第3話(2019/1/28 改稿)



 予想通りというかなんというか、彼が馬を止めたのはある屋敷の前だった。この辺りで屋敷といえばヴェルディ伯爵家の他ない。

 息を止めるようにしてしがみついていたアリアは馬から解放されてほっとする。しかし、男は馬を降りるなりアリアを抱えあげて走り出した。


「ちょ……!」


 意味も分からず全力疾走され、アリアは再びしがみつく。男の目はぎらぎらと光り、獲物を前にした獰猛な獣の様相を呈している。


 使用人たちは一斉に道の端へと避け、男は真ん中を走り抜けた。どこへ行くのかと混乱しきった頭を必死で回していると、男は唐突にある部屋の前にとまり、勢いよく扉を蹴り開けた。


 そこは綺麗に美しく整えられた部屋だった。部屋の大きさとしつられられた調度品の雰囲気、家具の数などから、アリアはこの部屋が最近新たに作られたものであることを悟る。

 呆然としたアリアの体がふわりと浮く。気づけばスプリングのきいたマットの上に投げ出され、腰を強かに打ち付けた。


「きゃっ……」


 男は乱暴にアリアをベッドへ放り投げたのだった。上から覆いかぶさってきた彼の、まるで餌を前にした獣のような瞳に息を呑む。

 アリアは自分の腕の部分の布が誰のものか分からない血でまみれていることにぎょっとした。残念だが、おそらくこの衣装は無駄になるだろう。


 咄嗟に仰ぎ見る。男は返り血に塗れていたが、ところどころ自分も傷ついていた。それに仰天したのもつかの間、彼は突如アリアの首に噛み付いてきた。


「っ……!」


 咄嗟にばたばたと暴れて手当たり次第に殴るアリアに目を細め、男は苛立たしげに顔をあげる。そのまま流れるような動きでアリアの両手を片手で縫い止めた。


「やめろ、抵抗するなら痛くする」


 低い声に一瞬動きを止め、アリアは身を震わせた。男は満足そうに笑うとまた身をかがめようとする。


 そうはいくか……!

 アリアは渾身の力を込めて頭を思いっきり前に突き出した。瞬間、ごっ! という音がして彼と彼女の額が正面からぶつかった。

 アリアは自分が石頭であることを自覚している。予想通り男は吹っ飛ぶ勢いで顔を仰け反らせ、拘束が緩んだ。


 その隙に体を離し、アリアは男から距離をとる。そうして真っ向から彼を睨みつけた。


「いきなり何をしているの! 馬鹿なの!?」


 しばらく仰け反った格好のまま動かなかった男はゆっくりと顔を元の位置へ戻し、妙に爛々とした瞳でこちらを見てくる。

 真正面から改めて対峙し、アリアはその美しさにいささか怯んだ。宵の空を閉じ込めたような黒と藍の混ざった瞳に、燃える炎の如く赤くざんばらな髪。やや異国混じりの顔立ちは美醜にあまり興味のないアリアでも少し震えるほどにつやめいていた。

 しかしその程度では止まらない。


「あなた、他にすることがあるでしょうが! 私を襲っている場合じゃないでしょう!」

「なんだお前……面白いな」

「は!? 面白いとか言っている場合!?」

「俺に抵抗することはあっても頭突きをかます女は初めてだ。単なる戦利品として持ってきたつもりだったが、これは案外……」

「何をぶつぶつ言っているの。私の話を聞きなさいよ。いくら辺境伯の息子だからって舐めるのも大概にしなさい、まずは怪我の手当てでしょうが!」


 アリアの口から発された怒号に、男はきょとんとした。


「は……怪我?」

「そうよ! あなた、盗賊たちを倒してくれたときに怪我を負ったでしょう! まずはその手当てが先だわ、当たり前でしょう!?」


 沸騰したように怒鳴りつつアリアはベッドから飛び降りた。救急箱……と辺りを見回し、それらしきものがないことを知ると部屋の外にばっと顔を出す。

 いきなり部屋から出てきた血塗れの少女に通りがかった使用人が仰天する。しかし構わずに救急箱を頼むと、彼らはこくこくと頷いて逃げるように去っていった。


 アリアが部屋に戻ると、にやにやと笑った男がベッドに居直っている。


「お前……俺の怪我の処置をするつもりか?」

「は? 当たり前でしょう。怪我をしたら手当てをしないと化膿するわよ」


 至極真面目に返したのに男はくつくつと笑う。


「このくらいの怪我、怪我のうちに入らんわ。放っておけば勝手に治る」

「知っているわ」


 淡々と告げると、男は虚を衝かれた顔で沈黙した。アリアは腰に手を当てて尊大に告げた。


「あなたのことくらいこのひと月の間に調べたわ。イドラ・ヴェルディ様」

「ふうん? お前……ああ、なるほど、お前が俺への褒美だとかいう小娘か」

「こむ…………まあいいわ。そうよ、私がアリア・フォーサイス。あなたの妻になる女よ」


 最後まで居丈高に言い切る。そういえば敬語をすっかり忘れていたが、彼に敬意を払えそうにはなかった。別段不満もないようだしいいかと思っていると、目の前の男……イドラはいっそう楽しそうに笑った。

 そして瞬く間に距離を詰めると、目を見開いたアリアの手を引っ張ってベッドへ引きずり込んだ。自分の膝へ抱き抱えるようにしてアリアを閉じ込め、手加減なしに抱きついてくる。


「何をしてるの! 傷に障るでしょう!」


 思わずそう叫ぶが、イドラはただただ笑っている。


「俺のことを調べたなら知っているだろう。俺は瀕死の重傷でもなければ怪我はすぐ治る。痛みも感じにくい」

「だから何よ、怪我は怪我だわ」


 毅然と言い切った瞬間、控えめに扉が叩かれた。震え声で女性が入ってくる。


「あ、あの、救急箱を……ひっ!?」


 アリアとイドラの態勢を見て彼女はぴしりと固まる。アリアは喉の奥で呻いた。


「ああ、そこに置いておけ」

「は、はい……!」


 イドラはアリアと話しているときとは全く異なるひどく冷たい声音で言った。信じられない気持ちに目を見開き、アリアはもう一度頭突きをぶちかます。


「っ!?」

「ひっ!?」


 同時に彼女のことも怖がらせてしまったようだが、アリアはふわりとイドラの手から逃れると彼女の目の前に膝をつく。


「こんな格好でごめんなさい、私はフォーサイス家のアリアよ。出来れば着替えと、ご当主様への挨拶をしたいからお取次ぎをお願いしたいわ。あとこれ、わざわざ持ってきてくださってありがとう」


 ふわりと花のほころぶような笑顔だった。使用人の女性は泣きそうになっていた顔から力を抜いた。名を名乗ったのが良かったのか、少し安堵した顔でこくこくと頷くと足早に去っていく。


 しんと静まりかえった部屋の中、ぐるりと振り向くとアリアは目をすがめる。


「あなた、怖がらせてどうするのよ。まずは感謝でしょうよ」

「感謝? そんなものとはここ十年無縁だな」


 にやにやと笑う彼に額を押さえて、アリアは救急箱を持ってベッドのそばに膝を立てた。


「左腕を見せて。あの盗賊たちの使ってる武器なんて刃こぼれしてたに違いないわ。きちんと手当てしないと破傷風になるわよ」


 男は可笑しそうに笑いながら腕を差し出してくる。浅いがざっくりと切れている手に顔を顰めながらも、アリアはてきぱきとガーゼをあてがい、包帯を巻いていく。


「はい、出来たわよ」


 イドラはしげしげと包帯の巻かれた箇所を見つめ、引っ張ったりしている。子供か?


「いじったら取れるわ。そのままにしておきなさいね」

「お前、手慣れているな」

「兄たちが稽古好きだと妹が苦労するのよ」


 手合わせなどと言って、三人の兄たちは本物の剣で稽古をするのが好きだった。理解できないが兄たちはそういうものだったのだから仕方がない。

 怪我をするたびに手当てをさせられ、今ではすっかり慣れてしまった。おかげで血くらいではびくともしない。


「ふうん……久しぶりだな、包帯など」

「正気? 怪我をしたら手当てするのは当たり前でしょう?」

「と言われてもな。そんなものしたことないのだから仕方ないだろう」

「呆れたわ……」


 常人ではない。

 アリアは一息つくと、ようやく彼をゆっくりと眺めた。


 赤い髪を雑に伸ばした男は上半身は薄い布でできた服一枚しか纏っていない。それも所々裂けていて、白い肌が見え隠れしていた。痛々しい傷跡が多く、ひきつれなども見える。


「あなた……一体どういう生活していたのよ」


 明らかに貴族の息子とは思えない異様な風体だ。

 イドラはくつりと笑った。


「知りたいのか?」

「興味はあるけど、まあいいわ。それよりひとつ聞かせて。あなた、どうして私を助けてくれたの?」


 イドラは目を丸くしてアリアの瞳を覗き込んできた。


「お前、あれが助けたように見えるのか?」

「あら、違うのかしら?」

「盗賊たちが俺の家の馬車を狙っていたから切り伏せただけだ。手応えがあるかと思ったが、全くの期待外れだったな」


 つまらなさそうに包帯を弄ぶ。

 アリアはしばし考え、愕然とした表情で顔を上げた。


「じゃあ、あなた、私が誰なのかも分からないまま襲ったの?」

「あ? ああ……普段は戦っていればそれで事足りるんだが、たまに全く手応えのない相手だと興奮が抑えきれなくてな」


 つまり、興奮を沈めるために女を使うこともあるというわけだ。

 予想以上の行動理由に頭が痛くなる。しかし、イドラは癇に障る笑みを浮かべたままアリアを引き寄せた。


「ちょ……!?」

「アリア、と言ったか。純粋な嫉妬なんて可愛らしい感情を向けられたのはいつぶりだろうな……安心しろ、俺はお前を気に入った」

「は……はぁ?」


 なんだかひどい誤解が進行しているような気がして眉をひそめる。しかしイドラはアリアを抱きしめて離さなかった。

 すんっと肩口に顔をうずめ、遠慮なく匂いを嗅いでくる。本当に獣のようだ。

 怪我に障らない程度に暴れたが、もちろんそんな抵抗で彼がアリアの体を解放するはずもない。困り果てて一瞬力を抜いたとき、前触れもなく扉が開いた。


 思わず肩を震わせたのと、姿を見せた男が顔をしかめたのは同時だった。


「……何をしているのかな、アリア嬢」

「……お久しぶりです、フェルナンド様。この状況についてはどちらかというと私のほうが知りたいです」


 入ってきたのはイドラの兄で、この伯爵家の跡取りであるフェルナンド・ヴェルディだった。ブロンドの髪にはしばみ色の瞳を持ち、すらりとした均整のとれた体つきをしている。

 彼とは、舞踏会などで何度か会ったことがある。顔見知り程度の付き合いだ。前々から胡散臭い優男だとは思っていたが、予想通り、心から優しい男だったわけではないらしい。社交界でも有名な鉄壁の微笑みは崩れ、思いきり渋い顔をして、汚らわしいものでも見るような目でアリアとイドラを見ていた。

 完全に不可抗力の体勢だというのに、理不尽だ。しかもイドラは否定もせずに笑って言う。


「なんだ、可愛く鳴いていた威勢はどこに行った?」

「誤解を招くような言い方をしないでもらえるかしら。この私があなたの傷に障るような行動を取るわけないでしょう。自分の体はもっと大事にしてほしいものだわ」


 虚を衝かれた顔で固まった彼の胸を押して拘束から逃れ、アリアは洗練された動きで礼をする。


「このような格好で申し訳ございません。フェルナンド様。こちらへ向かっている途中で盗賊に襲われかけまして、イドラ様に助けていただいたのですが……」

「ああ、なるほどな」


 ぶつりと会話をぶった切り、フェルナンドはどうでもいいというように手を振った。


「父上に目通り叶いたいなら、まずその血みどろの服をなんとかしろ。汚らわしいだろうが」


 はっきりと言葉にして、彼は部屋から出ようとする。その瞬間誰かにぶつかったらしい。衝突音と「気をつけろ!」という怒号が聞こえた。

 アリアは躊躇うことなく扉へ向かう。そこにはあの侍女が立っていた。おそらくぶつかったのは彼女だろう。


「あ、あの、アリア様……新しいお召し物と湯浴みのご準備が整いました……」

「あら……わざわざどうもありがとう、とても助かるわ」


 微笑むと、彼女は顔を赤らめて「こちらです」と告げる。

 しかし、扉をくぐるかくぐらないかのうちに、後ろから手が伸びてきた。


「おい、待て」


 ぐるりと首に巻きついた腕に低い声。持ち主は言わずもがなである。


「俺も連れていけ。どうせ親父に呼び出されるんだろうからな」


 獰猛な視線に射すくめられ、彼女はざっと顔を青ざめさせた。かわいそうなくらいに震えて上擦った声を出す。


「はっ、はい……!」

「怯えさせるなって言ってんでしょ」


 何やら機嫌が悪くなったらしいイドラの頭をぱしりと叩いた。彼は少しだけ目を丸くして、愉しそうに笑みを浮かべた。


「面白いことをするな、お前は」

「あなたに面白がられても腹が立つだけだわ」


 仕方が無いので彼女には微笑んで謝り、彼も一緒に湯浴みをさせてもらうことにした。赤髪なので目立ちにくいが、彼はきっとアリア以上に血と土で汚れているはずである。

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