第8話



 アリアは馬に乗せられていた。

 この屋敷は少し街から外れた場所にある。さらには街に無事にたどり着くまでには盗賊や追い剥ぎも出る。

 むしろ馬車でなくて助かったと思った。この屋敷に来たときの二の舞は避けたい。


「……っ」


 アリアは吹きすさぶ風に目を細めた。自分の肩を通り越して目の前で手綱を握るイドラの腕をしっかり掴む。

 すがるものがないと恐ろしくてならない。


「はっ!」


 イドラは時々唸るような声を上げて鞭を入れた。その度に馬は速度を増す。

 アリアは必死で悲鳴を噛み殺した。

 こんなところまで楽しまないでほしい。彼の前に座っているので顔は見えないが、きっと嗜虐的な笑みでも浮かべていること請け負いだ。


 そんなことを考えていると、どうやら街に入ったらしい。馬がゆるゆると速度を落として止まった。

 彼はひらりとその場から降り立ち、アリアに手を差し出してくる。

 しっかりと掴むと、その細腕には似合わない強さと安定感を持って降ろされた。だが残念なことに、度重なる暴力的な運転のせいでときめきなどどこかに吹っ飛んだ。


「お前、すごいな」

「な、何が……」

「俺が馬の早駆けに付き合わせた女は大抵すぐに吐くんだがな」


 アリアは自分の三半規管を賞賛した。

 力なく彼の腕をぺしりと叩き、悪態をつく。


「他人に迷惑をかけないでって、言ったでしょ、イドラ……」

「お前は俺の妻だろう?」

「妻だろうとなんだろうと……っ!」


 言葉と同時に何かがまろびでる気がした。咄嗟に口元を押さえて呼吸を整える。

 イドラが珍しく背をさすってくれているが、それを優しさと捉えられるだけの余裕はアリアにはなかった。


 ようやく動悸と目眩がおさまり、一分いちぶの隙もなく怒りで染まった眼差しを向ける。イドラはにやにやと笑いながらアリアの肩を抱いた。


「俺から離れるなよ。ここはお前のよく知る王都なんかよりよっぽど治安が悪い」

「……ええ」


 不本意だが、アリアにイドラのような身体的な強さはないのだ。普通の令嬢よりは動ける自負があるが、所詮男と女では差がある。どれだけ不満でも飲み込むしかない。


 それから歩き出してそうそう、アリアは「治安が悪い」という言葉の意味を確かに感じた。

 表向きは活気がある。しかし、そこかしこに立ち並ぶ居酒屋や得体の知れない店の数々、昼間から道端で妖艶な空気を振りまく女性など、警戒すべきものが多い。決して健全とは言えない。


 一つ道を外れれば、アリアのような身なりの貴族などひとたまりもないだろう。娼館にでも売られるのがオチだ。


 しかし、アリアは奇妙な安心感を覚えていた。

 首を捻る。

 恐らくこれはイドラがいるからだ。けれど、彼一人がいるだけでどうしてここまで気を抜けるのか分からない。

 不思議な気分だった。そういえば誰かに守られながら歩くなど随分と久しぶりのように思う。夜会でもお茶会でも、自分を守るのは自分だけだったから……


 そのとき、不意にアリアに少年がぶつかった。そのまま走り去ろうとする少年の首根っこをイドラが捕まえるより早く、アリアがぱしりと手首を掴む。

 兄たちに鍛えられた動体視力はしっかりとを捉えていた。


「駄目よ、そんなことをしては」

「なんだよババア、離せよ!」


 きっ、と強い意思をはらんだ瞳がアリアを見据えた。ババアなどと呼ばれたことのないアリアは少し面食らう。

 すうっとイドラの顔から温度が消えていく。アリアはそれには気づかないまま、気を取り直してかがみ込んだ。少年と目を合わせる。


「……今盗ったものを返してちょうだい。私も不注意だったけれど、全面的にあなたが悪いわ」

「はあ? 意味わかんね…………っ!?」


 そのとき少年が大きく目を見開いて、いきなりガタガタと震え始めた。アリアは瞠目する。そんなに強く言ったつもりは無いのだが……情緒不安定だろうか?

 首を捻るアリアの肩をイドラが押しのけた。そのとき初めてアリアは異常に気づく。


「…………出せ」

「は、はい!」


 少年は低く命じられた言葉に一瞬で従った。アリアから盗んだ財布を放り投げるようにして渡す。


「お前、俺が誰だか分かっていて、俺のものに手を出したのか?」

「そ、そんな、ことっ……!」


 恐怖で呂律が回らないまま、思い切り首を振っている。

 アリアは唖然とした。周囲を見渡せば、今までの騒ぎが嘘のように皆息をひそめていた。


 明らかに空気が違う。殺伐とした雰囲気の中心にいるのはイドラだ。

 あまりの驚きに動けないでいたとき、少年とふと目が合った。恐怖と怯えに彩られた視線がアリアを現実へと引っ張りこんだ。

 ハッと目を見開いて、精一杯伸び上がる。王のように少年を見下ろす彼の頭を地に落とす勢いで叩いた。


 いつかのときより盛大な音がして、イドラが虚を衝かれた顔で固まった。一瞬後にゆるりと振り返る。

 その顔からはもう冷たさは消えていた。


「…………何をやってる」

「あなたこそ何をやっているのよ。財布を取られたのは私だわ。あなたはすっこんでて」


 有無を言わさぬ口調で押し切ると、アリアは前へと進み出た。びくりと肩を震わせる少年と真っ向から目を合わせる。


「言っておくけれど、私はあなたを責めるつもりはないわ」

「っ……え?」

「だって、それはあなたの生きる手段でしょう?」


 それ、というのはいわゆるスリである。

 彼はほつれまくった服を着ていて、泥だらけだ。どこからどう見ても裕福ではない。財布を狙ったのもきっと今日を生きるためだ。


「生きるための手段を責めるつもりはないわ。でも盗みはダメよ、それは反省しなさい。そして二度とやらないこと」

「む、矛盾してるじゃん……!」

「してないわ。生きようとすることは人類全員に与えられた権利だもの。それはそれとして、スリ自体はダメなことだと言っているのよ」


 少年はぐっと唇を噛み締めた。恐怖がまだ抜けないのか、拳を震わせて吠えるように言う。


「……じゃあどうすればいいんだよ!」

「働くのが一番良い方法だと思うわ。働く場所がないと言うのなら、彼の屋敷で働くといいわ。下働きなら大丈夫でしょう」

「は……?」

「おい、待て」


 後ろから声が掛かる。イドラが思いきり顔をしかめていた。


「あら、どうしたの?」

「どうしたもこうしたもない。お前、この餓鬼を雇う気でいるのか? 正気か?」

「凄まじく失礼ね。正気も正気よ…………ねえあなた、働く場所はこの街にある?」

「な、ないよそんなの。俺みたいな親なしの子供を雇ってくれるとこなんて、あってもヤバいとこばっかだし……」


 アリアは目を見開いてイドラを振り返った。


「イドラ、この街に孤児院はないの?」

「……そんなもの必要か? 立てる足があるなら生きていけるだろう?」


 彼の顔からいつもの笑みは消え、不可解そうに首を捻っている。アリアは呆れてため息をついた。


「それが出来るのはあなただけだわ……やっぱりこの子を雇わなくては駄目よ。孤児院も作らないだなんて、それはここを治めているあなたの家の怠慢だもの」


 屁理屈のような理屈を組み立て、アリアは少年に手を差し出した。


「さあ、一緒に行きましょう」

「で、でも……」


 少年は、感情の読めない顔で自分を見据えるイドラを気にしている。アリアはにっこりと微笑んだ。


「大丈夫、イドラがあなたに何かしたら、私は離縁してあなたを私の実家に連れていくだけだから」


 ぎょっとしたのは少年だけではなかった。肩を掴まれる。


「おい、アリア」

「なあに?」

「お前、本気か?」

「本気よ? 当たり前じゃない。拾い上げた命には責任を持つわ」

「何故そこまでする」

「だって私はあなたの妻だもの」


 イドラは一瞬で硬直した。

 周囲がざわりと音を発し、息を吹き返す。


「あなたの……正確にはヴェルディ伯爵の治める土地に住む人たちを手助けしたいと思うのはいけないこと? あなたはどうせ戦うことしか考えてないんでしょう。じゃあこういうことは私がやるしかないわ」


 正直、このまま行けば次期ヴェルディ伯爵になるのはイドラだ。ヴェルディ伯爵家というのは基本的に実力主義なのである。

 長兄であるフェルナンドも中々の腕らしいが、イドラほどではないとも聞いている。次男のオルガランに至っては元々文系だ。戦闘はからっきしらしい。


 現ヴェルディ伯爵がイドラを疎ましがっているのが不思議だが、恐らくこの土地を上手く統治できるのかを疑っているのだろう。孤児院すらない時点で今の統治も疑わしいような気もするが。


「ともかく、あなたがやらないことは私がやるしかないわ。出来るだけあなたにもやってもらえるようにしてもらいたいけれど、まだ決められないから」

「……お前は、離縁する気はないというわけか」

「あなた私の話聞いてた? この子に何かしたら離縁するって言っているでしょ」


 イドラはアリアの言葉には答えず、黙って大きくため息をつくと、静かに告げた。


「……勝手にしろ」

「良かったわね。許可してくれるらしいわよ。まあ駄目って言われても連れていくつもりでいたけれど」

「え……いいの?」

「嫌なら置いていくぞ」

「い、行く、行くよ!」


 少年が慌てて頷き、アリアの隣へと駆け寄ってくる。


「お、俺、レオ。あんたは、もしかしてイドラ様の奥さんなわけ?」

「ええ、そうよ。私はアリア」

「そっか……ありがとう。俺を拾ってくれて」


 まだ少し怯えながらも、レオと名乗った少年は屈託なく笑った。アリアも笑い返す。


「アリア様は、この街に来るの初めて?」

「ええ、そうよ。王都とはやっぱり全然違うわね」

「王都にいたの? そりゃ全然違うよ。イドラ様が定期的に来てくれなきゃ、もっと酷いと思うし……」


 彼はイドラの顔色を伺いながら言う。当のイドラは興味を失ったかのように道の先を見ていた。

 アリアはきょとんとした。


「あら、そうなの?」

「そうだよ? 知らないの? イドラ様がいるから、女の人も一人で歩けるんだよ。流石に夜はあれだけど、昼間は大して危険じゃないんだ。イドラ様は、この街で勝手なことをした奴を許さないから」


 少年の目はキラキラと輝いていた。先程まで殺されかかっていたことはころっと忘れている。

 裏を返せば、イドラはそれだけ畏敬を集めてしまう存在だということだ。

 アリアは曖昧に頷いた。正直、イドラが何をどう許さないのかが分からないので、なんとも言えない。


 するとそのとき、ふと隣からすんっと鼻を鳴らす音がして────ざわりと、肌が粟立った。

 反射的に顔を隣へ向ける。レオが不思議そうにアリアの名前を呼んだが、それどころではなかった。


「……いるな」


 ぞわ、と背筋に氷を落とされたような悪寒が走った。それは本能的な恐怖だった。

 イドラの表情が一変している。

 黒曜石の目は爛々と光り、その奥に秘めた獰猛さを隠しきれていない。隠していないだけかもしれない。口元にはいつもの飄々としたものとは違う、嗜虐的な笑みが浮かんでいる。

 アリアは確信した。これは彼が戦う直前の雰囲気だ。


 案の定、イドラはさっと笑みを収め、驚くほどの無表情でアリアへ振り向くと、その隣にいるレオに声をかけた。


「おい、餓鬼」

「え、お、俺?」

「お前以外に誰がいる。お前、アリアを見ていろ。俺はをしてくる」


 レオはその言葉にはっと息を呑むと、こくりと頷いた。


「うん。ここらは俺の庭みたいなもんだから、安心してよ」

「傷一つつけるなよ」


 言いおいて、彼は大股で歩き始めた。通りを歩き、路地裏へと消える。慌てて後を追おうとしたアリアはレオに手首を掴まれた。


「なにやってんの、行っちゃ駄目だよ」

「え、どうして?」

「アリア様知らねえの? イドラ様は街に降りると必ず『掃除』するんだよ。ここでは性懲りもなくやる人がいるからね」


 レオの説明は要領を得ない。

 アリアは苛立ちをこらえて質問した。


「やるって何を?」

「薬だよ」


 放たれた言葉に瞠目する。

 水を浴びせられたように硬直したアリアに向かって、レオは平気な顔で説明を続けた。


「イドラ様は殺し以外だったら大体のことは見逃すけど、薬だけは許さないんだ。売人は地獄の果てまで追いかけると思うよ」


 アリアはぽかんと口を開ける。ここに来るまで、喧嘩や売春婦の姿なら結構沢山見かけた。

 それらを景色のように見逃していたイドラの、奇妙な一端に触れた気がした。


「……それなら尚更私は追わなきゃいけないわ」


 アリアはそう呟くと、レオの手を掴み直してぐっと引いた。そのまま一緒に歩き出す。


「え、えっ?」

「私はあの人を見極めなくてはいけないの」


 レオを置いていけば後で何を言われるか分からない。ならば連れていくしかない。

 アリアは肩越しにレオと目を合わせる。


「守ってくれるんでしょう、騎士ナイトさん?」

「……アリア様がイドラ様の奥さんなの、分かる気がするよ」

「あら、光栄だわ」


 アリアは鮮やかに微笑んだ。

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