第7話
「ところでアリア、俺の調教とやらはどうなったんだ」
「……それ、今でなくてはならないかしら?」
「ああ、ぜひ聞きたいな」
アリアは料理をしていた手を止めた。
振り向くとイドラと目が合った。椅子に逆向きに腰掛け、背もたれの上部に乗せた両腕に顎を乗っけた姿勢で興味深そうにこちらを見ている。
アリアとイドラはこの家の中で、他の家人とは完全に隔絶された生活を送っていた。というか、ヴェルディ伯爵家は皆生活リズムがバラバラのようで、全員揃うこともほぼないようだった。
食事は使用人に頼めばいいのだが、何故かイドラはアリアの料理を好んだ。この前、この家の私兵だという彼らと共にサンドイッチを食べてからずっとだ。
まあ、料理が作れないわけではないので構わないが……
アリアの料理は趣味である。お菓子作りも好きだが、基本的にアリアは料理を作るほうが好きだった。
伯爵家なのに食堂で料理を作ることを許可してくれた父はとても稀有なのだと思っているし、今となっては感謝の一言につきる。まあ、いずれ花嫁修業などといって兄たちに無理やりやらされていたかもしれないが……
「おい、聞いてるか?」
「きゃ……! な、何?」
ぼうっとしていると、イドラがいつの間にか椅子から降りてアリアの顔を覗き込んでいた。
「危ないでしょう、いきなり……!」
「お前が答えないからだろうが。俺を無視して考えごとをするな」
イドラはごく自然に冷ややかな眼差しを向ける。その視線は氷のように冷たかったが、ここ数日ですっかり慣れたアリアはしようのない子供を見る目で嘆息した。
「無視していたことは謝るわ。けれど、私が何をいつ考えるかは私が決めることよ」
「そうか」
満足げに目を細める彼に呆れた視線を返す。
この男の恐ろしさをアリアはまだ良く知らない。意図的に隠されている。その片鱗を覗かせたとき、アリアがどう反応するのかを楽しんでいる節があるのだ。
思わず疲れたため息をついた。
「さっきの質問の答えだけれど……私はあなたのことをまだよく知らないわ。だからまだ何もしないのよ」
というより、アリアの手には余るような気もしている。そもそもシルフのときだって、躾などという意識でやっていたわけではなかった。
イドラは不満そうに鼻を鳴らす。
「いつもそれだな。他人のことをすべて理解出来ると思ってるのか?」
「まさか。流石にそこまで傲慢ではないわ。けれど、あなたには見えないところが多すぎる」
前の婚約者とは大違いね──と、小声で呟く。
実際、アリアはまだイドラの中身の二割も知らない。良くて一割二分と言ったところだろう。
アリアは、対峙する相手が自分にどれだけ内情をさらけ出しているのかをある程度感じとることが出来る。
それは嗜好だとか出生についてだとか、感性だとか理性の度合いだとか様々だ。大抵の貴族はそう簡単に内情を見せなどしないので、話しているうちに自然と身についてしまった特技である。おそらく貴族ならある程度の人は備えているだろう。
こんな他人の中身を蹂躙するような特技を持つ自分を調教姫などと評するあたり、世の中というのは不思議だ──と思考の波を漂っていたときだった。
「おい、アリア」
苛立たしげに手首を掴まれてきょとんとする。
目の前でイドラがナイフを思わせる目をしてアリアを睨んでいた。苛烈な瞳の中に試している色はない。
久しぶりに彼の素の激情を見た気がした。
「ええっと、何かしら?」
「…………婚約者などいたのか、お前」
低く、重く、陰鬱な声だった。ぞくりと背が震える。
どうやら聞こえていたらしい。
「ええ……いたけれど……」
アリアは戸惑い混じりに答えた。
何をそんなに怒っているのだろう……
イドラの感情の振れ幅は未だに掴めない。特に彼の激情はあまりにも突拍子もなさすぎて、予想ができないのだった。
彼は不意に表情を消した。アリアのことをじっと探るような視線で見てくる。
そういう目で人を見たことはあっても見られたことはほとんどない。アリアは居心地の悪さを感じた。
「お前……婚約者がいたのに、俺に嫁いだのか」
「それはまあ、そうよ」
「未練はないのか」
ずばっと問われてアリアは一瞬言葉を失った。呆気にとられてものも言えない。
あの男にアリアが未練? 勘違いも
思わず口元が皮肉げに歪んだ。
「婚約者が目の前にいながら平然と女性を口説く人よ? 意味が分からないわ。尊敬する方々から頼み込まれたから婚約もしたし我慢もしたし躾もしたけれど、そうでなかったらこちらから願い下げよ」
ひとつ物騒な単語が混ざっていたことは特に気に止めず、イドラは尋ねた。
「なるほど……ならお前はその男を愛人にしようとは考えていないのか」
「……そんなおぞましい想像はしたこともなかったわ。あの男に比べたらあなたのほうがよっぽど誠実よ。少なくとも、あなたは私を妻として扱うでしょう」
瞬間、イドラは目を丸くして硬直した。アリアを包み込むように放たれていた圧迫感のある空気が霧散する。
アリアは思わず目をしばたたいた。
「ふうん……そうか」
随分と穏やかな声が
にやりと笑った彼はアリアへずいっと顔を寄せ、ならば、と続けた。
「今日は街に出るか」
「え……街?」
「そうだ。ここは息苦しくて適わない。どちらかと言うと街のほうが気楽でいい」
艶やかに笑って、彼はざんばらな赤髪を揺らした。その目にはいつものような、アリアを値踏みする色が戻っている。
地雷を踏んだかもしれないなとぼんやり思いながらも、アリアは粛々と頷いたのだった。
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