第11話

 無条件に人は強いのだと信じていた時期がアリアにもあった。

 アリアには男兄弟しかいない。物心ついたときには十ほど年の離れた兄たちと遊び、その力の差を楽しむ、純粋な子供だった。

 兄は強いと思っていた。父は強いと思っていた。

 母も、力では男に叶わなくとも、父を言い負かしたり、女主人として使用人に凛と指示を飛ばしている。それを強さなのだと思っていた。



 それがひどく脆い薄氷の上に成り立つ強さなのだと知ったのは、アリアが八歳になった頃のことだった。

 アリアの母はお茶会が好きだ。アリアも社交界デビューこそまだだったが、母に連れられてお茶会に出かける機会は多かった。

 子供には子供の世界がある。伯爵だとか侯爵だとかいう身分差は子供には大した障害にはならない。そして大きな事件が起こるわけでないのなら、親たちもそこまで目くじらは立てないものだ。


 しかし、男兄弟の中で育ったアリアは女の子らしい遊びというものに全く興味を引かれなかった。一番下の兄の影響で木に登ったり、かと思えば二番目の兄の影響で難しい本を読んでいたり……とにかく女の子らしさとはかけ離れた子供だったのだ。

 そういう子供が良い感情を持たれないのは時間の問題だった。


「ねえ、アリアちゃんもお花でかんむり作りましょうよ。それか、木の実を使っておみせやさんごっこやりましょ!」


 あるとき、五人ほどの女の子のグループのリーダー格らしい子がそう声を掛けてきた。全く断られることなど想定していなさそうな声だった。

 しかし、アリアはきょとんとして答える。


「? 花を摘んだら花は死んでしまうわ」

「え?」

「花が見たいならまたここに来ればいいのよ。わざわざ摘み取る必要なんてないわ。それに、木の実は森の動物が生きるために必要なのよ。私たちが邪魔をしてしまってはいけないわ。あなただって、食事を横から取られたら嫌でしょう?」


 至極真っ当なことを言ったつもりだった。しかし、八歳とは思えない流暢な言葉遣いと度を越した正論は、彼女たちの顔を真っ赤にしただけで終わったのだ。

 そしてそれからというもの、アリアは「いじめ」というものにあうことになる。


 顔を合わせれば悪口の嵐を浴びせられ、新しい服には泥を付けられ、野犬をけしかけられたこともある。

 貴族の子供の悪口など兄たちの口論に比べれば余程綺麗なものだったし、服は洗えば良かったが、野犬は流石にどうしようもなかった。


 彼女たちは味を占め、精神的にではなく物理的にダメージを与えることにしたらしい。そこだけは貴族らしいというかなんというか、彼女たちは服で隠れた部分を執拗に、執着的に攻撃してきた。

 あまりにも杜撰な計画だったが、遊びと称して兄たちに鍛えられていたアリアには生傷が絶えなかったので、奇跡的に見つからなかった。

 しかし逆に、兄たちに鍛えられていなければもしかしたら死んでいたかもしれない。

 囲まれて転ばされる。泥だらけにされて蹴られ続ける。ときにはナイフも使う。ロープを体にくくりつけられ、木の上から引っ張って落とされたこともあった。

 それでも、アリアは屈するということを知らなかった。ぼろぼろになりながらも正論を言うことをやめないアリアに、彼女たちの「いじめ」もエスカレートしていく。


 そして最終的に、止まれなくなった彼女たちはアリアを川に突き落とすことにしたらしい。

 なるほどそう来たか、と川で背中を押された瞬間に気づいたアリアだったが、そのときちょうど不幸な事故が起こった。

 不幸な事故というか、単純に、彼女たちの中の中心的な女の子が、アリアの背中を押した弾みで足を滑らせたのだ。自分が落ちたのと同時に聞こえた悲鳴に、当時十歳だったアリアは珍しく焦った。


 というのも、その川は比較的浅いのだが流れが早かった。兄たちに付き合わされて川で泳いだこともあったアリアは泳げたが、それでも着衣のままだとうまく泳げない。

 落ちた子は尚更だ。

 どうする……!

 自分も流されながら必死で頭を動かす。自分のそばまで流れてきたその子の服を引っつかんで陸に上げようとしたが、水を吸ったドレスは重く、自分たちより余程重量があった。


 このままだと二人共死ぬ、と悟ったときだ。


「何してる!」


 偶然遠征で近くに来ていた騎士見習いの兄たちが、血相を変えて助けに来てくれた。

 力ある彼らに引っ張り上げてもらってほっと息をついたとき、女の子たちが貴族らしからぬ大声をあげて泣き始めた。


「ごめんなさい……!」


 火がついたように泣きながら、殺すつもりはなかったというようなことを延々と謝られ、アリアは愕然とする。

 彼女たちは、本気でアリアにただ「嫌がらせ」をしているつもりだったのだ。アリアでなかったらとっくに死んでいたに違いないことを、彼女たちは笑いながらやっていたのだ。


 アリアは彼女たちが強いと思っていた。兄たちにもみくちゃにされているときより強い痛みを自分に与えてくる彼女たちは強く、やられっぱなしの自分は弱いのだと。

 しかしそうではなかった。

 強いと思っていた彼女たちは、少なくとも力は強かったけれど、その中にはきちんと弱さがあったのだ。むしろ弱さを大義名分に、自分たちは最初にアリアに傷つけられたのだから何をしてもいいのだと言い聞かせ、ひたすらに容赦なくアリアをなぶっていたのだ。


 そう思ったとき、アリアは確信した。

 弱い人は時として弱さを武器に恐ろしいことをしてのけることがあるのだと。そして、強いだけで構成された人など一人もいないのだということも。


 その日からアリアはこっそり家族を観察し、その持論をさらに強化することになった。

 兄たちの体は自分よりよほど傷だらけだった。肉離れをした日にも彼らは自分にいつもと変わらぬ笑みを向けてくれていたのだ。

 父は騎士団長だったが、自分が恨みを買い、その矛先が家族に向かうことを何より恐れていた。夜中に自分の弱さを吐き出すように一心不乱に森へ狩りに出ていたこともある。

 母は自分がアリアを貴族の女性らしく育てられなかったせいでアリアがいじめられたのだと悔いていた。そして一時期、彼女は夢遊病を発症するほど思い悩んだ。


 自分は強くなくてはならない。アリアは子供ながらにそう確信した。

 強い人ですら強いだけではいられない。そして弱さは恐ろしさに繋がるのだ。なら、自分だけでも……少しでも、強くあらねばならない。

 せめて、心だけでも。

 周りの弱さを全て包み込めるほどの強さを身につければ、少なくとも、自分から見える範囲の人は、あんな残酷なことをしなくても済むかもしれない。されなくても済むかもしれない。

 誰かが誰かを川に突き落とすところなど、まかり間違っても見たくなどない。

 齢十二のころに悟った仮説は、今のアリアにとってはもはや暴力的な真実に近かった。







「だから私はあなたを信じられないわ。あなたがいくら強くても、弱さが全くないなんてことはありえないもの。それはつまり、人を傷つけるかもしれないということで、同時に、人に傷つけられるかもしれないということだわ。毒を以て毒を制すのと同じよ。弱さが傷つけるのは弱さだけ」


 弱さが人を傷つけるのは知っている。同時に、弱さが強さを傷つけることはないということも知っている。

 弱さが傷つけるのは弱さだけだ。言うなれば強さは自然災害であり、弱さは人為災害である。自然災害とは違って、防げるはずのものだ。でも、決してなくならないもの。


「信じないわ。信じられない。どれだけ強くても、あなたが死なないと言える人は存在しないもの……私はあなたを信じない、あなたの強さは絶対じゃない……!」


 唱えるような言葉には押し殺した響きがこもっていた。アリアは自分の両腕を押さえ、耐えるように歯を食いしばる。

 足りない、と体が言っていた。こんな言葉では伝わらない。もっと叫びたい、もっと自分の思いを叫んで叫んで叫び尽くしてしまいたい。ああ、自分の脳の中をそっくりそのまま伝えられたらどんなにいいだろう……

 そんな激情を押さえ込むように腕に力を込める。


 イドラはしばし無言で何事かを考えていたが、不意にその目から険を消した。そのままじっとアリアを凝視する。

 そして唐突に、怪我をしていないほうの手で乱暴にアリアの腕を掴んで引き寄せてきた。いとも簡単に抱きすくめられ、驚きで鼓動がはね上がる。

 何をするのかと咄嗟に顔を上げた瞬間、端正な顔が異様に近くにあることに気づいた。


 息を呑み、体を硬直させる。それと同時に首の後ろに手が添えられて、ぐっと力が込められた。

 考える間もなく、彼と唇が重なった。


「んっ……!?」


 意味も分からず目を白黒させる。長いまつ毛が伏せられているのが間近に見え、混乱は加速した。

 今自分は何をしている……!?

 いつものアリアであれば頭突きのひとつもかましていただろうが、そのときばかりはアリアも普通ではなかった。そしてその瞬間を穿つように彼はアリアを侵食してきたのだった。


 様々な情報が一気に流し込まれたような気分になった。今の今まで蓄えていた怒りにも近い激情がふわりと溶け、頭で考えることが出来なくなる。次第に力も抜けていき、縋り付くような体勢になってしまう。

 口付けなどしたことがない。あっても額に落とされる祝福のキスくらいが関の山で、まさかこんな、自分の中身を暴き立てるような強引な行為だとは想像もしていなかった。

 気が遠くなるような長い時間の後、イドラはようやく口を離した。途端に深く息を吸ったアリアは自分が呼吸もままならなくなっていたことを悟る。

 彼は艶めいた仕草で唇の端を舐め、呟く。


「……ふむ、甘いな」

「い、今……」


 言葉が出てこない。考えることはまだ出来そうになかった。思わず縋るようにイドラを見上げたとき、その怜悧れいりな視線もまたこちらを見ていた。

 じっと見つめられ、居心地の悪い気分になる。

 くすぐったいような何かを感じ、混乱から抜け出せない思考をどうにかしようと目を逸らしたときだ。彼の手が乱暴に頭を撫でてきて、頭がぐらりと揺れた。


「ちょ、っと、何?」

「お前は弱いな」


 ずばっと切り込むように言われて絶句する。それは今までのアリアをすべて否定する言葉だ。

 しかし、彼の瞳はどこまでも真摯だった。今まで見たことのない表情に困惑する。人は誰かを貶すとき、こんなに真剣な顔をしているものだっただろうか? そもそも、彼は貶しているつもりなのか?


「俺は強いだけではない。そんなこと、とうの昔から知っている」


 訥々とつとつと彼は語る。

 アリアは瞠目した。

 彼が自分のことを客観的に見るような発言をしたのは初めてだった。


「お前が思っているより人は弱くない。そしてそれは、お前自身にも言えることだ」

「……どういう、こと?」

「俺は死なんということだ」


 最初に戻ってしまった答えに困惑して口を閉じると、彼は自分の怪我の処置も程々にベッドに転がった。無言で隣を指し示す。


「今日は襲わん。だから隣にいろ。俺が死ぬと言うのなら、一晩中見張っていればいい。どうせ明日の朝にはこんな怪我は治っている」


 不敵に笑い、彼は答えも待たずにアリアをベッドに引っ張りこんだ。

 アリアは一瞬身をすくめたが、本当に襲う気は無いらしい。抱きしめられ、触れ合った肌から人間の温かさがじわりと染みてくる。

 さっきの唐突な口付けの後では恐怖すら感じそうだったが、そんなこともなくて拍子抜けだった。もしかして自分は案外図太いのかもしれない。


 イドラの香りに混ざって血の匂いがした。


「……ねえ」

「なんだ」

「あなたは……戦い以外で人を殺したことはないの?」

「……どうしてそんなことを聞く」


 どうして? どうしてだろうか?

 強いて言うなら……


「知らなければならない気が、したから。あなたの強さを……」


 ぼんやりと答える。

 なぜだか知らないが、イドラが人を殺した事実をきちんと知っておきたいと思ったのだ。それが隣で寝転ぶ彼の強さの証明のような気がした。

 イドラは少しだけ黙って、ぽつりと答える。


「町で『掃除』をすることはある。それ以外で人を殺したことはない」


 きっぱりとした声だった。


「……そう」


 答えた瞬間、軽い睡魔に襲われる。

 彼を見張らなくてはならないのに……

 そう思っても、彼の温かさは眠るのに丁度良かった。瞼を閉じる寸前、彼のほうからも寝息が聞こえてきて、不思議なものだと思う。

 それは、今の今まで命のやり取りをしていたとは思えないほど、ひどく穏やかな寝息だった。

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