第10話





 その日の夜遅く、イドラ率いる討伐隊は国境付近にいくつかある砦のひとつへと向かった。大体の戦場はそこなのだという。

 砦にいる兵士から大体の状況を聞いたところ、どうやら昼に小競り合いのようなものがあったらしい。相手はすぐに引いたため夜頃に一斉に攻めてくるだろうとのことで、イドラが呼ばれたのだ。


 砦から国境へはすぐだ。


「ね、ねえ、やっぱ俺もついて行くの?」

「あら、嫌なら戻っても大丈夫よ。あなたにも選択の自由があるわ」

「いや、ないじゃんこれ。俺行かなかったら腰抜けじゃん」

「そんなことはないと思うけれど……」


 アリアは眉を下げた。目の前で馬を操りながらイドラがくつくつと笑う。


「餓鬼は寢ている時間じゃないのか?」

「お、俺だって役に立つよ!」

「どうだかな」


 ぐぬ、とレオは押し黙った。イドラは悠然と馬を進めていく。

 アリアはそのさまを静かに見つめながら考えていた。


 今アリアはイドラと一緒に馬に乗っていた。今日出かけたときとは違って、彼の前ではなく後ろにいる。ちなみにレオは隣の馬の上だ。エドガーと一緒にいる。


 戦場で一番安全なのはどこかというと、満場一致で「イドラの後ろ」なのだという。つまり「予定していた戦力の半分」とは彼一人のことだったのだ。規格外である。

 というか彼は前線で戦うわけで、全く安全ではないと思うのだが、とにもかくにもそうらしい。解せない。

 イドラは不意に足を止めた。周りには森と砦以外なにもない更地の向こうに、白い線が見える。


「あれが警告線ですよ。あれを侵した奴らは問答無用で潰していいという決まりになっているのです」

「随分と雑なのね……」


 隣に立つエドガーの言葉に少しばかり脱力する。私兵たちを取りまとめる参謀だという彼は「全くです」と同意した。


「昔はきちんと口頭での警告とかあったらしいんですけど……そんなもので引いてくれたら攻めてないですし、なによりイドラ様はそんなまどろっこしいことは嫌いなので」

「でしょうね」


 そんなことしている暇があったら戦いを始めているだろう。一秒でも早く武器を振るっていたいタイプだ。

 少し、そのままの状態で時が過ぎた。凪いだ風が心地よい。けれどこれは嵐の前の静けさだ。


 唐突に、イドラがすんっと鼻を鳴らした。


「……来る」


 低く呟いたかと思うと、彼は自分の上着をアリアにばさりと被せた。まあ、アリアが持ってきたものではあるが。

 真っ黒なそれは見事にアリアを宵闇に隠す。


「目だけ出せ。見つかるなよ。面倒なことになる」


 抑えようとしているのだろうか。ぎらぎらとした目で押し殺したような言葉が響く。今にも何かに食らいつきそうな欲を秘めた声色だ。

 こくりと頷いた瞬間、イドラは笑みを深めて馬の腹を蹴った。ぐんっと勢いがついて慌てて彼の腹へ回した腕に力をこめる。


「右翼、左翼、同時展開! 来るぞ!」


 エドガーの声が随分と後方から聞こえる。アリアはしがみつきながらも背の高さを活かして前方を見た。

 息を呑む。敵の数はあまりにも多かった。


 姿かたちがはっきり見えたわけではないが、視界に映るだけでもざっと二十人はいる。そんな中に、イドラは一人で突っ込んでいるのだ。


「来い、俺の命が欲しいんだろう!!」


 鋭い叫びは戦場の端から端までこだまするかというほど響いた。

 途端に敵の操る馬の音が迫る。イドラはにやりと笑って、アリアにしか聞こえない声で呟いた。


「最後まで、きっちり見ておけ」


 頷く暇もなかった。

 彼はいつの間にか片手に武器を構えていた。今日見かけたものに似ているが、違う。刀身がぐねぐねと波打っているのは同じだが、今イドラが持っているのは矛だった。柄は長く、うっすら蒼い刀身の先が二又に分かれていた。

 彼は片手で馬を操りながら、舞うように、踊るように矛を振るう。


 その度に悲鳴と赤が舞った。次々に敵が減っていく。早すぎて捉えられないものもあるくらいだ。

 時折、アリアの目先一寸ほどを敵の刃が通り過ぎた。驚くまもなく、眼前に赤が広がる。アリアは目を見開いた。

 イドラの血だ。

 悲鳴を飲み込んだ瞬間、切られたほうの腕でイドラがなんなく切った相手を地に沈めた。


 気づけば、彼はそこかしこに傷を負っていた。それなのに、無茶な戦い方をやめない。自分を大事にしないどころか進んで地獄へ突き進むような戦い方に、目をそらしそうになってぐっとこらえる。


 負けるわけにはいかない。これはアリアからイドラへの挑戦なのだ。


「化け物め……!」


 ふと、そんな声が聞こえた。イドラに新しい一太刀を浴びせた男だった。

 瞬間、アリアの中を灼熱のような怒りが満たす。

 しかし、その怒りを遮るように哄笑がその場に響いた。


「なんだ、今知ったのか、お前」


 言いながら、彼が男の胸に矛を突き刺した。容赦のない刃は血を吸うかのごとく男の胸を喰らう。

 ひゅっと喉が鳴る。

 男はずるりと馬から落ちた。


 それが最後の一人だったらしい。他でも戦闘の音は止まないが、イドラの周りは静かなものだった。

 イドラがびっと柄を振るって血を飛ばす。

 結局、アリアは傷一つ負わなかった。


「……妙だな」


 静まり返った虛空を睨みつけ、イドラが呟く。


「何が?」

「……分からん。だが、何かが変だ」


 すんっと鼻を鳴らし、彼は黙って目を閉じた。耳を澄ませている。

 ────刹那。


 ぐんっとアリアの体がよじれるように重力がかかった。イドラが急に馬の方向を変えたのだ。がづっ! という音が響く。

 地の底から這い寄るような声がした。


「女連れとは。お前、舐めているのか?」

「抜かせ。お前こそ、俺に気配を気取られるなぞ、少し鈍っているようだな」


 夜にだいぶ慣れた目に映ったのは、闇を纏った人だった。全身を黒々とした布で覆い、視界におさめている今ですら気を抜くと宵闇に溶けてしまいそうだ。

 そうだ。アリアがこんなことをしているのだから、同じようにして姿を隠している人がいても不思議ではない。

 男は酷く目を釣り上げて、イドラを見ていた。


「……今日こそ、お前を殺せるかもしれないな」

「ほう? やってみろ、いまなら女も付いてくるからな」


 思わず彼の脇腹をつねりそうになる。痛みを感じない彼には意味などなさそうだが。


「お前の女はお前と同じように切り捨てるだけだ」

「……」


 命の危機を感じる瞳で睨まれた。イドラは実に愉しそうに笑う。


「やれるものならやってみればいい」


 言いおいて、拮抗状態にあった武器を思い切り横凪ぎに振るう。

 それからの剣戟けんげきは、素人であるアリアには何が起きているのか分からなかった。あちらで閃き、こちらで空を切る。間違いなく今までで一番激しい刃の交わりあいだ。

 ひとつ思うのは、イドラはアリアという荷物がなかったらもっと楽に戦えていたのかもしれない、という懸念だけだった。


 それでも決着は否応なくつく。ぎぃんっ! という音がして相手の男の手から武器が弾き飛ばされた。

 男は舌打ちをするなり、別の剣を一瞬で引き抜いて応戦した。ぎりぎりでイドラの矛がその腕を鋭く裂く。

 分の悪さを悟ったらしい。男は素早く距離を取った。逃げる直前、懐から取り出したダガーを置き土産のように投擲とうてきする。


「え」

「ちっ!」


 そのダガーが狙っていたのはアリアだった。閃く銀色を視界に捉えた瞬間、額に叩きつけられる勢いでイドラの手が滑り込んできた。

 ぬるりという感触。


「……イドラ!」


 今度こそ悲鳴を上げてしまう。男は消えていて、イドラの手のひらからはおびただしい量の血が流れていた。

 彼は無言でダガーを引き抜く。再び血が流れた。

 息を呑むアリアに構わず、イドラはぐるりと辺りを見渡すと、馬の手綱を取ろうとした。

 嫌な予感に襲われてアリアはイドラの腕を掴む。


「……何をしてる」

「止めているのよ。あなた、まだ戦う気? その怪我で?」

「さっきの男はこの群れの首領だ。がした」

「そんなことは関係ないわ!」


 ぴしゃりとはねつけたアリアの目をぞっとするほど冷たい目が覗き込んできた。

 しかし怯むわけにはいかない。今もどくどくとアリアの腕を血が染めているのだ。

 こんな状態で再び戦わせるなど、無茶がすぎる。


 一歩も引かずに睨み合っていると、後ろから「イドラ様!」という声が聞こえた。それから少ししてエドガーとレオの乗った馬が横に並び立つ。


「帰りますよ! あらかた片付けましたし残党狩りはなしでいいです! 今回はアリア様もいるんですから……ってどうしたんですかあんたその怪我!」

「うるさい。かすり傷だ」

「水滴が集まると雨になるって言葉知らないんですか! あんたのことだから死ぬなんてことはないでしょうけど、普通だったら今すぐ医者行きです! いいから帰りますよ!!」


 二対の瞳に睨まれたイドラはしばらく無言で障害物を眺めるような目をしていたが、やがてふっと馬を方向転換させた。


「興が削がれた」


 それだけ言って、殊更ゆっくりと馬を進め始めた。ほっとしたエドガーに向かってアリアは固い表情で尋ねる。


「ねえエドガー、今夜の戦いで……その、死者は出た?」


 いつもとは違う、まるで覇気のない声が出る。

 エドガーは少し目を丸くして、呆れたように笑った。


「あの筋肉馬鹿たちがそんなに簡単に死ぬと思いますか? 全員無事ですよ」

「そう……よかった……」


 今更手が震えてきた。

 目の前での命のやり取りが、薄氷を踏むような戦いが、怖くてたまらなかったのだ。

 死んでしまうかと思った……

 アリアの頭にはそれしかなかった。


 不意に顔を上げると、顔だけで振り返っていたイドラと目が合った。


「あ……」

「お前、怖かったのか」


 直球すぎる質問に思わず怯む。黙ってしまったアリアを数秒眺め、彼は興味を無くしたようにふいっと顔を背けた。


 嫌われただろうか……


 彼はアリアの気の強さに興味を持っていた節がある。それなら、こんなにみっともなく震える自分など、もういらないとでも思っているのではないか。

 ぼんやりとそんなことを思う。

 あの家でイドラに嫌われたら、自分は一人だ。それは嫌だな……と自然に考えて、アリアははたと意識を覚醒させた。

 今……自分は何を思った?

 やや愕然とした心持ちで放心する。そんなアリアの耳に高めの声が屆いた。


「アリア様、アリア様ってば!」

「え、あ……レオ?」


 エドガーの背にしがみついた少年が心配そうにこちらを見ている。その純粋な心配に気が抜けるのを感じた。


「大丈夫? 顔、真っ青だよ」

「ええ、私は大丈夫……」

「……本当に?」

「ええ……」

かしら!? なんでそんな怪我してんの!?」


 のろのろと答えていたとき、唐突に耳をつんざくような叫びが響いた。

 見れば、前方から唖然とした顔のローガンが向かってきている。その全身は返り血まみれだ。


「うわ、結構な怪我じゃん」

「うるさい。かすり傷だ」

「まあそうだけどさ、どう見てもいつもより怪我多いじゃん。その女庇いながら戦ったりするからだよ」

「……え?」


 アリアは思わず声を上げる。ローガンが眉をひそめた。


「何、あんた知らねえの? かしらはそんな器用な人じゃないよ。あんたに怪我させないように戦うんだったら、自分が盾になるしかないじゃん」

「黙れ」


 低く重苦しい命令がその場に落ちた。

 ローガンが息を呑んで口を閉じる。


「二度とそのふざけた評価を口に出すな」


 底冷えのする響きにローガンは無言で何度も頷いた。ますます顔が白くなったアリアに向かって、一言告げる。


「俺の怪我に、お前は関係ない」


 きっぱりとした言葉だった。そのまま無言で馬を操り、家へと戻る。

 家の門の前まで来ると、エドガーがレオを離れに住まわせると言ってくれた。レオも随分と懐いたらしく、結局そこで別れることになる。


「イドラ、あなたも怪我の手当てをしないと」

「ああ……お前がやれ」


 至極当たり前のように言われて固まる。

 周りに囃し立てられ、結局アリアが怪我の手当てをすることになってしまった。

 何も言わずに手を引いて、彼はアリアを部屋へと連れていく。


 部屋に入ると、彼はベッドに腰掛けて鋭くアリアを見据えた。その体からは未だにとどまることなく血が流れていた。

 アリアは震える足を叱咤して、彼のそばに寄った。


「手を……手を見せて」


 無言で差し出された左手の手のひらには、ざっくりとダガーの跡が殘っている。

 泣きそうに顔を歪めながら手当てを始めたアリアをしばらく見つめて、彼が唐突に口を開く。


「お前、何をそんなに恐れている」


 びくりと肩がはねた。弾みで包帯を取り落とした。


「自分の命が危険に晒されていたからか? 違うだろうな。お前はそんなことに躊躇をする女ではないだろう。ならば俺があいつらを切り伏せたからか? それも違うな。お前、血は見慣れているんだろう」


 一つ一つ、彼は可能性を潰していく。

 その指摘が答えにたどりつく前に、アリアは口を開いていた。

 顔を上げる。


「あなたが、死ぬかと思ったのよ……」


 目を見開いたイドラに向かって怒鳴りたくなった。どうしてその選択肢を一番最初に考えないのか、彼女にとっては不思議でならない。


「それ以外に何があるの? あなたが死ぬのが怖かったのよ。人が死ぬのを見たくないって思うのは普通でしょう? あなたが……自分を大事にしないのが、怖くて怖くて、今も怖くてたまらないわ」


 取り繕うこともせず、苦しいものを全て吐き出す勢いで吐露する。かたかたと手が震えた。

 イドラがずいと身を乗り出した。


「お前、本気で言っているのか?」

「……こんなことに、噓なんてつかないわよ!」


 アリアの軋むような大声に怯んだイドラだったが、次の瞬間ぎょっと目を見張った。

 アリアの目からはらりと涙が落ちていた。


「……何故、お前が泣いている」

「怖かったって、言っているでしょう!」


 イドラを真っ直ぐに睨みながら、はらはらと流れる涙は留まるところを知らない。後から後から溢れてくる。


 死んでしまうかと思った。


 イドラが切り伏せた者にまで気を回せるほど、アリアは出来た人間ではない。

 だが逆に、知り合ってしまったからには、その人を失うことを簡単に受け入れられる人間でもないのだ。


「あなたが強いのは見てれば分かるわ。でも、こんな……痛くなくたって、あなたは人間なのよ、死んでしまうわ!」

「お前、舐めているのか? 俺がそう簡単に死ぬわけないだろうが」

「死ぬわよ! 人は簡単に死ぬわ!」


 激昂したアリアをしばし注視して、イドラがぽつりと問う。


「誰か死んだのか?」


 アリアは驚いたようにイドラを見る。綺麗な顔がぐしゃりと歪んだ。


「どうしてそうなるのよ……そうじゃなくて、私はもっと、あなたにあなたを大事にしてほしいんだって、言っているでしょう……」

「そんなに俺の強さが信じられないか? お前に心配されるほど、俺が弱いとでも?」


 高慢に言い放たれた言葉に、アリアは動きを止めた。その顔から一瞬で表情が消え失せる。

 そして、自嘲するようにふっと笑みを浮かべた。


「ええ、信じられないわ……だって、人間は皆弱いもの」


 空虚な瞳に今度はイドラのほうが硬直する。

 アリアは嘲るでもなく哀れむでもなく、ただの事実を語る口調でそう呟いて、ぽつりぽつりと話し始めた。

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