第6話(2019/3/7 改稿)



 お昼時になり、彼がアリアを連れてきたのは屋敷に隣接した離れだった。イドラは入り口に立つと、ドアノブのない扉を、窪みのようなところに手を引っ掛け、横に滑らせて開ける。

 瞬間、喧騒がアリアの鼓膜を駆け抜けた。あちこちから聞こえてくる怒号や、甲高い金属音にぱちくりとする。


「相変わらずやかましいな……アリア、俺から離れるなよ」

「え、ええ」


 一体ここはなんなのかと訝りつつも大人しく頷くと、イドラは実に自然な動きでアリアの手を取った。そのままぐんぐんと中を進んでいく。

 やがて、彼がたどり着いたのは中庭に面した廊下だった。

 アリアは目を見張る。何人もの男たちが血と汗と土にまみれて剣を交えていた。


「おい、お前ら、静かにしろ」


 怒鳴っているわけではない。が、凛とした声は戦いの最中でもよく通った。

 男たちが一斉にイドラを見る。


「おお! かしら!」

「おっ、頭も訓練ですか?」

「あれ? 頭、そいつ戦利品の女じゃないですか!?」

「うわ、貴族様じゃないですか!」

「えっなに貴族の女!? ちょ、触らせてくださいよ!」

「五月蝿い黙れやかましい、俺も貴族だろうが!」


 アリアの腕を引いて自分の後ろへと隠し、イドラは鋭く叫んだ。

 会ってから初めて聞く大声にアリアはきょとんとする。


「あなた……大声も出せたのね」

「ああ? 出したら駄目なのか」

「駄目じゃないわ。個人的には、そっちのほうが人間らしくていいと思うわよ」


 くすりと微笑んだアリアにイドラが一瞬動きを止め、やいのやいのと騒いでいた男たちも一斉に言葉を失う。

 その場に春が訪れたかのような、麗らかな微笑みだった。アリアは普通の娘より整った顔立ちをしているが、まるで花が色を変えたような微笑みは、その美しさを際立たせた。


 しかしすぐさまいつもの表情に戻ってしまったアリアは気づかない。そもそも、自分の顔の美醜にさほど興味がないのがアリアという人間だった。

 時が止まってしまったかのような周りの状況に一人首をかしげる。


「……どうかした?」

「放っておけ。耐性がないだけだ」


 ひと足早く硬直から抜け出したイドラは飄々と笑った。未だに動けないでいる男たちに向き直る。


「おい、お前ら、よく聞け」


 よく通る声が再び響く。彼はアリアの肩をぐいと引き寄せた。


「こいつはアリアだ。昨日から俺の妻になった。もし手を出したら全身の皮を剥ぐ」


 悪戯をしたら罰を与える──と言うのと同じ口調で、この上なく物騒なことを言い放ったイドラにぎょっとする。

 男たちも糸をぴんと張ったように硬直した。


「ちょっと、あなた。冗談でもそんな────」

「イドラだ」


 軽く睨みつけた瞬間に遮られ、アリアは出鼻をくじかれた心地で彼を振り仰いだ。

 闇のような双眸に、少しばかり不満の色が覗いている。


「何、いきなり……」

「お前が昨日来てから俺の名を呼んだ回数はたったの一度だ。お前、誰に嫁いできたか忘れたんじゃないのか?」


 揶揄やゆするようでありながら、口調は少し苛立たしげだ。怒るよりまず先にアリアは面食らう。


「……イドラ、でいいかしら。敬称をつけたほうがいい?」

「やめろ、鳥肌が立つ。そんな気遣いをされても、俺が親父に殴られることになるだけだ」


 あまりの言い草に眉をひそめた。


「イドラ、あなた────」

「新婚早々痴話喧嘩でもしてんのか? そんな暇あるんだったら遊ぼうぜ、かしら


 アリアが口を開きかけたとき、妙に高めの声が割って入ってきた。

 振り向くと、向こうから一人の少年が跳ねるようにしてやってきていた。その上半身には何も纏っていなく、アリアはとりあえず絶句する。可愛らしい顔立ちだが、目には獅子のようなほの暗い光が灯っている。

 彼は小柄な体を上手くひねって男たちの波からするりと抜け出し、こちらへやってきた。


「ローガンか」


 ぽつりとイドラが呟いたのは、彼の名前だろうか。にっと笑って歩みを進めてくる。


「嫁さんもらったなんて知らなかったぜ。酔狂な人もいたもんだな」

「抜かせ。婚約者を切り捨てて家から追放されたお前が言えたことか」

「ま、それもそうだけど」


 少年は肩をすくめる。

 アリアの頭の中にふっとある情報が思い浮かんだ。

 ローガンという名前。婚約者を物理的に切り捨てた事件。


「あなた、もしかしてローガン・マクレウェル?」

「あれ、俺のこと知ってんだ? でも残念、ちょっと惜しいな。俺、勘当されたからもうただのローガンだよ」


 からりと笑った少年は、何年か前、婚約者だった豪商の娘に重症を追わせた、マクレウェル子爵家の子息だ。

 アリアはひとつ瞬く。


「ねえイドラ、もしかして、ここにいる人たちは全員……?」


 そっと問いかけると、イドラは妖しく笑う。


「ああ、おそらくお前の思っているとおりだ。鋭いな」


 何が楽しいのか、彼はくっと目を細める。

 アリアはぐるりと周りを見渡した。

 どこか影のあるような男たちの雰囲気。

 そういうことか、と一人納得する。ここにいるのは、何かしらの理由があって自分の居場所をなくした人たちなのだ。

 ローガンは黙ってしまったアリアをじっと見つめ、けたけたと笑った。


かしら、良かったな。随分肝の座った嬢さんで。あんたに相応しいんじゃないの?」

「ああ、いい女だ」


 まさかそんなことを言われるとは予想外で、アリアはぴしりと固まってしまった。

 イドラは自然な動きでするりと自分の上着を脱ぎ捨て、薄い服一枚になる。


「持っておけ」

「え? ちょ……!」


 ぽいっと投げ出されたそれをうまく掴んだときには、既にイドラとローガンは地面の上で相対していた。

 途端、周りにいた男たちが一斉に囃し立て始めた。

 イドラが振り向く。


「そこで座って見ていろ、アリア」


 は? という声にならない呟きは、周りの喧騒にかき消された。

 イドラは返事も待たずにローガンに向き直った。ローガンもこきりと一度首を鳴らし、実に楽しそうにその場で何度か跳ねる。


「やった! ずっとかしらと手合わせしたいと思ってたんだよなー!」

「手合わせで済めばいいな。来た頃のお前は骨がなさすぎたからな」

「ははっ! 言ったね? その言葉、そっくりそのまま返す、よっ!」


 最後の一言と共に、イドラに向かってローガンの右腕が振るわれた。

 最小限の動きでそれを避けたイドラは、さっと身を屈め、足払いをかけた。しかしローガンはその場で地を蹴り、人間とは思えない跳躍力で飛び跳ねる。

 素早くイドラの後方に着地した彼はそのまま蹴りを放った。イドラは大して驚かずに腕で防ぐ。みしりと骨を揺らす音がした。

 小回りのきくローガンは、何度か攻撃をしては離れてを繰り返していた。しかし、イドラも離れる瞬間を狙って、手足を鞭のごとくしならせて彼を打ち据える。


 双方に傷が増えていく。

 ローガンは全身を武器にしていると言わんばかりに己の爪すら使っていた。何度目かの攻撃で、イドラの手の甲にすぱりと傷が増えた。



 しかし同時に、イドラが距離を詰めていく。

 みるみる攻撃の頻度が増えていった。ローガンに離れる暇を与えていない。ローガンは舌打ちしてそれらを器用に避けていたが、リーチと速さの差だろう、避けきれなかった拳が脇腹を強かに打った。


「っ……さっすがかしら、はっやいなー」

「無駄口を叩いている場合か?」


 ローガンの死角から足が飛び出してきた。反応が遅れ、イドラの蹴りが腹筋の辺りに炸裂する。


「がっ……くっ、そ!」


 蹴られた勢いを殺しつつ、ばねのような足で飛び上がった彼はイドラの首元に手刀を叩き込んだ。しかし瞬間、イドラはにやりと笑う。


「動き回って俺の疲労を狙い、最終的には倒すのではなく落とすか。俺の痛覚の鈍さをよく分かっているお前らしい選択だ。だが、あいにく俺は気絶もしにくくてな」

「う、わっ!」


 手首を引っつかみ、ぶんっと振り回してローガンを地に叩きつけた。肺がひっくり返るような衝撃に彼は大きく目を見開く。


「まあ、多少骨は生えたな」


 げほっと咳き込んだ少年の胸元目掛けて、イドラが足を振り下ろそうとしたときだった。


 ざざっという音がして、ひとつの影が、二人の間に滑り込んだ。

 イドラは目を見開いて足を宙で急停止させる。びたっと止まったのはアリアの喉元数センチの場所。

 庇うようにローガンの前に飛び込んできた女に、周りも当人たちも一瞬二の句が告げない。あまりに場違いな光景だ。


「お前──」

「何を、やっているのかしら」


 その瞬間、空気が、凍った。

 少女はゆらりと立ち上がり、翡翠色の瞳に苛烈なほの暗さを湛えてイドラを見る。そのままざかざかと歩み寄ると喉元を引っ掴んだ。

 同時に勢い余ってがづんと頭突きが炸裂した。


「……っ、お、前……!」

「私を馬鹿にするのも大概にしなさい!! あなたの体がそんなに価値のないものだと思っているなら大間違いよ!!」


 アリアは終始、ぐらぐらと沸き立つ頭を必死に宥めようと思っていたが、無駄だった。じっと見続ける限界はとうに超えていたのだ。


「座って見ていろですって? 人が傷を重ねていくのを黙って見ていろですって? あなたがどれだけ強くても、どれだけ戦うことが好きでも、どれだけ自分の傷に頓着がなくても、私にそれを強要することは許さないわ! ふざけないで!」


 一息に言いきったアリアを、イドラは表情を無くしてじいっと見つめ……唐突に、その手首を掴んだ。


「お前、何がしたい?」


 ぐっと力任せに胸元から手を外される。痛かったが、アリアはそれ以上に怒っていた。


「私はイドラを知りたいわ。イドラが強いことも、傷の治りが早いことも、痛みをあまり感じないことも知っている。けれど、あなたが人間である限り、私はあなたを人間として尊重する。あなたが誰であろうと関係ないわ。あなたは私と同じ人間よ。そして私の夫よ。怪我をするのも戦いを好むのもそれは自由だけれど、私という妻を持ったからには私に心配される覚悟をしておきなさい。私は、あなたが思っているよりきっとずっとあなたの体を気遣うわよ」


 脅すような口調で労られ、イドラは怪訝そうに口を閉ざした。手からゆっくりと力が抜けていく。


「……お前、一体なんなんだ」

「私はアリアよ。あなたの妻。そう言ったでしょう」


 毅然と顔を上げて告げたアリアは、地面に倒れ込んだままぽかんとしているローガンを見下ろした。


「あなたもよ。そしてここにいるあなたたちも、全員に言っているのよ、私は」


 アリアは周りを眺めた。擦り傷や打ち身だらけの男たち。それらから目を離すことなく、彼女は尊大に告げた。


「手当てをしなさい。食事をとって、しっかりした服を着て、きっちり休みなさい。あなたたちがどんな目にあってきたのかは知らないけれど、今ここにいるのが運のつきね。どれだけ嫌でも私はあなたたちに構うわよ」


 言い放って、アリアは今しがた降りてきた軒先へと身を翻した。バスケットを取って引き返してくる。


「さあ、手始めにこれを食べましょう。というか苦手じゃないなら食べなさい。でないとあなたたちの部屋に五倍にして送り付けるわよ」

「なんだ、これ?」


 そろりとバスケットの中身を覗き込んだローガンが目を見開く。底が深めのバスケットには、ざっと三十人分ほどはありそうな、サンドイッチの山が詰められていた。


「これ、食べていいのか?」

「ええ、でも手当てをしてからね。あと汗をふいて、手を洗うこと。そのまま掴んだりしたら私の作ったサンドイッチが確実に細菌の温床になるわ」

「は? これお嬢が作ったの!?」

「そうよ? それが何?」


 一瞬ぽかんとしたローガンだったが、踵を返すなり、突如猛烈な勢いで走り出した。


「手え洗って汗拭いて、手当てすればいいんだろ!? 肉入ってるやつ予約しとくからな! 食べたやつは殴る!」

「お、俺も! 俺も行く!」

「あっ待てよ、ずりい!」


 どたばたずしゃざしゃっと盛大に音を立てながら男たちは去っていく。落ち着きのなさにアリアは呆れた。

 不意に、アリアの横に影が指した。

 イドラが透明な表情でアリアを見ている。


「なあに? あなたも食べたいの? いいわよ。手を洗ってきなさいね」

阿呆アホか、違う」


 顔をしかめた彼は、何故かアリアの手を握るなり、無言で軒先へと引っ張っていく。

 庭に隣接した板張りの廊下に並んで腰を下ろすと、唐突に彼はアリアの顔を覗き込んできた。

 するりと顔を撫でられる。


「俺もなかなかにイカレている自覚はあったが、お前もそれなりだな」

「あら、そんなの分かっているわ。こんなことする令嬢なんて皆無だってことは、理解しているもの」

「そういう問題じゃないんだが……まあいい」


 くつくつとひとしきり笑い、彼は不意に表情をなくした。


「アリア、俺がおかしいと思うか?」

「……? 私、おかしいって感覚よく分からないわ」


 怪訝な顔をしたイドラに向かってアリアは肩をすくめる。


「確かにあなたの行動は理解不能だし、意味不明だし、突拍子もないとは思うけれど……あなたが人と違うとは思えないわ。というか、人間なんてみんなそんなものでしょう? 人は誰しもどこかが極端にねじ曲がっているものよ。あなたがどうしても戦いに飢えてしまうようにね」

「お前がどうしても人に構うようにか」

「よく分かっているじゃないの」


 アリアは笑った。

 イドラは不意に言葉を切り、腕に巻かれた包帯の結び目を解きはじめる。


「ちょっと、何を……」

「見ろ」


 手際よく解いた包帯の下を見て、アリアは瞠目どうもくした。傷が、うっすらとした跡を残すのみになっていた。


「死にかけるくらいの怪我でなければすぐ治ると言っただろう。これは特に浅かったしな」

「……直に見るとやっぱり少し驚くわ。すごいのね、イドラの体は」


 イドラという男の治癒力と痛覚の鈍さは調べてまっさきに出てきた情報だった。しかし実際に見てみないと、感情というものは付いてこない。

 イドラは訝しげに眉を寄せた。


「怖くないのか? 使用人どもはヴェルディ伯爵家に代々とり憑いている、悪魔の呪いだとか言っているが」

「呪い? それが? 馬鹿馬鹿しいにも程があるわ。どうして治癒力が高くなるのが呪いなのよ」


 悪魔信仰、妖精信仰のある国では、悪魔の呪いや妖精の加護というものも普通にあると聞く。が、少なくともこの国に悪魔信仰はない。


「まあ、俺は色々と異様だからな。気持ちは分からんでもない」

「そんなのはあなたの生まれつきの才能と今までの努力の証でしょう。呪いなわけないわ。国柄でもないのに、人の才を呪いだとか加護だとか言う人の気が知れないわね」


 イドラは毒気を抜かれたようにきょとんとした。そしてじっとアリアを見つめ、至極真面目な顔で口を開く。


「なあ……お前を抱きしめてもいいか?」

「……………………はい?」

「駄目なのか?」

「別に、駄目ではないけれど……」

「ならいいだろう。触らせろ」


 強引に手を引き寄せられ、がくりと体が揺れた。次の瞬間にはその大きな体の中にすっぽりと自分の体がおさまってしまう。

 背丈の差はあれど、ここまで体格が違うとは思っていなかった。二人とも座ったままなので正直楽な体勢とは言えないが、上半身はすっかり彼の体に囲われて、暖かい。


「……やっぱりイドラは人間よ」


 ぽそりと呟く。


「いきなりなんだ」

「だってこんなに暖かいのだもの。人間以外のなんだというの」


 肩ごと抱え込まれていて身じろぎも出来ないが、アリアは代わりにくすりと笑った。


「血が通っていて、同じ言葉で会話が出来るならそれでもう人間だわ。世の中の人はいちいち難しく考えすぎだと思うのよね」

「お前の懐が深すぎるという結論には至らないのか」

「あら、私結構短気だと思うわ」


 アリアはぱちりと瞬いた。すっと顔を上げると、奇妙なほど透明な表情が見えた。

 首をかしげたのと、遠くからばたばたと駆けてくる音が聞こえたのは同時だった。アリアはハッと顔を上げ、イドラの胸を押す。


「ちょっと離れて。見られたら面倒なことになるし、サンドイッチ、渡さなきゃならないわ」


 イドラは意外にもすんなりと離れ、バスケットへ目を向けた。


「……そういえばお前、どうしてこんなもの用意出来たんだ。いや、時間はあっただろうが、どうしてこんな量を……」

「え? ああ……昼時に行くってあなたが言ったから、一応昼食を作っておこうかと思ったのよ。そうしたらいつもの癖で作りすぎちゃって」

「……お前、いつもこんなに食うのか?」


 若干引いたような声音に硬直し、アリアは顔を真っ赤に染めた。


「私じゃないわ! 私のお兄様たちは揃いも揃って大食漢なのよ!」

「ふうん……話を聞く限り、お前の兄というのはなかなかに面白そうだな」

「やめて、あなたとお兄様たちを混ぜたら大爆発どころじゃないわ。自重してちょうだい」


 呆れきった顔で首を振り、アリアは戻ってきたローガンたちの元へバスケットを持って歩いていく。その姿を、イドラは笑みを消して眺め続けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る