第5話
翌朝、アリアはじんじんという額の痛みで目が覚めた。
額は押さえ、意識はぼんやりさせたまま、ずるりと体を起こす。
触れた部分には強めの痛み。目の前には死んだように眠っているイドラ……死んだように眠っているイドラ?
そこで意識が完全に覚醒した。そうだ、昨日自分は、新婚初夜だからとかなんとかいう理由で無理やりベッドに引きずりこんできたこの男に頭突きをかまして昏倒させたのだった──と、ようやく思い出す。
イドラは一向に目を覚まさないが、代わりにアリアの体をがっちり掴んで離さない。腰周りにぐるりと巻きついた腕は固く結ばれていた。
流石にいらっとして、アリアはぱしんと彼の頭を叩く。
「ちょっと、いい加減起きて。暑いわ」
しかし起きない。ありえないほどに起きない。まさか頭突きで殺してしまったのかと一瞬危惧したが、意外なほど穏やかな寝息が聞こえてきた。
「ねえ、起きなさいってば」
もう一度頭突きをかませば起きるだろうか……?
半ば本気で考え始めたところでようやくイドラが身じろぎした。ぎゅっと眉根を寄せ、夜を閉じ込めた瞳がうっすらと開く。
「あ、起きたわね、もう、さっさと離れ──」
「五月蝿い」
ぐっと眼前に顔が迫る。何事かと目を見張った瞬間、どこから取り出したのか、アリアの喉元には冷え冷えとした感触が押し当てられていた。
命を刈り取るナイフの冷たさだ。
「俺の寝起きを邪魔するな」
獰猛な視線だった。ヴェルディ伯爵が見せたものよりなお重い、森の奥のようなほの暗さ。
一言でも声を発せば噛み殺されてしまいそうな────そんな瞳をじっと見つめたアリアは、しかし毅然として声を張った。
「阿呆みたいなこと言ってないで起きなさい」
アリアはシーツにくるんだ手で刃を握り返して安全を確保し、痛みをこらえて頭を思い切り前に倒した。
がづん、と盛大な音が鳴り、彼は悶絶する。
「お、前……!」
「うるっさいわね。寝起き悪すぎでしょう、キレるわよ」
鋭く目をすがめて拘束から抜け出すと、額を押さえてこちらを睨む視線と目が合った。
「お前、どういう頭をしている……!」
「悪いわね、石頭で。あなたこそどういう思考回路をしているの。寝ぼけていたからって妻にナイフを突きつけるものではないわよ」
「知らん、俺は睡眠を邪魔されるのが嫌いだ」
「子供じゃないの……」
呆れると同時に流石に少し痛みを感じてアリアは顔をしかめた。が、ごく普通の額を持つイドラの痛みはアリアの比ではない。
「……っ、俺は人一倍痛覚が鈍いはずなんだがな、なんだこの恐ろしい痛みは」
「知らないわよ」
「ナイフに怯まなかった女も初めてだな」
「可愛げがなくて悪かったわね、馬鹿な兄たちを持つと苦労するのよ」
「意味が分からんが、どうしてそこで兄が出てくる」
「私の兄たちはあなたよりはマシだけど、寝ても覚めても手合わせしかしてないの。食事中にナイフとフォークが飛んでくるのにはもう慣れたわ」
イドラはぽかんとした顔をして、急にくつくつと笑い始めた。ゆっくりと顔を上げてアリアのほうへ手を伸ばす。
そのまま、咄嗟に身構えたアリアの頭をくしゃりと撫でた。
「お前、面白いな」
「……?」
彼の目にからかうような光はなく、純粋にそう思っているようだった。アリアは乱れた髪を手櫛で整えつつ首をかしげる。
「今のは私の話じゃないけれど……?」
「そういうところも面白いな────さて、着替えるか」
ぽんっと頭を撫でるとベッドから降りて、イドラは実に自然に服を脱ぎ出す。目を見張って悲鳴を噛み殺したアリアは手元にあった枕をぶん投げた。
「あなた、前触れなくそういうことするのやめなさいよ!」
「なるほど。前触れがあればいいのか?」
「そういう意味じゃないわ! ……ああもう!」
憤然としながら部屋を飛び出したアリアを、イドラは終始にやにやしながら見つめていた。
少しして、アリアはきちんと着替え終えたイドラと相対していた。
昨日まで知らなかったが、どうやらイドラが最初にアリアを連れ込んだ部屋は新婚である二人のために設えられた部屋だったらしい。そんな部屋で結婚相手だと知らないままアリアを押し倒したことを考えると頭が痛い。
「で? 調教すると言ったが、具体的に何をやるつもりだ? 俺を夜会にでも連れ出すか?」
にやにやと愉しそうに笑っているイドラに、アリアはきょとんとしながら小首をかしげた。
「何を言っているのよ、そんなことしないわ」
「ふうん? ならばどうする」
「そうね、とりあえず戦場に連れて行ってもらえるかしら」
「は?」
イドラは眉を寄せて不審げな感情を
「どうしたの? ……ああ、別に興味本位で戦いを見たいわけではないのよ。街に降りるというならそれでもいいし、何をするわけでもないならそれでもいいわ。今日あなたが行く場所について行きたいのよ」
彼は何度か目をしばたいた後、異なる世界の住人を観察するようにアリアを眺めた。そして唐突に憮然とした面持ちで黙り込む。顎に手を当てて何事かを考えている。
アリアが小首をかしげると、その端正な顔が再びアリアを見た。微かな呆れを含んでいた。
「どうしてそうなる?」
アリアはきょとんとした。どうやら伝わっていなかったらしいと悟り、口を開く。
「だって、私はあなたが普段何をして、何を感じて、何を思っているのか全く知らないわ。そんな状態で何を命令したって、それはただの傲慢な独りよがりだと思うのよ」
アリアは決して真っ向から相手を否定したことはない。シルフのときだって、アリアは少なくとも一週間は、慎ましい婚約者として暮らしていたのだ。
「あなたがしていることには意味があるのでしょう? 社交界に出ないのにも、戦いに飢えるのにも。それは他人と相容れないことなのかもしれないけれど、私と相容れないかどうかは別問題よ」
「こんな戦闘狂いの化け物を前にして随分と戯けたことを言う女だな」
「自分のことを卑下するのはやめなさい、あなたは人間だわ」
皮肉げに笑う彼にきっぱりと断言する。イドラは面食らった顔で硬まった。
「それから、別に私は戦闘狂い自体が悪いことだとは思わないわ。
戦いに飢えたとて、それがなんの罪になるのか。
少なくともこの時代において、戦いを忌避する兵士は死に腐るだけである。
唖然とした表情のまま、彼は座っていたソファにゆっくり背を預けた。
「お前、たまによく分からない発言をするよな」
「……あなたがそれを言うの? どう考えても、私のほうが理性的だと思うけれど?」
「まあ否定はしない」
いや、しろよ……と思わなくもないが、どうせ聞きはしないだろう。アリアは諦めてひとつため息をつくともう一度彼を見据えた。
「で? 今日はどうするの?」
「そうだな……」
しばし黙考した彼は、にやりと笑って急に距離を詰めてきた。どうやら調子が戻ったらしい。彼の感情の起伏は読みにくくて困る。
思わずのけぞったアリアの頬を撫ぜて、イドラは可笑しそうに笑った。
「俺の妻を自慢しにでも行くとするか」
「……はい?」
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