鼻を啜りあげると、笹本さんが小さく笑った。

『待ってて、すぐ行くから』

「え?」

『俺が行きたいから。待ってて』

 いつもみたいに明るくて、優しい。

 葉月くんなら、来てくれたかな。きっと電話で励まして、私を幸せな気分にして、それでおしまいだ。私じゃ葉月くんをわがままにできない。

『お願いだから帰るなよ。着いたとき俺ボッチとか、めっちゃ悲しいからさ』

 何度も何度も、そこにいろという。全部俺の我儘だから、と。優しさが、心に染みる。

『今、電灯の横に立ってる?』

「うん」

「『見つけた』」

 携帯と真後ろの声が重なった。

 振り返る間も無く、後ろから手が回る。トク、トク、という穏やかな心音。暖かい体温が、背中に伝わる。

「笹本、さん?」

「そうだよ」

「なんで、こんな」

「真弥が泣いてるかもしれないから」

 体勢が恥ずかしくなって、今更のように抵抗してみる。すぐに真面目な声が返ってきて、体の力が抜けた。

「泣いてない」

「ほんとに?」

 クスクス、首に息がかかってくすぐったい。

「ほんとだから」

「そっか。……ねぇ、俺たちって恋人に見えるのかな」

「何言っ」

 思わずばっと振り返る。想像以上に近くにあった顔は、予想外に困ったような表情を浮かべていて。

「真弥は、なんで葉月がいいの?」

 私が逆に戸惑ってしまう。

「葉月くんは、」

「うん」

 優しくて、私のことを考えてくれて。

 律儀に相槌を打ってくれる笹本さんに答えようとして、ヒクリ、とまた喉が震えた。そうだよ、葉月くんは理想の彼氏で、だからそれが辛いんだ。涙が浮かぶ。

「葉月くんは、私じゃない誰かが大切なんだ」

「それは葉月が言ってたの?」

「ううん、でも分かる」

 あやすように促される。たまに手が伸び、流れた涙を拭ってくれる。

「例えば?」

「今日、知らない人の香水の香りがした」

「新しく買ったのかもよ?」

「私の変化に気づいてくれない」

「照れ臭くて言えないだけかも」

「葉月くんは我儘を言わない」

「……それは」

 葉月くんに他の誰かがいることは、ほぼ確実だ。それだけど。

「葉月くんはいつも私を優先させる」

 だから私は辛くなる。だから私は葉月くんを手放せない。甘えてしまう。そんな自分が惨めで、嫌いだ。

 思わず目の前にある笹本さんの服に縋る。キュッと握り締めると、耳に唇が近づいた。

「真弥?」

「ごめんなさい、今だけ」

「そうじゃなくて」

 ねぇ、俺じゃダメ?

「俺じゃ、葉月の代わりにはなれない?慰めてあげられない?」

 大丈夫、大丈夫。きっと全て、うまく行くから。

 優しい声。暖かい手のひら。私が欲しかった言葉たち。背中に手を回すと、ギュッと抱きしめられる。

「笹本さん、助けて」

 ……そこから先は、覚えていない。

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