第13話(2019/2/5 改稿)
翌朝、アリアは勝手にベッドを抜け出したことが早々にばれ、仕置きと称してがっちりとイドラに囚われていた。
もちろんベッドの中である。正直この執着気質だけはどうにかならないものかと思うアリアだった。
ちなみに、なぜばれたのかと問えば。
「お前の匂いが薄かった」
真顔できっぱりとそう答えられ、さすがのアリアも絶句した。この男はここまで面倒臭い男ではなかったような気がするのだが。
イドラはベッドで硬くアリアの四肢から自由を奪いながら、艶めいた声で囁く。
「俺を見張るんじゃなかったのか? なんでお前がいなくなっている」
「私、あなたを見張るだなんて一言も宣言していないような気がするわ」
「戯れ言だな。俺への『調教』とやらはもういいのか?」
「……あなた、調教されたいの?」
アリアは若干引き気味に尋ねた。その場合、この男の認識を改めなければならない。
「女というのは大体嬉々として俺に従うか泣きながら俺に従うかのどちらかだったからな。そういうことを言われたのは初めてなわけだ。興味はある」
アリアは呆れた。
随分と御丁寧な鬼畜発言である。
「俺を変えられる人間など俺は知らん。だが、お前といると不思議と飽きないからな。少し期待はしている」
「調教対象に期待されるのってどうなの……」
まあそもそも、シルフ以外にアリアは人を矯正したことなどないのだが。少なくとも、自覚はない。
半眼になったアリアにくつくつと笑い、イドラはするりとアリアの髪を手に取った。
「あまり焦らすと、俺はお前に飽きるかもしれないな?」
「あら、飽きさせない自信くらいあるわよ、舐めないで」
「ほう?」
「そうね……そんなに調教してほしいのなら、今日はちょっと我慢を覚えてもらおうかしら」
「? 何を……」
にっこりと演技めいた微笑みを浮かべたアリアを訝ったイドラの耳に、どたどたと無遠慮な足音が聞こえてきた。
「アリア様! もう昼だよ、いつまで寝て……は!?」
「あ?」
「あら、来てくれると思っていたわ、レオ」
いきなり現れたレオに驚いたのか拘束が緩み、その隙にアリアはするりとしなやかに腕から抜け出した。
躊躇うことなく扉へ向かう。顔を真っ赤にして固まっているレオの腕をとって、花がほころぶような笑顔を見せた。
「私、今日はレオと街へお出かけに行くわ。傷に障るといけないから貴方はここで安静にしていることね」
言い放ったのも束の間、妻に逃げられた夫はベッドの上にゆっくりと身を起こした。
その目は一切笑っていない。口だけが滑らかな弧を描いている。
「アリア、ひとつ言っておく」
「あら、何かしら」
「俺はお前が他に男を作っても、金を湯水のごとく浪費しても、血が見たいと駄々をこねても、それほど腹は立たないが……」
この人は自分のことをなんだと思っているのだろう、とアリアは思った。
しかし次の瞬間、イドラは猛禽類のような瞳でアリアを見据える。
「だが、許せないこともある。それは俺を蔑ろにすることだ。俺の手の届かない範囲にいることだ。俺がお前に飽きないうちから俺を遠ざけるなら……俺はお前を監禁くらいはするだろうな」
「あらあら、ふふふ」
既に泡を吹いて倒れてしまいそうなレオの腕を支えながら、アリアは冷たい微笑みでそれに応えた。
「寝言は夢の中で言うといいと思うのよね」
イドラは口だけで笑った表情のまま固まる。
アリアは笑みを深めた。
「勘違いしないでもらえるかしら? 今怒る権利があるのはどう考えても私よ」
ゆったりと言い聞かせるように首を傾げる。
「考えたのだけれど……私、昨日あなたに泣かされたわよね」
レオがえっと声を上げてアリアの顔を見上げた。にこりと笑った目には赤みなど残っておらず、普段通りの姿に見える。
イドラはやや苛立ちの交じる声で答えた。
「まあ、そうだな」
再びレオがえっと声を上げた。正直な少年だ。そのまま純粋に育ってほしいものである。
「なら、それを反省するくらいはしてもらってもいいと思うのよ」
「反省? 俺がか?」
「ええ、人は反省から成長するものよ」
もっともらしいことを言って、可愛らしく小首を傾げる。
「本当に、勘違いしないでほしいのよ。私はあなたの奴隷ではなくて妻だわ。妻を泣かせた夫には反省が必要。これは当たり前のことではないかしら?」
イドラは何も言わずにアリアを観察するように見ていた。アリアはやれやれとでも言うように首を振る。
「情けないわ。私はあのとき泣くのではなくて説教をするべきだったのよ」
「そうか、俺はお前の泣き顔は嫌いではないがな」
思わぬ方向からの反撃に一瞬心が揺れた。目を見開いて固まる。どこから湧いたのか分からない困惑と少しの恐怖が胸を満たした。
しかし一瞬後にはどうして自分がそこまで動揺したのか分からなくなっていた。気を取り直してゆるりと目をすがめる。
「そういう冗談はやめてもらえるかしら。趣味が悪いわよ」
「阿呆か、そんなくだらない嘘をついてどうする。俺がお前の泣き顔を見ると興奮するのは本当だ」
アリアは唖然として口をぱくぱくさせた。意地悪く笑っているかと思いきや彼は真顔である。
わけもわからず困惑したアリアの耳に、大量の足音が聞こえてきた。
「おい! お前速すぎだろ! 足の筋肉どうなってんだそれ!」
はっと意識が覚醒する。
廊下の向こうから駆けてきたのはローガン率いる私兵たちだった。離れにいるはずの彼らの姿にアリアはほっと胸をなでおろす。
「ありがとう、来てくれたのね」
にっこり微笑んだアリアに、ローガンは気力を削がれたような顔をした。
「いや、まあそりゃ、呼ばれたし…………あー、えっと、とにかく、
「ええそうよ。話が早くて助かるわ。あ、でもローガンは私の護衛として街に付いてきてくれると助かるわ」
「えー? かったるいなあ……まあいいけどさ」
いきなり現れた屈強な男たちにイドラが眉をひそめる。
「おい、何故お前らがここにいる」
「え、なんでって……お嬢に呼び出されたからだけど」
「何?」
視線を一身に受けて、アリアは緩やかに微笑んだ。
「夜中に抜け出したとき、離れのほうへ手紙を出しておいたのよ。私が昼まで起きてこないようだったら、できるだけ大人数で迎えに来てほしいって」
イドラの野生動物並みの勘は侮れない。夜中に抜け出したのがバレてしまったときの対策である。案の定だったので助かった。
「ちなみに、あなたを見張る役割も追加してあるわ」
「なんだと?」
「だってあなた、満身創痍じゃないの。今日一日は絶対安静でしょう、どう考えても」
きっぱりと告げる。
そもそもこの怪我でアリアを抱きしめたりベッドに引きずり込んだりできていることが異常なのである。普通だったら一週間は寝たきりだ。
「調教、されたいのでしょう?」
にっこり笑うと、彼は唇の端を歪めた。
「お前……いい性格をしているな」
「あら、褒め言葉よ」
言って、アリアはひらりと手を振るなりレオの腕を引いて部屋から出た。
「安心していいわ。私が自分から貴方の元を離れることなんてないわよ。そんな無責任なことはしないわ」
「……日暮れまでに帰ってこなかったら、覚えておけ」
アリアは密かに驚いた。イドラはひどく渋い顔をしていたが、それは確かに彼の初めての譲歩だった。
艶やかに笑う。
「ええ、分かったわ」
いつもより三割増しほど軽やかに、アリアは道を進んでいた。その両脇を固めるのは二人の少年である。
そのうちの一人、レオがおずおずとアリアの顔をのぞきこんだ。
「ねえ、本当に良かったの? アリア様。イドラ様、置いてきちゃって」
「本当にな。お嬢みたいな態度を取れる人がまだいるとは思わなかったぜ」
両手を組んで首の後ろに当てながらローガンは口を尖らせた。
「あら、そんなにおかしなことをしたつもりはないわよ。大体駄目でしょう、あの怪我で動くこと自体が。信じられないったらないわ」
何が楽しくて自分の夫が寿命を縮めるさまを見なければならないのだ。大人しくなってくれとは言わないが、強制的に休ませるくらいはしても許されるだろう。
肩を竦めたアリアに同調するように、両脇の二人は苦笑した。
やはり、口には出さずともイドラという男が血に酔う姿は困ったものなのだろう。
「それで? お嬢はどこ行くんだ?」
「そうね……正直考えてなかったのよね。まさか本当に上手くいくとは思ってなくて」
アリアは顎に手を当てて唸った。
イドラを連れずに外を出歩くこと自体、そう簡単に出来ることではないと思っていた。それが、イドラ本人から許しを得たらひどくあっさりと成功してしまったのだ。
「まあ、誰も反対しないからな、普通は」
「というか、あの家で反対なんてできないんじゃないかな……」
「まあ、そうね」
イドラにはっきりと物を言う人など、初日の現ヴェルディ伯爵くらいなものだろう。とはいえ、彼のイドラに対する言動もあまり好ましいものではなかったが。
あとは……
「まあ、それはいいわ」
あっさりと頭を切り替え、アリアは周りに目を向けた。
「私、そういえばこの辺りの店をちゃんと見たことなかったの。だから、今日はとことん楽しむわ。服も雑貨も見たいものは沢山あるのよ。ちょうど私の趣味に一々口を挟んでくる無遠慮男もいないことだしね!」
「いい笑顔でものすごいこと言うよな、お嬢って……」
ローガンの顔がやや引きつっている。
アリアは婉然と微笑んだ。
「勘違いしないでね? 別にイドラが嫌いなわけじゃないのよ」
「それは分かってるよ。アリア様はイドラ様のこと好きだもんな」
レオの言葉にきょとんとする。
「好き……なのかしらねえ」
首を捻る。アリアは恋だの愛だのにかまけている余裕はなかったから、やはり未だにそういう感覚は分からない。昨日の口付けも、落ち着いた今となっては猛獣に甘噛みされたくらいの感覚だった。
「好きって……どうすれば好きだって分かるのかしら?」
「えー……俺に言われても困るよ。心臓が痛くなるとか、ちくちくするとか?」
レオが困ったようにローガンを見たが、彼もひょいっと肩を竦める。
「俺だって知らねえよ。娼館にいる女たちが言うには『胸が苦しくなって息をするのも辛い』らしいけど」
さらりと彼の口から飛び出した情報源に呆れつつ、アリアは首を横に振った。
「まあ、別にいいわ」
首を振ったアリアに男二人は顔を見合わせて苦笑した。
「あら、なあに?」
「いんや、別に」
「なんでもないよ。ほら、行きたいところあるなら行こ。この辺りはすぐ混むから」
レオンが言って、アリアを人混みの隙間に誘導する。流石というか、彼は人の波がどこでどのように発生し、収束するのかを熟知しているらしかった。
ぱらぱらと増え始めた人の数にローガンが顔をしかめた。
「つーか、そんなお忍びみたいな格好で来ないほうが良かったんじゃねえ?
とことん失礼な発言であることに気づいていないローガンに苦笑しつつ、アリアは「別にいいのよ」と言う。
「そういう人たちと争うのは疲れるのよ。要はイドラが私に飽きなければいい話でしょう?」
シルフのときでもう懲りた。彼女たちはアリアの心中など度外視でこちらに敵意を向けてくる。一々対応していたら身が持たない。
それに、どこをどう評価しているのか知らないが、イドラはアリアへの興味が尽きないようだ。その調子で愛人など作らせないでおくのがアリアの仕事だろう。将来跡取り問題が複雑になるのは御免である。
「ふーん? なんか、極道の女って感じするよね、あんた。姐さんって呼んでいい?」
「もちろん駄目よ。何故いいと思ったの」
呆れ果てた。イドラの周りには自由人しか集まらないのだろうか。
困惑しつつも気になっていた雑貨屋や小物屋を巡り、最終的には荷物も増え、彼らに手伝ってもらうほどになった。この街へ来て結構経つが、全く買い物などしていなかったと気づく。
「悪いわね、二人とも。色々持たせてしまって」
「別にー? 重くねーし。剣に比べたらこんなの、かさばるだけだしな」
「アリア様に雇われてるのに、主人に荷物持たせたなんてことになったら駄目だからね。大丈夫だよ、俺、これの五倍は持てるから」
既に二桁に届きそうな袋を抱えてレオが笑う。そういえばこの少年は結構悪辣な職場で働いていたことがあるらしいのだ。孤児というのはそれだけで冷遇されるのか、彼には奴隷根性が染み付いている節がある。
今日の夕飯は少し豪勢にしてあげようとアリアは決意した。
「そろそろ帰りましょうか、日も暮れるし……」
別にもう少しいても良かったのだが、『日暮れ前に帰る』という約束がある。破れば後でイドラにどんな目に合わされるか分かったものではない。そしてそれ以上に、アリアは不誠実なことが嫌いだ。
「辻馬車でも探しましょうか」
何も考えずに出てきてしまったので、帰りの馬車の手配をするのを忘れていた。きょろきょろと辺りを見回したアリアにレオがきょとんとした瞳を向けた。
「何言ってるの、アリア様? 辻馬車なんて……」
「え? 何か変なことでも……ああ、来たわよ」
丁度折良くやってきた、王都でよく見かけた黒い辻馬車に向かう。どうにか他の人にとられる前に辿り着いたと思ったときだった。
後ろを振り向くと、何故か少し離れた場所でレオとローガンがぽかんと呆けた表情でこちらを見ていた。
「どうしたの? 早くこっちへ……」
大きめの声をかけたとき、二人の表情が一変した。焦りと困惑と、怒りに染まる。
先に動いたのはローガンだった。荷物を放り出し、瞬発力を生かして駆け出した。隣のレオも一拍遅れて走り出す。
不可解な行動に硬直したとき、ローガンが一声叫ぶ。
「おい、逃げろ、あんた! そこから離れろ!」
「ここいらに辻馬車なんて来ないんだよ、アリア様! それは辻馬車じゃない!」
レオが音高く叫ぶ。
しかし混乱が勝ち、アリアは咄嗟に動くことができなかった。
そしてその一瞬が、命取りだった。
「悪く思うなよ」
低く、ぞわりとする声が耳元で響く。
首元にかさついた手が絡みついた。そのままぐっと首の筋を押される。
動脈を圧迫されている、と気づいたのは、兄が騎士団で教えられたことを面白半分にアリアで試し、昏倒させられたことがあるからだった。ずるりと意識が沈んでいく感覚はあのときと酷似していた。
まずい、と思ったが、いつの間にか手は掴まれ、足と足と間にも後ろの男の足が差し込まれていた。再びまごついた瞬間、目の前に火花が散る。
ああもう、と冷静に頭が告げた。
イドラとの約束はどうやら破ることになりそうだ、と思ったとき、丁度意識が全て闇に沈んだ。
「……?」
「
「いや……」
急に空を振り仰いだイドラに、私兵の一人が首をかしげる。エドガーが呆れた声で主を咎めた。その手には包帯と軟膏がある。
「ちょっとイドラ様、動かないでくださいよ。包帯替えなきゃいけないんですから」
「お前の巻き方が下手なんだろうが」
「あ、な、た、が! 動かないでいてくれれば万事解決です!!」
五月蝿さに顔をしかめる。エドガーは参謀のくせに口うるさい。まるで小姑のようだ。
嘆息して腕をなるべく動かさないようにしてやる。しばらくして包帯を巻き終えた彼が満足そうに鼻を鳴らしたが、やはり少々歪だった。
ふとそこで、同じように口うるさい少女を思い出した。イドラが今猛烈に苛ついている原因は主にあの少女である。
苛つくのに傷つけようとは思えないのがまた不思議だ。どころか最近は、彼女が目を釣り上げる様子見たさにわざと怒らせるような行動を取ったりする。自分で自分が謎である。
今日のことにしても、いつの間に私兵たちを掌握したのやら分からない。おそらくは私兵たちをというよりエドガーを味方につけたのだろうが、どちらにしても稀有な女だ。
まるで暴風雨。
いつの間にか誰もが巻き込まれるような勢いの強さがあの細い体に詰まっている。その体に触れられるのが自分だけなのだと思うと、イドラは言いようのない優越感に包まれるのだった。
だから尚更、苛つくのだ。
いつだって野生の勘と身一つで生きてきたイドラは、自分の感覚を疑ったことがない。この言葉にできない苛立ちは、果たして彼女の身勝手な行動だけに起因するものなのか?
顎に手を当てて考える。先程の刺すような気配は、戦場ではよく感じられるものだ。
すなわち、殺気。
イドラはふっと口元に弧を描いた。
殺気など、どれほど自分に似合う虫の知らせだろうか。少なくとも、悲鳴が聞こえたような気がするなどと宣う白馬の王子像が自分に似合わないことだけは確かだ。
「……さて」
おもむろにあぐらをかいて、肘をつき、真っ直ぐに扉を見やる。
「イドラ様? 何を……」
「
「五月蝿い、黙れ」
酷く凝った声が出た。周りがしんと静まり返る。
あまりに自分らしくない有様に思わず笑ったが、それすら地を這うような響きだった。
ややあって聞こえたのは、どたどたと廊下を走る音。
耳をすます。音は二人分あった。それしかなかった、と言うべきか、そもそもあの少女が廊下を走るわけがないと言うべきか。
果たして、息せき切って部屋に飛び込んできた少年二人に、
自分という生き物の人生は本当に、平穏とは程遠いらしい。
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