第12話
唐突に、ぱちりと目が覚めた。
首元にイドラの腕が巻きついているのが分かる。
視線だけで窓を見るが、あまり長い間眠っていたわけではないらしい。煌々とした月が夜空にぽっかり浮かんでいた。
「……っ」
イドラの腕をそっとどけて、アリアは身を起こした。そのままじっと彼の顔に目を凝らす。
どのくらい長い間見つめていただろうか。穏やかな寝息が止まらないことに心底ほっとして、今度は体をざっと流し見た。
もう既に血は止まったらしい。イドラが引っ付いていた部分にも血はついていなかった。
アリアはベッドからゆっくりと降りて、そばにあった救急箱を手に取る。
そして、見える範囲で手当ての済んでいなかった場所を素早く処置した。
「……」
無言で何拍か彼を見つめ────そっと、アリアは部屋を抜け出した。
宵闇に照らされた屋敷は死んでしまったかのように静まり返っていた。
ふらふらと危なげない足取りで進むアリアの頭の中には何も浮かばない。
極度の恐怖の後には虚無しか残らない。これでは明日に響いてしまう。イドラはともかく、レオを心配させるわけにはいかないだろう。
かと言ってどうすればいいのかも分からず、アリアはただ一心不乱に屋敷を歩いて、気づけば外に出ていた。
さあっと涼やかな風が吹く。先程まで血で血を洗うような戦いが行われていたなどとは信じられない穏やかさだ。
ぼうっと月を見つめてアリアは考えた。
今、アリアには何か不測の事態が起こっている。
それは確かな危機感だった。
思えば、今までアリアは自分より強い人間というのをあまり見たことはなかった。物理的にではなく精神的にだ。
アリアに関わる人で傷を負っていない人などいない。何かしら皆抱えているものがある。あのシルフでさえそうだった。彼は奔放な母親から十分な愛情を与えられなかったが故に、手当たり次第に愛情を求めていた人なのだ。
それなのに、イドラにはそういう弱さが見えない。
彼はただただ愉しさを求めて戦いに浸る。それは一言で言えば異常なのだろう。しかしアリアはそうは思わない。
あの性格が異常なのではない。戦い方が異常なのではない。
あんな破滅的な行動をとる理由が見えないことが、異常なのだ。
それなのに……アリアは今、その理由を知りたくないと思っている。
原因は簡単だ。アリアは──イドラに弱くあってほしいのだ。
もし弱さが見えないのではなくて、そもそも弱さがなかったのだとしたら? 彼はただ強いだけなのだとしたら? それが、アリアは一番恐ろしい。どうしようもなく弱くあってほしい。少なくとも自分よりも。
でも、そう思う理由が分からない。
自分で自分が分からなくなったことなど、アリアにとって初めての事態だった。
アリアは目を閉じた。混沌とした頭を鎮める方法もまた、分からない。
不意に、アリアは何かの気配を感じた。ぐるりと辺りを見回す。
それは白い紙にポツリと落とされた紅点のような、妙に惹かれてしまう気配だった。導かれるように足は中庭へと向いていた。
何度か角を曲がり、開けた場所に出る。ここの庭師は優秀なのか、雰囲気が澄んでいるように感じられた。
きちんと手入れされた庭には石で作られた足場のようなものが並んでいた。なんとなくそれを踏まなければいけない気がした。
特に何も考えずに硬い石へ足を乗せる。人ひとりがようやく立てるくらいの幅しかない。そんな石が微妙に感覚を開けてとびとびに並んでいる。
アリアは生来の運動神経を活かして落ちることなく渡り歩いた。
これらは何のためにあるのだろう……
意味もなくそう考えたときだった。
「月見かい、お嬢さん」
唐突な声に心臓が飛び出すかと思うほど驚いて、アリアはその場から落ちかけた。
なんとか体勢を立て直し、上を見上げる。
思わずぽかんと口を開けた。
いつの間にかたどり着いていたらしい、どっしりとそびえ立つ大樹の上。片膝を立てた女性が腰掛けていた。
アリアの視界が一瞬で広がり、急速に脳が回り出す。
風になびく短い髪は闇の中でもはっきり見えるほど紅い。逆に、瞳は夜に溶けそうなほどの漆黒だ。
「…………
「いかにも私は
薄く微笑んだ彼女に、アリアは慌てて頭を下げた。
「初めまして。ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。フォーサイス家から嫁いで参りました、アリアと申します」
「おやおや、随分と丁寧なお嬢さんだね。そんなに畏まらなくていいよ、アリア嬢」
あっさりと告げた彼女は手に持った
「さて……どうだ、付き合わないか?」
さらりと問われてアリアは戸惑う。恐らく、彼女が持っているのは酒だ。
「……えっと」
「ん? ああ、そうか。あなたは登れないか。待っててくれ、私が今そちらに……」
「あ、いえ、それは大丈夫です」
こともなげに答えると、アリアは躊躇なくそばにあった枝に手をかけ、するすると木を登り始めた。防衛戦についていったときの服のままなので、アリアは今スカートを履いていない。
あっという間に自分の隣へ並んだ令嬢を見て、
「ふっ、ははは……! いやはや、そんなことをする令嬢は初めてだよ」
「ああ……そうですよね」
やはりまだ頭が働いていないらしい。何も考えずに登ってきてしまったことを少しだけ悔やんだ。
しかし紅髪の彼女は気にもしなかった。
にやりと笑って瓢箪を差し出してくる。
「飲むかい?」
「あ、申し訳ありません。私、お酒が苦手で」
「そうかい? じゃあ私がいただくよ」
あっさりと引いて、彼女は瓢箪から直に酒を飲み始めた。豪快な飲みっぷりに目を瞬く。
視線に気づいた
「私の家系は代々酒豪でね。これくらいじゃ酔えないのさ」
「そうなのですか? 羨ましいです」
アリアはどうも、あの酒特有の苦味が苦手だ。飲める気はしない。
淡く微笑んだアリアをじっと眺めて、彼女は何もかもを見透かしたような笑みを浮かべる。
「覇気がないねえ。イドラと何かあったかい」
アリアは動揺して
隠していたつもりだったのに……
「……そう、見えますか」
あったといえばあったし、なかったといえばなかったのかもしれない。
難しい顔で黙り込んでしまったアリアに、
「若いねえ、存分に悩むといいよ。まあ、原因はほぼあの子なんだろうから、私が言えたことではないんだけれどね……出来れば愛し合ってほしいけれど、結婚してくれただけでも有難いと私は思っているよ」
豪快に笑ってまた一口酒を飲む。アリアはふと、顔を上げた。
「
言ってしまってから随分な失言だったと気づく。しかし彼女は一瞬大きく目を見開いて、ふはっと吹き出しただけだった。
「そうだろうねえ、普通は怖がったりするだろうね。あの子は敵を作りやすいから」
「そういうことともまた違う気がするのですが……フェルナンド様やオルガラン様は、どうしてイドラが嫌いなのでしょう?」
アリアは首をひねった。
どれだけ性格が気に食わなくとも、彼らにとっては血の繋がった弟だろうに……
兄たちのことは馬鹿だと思っても愛していたアリアとしては、その感覚が分からない。
「……あの子のことをイドラと呼んでくれるんだね」
「アリア嬢は、イドラのことが好きかい?」
「好き……なんでしょうか」
口付けをされたときのことを思い出して唇に手を当てる。もし好きだったらあの場でもっと高揚感のようなものを感じてもいいのではないだろうか。それとも初めてだったので混乱のほうが勝ったのか。
「よく……分かりません」
イドラの母親たる彼女を前にして世辞ひとつ言わないアリアだった。それでも
「分からないかい。まあ、あの子は面倒臭いところがあるからね」
「というか……私、初恋もまだなので」
「おや。それは珍しいね」
やっぱり珍しいことなのか……と少しだけ肩を落としそうになる。
しかしこの家の女主人は全く気にせずに酒をぐびりと飲んだ。
「だけどまあ、私が言えたことではないね。私だって、ここに嫁ぐまでは恋だの愛だのは知らなかったし……恋はまだしたことないしね。アリア嬢より珍しいか」
「え?」
「私が旦那に持ってるのは家族愛だけさ。恋なんていうのはよく分からないからねえ」
まさに女傑というべき笑い方をする人だった。普通に笑っているだけなのに、妙に威圧感を感じる。
アリアはその笑い方を穴が開くほど見つめて、ぽつりと問いかけた。
「もしかして、イドラに戦い方を教えたのは
ふと、そんなことを思った。
イドラの戦い方は荒々しく独特だが、ちゃんと観察すれば元々の手順が透けて見えた。あれは兄たちのようにきちんとした指導をされた証拠だろう。
改めて見てみれば、二人の雰囲気の端々に既視感が見える。
彼女はぴたりと動きを止めた。その黒い瞳が大きく見開かれる。唖然とした表情のまま、彼女は小さく問いかけてきた。
「貴女は、イドラの昔の話を知っているのかい?」
いきなり話題が逸れ、アリアはひとつ瞬いた。しかし理性が先に答えを紡ぐ。
「……昔の話、ですか? 生まれてすぐに
アリアは優雅な口調で異常な彼の過去を語る。それは社交界の中では結構有名な話だ。
彼は貴族の子でありながら、幼少期をスラム街で過ごしたのだという。
そして取り替え子といって、
イドラと取り間違えられた子は庶民の子であり、生まれて幾ばくもせず亡くなった。その子の両親、つまりイドラを引き取った夫妻は不幸な事故で亡くなり、イドラは齢八にしてスラムに放り込まれたという。
イドラのことを調べたとき、貴族の噂話の中でも珍しく本当のことだと分かったものである。
「あの子がここに戻ってきたときの戦い方はあまりに破滅的だったよ。自分の体全てを武器にしているようなもので……関節くらいなら顔色を変えずに外すような子供だった」
アリアは思わず顔をこわばらせた。イドラならやるだろう。躊躇などないに違いない。
「当たり前だけど、考えて動く子でもなかったからね。敵の首領を真っ先に狙うような、ありえない戦法を選ぶものだから、私が教えることにしたんだよ」
「想像できます」
「だろう? 苦労したよ。狼に育てられたんじゃないかと本気で疑ったね」
「まさか、イドラの嫁御とこんな話が出来るとはね。そもそもあの子が一番に嫁をもらったことが不思議でならないよ」
「……王は私を手綱代わりによこしたのだと思いますから」
「ああ、やっぱりそうなのかい。褒賞に嫁をなんて、変な話だと思ったんだよ」
アリアは困惑した。結構覚悟を持って打ち明けた話だったのだが、彼女の懐は予想以上に広いようだ。
「……怒らないのですか?」
「はは、誰にだい? アリア嬢にかい? それはお門違いってもんだろう。仲良くしてくれてれば、最初にどんな打算があっても構わないさ」
アリアはますます混乱し、
彼女は別段アリアを信じているわけではないのだろう。ただ純粋に、イドラの隣に誰かが立っていることに安堵しているように見える。
この差は一体何なのだろう。使用人にも兄にも父にも、ことごとく嫌われている彼をここまで純粋に想えるものだろうか。
それとも、それが母のなせる
困惑したままじっと彼女の横顔を見つめていると、不意に問いかけられた。
「……なあ、アリア嬢」
「はい」
「貴女は、人の醜さを赦せるかい?」
話の流れを急にねじられたような質問に、アリアは目をしばたいた。今の今まで持っていたはずの彼女への疑問が綺麗に流れてしまう。
「笑いながら嘘をつき、傷ついたと喚いて人を刺し、正義を叫んで国を落とす。人というのはどこまで行っても醜い。醜くて醜くて……私はそこから目を逸らしてしまったんだ。今も後悔しているよ」
ひどく透明な瞳がアリアを捉えた。
「貴女は、どこまでなら赦せる?」
黒い瞳が真っ向からアリアを見ている。その中には暗い暗い感情が渦巻いていた。
アリアは、考えるより先に、口を開いていた。
「赦しなど、したことはありません」
毅然と告げる。
「人は皆、どこかしら奇妙に捻れてひねくれて、おかしなことになってしまっているものです。その全てを赦せる人間は、世界のどこにもいはしません」
「……貴女は人間が嫌いなのかい?」
「え? そんなことありませんよ」
当然のように言い放ち、アリアは自分の胸に手を当てた。
「人の醜さを赦せたことなどありません。悪いことは悪いですから。けれど……」
ふと、イドラの戦う姿が瞼の裏に写った。
「けれど私は、その全てを理解することができます」
口元に淡い笑みを刻んで、歌うように言葉を紡ぐ。
「私は今まで犯罪を犯したことはないですけれど……そんなのは偶然の産物に過ぎません。私が世を騒がす殺人鬼になっていたとしても、不思議ではないですから。全ての人間は、私が選ばなかった人生を歩んでいるもう一人の私なのだと思えば、理解くらいはできます」
一瞬の傲慢にも似た感情を持って、アリアは全ての人間を許容する。
赦すことはしない。人並みに嫌悪も持つ。けれど、心の底からアリアが嫌う人間など一人たりとも存在しない。自分を嫌うほど、アリアは人生を捨てていないのだった。
「なら、イドラの危うさも、かい?」
「ええ、もちろんです」
笑って即答した瞬間、アリアの胸の中に宿っていた暗い何かが薄れた気がした。
そうだ、自分は何を迷っていたのだろう。
何が恐ろしくとも、アリアがアリアである限り、その感性が消えることはない。それなら、何も心配はいらないではないか。
霧が晴れたような心地でアリアは足をぶらつかせた。鼻歌すら歌いそうである。
「イドラに嫁いできたのが貴女で良かったよ。イドラもきっと貴女のことは気に入ってるんだろうね」
心底安堵している声だった。アリアは意味がよく分からずに訝しげな顔をする。
「好かれてはいないと思いますが……どちらかと言うと、遊ばれているような気がします」
アリアは恋を知らないが、あれを男女の間に生まれる好意と捉えられるほど革新的な恋愛観は持っていない。
「それは気に入られているんだよ。まああの子は楽しみを見つけることに関してはおかしなくらい才能があるけど、興味のない子を妻にはしないよ。本気で貴女に興味がなかったら、王を脅してでも離縁していただろうね」
有り得たかもしれない恐ろしい未来にアリアは愕然とした。まさか、自分が嫁いでくることすらそこまで綱渡りだったとは。
しかめっ面をしているアリアに
「でもまあ、あなたなら色々と受け止めてくれそうだ」
「善処はしています」
アリアが飽和状態になるのが先か、イドラを大人しくさせられるのが先か。頭が痛いと言えばその通りではあるが、投げ出す気はなかった。
「ありがたいね……あの子は少しばかり、背負いすぎている物があるから。まあ、背負わせたのは私たちなんだが」
「……? どういうことでしょう?」
寂しげに告げられた言葉に首を捻る。どちらかというと色々と背負わされているのはアリアのほうだと思うのだが……
「いつかイドラから聞いておくれ」
静かながら、有無を言わさぬ口調だった。アリアは自然と頷いてしまう。
すると、彼女は一転してにやにやと笑い始めた。
「さ、そろそろ戻ったほうがいいんじゃないのかい? どうせあの子と一緒に寝てるんだろう?」
「! 知っているのですか?」
「そりゃあ、あの部屋を用意させたのは私だからね。ベッドをひとつしか置かなかったのはまあ、荒療治だったけど」
何のための荒療治かは聞かないほうが良さそうだ。不健全な話が出てきかねない。
「……確かに、イドラに何をされるか分かったものではないですし、戻ります。おやすみなさいませ、
鹿爪らしくそう呟いて木から降りようとしたとき、アリアの頭上から殊更楽しそうな声がかかった。
「先程から思っていたが、貴女はイドラの嫁御だろう? なら、その呼び方は適切じゃないな」
何を言いたいのか、きょとんとしたアリアはしばし思考を巡らせ──何かに気づいた顔で微笑んだ。
「はい、おやすみなさいませ、お
「ああ、おやすみ、アリア」
アリアは顔をほころばせた。
何故だか、ただのアリアとして扱われたことがひどく嬉しかった。
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